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腕利きで人望の厚い町医者が、モルヒネ注射で患者15人を次々と死に――。小説「ジキル博士とハイド氏」さながらの連続殺人事件が英国を揺るがしている。このほど終身刑を言い渡されたマンチェスターの元開業医ハロルド・シップマン被告(54)に対し、検察当局はさらに別の患者23人を殺害した容疑で立件を準備。警察は、死因に疑いがある100人以上の患者についても捜査中だ。中高年の女性ばかりを狙った動機は不明なまま。医師と患者の信頼関係の上に成り立ってきた英国の医療制度にも打撃を与えている。
●ジキルとハイド
シップマン医師が23年前から診療所を開いていたマンチェスター東部ハイド地区は、判決の衝撃に包まれていた。
「たまに尊大な態度も見せたけど、面倒見が良く、腕も確かだったのに」。息子が通院していた女性ウィランさん(76)は、事件が信じられないという。
「(有罪は)何かの間違い」「だれもが彼を愛していた」と、今も擁護する住民が少なくない。
白いあごひげと、眼鏡の奥の柔和な目。急患をいとわず、心配な患者には自ら出向いて診察した。だれもが「医師のかがみ」と信じたシップマン医師の裁判で明らかにされたのは、身の毛もよだつ犯行の数々だった。
自分の診療所や往診した患者宅で、血液検査などと偽って致死量を上回るモルヒネを注射。患者が息を引き取るのを最後まで見届けてから、親類や隣人たちに「急死した」と告げた。
死亡診断書の死因には「老衰」「心不全」などと記入。突然死に不審を持たれないよう、パソコンに保存したカルテには心臓病や糖尿病など架空の病歴を書き加えていた。
15人の被害者はいずれも、シップマン医師が1998年9月に逮捕されるまでの3年余りに死んだ患者で、夫と死別するなどして独り暮らしをしていた49―81歳の女性ばかり。往診を楽しみにしていた人も多く、先月31日の判決で終身刑を言い渡したフォーブス判事は「患者の信頼につけ込んだ、あまりに邪悪な犯罪だ」と声を震わせた。
●動機はなぞ
シップマン医師が逮捕されたのは、殺害された女性が残した遺書の遺産相続先を勝手に自分に書き換え、これを不審に思った遺族が警察に通報したのがきっかけだった。掘り起こした遺体からは大量のモルヒネが検出された。
しかし、お金が目的といえそうなのは、この1件だけ。被害女性の大半は決して裕福ではない年金生活者ばかりだった。
シップマン医師の自宅はハイド地区でも中産層が多い住宅地にある。窓は厚いカーテンで閉ざされたまま。逮捕されるまで妻、子供4人とここで暮らした。生活は派手ではなかったが、金に困った様子はなかった。休暇には家族旅行に出かけるなど家族仲も良かったという。
その彼を、何が連続殺人に駆り立てたのか。
裁判の過程で、シップマン医師は鎮痛剤として使われる合成麻薬の中毒になって76年に刑事処分を受けていたことがわかり、その後遺症だとする説、思春期に最愛の母親を亡くした心の傷を指摘する説などがあがっている。
本人は「患者は本当に、病気だったり薬物中毒だったりした」と主張して犯行を否認している。検察官も、彼が殺害する患者をいすにきちんと座らせたり、ベッドに横たえたりして息を引き取るのをそばで眺めていたらしいことから、「人間の生と死を自分の支配下に置きたいという欲求に駆られていた」と説明するのがやっと。真相はなぞのままだ。
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