マゼラン星のア・ランが語る宇宙人の考え方と地球人の考え方の違い

 
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投稿者 SP' 日時 2000 年 5 月 08 日 18:20:46:

『大禊ぎ』(谷口祐司・大高良哉著、文園社出版)より抜粋。


 鏡についての考察    一九九〇年三月一日
 鏡に写っているものに夢中になっているのが現在の貴方達です。
 けれど貴方達が本来鏡そのものであることを思い出すべきであり、これから貴方達のしなければならないことは、鏡に写る映像の正体を、或いは意味を理解し、その後、鏡そのものが何であるのかを知っていくことに尽きるのです。

 誠実について
 誠実が理解を導くというのは誤りであると、敢えて私は言おう。
 真実を通じての誠実は、理解の後に副産物のようにして現れるものであり、それ以前での誠実とは努力という言葉以外に、それに当てはまる言葉は無いように思われる。
 真の平和が理解の後に得られる副産物であることを思い出して欲しいのです。
 そしてもう一つ思い出して戴きたいのは、三度眠りこけたイエス・キリストの弟子のエピソードです。理解以前のエゴ体は、唯誠実でありたいという希望を持つことがあっても、真の誠実が生じてくる根源を知ることは無いのです。

 愛について
 地球上で愛と呼ばれている事柄について話してみよう。
 まず愛とは、感ずるものではないこと。愛そうと努力するものでもないこと。
 失ったり、得たりするものではないこと。
 愛とは、初めからそこに存在している状態である。
 人と人との関わりがどの様な形であろうとも、それはそのまま完全な状態で在り続けるもの、イエスの言った「汝の敵を愛せ」と言う言葉は、この愛に辿り着くために与えられた一つのヒントであると私は言いたい。
 敵を前にした時、貴方達の愛は生き続けることが出来ない。
 貴方達の愛をしっかり吟味して下さい。
 それが何処から生まれているのかを深く洞察して欲しい。そしてもしその正体を見極めることが出来たのなら、それが貴方の旅の始まりになるかも知れない。
 そして貴方は旅の途中で、多分突然に、愛を知るようになるだろう。

 旅の始まりにおいて希望すること
 まずは貴方達が瞑想の旅の友に、常に持ち歩いて欲しい便利なものを挙げたい。
 それは“無限”という言葉以外の何物でもないのだが、これこそが常に貴方自身とその道を明るく照らしてくれる灯火となってくれることだろう。
 瞑想の中で出会うこと、又自分自身の状態を常に無限の灯火で照らし出して、それを能く理解しなさい。そしてもし、貴方の目が無限の灯火そのものになることが出来たら……。有限と無限、これに注意することは貴方達のしつこい夢を打ち破るとても良い方法となるでしょう。
 無限分の有限……この成り立つことの無い数式について考察してみるべきです。
 もう一つの餞別として、私は貴方の頭をすっきりさせるキャンデーを上げたいと思う。これは実に有効であるし、幾つ味わっても決して虫歯にならないから、好きなだけ持って行きなさい。
 それは例えば貴方が三十才であるのなら、七十年後に生きている確率は非常に少なく、恐らくは小さな壺に骨と成って入り、墓の中に納まっているであろう事実です。
 又ほんの三十一年前には、貴方という存在は芥子粒ほども無かったという事実です。
 想像力は時に非常に役立つことがあるものです。
 心を未来に飛ばして、貴方の墓をしっかり見ていらっしゃい。
 又、過去に心を飛ばして、貴方など何処にも居なかった事実をしっかり見ていらっしゃい。これが貴方に上げる私のキャンデーです。幾度でも味わってみることを勧めます。

 宗教について
 私は宗教を否定するつもりは無いのです。ただ地球に存在する殆どの宗教が、夢の続きであると貴方に言っておきたい。そして夢は夢であって、いつかは醒めるものであることを。しかしながらその宗教という夢も一つの駅であり、貴方達はそのいずれかの駅を降りていって、いずれは有り難いテキストになるであろう多くの土産物を背中に背負い込み、又、汽車に乗るために戻ってこなければならないでしょう。人の迷惑にならないのなら、お題目なり、祈りの言葉なり唱えなさい。
 けれど、それを好い加減な態度でしないことを勧めます。全力で行うことです。
 これがその駅に滞在する時間を短くすることに繋がります。又、二度とこの駅に降り立つことの無い識別を貴方に与えることになるのです。

 恋愛について
 はっきり言って、貴方達のそれと、私達のそれの在り様は全く違っている。
 貴方達は彼又は彼女の肉体が、そして心そのものが何であるかを知らない。それにどんな意味が在り、何故存在しているのかを知らないまま囚われていく。
 そこには肉体的又精神的に非常に自慰的な要素が含まれている。
 貴方達は長いこと本当の親を知らない親無し子できた。
 何故か判らないまま飢えに苦しみ、殺されもし、病のうちに死んでも行った。
 暗闇の中を多くのものにぶつかりながら歩いてきたから、貴方の本当の姿は痣だらけ、傷だらけと言う状態だ。
(貴方も知っている通り、傷も痣もエゴを生み出す特効薬です。)
 そして今貴方達は、彼又は彼女にしがみつく魅力的な彼又は彼女の中に永遠の安らぎが在るのではないかと希望を抱く。
 貴方が、彼又は彼女を得るために何もかも捨てる覚悟が、実はこのエゴから生まれていることに気が付きなさい。さて結果はどうだろう。
 癒されなければならない傷だらけの人間が二人しがみついている……貴方はここに救いが在ると思うだろうか。
 彼らは自分の傷の重さから逃げ出したくているのに、お互いの傷の重さまで感じてしまい、後には多分へきえきするようになるだろう。
 貴方は相手に対し、目を閉じ、鼻をつまみ、耳を塞ぐことだろう−−もういらない……と。しかし、貴方達には生活が在る。子供も育てなくてはならない。やらなければならない雑用も数多くある。(これらはお互いを必要とさせることの他に、紛らわしの作用を持つ)それに離別は新たな傷を、自分に又相手にも負わせるに違い無いだろうと思う。頭の良い連中は、ここで見せ掛けを始める。日本に狐と狸の化かし合いと言うのがあるが、正にそれだ。そしてその方法が結構お互いの気持の良い慰めになっていく。
 これが地球上に在る殆どの「愛の暮らし」であると私は言おう。

 貴方達はこの芝居から抜け出すべきです。
 彼又は彼女の肉体が、或いは心が何であるかを知りなさい。
 何故存在しているかを知りなさい。それを知った途端、貴方は真の愛に目覚め、もうしがみつきたいなどと思わなくなるだろう。そして更には相手に対し、目を閉じることも、鼻をつまむことも、耳を塞ぐことも止め、相手の傷の意味を、或いはその存在理由を知り、ある感謝をもって受け入れるようになるだろう。

 所有について
 結論から先に言おう。貴方は何物も所有することは出来ない。
 貴方自身が所有していると信じて疑わない自身の肉体或いは心でさえも、所有することは 出来ない。私が言わんとしていることはいずれ好むと好まざるに拘らず、全て放棄しなければならない日が来るということだ。貴方が日頃自分のものであると思っているものについてもう少しクリアーな目でご覧なさい。
 例えば貴方のライターをテーブルの上においてじっと見詰めなさい。
「貴方のもの」と言う実感がどれ位掴めるだろうか。
 それはそれを必要としている貴方に近付き、又、通り過ぎているものでしかない。
 期限付の(期限付の所有権)それを表すのに一番ピッタリの言葉を貴方に教えてあげよう。それは「縁」だ。縁以外の何物でもない。
 貴方が日頃なにげなく使っているこの言葉に、実は非常に深い意味が隠されていることを考察しなさい。
 さて、所有ということについて、又違った角度からお話することにしよう。それは所有欲についてです。
 殆どの人が身の周りのものを集めることに熱中している。その度合にいくらかの違いはあっても、(まずマネーだ。)と貴方達自身の品質表示に太字で示されている。
 私が地球においてコンタクトし、ある程度の理解に導くことが出来た人間ですら、その品質表示の字を、やっと細字に変えられた位だ。私は彼女を「もっとさん」というあだ名でからかったのだが、貴方がた地球人は皆、「もっとさん病」(=もっともっと欲しい病)にかかっている。さて病気であるのなら、まず第一に病原菌を突き止めるのが利口なやりかたと言うものだろう。
 ここでも結論から先に言ってしまうと、これは僅かな期間存在するだけの肉体を、絶対視すると言う錯覚から、貴方達の心が始まり、又、育ってきたということに尽きる。

 ただ、ここから先は言わないことにしよう。
 貴方を過保護にすることが余り好ましい結果をもたらさないことを、私は知っているからだ。ただ、処方箋だけは示しておくことにしよう。
 それは瞑想において無限性、或いは永遠という言葉と親しく付き合うことです。
(彼らほど副作用の全く無い特効薬は無いように思われます。)
 そして彼らは貴方の持つ種々の病を直す万能薬でもあるのです。
 貴方達は彼らと付き合っていくことで、イエスの言った(霊)から生まれなさいという真の言葉の意味を、又釈迦の使った八正道の真の意味を知ることになるだろう。

 超能力について
 貴方達は或る憧れの気持をもって、これを見るに違い無い。
 エゴ体は常に、より強い力を欲しているからだ。
 だが旅を始めたばかりの、或いは始めようとしている貴方達にとって、この存在は非常に強力なワナになるであろうことを言っておく。
 貴方はこれに囚われ、又うずたかく夢を積んでしまうのだ。
 それ程遠くない未来に、貴方達は皆これを表し、又駆使するようなことにもなるだろう。しかしその時には、もうそれは超能力ではなく、普通の力でしかないのだ。
 憧れる気持がどこから来るのか、能く観てご覧なさい。
 その正体を見つけ、それにしっかり対処することが出来た時、それは一番良い形で、雲間からこぼれる陽光のように、貴方に表れるだろう。

 祈りについて
 貴方達の心が肉体から生まれている以上、その祈りはそこから出ていくことは出来ません。夢の中で生きる貴方達はより高い夢を望み、祈る、それだけのことです。
 ですから例えば、公明正大そうな平和への祈り……と言うのが、実は如何にナンセンスなものであるか、貴方達は気付きようもないし、その結果祈りと戦争を果てしなく繰り返していくのです。真の祈りは理解の後に現れますが、これはある深い感謝と喜び以外の何物でもなくなるでしょう。理解を得ることです。まず理解を得ることです。

 信じるということについて
 信じるということについて、私はこれを貴方がたに是非とも忠告しなければならない。地球に住む貴方達に驚かされることには慣れているのだが、特に信じるという言葉を厳密に扱っていないということについては、驚きと共に非常に危惧をもってみざるを得ない。
 貴方はこれをうやむやな状態にしておいてはいけない。
 貴方自身が確かめられない事について、それを(そうである)と決して言ってはいけない。
 私は彼の人柄を信頼しているし、彼の言ったことについて八〇%位は信じている。でも最終的な結論を言わなければならないのなら、判らない……とだけしか言えない。貴方はこのように言うべきである。
 確かめられないことを積み上げたものに注意しなさい。
 それを受け入れ、それについて考えることは構わない。けれど確かめられないことは、貴方の中において飽く迄フィクションに留めるべきだ。
 私のこれまでのメッセージを読み、それを確かにそうであると受け入れている人々に聞く。
『私は宇宙人ア・ランである。アンドロメダ星雲の中心から一万光年離れたバラ星が私の星であり、他の良くない宇宙人から貴方達を守るべくしてやって来た。私の年齢は三五〇〇歳であり、貴方達の精神レベルと私のそれとの間には、十万年ほどのひらきがある。私は宇宙の法則に従って、真実しか言うことを許されていない。またそれ以外のことを言うつもりは無い』……このようにもし私が貴方に話したとしたら、貴方がたの何%の人間が、「彼はそう言っているけれど、私には彼の存在すら確かめる術は無いし、結果的にはその真偽は判らない。けれど兎に角真理だけは私にとって必要なことは確かだから、頂いとくわ」と言えるだろうか。
 確かめることの出来ないことを積み上げているものに注意しなさい。
 貴方は正確に思考すべきです。
 信じること、信頼することについて、反対しているのではなく、実際の在り様を厳密に捉えていなさいということです。
 大切なことは真理以外には無く、それ以外の確かめられないことは、飽く迄もフィクションとして、貴方の中に保留しなさい。

 奉仕について
 奉仕という言葉を貴方はどのように捉えているだろうか。
 この言葉にはそのレベルにあった様々な意味合いがつけ加えられて存在しており、地球においてもその純粋な意味を追及する者は稀である。そこには何らかの感情が混ざり、良い行いであるとすること、又、愛という言葉の雰囲気に囚われることで、貴方のエゴ体が満足させられ、本来の意味に余計な意味合いをつけ加えている。
 奉仕は貴方のエゴ体のために在るものではない。それは「当然為されるべき貴方の仕事」なのである。
 貴方は食事を作り、掃除をし、電話をとり、計算することに対し、「良いことをしている」と感ずることがあるだろうか。又、もし貴方が「私は奉仕する事で多くのものを得ている」と言うのであるのなら、それには体験と言う言葉の方が、似合いはしないだろうか。私は貴方達の奉仕について、揚げ足を取っているのではない。ただ本来の意味に気付くことから得られる、多くの事柄について考察することを希望するのだ。

 善と悪について
 間違いだらけの貴方達の世界において、決定的に間違いと思わ れる事がある。
 それは人間というエゴ体全般の性質を善と悪とに分けてしまうことである。
 そしてこの間違いは、これまで多くの宗教が利用してきたワナであり、貴方達はこのワナから自由にならない限りそこから抜け出すことは出来ない。
 この間違いは地下部の根の部分を全てカットし、地上部だけを見て、それを植物であると判断することに似ている。
 貴方達は遠い過去からの経験から、ある性質が喜び(エゴレベルにおいての喜び)や幸福をもたらすことを、又、或る性質が苦しみや悲しみ、破壊や死をもたらす事を知っている。これは殆ど初期の体験的知識であるのだが、実際には、更に進んだ段階にいてもいい多くの人々が、その知識の段階に留まっているのである。そしてそのような状況を作りだしている足かせが、この善と悪の分離思考なのであって、この思考法はある努力を貴方に強いることで、その先への思考をストップさせるのである。
 その努力とは、自身の中に在る悪を自身に、又他人に対して隠蔽工作することであり、又、その相対関係に在る善をクローズアップさせることによる目くらまし工作である。

 今既に貴方達はこのごまかしのエキスパートになっている。
 だがそれは飽く迄もごまかしであり、実際には何も解決されていないのだ。

 善悪二つの花を咲かせている木の根を掘っていきなさい。
 注意深く掘り下げ、(これは心というものを注意深く観察する以外に方法は無い)それが深いところで一つに繋がっていることを見つけだすことだ。すると貴方は(個意識)という言葉を手に入れることになり、それが実は肉体を自己同化した時から始まっていることに気付く筈である。
 それでは何故過去において真の覚醒者達が、この善と悪、神と悪魔といった分離を貴方達にもたらしたのであろうか。それについては一つの理由と一つの目的を見つけることが出来るのだが、その理由とは心を殆ど分析すること無く衝動的に行動する貴方達には足かせが必要であったということだ。そしてその目的とは、単純なエゴ体の複雑化である。だが今地球において、その足かせを必要としなくなっている人たちは多い。
 にも拘らず、宗教その他多くのグループは、その人々に対しても、依然として善と悪を説くのである。それはそれ以上、貴方達を利口にすることを食い止める防波堤であることを意識的に又無意識に知っているからなのである。もしそれ以上に利口になってしまったら……これ以上に彼らが脅威を感ずることは無い筈である。
 何故ならその時には、殆どの宗教及びグループは店を閉めなくてはならないからだ。
 分離思考から抜け出なさい。貴方達においてのそれの持つ役目は十分に果たし終えているのだから。そして今それは貴方達の進化を遅らせるという足かせ以外の何物でもないのだから。
 貴方達はこれから善も悪も無くなる世界への旅を始めるのだ。

 レベルについて
 レベルというものについて考えてみよう。
 レベルとは、それについて喜んだり落胆したりすべきものではない。
 又、貴方達の旅の達成はどのレベルを抜いてもあり得ないことであり、それぞれに深い意味が込められているのである。貴方がもしそのレベルを卒業せず、もっと先のレベルでのレッスンを行ったとしても、それは非常に無駄なしかも非常な危険を伴う遠まわりにしかならず、結局は又もとのレベルに戻って来なくてはならないだろう。
 このような理由から貴方がたの多くの師は「秘密」を実行して来たのだ。
 さてこのレベルは、非常に細かく分けられるものであるのだが、ここではその全体を大きく二つに分けてそれぞれ説明することにしよう……と言うのは、これを読む貴方達の多くが、この二つのレベルの狭間近くにいるからだ。
 まずは貴方達が正に卒業しようとしているレベルについて話してみよう。
 これは旅について又旅の目的地について全く理解を得ていないレベルである。
 そのレベルにおいての「目的」は、飽く迄もエゴレベルに留まり、エゴそのものが何であるかを知ることが無い。そして彼らは無意識の内にエゴを成長させ、又、そのエゴにあわせた環境(多くの意味において)を整える事に努力の全てを当てるのである。これがそのレベルの在り様であるが、次はこれから貴方達が入っていくことになるレベルについて話してみることにしよう。
 そのレベルにおいては、貴方達は旅そのものに対する理解を得、又その目的地に対する理解を得るようになる。この事は、エゴの正体を知り、それをどのように扱っていくかをはっきりと知ることに繋がり、それを実行していくことになるのだが、ここにおいて、努力は全てそれに当てられると言ってもよいといえる。
 この努力は、先に話した二つの理解をより深く明確にしていくためのものであり、又、その副産物として、真の感謝の深まりを体感していくことになるだろう。
 簡単にレベルを二つに分けて話してきたが、貴方にもう一度言っておきたいことは、レベルはそれについて喜んだり落胆したりするものでは無いということだ。
 もし貴方が自らのレベルに優越の意識を持つものであるならば、それを無限時間の中に置いてみなさい。
 そしてもし貴方が自らのレベルに劣等の意識を持つならば、傍らの草を眺め、それが自分に対し劣等の意識を持つ必要があるかどうか、考えてみることだ。

 謙虚ということについて
 理解を得ていないエゴ体に「謙虚」はあり得ない。もし在るというのであるならば、それはエゴの本質を知識として知っているものが、謙虚に美意識を感じ、相手のものに、又自分自身に対しそれを印象付ける為に演ずる芝居であり、これは真の「謙虚」とは言えない。又、非常に優位に在るものに対し「謙虚にならぎるを得ない」であるのなら、それは劣等意識以外の何物でもなく、もし、優位に在るものを超えることに成ったとしたら、その意識は即座に消え、その代わりに優越意識が現れるだろう。これも真の謙虚にはなり得ないのである。
 それでは真の謙虚とはどういうものであるのだろうか。
 これも理解の後に副産物として現れるものなのである。貴方がエゴ体の正体を知ってしまったら、もうそれを相手に印象づけることにも、又見せびらかすことにも、何の意味も感じなくなる。
「自分」は、真実有り難いものだが、出来ればさっさと消えて欲しいものであるという状態になるからだ。貴方はそれを錘のように感じ、それを引きずって歩く自らの姿に対し、弱々しく笑うことしか出来なくなる。そしてここに謙虚が生まれる。
 正にこれが真の謙虚なのだ。この謙虚には能動は混ざらない。非常に淡々とした(状態)だ。これについて是非考察してください。

 平和について
 地球では、何故平和が保たれないのかを考えたことがあるだろうか。
 それは貴方達の「平和」が、実際にはエゴ体の「都合」以上の何物でもないからだ。
 それは貴方達が何故平和を望むのか、その理由を分析すれば明らかになることなのだが、それが「都合」であ る以上、「他の都合」に簡単にひっくり返されてしまうのである。
 貴方達は平和を望む……それは決して嘘ではない。だがそれは戦争が環境破壊や多くの苦しみや悲しみまた死を呼ぶものであり、そんなものは実際「困る」事だからだ。
 これはエゴ体が基本的に持ってしかるべき「都合」だ。
 だが貴方達に他の非常に重要だと思われる、しかも現実に直面している「都合」が来ると、それは脆くも崩れ去ってしまう。
 例えば経済だ。経済事情が思わしくない……この程度であれば貴方達は話合いを持って何とか解決の道を見つけだそうとする。
 戦争は危険な賭けであるし、「起してはいけないこと」だからだ。
 だがそれが決定的に悪化すると、貴方達は話合いをやめて結局武器を取らざるをえないような状況を作りだすだろう。これが「都合」以外の何であるのだろう。
 過去に起きた宗教戦争にしても、唯一の神、唯一の真理が二つも三つも在っては「都合」が悪かったのだ。彼らは偽物を破壊する必要があり、又実際為され、信じられないことだが、それは現在にも及んでいる。
 それではもっと個人レベルで話してみよう。
 貴方は「私だけは絶対に違う。都合などで殺しあいをする位なら、自殺した方がましだ。」と思うかも知れない。がしかし残念なことだが、これもその多くは非常に簡単に崩れ去っていくだろう。確かに貴方からは決して人を殺したりはしないだろう。
 だが想像力を働かせてご覧なさい。例えば、経済事情のこじれから、それぞれが大義名分を掲げ、国レベルの戦争を始めたとしよう。貴方はプラカードを掲げ、戦争反対を唱えながら仲間と共に通りを練り歩くかも知れない。だがそんな事にはお構い無しに、相手国の空からの攻撃を受けることになるだろう。そしてこのただならぬ事態にはプラカードは及ばないと知り、防御の対策を練らなければいけなくなる。だがそれにも拘らず、やがて殺戮は貴方の最愛の親、子、友、妻、夫、兄弟にも及ぶことになるだろう。
 貴方の深い悲しみは怒りへと変わり、それは戦争そのものへというよりは、むしろ直接その人々を殺した相手に向けられる……「許せない」と。
 そして相手国の人々も同じ悲しみを受けているであろう事など、同情すら及ばなくなる状態となるのだ。このようにして両国の一部の人間が始めた戦争は、それぞれの国民の間に確実に浸透していく。
 消極的な防御が、積極的な防御に変わり、それが更に戦争の炎を大きくする。
 これが貴方がたの多くが辿っていかなければならない過程なのである。
 貴方がたの平和は、是非にも「都合」から他のものに変質しなければならない。
 変質が無い限り戦争は起り続ける。その良い証拠に地球上に在る国の殆どが軍を持ち、その時に備えて準備を整えている。
 変質は理解からだ。理解以外に変質を起す方法は無い。
 その理解とは、何故生命が存在し、又それが何故輪廻転生によって繰り返されていくのかを知ることだ。

 奉仕活動から到達へ
 貴方は奉仕活動からも旅を始めることが出来る。これについて地球的表現法を用いるならば「愛の旅」と言ったものになるかも知れない……が理解以前に愛と呼ばれるものは「同情」以外に無く、これを正しく言い替えれば「同情の旅」となるだろう。
 この旅には理解はあえて必要なく、貴方達の多くがこれに向いていると思われ、又奨めたい旅である。
 まずは中心を同情においたエゴレベルの奉仕から入っていくのであるが、この時点でそれから貴方が得られるものは、エゴレベルの喜びを含めた体験的知識に留まる。
 だが、これを真剣な姿勢で繰り返していくうちに、それは貴方にとって理想的なしかし、非常に努力を必要とする瞑想と成っていくのだ。これについて説明すると、貴方達の世界には「自己犠牲」という言葉があるが、貴方達は同情を中心に据え、これを自らに強いて行くことになるのである。
 だがもともと貴方自身は個を基本としているエゴ体であって、これはその中において、耐えがたいほどの葛藤も生みだす筈なのだ。
 貴方は常にそこから抜け出したいという欲望に駆られるだろう。だが飽く迄中心に留まるのなら、貴方はそこにおいて無意識のうちに集中(自己コントロール)を学ぶことになる。そしてそれは限り無くエゴ体を希薄にしていくことに成り、又、中心を必要としなくなることにも繋がる。そしてついには中心は消滅する。
 貴方はこの時、自らの中に真の意味での「愛の現れ」を体験するだろう。
 愛とは、最も純粋化したエネルギーの本質なのである。さてその後に行われる奉仕は、それまでのものとは異質のものと成っていく。
 つまり、それまでの能動体受動体共にエゴ体であったのであるが、それからの能動体は「純粋エネルギー」となり、受動体は「エゴ体以前の存在」となるのである。
 ただ今の貴方にはこの状態について想像することすら出来ないのであるが、これは遠い将来必ず到達されるべき過程なのである。そして貴方は今話してきた旅の涯に到達するという意識も無く、到達していくのである。
 追伸
 この旅を始めようとしている、或いは既に始めている貴方に、これだけは言っておかなければならない。これは飽く迄も中心を「同情=(貴方達の愛)」に置かなければならず、何か他のものに置くのであれば、それは貴方のエゴ体を成長させるだけの結果に終ってしまうだろう。

 対等ということ
 対等という言葉について話してみたいと思う。
 対等は我々の基本的ルールであり、これは決して崩されるべきではない。
 これが崩されたときに現れる結果は、徹底依存、又どのような形であれ不当支配である。さて対等が可能な状態を明確にしておかなければならないが、これは両者のレベルが一致し、従って獲得できる能力の範囲が一致した場合ということになるだろう。我々が貴方達の前に姿を現し、交流出来ない理由は単にこの対等の状態が得られないことにあるのだ。
 つまり貴方達の多くは依然として理解以前の状態にあり、その結果真の平和の現れを得ていない。これは明日にでも文明の破壊が行われるかも知れない可能性を意味するのであり、もし貴方達の手に、我々のテクノロジーの一部が渡ってしまったとしたら、我々は貴方達に対し、支配、又は強制文明剥脱、ある場合には滅亡させることを余儀なくさせるだろう。
 と言うのは、我々のテクノロジーを用いた場合、貴方達の破壊は地球に留まらず、宇宙全体に及ぶことになるからである。地球人全体が理解のレベルに達することで、初めて対等が可能な状態を得ることが出来るのである。
 さて視点を変え、今度は現在の我々と貴方達との関わりについて話してみよう。
 貴方達は既にその行動範囲を地球以外の天体にまで広げている。
 これは正に、精神レベルにおいても「地球の人」から「宇宙の人」に脱皮する時期が来ている事を意味しているのだが、しかしこれは生命の進化の過程において最も危険な時期であるとも言えるのであ る。
 我々は「宇宙の人」という立場から、このような時期を迎えた天体の人々を観察する必要性を認めており、又彼らが「宇宙の人」に脱皮する為の絶対条件である「理解」を促す事を目的とした奉仕を行っているのである。
 だがこの奉仕を行うについて、我々はここにも対等というルールを基本に置くべきであると考える。
 これは貴方達の獲得可能な範囲を超えたテクノロジー、又は知識の提示を最低限に抑えることを意味することになるのであるが、貴方達はこの対等を余り喜ばないようである。これはそれまでの貴方達の習慣がそうさせるのであろうが、そのようなものの提示は、或る者達が何らかの目的を持って教えを貴方達に受け入れさせる時に必要なものなのである。だが我々が行っているものは、飽く迄「促し」であり、貴方達が主体である以上、そこにある意味での武器は一切必要無いのである。従って我々は、今の貴方達にとって全く不必要な又雑音にしかならない事柄……例えば「我々がどこの星から来た」等や宇宙船の写真等の提示を行うことは一切無いと思って頂きたい。

 戒律或いは義務について
 戒律或いは義務について、我々の世界には戒律或いは義務という言葉は存在しない。
 我々はただ無限の中に自らを置くことで得られる理解に沿って道を選択していくだけだ。それはごく自然なことであり、そこには「なさねばならないこと、そうあらねばならないこと」など一つも無い。
 植物は、戒律或いは義務という言葉など知らずに種子を作る。
 小鳥も又、そのような言葉など知らずに、雛に餌を運ぶ。
 それは明るく照らし出された道であり、その道を行くのは本当にごく自然なことであるのだ。
 戒律或いは義務とは、方向指示のようなものであり、貴方は道を間違えないようにそれに従う。けれども貴方は元々盲ではないし、その道が真に明るく照らし出されさえすれば踏み外すこと無く、ごく当たり前に歩みを進めることが出来るのだ。
 戒律或いは義務とは、暗闇の中にいる貴方をどこかに導こうという意図から与えられるもの、しかし実際には、それは貴方自身の中において、どのような解決にもなりえない。貴方に必要なのは導きではなく、理解という光であるのだ。

 瞑想について
 私のメッセージを読み、又それを受け入れる人々の殆どが瞑想(座禅を含む)を経験している筈である。と言うのは、エゴ体はある成熟を迎えると自身の奥に潜む道の部分に注目することを始め、その結果、瞑想に出会うことは必然となるからである。
 多分貴方は瞑想について書かれた本を数多く読み、瞑想グループでの体験を積み、覚者と呼ばれる人々を尋ねて廻る様なこともしたに違い無い。
 これは実に迷路を行くようなものであり、そこには多くの行止りや廻り道が存在する筈なのであるが、しかしその様なものを過ぎると、貴方は一本の道を見つける事になるのである。その道とは、貴方のエゴ体が望んだ結果作られていくようなものではなく、初めから「用意された道」である。
 そしてそれは「絶対性」に向かう道以外の何物でもないのだが、この道においての瞑想は、それまでに貴方が体験した願望、或いはプラス志向を取り入れたようなものには成り得ないのである。
「絶対性」はエゴ体の範疇には無く、その状態についての知覚は不可能であるからだ。貴方は例えば、「無限・永遠」といった鍵を手にし、まずは自身のエゴ体の正体を認識することから始めなければならないだろう。
 そしてこの瞑想は、やがて貴方を限り無く知覚不可能なものに近付けていくのである。

 正義について
 正義とは、全体的調和のために行われる行為である。
 貴方や一般が正義と判断した事でも、もしこの基本的定義に当てはまらないのであるのなら、それは「過ち」と成り、貴方達はいずれその過ちの付けを払わなければならないだろう。「正義」を知るには、まず全体の在り様を、又対象の在り様を熟知するべきなのだ。そしてその後に得られる正義こそが、調和への最短距離に在り、「必要」とされるただ一つの行為なのである。だが或る場合には、そこから得られる「正義」は、「冷たさ」「むごさ」といった印象を貴方に与えるものになるかも知れない。が、それは飽く迄も同情レベルでの印象であって、真の愛には関わらないものなのである。
 一つのたわいのない例を挙げてみよう。
 貴方は卵の殻を既に破り、外界を自由に歩き廻れる雛鳥であるとする。
 そしてふと見ると、まだ殻を破って出てくる様子も無い仲間を見つけるのだ。
 貴方は考える。
 殻の外はこんなに自由で気持ちが良いのに、この仲間は何をのんびりしているのだろう。それにこんな殻の中に入っていて、もし外敵に狙われたら、逃げることも出来ないではないか。
 貴方はその仲間を心配する余り、私は絶対に正しい、これをすることは仲間を守ることであり、彼を幸せにすることでもあるのだと言う判断を基に、ある決断をするのである。それは自分のくちばしで、彼の卵の殻をつついて割ってしまうことであるのだが、その結果、貴方は大変な罪を犯したことを知るのである。
 つまり卵の中の彼は、まだ外界に出られる状態ではなかったのである。
 貴方はどのように心配であろうとも、決して彼を殻の外に出そうなどと考えてはいけなかったのだ。
 この場での貴方の正義は、待つこと以外の何物でもなかったのである。
 貴方の「過ち」が全体の在り様と対象の在り様に不調和を生じさせた場合、対象に対してどのような責任も取り得ないという事実を知るべきです。そして全体の在り様に対する知識を殆ど持たない貴方達が正義を得るには、まずは理解を得、そこから知識を得ていくことから始めなくてはならないのである。

 共存、そして信頼
 共に在る……これは理解を得た者にとってこの上ない喜びとなる。
 そこには互いについての何の知識もいらない。貴方はレベルを超えて、慈しみを、絶対的尊厳を相手に感じ、又ある感謝に包まれるのである。
 この基本的共存の在り様が、真の平和を創りだすのであるが、貴方はここにおいて、エゴ体のはるかな過去からのテーマであった「不調和」「孤独」「不安」といったものから解放されるのである。
 これは又互いの関係を非常にシンプルなものにし、余計な疑い、思惑、といったものが、殆ど無くなっていくということにも繋がり、「信頼」は「絶対的信頼」に限り無く近づいていく。
 貴方達はこの様な共存の在り様についても、多分絵空事のようにしか感ずる事が出来ないだろう。だがもし一度でも純粋エネルギーに近い状態を経験するのなら、これについて容易に想像できる筈である。
 さて、私はここで「信頼」と言う言葉を使ったのだが、これについて少しばかり説明を加えるべきであろう。
 地球上に在るそれと、我々の世界におけるそれには明らかな違いが在るのだ。
 貴方達の「信頼」は字が示す通り、対象の在り様について、プラスの要因を見つけることから、自身のいろい ろな意味においての保証を、少しばかり彼から得たいというエゴから生まれており、その根底に「利害」が潜むのである。
(貴方がもし誰かを信頼しているのなら、その信頼を能く観察してみることです)
 そして先にも話したように、エゴ体が掲げざるを得ないテーマは「孤独」「不安」であり、貴方達は常に「信頼」できる「対象」を得ることを必要と感じ、又それに対し努力するのであるが、これはある特殊な場合を除いて、殆ど蜃気楼を追い掛けるようなものなのである。
 さて我々の世界においての「信頼」だが、貴方達の世界にこれを真に表す言葉を見つけだすことは殆ど不可能だ。これはエゴ体から生まれるものではなく、共に大きな流れの中に在るという「実感」から生まれるもので、「利害」のようなものとは関わらないのである。従って貴方はどのような思惑も持つ必要が無く、余計なエネルギーを消費させる必要は無くなるのである。これは多くの仕事の能率を上げ、又精神的ストレスから解放されることを意味するのであるが、ここにおいて貴方は健康的社会に不可欠なものが何であるか理解した筈だ。

 神について
 私がここで話そうと思っているのは、貴方達の世界にある「神」或いはその様な存在のことである。
 実際には彼らを「神」と呼ぶのは適当でないのだが、地球において、その様な高いレベルにある意識体が、必要と認めている仕事(主にバランスに関わる仕事)を行っていることは確かである……が、彼らに対する貴方達の姿勢は間違っており、貴方達は彼らが養父母であるかのように依存し、多くを求めようとする。
 彼らのレベルにおいては、既にエネルギーの波をある程度操作する事が可能となっており、それがある場合に「奇跡」という形で現れることから、彼らの名前が大きなグループの中心に置かれることは珍しくない。
 だが先にも話したように、彼らは「仕事」をしているのであり、それは飽く迄も「絶対」に向かうためのプロセスから現れる行為なのである。
 地球レベルの意識体は、その殆どが「波形(現象)」のみに囚われており、そのレベルからでしか彼らを見ることが出来ず、その結果「依存」のみが貴方達に現れるということになるのである。
 彼らはその現象に対処する一つの方法として、貴方達に恐れの心と報酬を要求するのであるが、実際には彼らは貴方達からの報酬になど何の魅力も感じてない筈なのである。供物、儀牲、教会、社、エゴレベルの敬い等、それらの全てにおいて彼らは既に卒業しており、彼らが真に求めるものは、そのような次元のものではあり得ないのだ。
 彼らが報酬を、又恐れの心を貴方達に要求するのは、単に貴方達を「依存の権化」にし、「停滞」させることを避けるためである。
 さて、波形世界(現象世界)に住む貴方達は、彼らに対する敬い又恐れの心から、彼らに気に入られるような存在になろうと努力する。
 これはそのレベル上ごく自然のことであり、又大きな流れに沿うものでもあるのだが、一度意識が「波形」から離れ、それを現しているエネルギーに向き始めると、全く別の存在であった彼らが、実際には貴方の隣にいた事に気付くようになるのである。
 そして彼らは単に、貴方の道の先を行く人々であったことを知るのだ。

 以上は一九九〇年より始まったメッセージですが、その後プレアデス人エリーナさん、オリオン星のクリエさんなどからも認識・理解のためのメッセージを沢山頂いています。


#この人以外はキャラ作りすぎの感が...チャネリングは初めのうちが旬で、不特定多数への影響が増すと停止したり変容する傾向にあります。あ、この本自体は研究資料ですから(^^;;




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