Tweet |
黒点活動や、プレート活動が、安政時代と似ている!
らしいんで、、、
安政時代に、どのような地震が起きたのか?
安政の連続地震以前でM7級震災が発生したのは、1847の善光寺地震で、このときは善光寺詣での民衆をはじめ、1万人以上の死者が出ている。安政の始まる前々年、嘉永5年(1853年)頃から、日本列島は大規模な地殻変動期に入った。1853.1.26 嘉永善光寺地震(余震)M6.5が発生したのが皮切りに、翌年(1853.3.11)には、南関東、小田原でM6.7が発生、潰家1000戸以上、死者数十名、山崩れが多かった。これが、70年に一度、定例的に起こると言われる南海トラフプレート活動の端緒となり、安政連続大震災のスタートを告げる南関東地震であった。 そして、安政と年号が代わって、地球上最大規模の連続震災が始まる。以下、1999年版理科年表からの抜粋。
1854 12 23(安政1 1 14) 34.00N 137.80E M8.4
東海・東山・南海諸道:『安政東海地震』:被害は関東から近畿に及び、特に沼津から伊勢湾にかけての海岸がひどかった。津波が房総から土佐までの沿岸を襲い、被害をさらに大きくした。この地震による居宅の潰滅・焼失は約3万軒。死者は2千〜3千人と思われる。沿岸では著しい地殻変動が認められた。地殻変動や津波の解析から、震源域が駿河湾深くまで入り込んでいた可能性が指摘されており、すでに100年以上経過していることから,次の東海地震の発生が心配されている。
1854 12 24(安政1 1 15) 33.00N 135.00E M8.4
畿内・東海・東山・北陸・南海・山陰・山陽道:『安政南海地震』:東海地震の32時間後に発生,近畿付近ではこつの地震の被害をはっきりとは区別できない.被害地域は中部から九州に及ぶ.津波が大きく,波高は串本で15m,久礼で16m,種崎で11mなど.地震と津波の被害の区別が難しい.死者数千.室戸・紀伊半島は南上がりの傾動を示し,室戸・串本で約1m隆起,甲浦・加太で約1m沈下した.
1854 12 26(安政1 1 17) 33.25N 132.00E(M7.3〜7.5)
伊予西部・豊後・南海地震の被害と区別が難しい.伊予大洲・吉田で潰家があった.鶴崎で倒れ屋敷100,土佐でも強(感じた.
1855 3 15(安政 2 1 27)規模不明
遠江・駿河:大井川の堤揺れ込み,焼津で古い割れ目から水が噴出.
1855 3 18(安政 2 2 1) 36.25N 136.90E M6.8
飛騨白川・金沢:野谷村で寺・民家に破損があった.保木脇村で民家2軒が山抜けのため潰れ,死12.金沢城で石垣など破損.
1855 8 16(安政 2 7 4)規模不明
米子:城内で所々崩れ,地割れもあった.
1855 9 13(安政 2 8 3) 38.10N 142.00E M7.3
陸前:仙台で屋敷の石垣,堂寺の石塔・灯籠崩れる.山形県・岩手県南部・新潟県分水町・常陸太田で有感.
1855 11 7(安政 2 9 28) 34.50N 137.75E(M7〜7.5)
遠州灘:前年の東海地震の最大余震.掛塚・下前野・袋井・掛川辺がひどく、ほとんど全滅に近い死者があった.津波もあった.
1855 11 11(安政 2 10 2) 35.65N 139.80E (M6.9)
江戸および付近:『江戸地震』:下町で特に被害が大きかった.地震後30余ヶ所から出火,焼失面積は2.2km2におよんだ.江戸町方の被害は,潰れ焼失1万4千余,死4千余.瓦版が多数発行された.
1856 8 23(安政 3 7 23) 41.00N 142.25E(M7.5)
日高・胆技・渡島・津軽・南部:震害は少なかったが,津波が三陸及び北海道の南岸を襲った.南部藩で流失93潰106,溺死26,八戸藩でも死3など.余震が多かった.1968年十勝沖地震に津波の様子がよ似ており,もう少し海溝寄りの地震かもしれない
1856 11 4(安政 3 10 7) 35.70N 139.5E(M6〜6.5)
江戸・所沢:江戸で壁の剥落や積瓦の落下があり,傷23.粂川で家屋倒潰15という
この他、安政4年に伊予でM7.3、安政5年、飛騨でM7.1、安政5年に三陸沖でM7.5、などが発生した後、15年後の明治、山陰地震M7.1まで大型震災はない。