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「Voice」2000年3月号
文化芸術
浅田彰『「J回帰」の行方』
二〇〇〇年になって振り返ってみると一九九〇年代の日本文化を「J回帰」とい
う言葉で特徴付けられるのではないかと思う。J?JAPANのJである。
それは「JーPOP」というネーミングから始まった。中身は「洋楽」に対して
「邦楽」と呼ぱれていたものと大差ない。ただ、「JーPOP」というと、いか
にもポップな、しかし日本的で身近な感じがする、というわけだ。それに追随し
たのが「J文学」である。「渋谷系」の若者の、ホップな、しかし背伸びするこ
とのない等身大の生活を描いた「クズ小説」(スガ秀美)の類が、このネーミン
グによって一躍脚光を浴びることになったのである。
JーPOPに始まる
知的な領域で起こった日本回帰現象もそれと無縁ではないだろう。たとえば、九
〇年代の論壇・文壇で活躍した福田和也の場合。彼は、フランス文学研究者だっ
たころから、フランス人の隠したがる対独協力文学者を研究するといった批評的
な悪意を持ち合わせていた。だが、パリで日本人留学生がプルーストの手稿に群
がる姿への違和感を抑えきれなくなった彼は、ついにフランスを捨て、日本に回
帰する。とはいえ、パンク右翼を自称する彼の日本回帰は、あくまでも表層的な
模像(シミュラクル)としての日本への回帰──「J回帰」だったというべきだ
ろう。
この福田和也の「J回帰」に、若い批評家たちも追随する。たとえば、八〇年代
に一見コスモポリタンなポストモダン・アートを紹介していた椹木野衣は、九〇
年代になると、サブカルチャーぱかりがはびこる「悪い場所」としての日本で崎
形的な発展を遂げた「日本・現代・美術」──いわば「Jアート」に力点を置く
ようになった。前回紹介した水戸芸術館での「日本ゼロ年」展はそのマニフェス
トである。また、デリダ研究でデピューした東浩紀も、サブカルチャーよりさら
に土着的なものであるという日本の「オタク文化」(たとえば日本の貧しい都市
の風景の上にSF的なイメージを貫ね描きするアニメ)に足場を置いて、新たな
「J批評」を展開しようとしている。そこからは、八〇年代のポストモダニズム
は、日本という条件を忘れた表面的なコスモポリタニズムとして批判されるので
ある。
繰り返すが、このような日本回帰の対象は、あくまでもサブカルチャーや「オタ
ク文化」の日本なのであって、伝統の日本ではない。その意味で、それは「J回
帰」と呼ぶにふさわしいだろう。ちなみに、昨年の天皇即位十周年記念式典を見
ていると、天皇制さえ「J天皇制」に変質したかに見える。かつて「大日本帝
国」は「皇紀二千六百年」を記念する音楽をリヒャルト・シュトラウスに委嘱し
た(この曲は有名ではないが一応音楽史に残っている)。一昔前でも、天皇のた
めの「奉祝曲」といえば、黛敏郎のような作曲家が作っていただろう。ところ
が、先の式典では、首相のまわりをGLAYやSPEEDが囲み、元Xー
JAPANのYOSHIKIが「奉祝曲」を演奏したのである。皇室の伝統的な
イメージなどかなぐり捨ててでも大衆──とくに若者に迎合しようとするポピュ
リズムが、アルファベットだらけの「JーPOP」で飾り立てられた「J天皇
制」を生む。それに対して、昔ながらの天皇制批判の立場からYOSHIKIに
公開質問状を出した左翼知識人もいた。だが、そんなことをしても「暖簾に腕押
し」だろう。おそらく、問題は、日本の伝統の核としての天皇制というより、
「J回帰」の焦点としての「J天皇制」なのだ。
不況と自閉
大きくいうと、このような「J回帰」はかなりの程度まで経済的に決定されてい
ると見ていいだろう。フレドリック・ジェイムソンの指摘を倹つまでもなく、ポ
ストモダン消費社会のコスモポリタニズムは、名実ともにボーターレスとなった
世界資本主義の文化的表現である。現在でもそのような多文化主義(マルチカル
チャリズム)が世界の大勢であるにはちがいない。だが、とくに日本の場合、八
〇年代の好況から九〇年代の不況への転換のなかで、そうした世界資本主義への
反発のほうが前面に出て、「J回帰」につながっていったのである。
おそらくここに「J回帰」のどうしようもない浅薄さがある。かつて内村鑑三は
JAPANのJとJESUS(キリスト教)のJの緊張のなかで思考しようとし
た。次の世代では、外から与えられた絶対的なドグマという意味で、共産主義が
キリスト教に取って代わった。いずれにせよ、そこではJは苛烈なイデオロギー
闘争の只中にあったのだ。だが、いまの「J回帰」を条件付けているのは、グ
ローバルな経済という生の現実でしかない。九〇年代に不況のなかでグローバル
化の波に晒された日本が、文化のレヴェルで自閉しようとする。「J回帰」とは
おそらくその徴候にほかならないのだ。それは不況が終わるまで続くのだろう
か。それはいったい、いつのことなのだろうか。