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一九八〇年に起きた韓国の光州事件にからんで金大中氏(現韓国大統領)が死刑判決を受けた際、米大統領選に当選し就任前だったロナルド・レーガン氏が“密使”を送って、全斗煥大統領を説得、減刑に同意させていた密約が明らかになった。交換条件は、ワシントンが全大統領訪米を実現させ、全政権の認知、支援を内外に表明することだった。韓国は実際に金大中氏を「無期」に減刑、レーガン政権は、約束通り初の外国賓客として全大統領を迎え、安保対話再開など関係強化を誇示した。金大中氏減刑をめぐって発足前のレーガン政権と全政権による政治的取引が明らかにされたのははじめて。
日米両国政府の元高官が十六日までに産経新聞に明らかにしたところによると、密使はカーター−レーガンの政権移行チームの外交問題責任者、新政権で大統領補佐官(国家安全保障問題担当)に就任したリチャード・アレン氏。八〇年十二月、カーター政権には内密にソウルを訪問、全政権の情報担当補佐官と会談し、「刑が執行されたら米の全政権への支援は不可能となる」と警告し、すでに一、二審で死刑判決を受けていた金氏の処遇に強い懸念を表明した。
韓国側は、減刑した場合の見返り条件として、(1)ワシントンで米韓首脳会談を開き、米が全政権認知を鮮明にする(2)米は北朝鮮に対して、韓国支援の姿勢を明確にする−などを提示、実現を求めた。前年十月の朴正煕大統領暗殺後の混乱のなかで、選挙の洗礼を受けず権力を手中にした全斗煥政権は、国際的な支持を得て政権基盤を固める必要に迫られていた。
米側はこの要求を受け入れることに決め、レーガン政権が正式に発足した翌日の八一年一月二十一日、全大統領の訪米招請を発表した。韓国大法院は翌々日、金大中氏に死刑判決を下したが、韓国政府は米との約束にしたがって同日、直ちに無期禁固への減刑を決めた。金大中氏はその後、健康上の理由もあって刑の執行を停止された。
レーガン政権が金大中氏への死刑執行回避に全精力を注いだのは、韓国の民主化後退を懸念したのと、実際に死刑が執行された場合、その背後で米が策動したという憶測を韓国国民の間に呼び、その反発を招いて在韓米軍の維持が困難になると判断したためだった。光州事件の際、在韓米軍は、民主化を求める学生らの抗議を強硬に封じた韓国国軍の行動を黙認、理解を示したといわれていた。ここで金大中氏の死刑が執行された場合、これも米国の示唆によるものと韓国国民が誤解し、反発がいよいよ高まることへの懸念もあった。
全斗煥大統領の訪米は二月二日に実現し、国賓訪問こそ見送られたもののそれに次ぐ待遇が与えられた。共同声明では「両国間に存在する協力、同盟、友好関係のきずな」を確認し、カーター政権時に中断されていた米韓安保協議、経済協議再開が盛り込まれた。米が全政権への全面支援を表明する形で終わり、これによって全斗煥政権は急速に政治基盤を固めていった。
【光州事件】
一九七九年十月の朴正煕大統領暗殺後、国軍保安司令官の全斗煥将軍を中心とする軍が力を強め始めた。八〇年春から、軍の台頭に抗議し民主化を求める国民の声が高まり、五月十四、十五両日、学生を中心に全国で十万人以上のデモが繰り広げられた。軍は十七日に強行鎮圧の方針を決め、野党・新民党の有力者だった金大中氏らを国家保安法、内乱陰謀罪などの疑いで逮捕、起訴した。
これを契機に、同氏の出身地、全羅南道の光州市で軍とデモ隊が全面衝突、軍発表で百八十九人が死亡する大騒乱事件に発展した。
全斗煥将軍は、光州事件後の同年八月、統一主体国民会議によって第十一代大統領に選出された。