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すったもんだの挙げ句に成立した「金融再生法」が施行された10月23日、巨額の不良債権を抱えて事実上「破綻」していた長銀(日本長期信用銀行)は、臨時取締役会を開いて、自主再建の断念と国有化を意味する「特別公的管理」下に入る申請を行った。政府・日銀は、直ちにこれを全面的に受理し、今後、長銀は金融再生法に沿った清算型の処理手続きが進められるが、特別公的管理下でも、当面は従来通りの営業を続け、預金や金融債(ワリチョー等)だけでなく、そもそもがハイリスク・ハイリターンのはずのデリバティブ(金融派生商品)取引までも公的資金によって全額保護させることになった。
本ホームページの主旨は、経済・金融問題ではないので、直接このことに対する論評は差し控えるが、ここ十年の間の「バブル経済後遺症処理」に対する政治家の無能ぶりと政策の朝令暮改(同じ竹下系の橋本政権の「財政均衡化政策」と小渕政権の「財政緩和政策」とは明らかに相反する)によって、実に多くの国民が財産を失ってしまったことへの憤りは、新たな怨念を生み出してしまった。バブル最盛期に都心の一等地を国鉄清算事業団が売却しようとしたのを何故、中曽根政権は止めたのか? あの時に売却していれば、事業団の抱える赤字は大幅に清算されたはずである。同時に、供給不足であった都心のビルスペースが大量に確保され、狂乱地価の沈静化に役だったはずである。しかしながら、実際にはその逆で、バブル崩壊後、国鉄清算事業団の抱える「財産」は目減りし続け、逆に「借金」は雪だるま式に殖え続け、とうとう国鉄清算事業団そのものが、この9月30日付で「清算されて」しまった(つまり、国民の税金で28兆円もの「赤字」が補填された)ではないか…。国民1人あたり約23万円、4人家族だと92万円の負担になる。せめてもの「罪滅ぼし」に、納税額に応じて政府保有のJR各社の株式を分配するとかしてもらいたいものだ。
もちろん、今回、30兆円(国民1人あたり約25万円、4人家族で100万円もの負担)もの「公的資金」が投入されることになった金融機関の株式も、同じく納税額に応じて分配してもらいたいものだ。この国の所得税・法人税の高さには驚くばかりだ。江戸時代の悪代官のそれよりも遥かに高率であることを国民は自覚しているのであろうか? 現在の方が、悪代官を懲らしめてくれる水戸黄門がいない分だけ、江戸時代よりもひどいといえる。「金融秩序維持」の大義名分によって、破綻した長銀の負債の部分を国民の負担に押しつけ、プラスの部分を外国企業や他の金融機関に安値で譲渡するなんて、悪徳商人と結託している悪代官よりももっと悪質だ。これが、他の国なら「革命 (とまではいわなくとも、せめて政権交代)」が起きても当然なのであるが、どういう訳か、この国では、革命どころか政権交代すら起きないのである。そして、国民の憤懣は、怨念という形で蓄積されてゆく。
ここで、本題の「長銀破綻と将門怨霊」へと話を進めたい。「将門怨霊」とは、いうまでもなく、今から千数十年前の平安時代中期に、坂東(関東)の地で大暴れした「武家の走り」ともいえる平将門その人の生涯にまつわる伝説とその後の将門信仰のことである。恐らく、当「主幹の主観」の読者の皆様なら十中八九、平将門伝説についてはご存じであろうが、念のため、まずその概略を記す。
平将門が、いわゆる「天慶の乱」によって歴史を騒がせたのは、鎮守府将軍(征夷大将軍)坂上田村麻呂による東国の蝦夷征服と桓武天皇による平安京遷都によって開始された四百年間におよぶ平安時代(皮肉なネーミングである)の中頃にあたる935(承平5)年に始まる。この「天慶の乱」は、朝廷の下に統一された日本全国からの金品および労働力の収奪によって貴族文化が綾爛していた京都政権から遠く離れた坂東の地で、新たに台頭しつつあった土着の武士勢力によって起こされた最初の「独立戦争」ともいえる。当時の関東平野は、潜在的農業生産力も大きく、水運の便も開け、軍事力に直結する馬の産地として、独自の文化圏を形成していた。本格的な武家政権である鎌倉幕府が成立するのが百数十年後の1192(建久3)年のことであるから、いかに平将門が先駆的であり、また、当時の貴族社会に与えたインパクトが強烈であったかは容易に想像できよう。「もののけ」に象徴されるのが公家の文化であり、「もののふ」に象徴されるのが武家の文化であることは、以前、拙論文『もののけの正体とは?』で述べたとおりである。
「天慶の乱」の蜂起は、わずか5年間で鎮圧されたが、京都政権による搾取の象徴であった国府を襲った平将門の記憶は東国の民衆に深く留められた。実際、誰がこの国の支配者になろうと、民衆サイドから見ればそんなに変わったことではない(要は「税金の少ない」政権こそが、民衆にとって「良い政権」である)。しかも、現在でもそうであるが、どんな新政権でも(前の「悪い」政権を倒したばかりなのだから)政権発足当初は人気が高いものだ。それが、年を経るに従って「堕落」してくるのは、古今東西世の習いである。平将門にどれだけの行政手腕があったかは知らないが、幸か不幸か、将門政権は「堕落」する前に攻め滅ぼされた。つまり、「ボロが出る」前に消滅したので、民衆には「いい記憶」しか残らなかった。怨霊神として民衆に支持されるための準備は完全に整った(同じようなパターンに、イエス・キリストの場合があるが、この件については、他日を期したい)も同然である。
将門は、「皇位を狙った逆臣」の汚名を着せられたまま、京都政権が差し向けた武士俵藤太によって940(天慶3)年に誅せられるのである。この時、将門は、俵藤太が成田山新勝寺の戦勝祈願で授かった南天の枝で作ったご神矢(「ものしり」の象徴)で命を落とすというエピソードまである。京都の公家政権の矛盾は、武装蜂起した武家政権を鎮圧するのに自ら出陣するのでなく、他の武家(平貞盛・藤原秀郷ら)を利用しなければならないという点にある。まるで、金融再生化法案では民主党と、また、早期健全化法案では自由党と、部分連合を組んだ自民党「ぬえ智恵」政権のように…。当然、鎮圧に功績のあった武家が、第二・第三の将門になりうる危険性がある。なんという皮肉か、俵藤太の「ぬえ退治」は、源頼光の「酒呑童子(鬼)退治」と並んで有名な伝説である。まさしく、「もののけ」に悩まされた公家たちから、これを武力で鎮圧していった「もののふ(武士)」たちへの移行期間のシンボルともいえる存在である。
かくして「稀代の悪漢」平将門の首級は、京都の三条河原で晒されるが、何者かがこれを奪い返し(伝説では、残された胴体を求めて、首が一夜のうちに坂東の地まで飛んで行く)、武蔵国豊島郡芝崎(現在の東京都千代田区大手町付近)に塚を築き、これを葬った。これが有名な「将門塚(=首塚)」である。当時、そこには神田明神が鎮座していたので、そこに祀られていた大己貴命(オオナムチノミコト=別名オオクニヌシノミコトあるいは大黒様)と少彦名命(スクナヒコナノミコト=別名恵比寿様)と共に、平将門命(タヒラノマサカドノミコト)として、ご祭神として祀られるようになるのである。
それにしても、あの猛将「将門」が、大黒様や恵比寿様と仲良く並んで「福の神」として祀られることになろうとは…。ご本人も思いもよらない結果であろう。
特に、ずっと後世になって、徳川家康が武家政権の本拠(幕府)を江戸に定めた時には、関東武家政権の魁ともいえる平将門を大いに礼賛し、江戸開府にあたり、1616(元和2)年、江戸城本丸の真東にあった神田明神を江戸城鬼門(北東)の鎮めとして現在の神田神社の位置に移転し、桃山風の豪華な社殿を寄進。歴代徳川将軍の崇敬も厚く、「江戸総鎮守」として江戸の庶民にも親しまれた。この時代は、将門様の霊もさぞやいい気分であったに違いない。これで、話が終われば「めでたし。めでたし」であったが、そうはならなかったところが、この将門伝説の面白いところである。肝心の「将門塚(=首塚)」そのものは、元々の地点に残されたままであった。
時移り世は代わり、文明開化の明治維新を迎え、旧幕府の政策は悉く「旧陋(アンシャンレジーム)」ということで否定されていったが、神道を国教と戴く明治政府は、1875(明治7)年、江戸改め東京の総鎮守であった神田明神に敬意を表し、天皇自らが参拝することになった。つまり、遥か古の平安建都以来、千百年間の長きにわたって京都と対立してきた関東が遂に新しい京都、すなわち「東京」となるためのシンボリックな儀礼であった。なんという歴史の皮肉であろうか…。
そこで、新たな問題が持ち上がった。いつの世にも小賢しい役人の考えつきそうなことであるが、「畏れ多くも大日本帝国を万世一系に統治する天皇陛下が参拝する神田明神の主祭神が、こともあろうに朝敵平将門とはけしからん!」ということで、泣く泣く将門公は主祭神からはずされ、同神社の末社の一つに格下げされてしまうということになった。この事件によって、数百年間、おとなしくお鎮まりになっていた将門の怨霊が、再び、暴れ出すことになるのである。確かこの辺の経緯は、映画『帝都物語』でも採り上げられていたはずだ。将門が無事、神田神社の主祭神に返り咲くのは、なんとそれから百年以上も経過した1984(昭和59)年まで待たねばならない。平将門にとってみれば、2度目の晒し首状態である。これで祟らねば、怨霊の鼎の軽重が問われるというものである。しかして、期待通り、平将門の怨霊はその後も大暴れした。
まず、1923(大正12)年の関東大震災。そして、1945(昭和20)年の東京大空襲。帝都は、2度までも灰燼に帰した。関東大震災後、大蔵省が大手町に仮庁舎を建てた時、「将門塚(=首塚)」をぞんざいに扱った祟りで、時の大蔵大臣以下、関係者十名が次々と急死した。また、終戦後、GHQが「首塚」を撤去しようとしたが、ブルドーザーが横転して死傷者が出るなど怪奇現象が続発し、遂に、撤去を断念したというエピソードが残されている。なんと、大日本帝国を木っ端微塵に打ち破った異教徒であるアメリカ人にまで祟りを及ぼすとは…。将門の怨霊もただ者ではない。努々「将門塚(=首塚)」を粗末に扱ったりしてはいけないのである。
そして、高度情報化社会といわれる平成の現在、こともあろうに、その「将門塚(=首塚)」の鎮まっている所に建てられている高層ビルディングこそ、今回、日本の大手銀行として戦後初めて破綻認定を受け、特別公的管理下に置かれた日本長期信用銀行(長銀)そのものである。「長期信用」といっても、平将門の千年にわたって(民衆の心理に)保持された怨霊としての活躍(信用力)と比べたら、屁みたいなものである。第一、あの妙に不安定な格好をした長銀本社ビル――見方によっては「首」のような形に見える――が不吉である。それに、長銀の主力商品であった「ワリチョー(長銀の割引債)」というネーミングも、なにやら今にして思えば、会社が割られることを暗示しているようだ。歴史をよく紐解かずに、あの場所に本社を置いたのが運の尽き、長銀はバブル経済の怨念を一身に背負い、破綻すべくして破綻したのである。
山川草木悉皆成仏。古代から現代に至るまで、アニミズムの息づくこの国において、動物はおろか草木に至るまで霊的な精神性を有すると信じられているこの国において、非業の死を遂げた人の怨霊(ものすごいパワーがあると信じられている)をいかに鎮めるかが、歴史を貫く大きなテーマのひとつであった。そこにこそ、つとめて先祖供養や慰霊に励んできた――言葉を換えれば、現に生きて悩んでいる人の救済をなおざりにしてきた――日本仏教の存在価値があると考えられる。今回の長銀破綻劇は、また、多くの人々に怨念を持たらせた。これらの怨念が、怨霊として長年にわたってこの国の政治・経済にとりつかないようにするためにも、怨念を無事、成仏させるためにもわれわれが歴史から学べることは多々あると思う。