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フリーメイソンとは何だろうか? 彼らは最も古く権威ある古代の宗教のエッセンスを自分たちが受け継いでいると自認している。だが、彼らの行う儀礼や象徴の解釈などは、ほとんどが近代の「礼典家」と呼ばれる人たちによって作り上げられたものなのだ。
参入者がロッジと呼ばれる集会所の中にある儀式の間に進み出る。彼はこれからフリーメイソンの究極の秘儀を授けられるのだ。2振りの短剣を与えられ、腰の周りにロープを結びつけられて、彼は「神殿」と呼ばれる儀式の場へと導き入れられる。参入者はあごひげを長く伸ばしていて、白いエプロンを着けている。この志願者を、コマンダーと呼ばれる人物が、複雑な幾何学図形が描かれた場所へ連れていく。キャンプという名の幾何学図形は、この位階の儀礼に特徴的なものである。キャンプは九角形の中に七角形があり、七角形の中に五角形がある。五角形の各辺の上にはT・E・N・G・Uという文字が1つずつ記されている。五角形の中には正方形があり、つづいてその中に三角形、円、そして図形の中心には点が1つ描かれている。これらの図形や文字の正確な意味はもはや失われてしまっていた。なぜなら秘密の意味はいつも儀式の中で、限られたエリートたちに口伝えで教えられていたからだ。
アメリカのフリーメイソン儀礼の研究家たちが口をそろえて「至高の天才」と称える、19世紀の礼典家アルバート・パイク(1809-1891)は、古代や東洋の神秘主義の研究をして、忘れ去られた象徴の意味を取り戻した。儀礼は再編成され、1865年の『メイソニック・レビュー』によれば、「隠された秘密の源泉から活力を得た」フリーメイソンの儀礼は、非常に魅力的なものになった。そのおかげで「スコット・ライト」というアメリカのフリーメイソンは、1000人に満たない構成員を30年あまりで12万5000人にまで増やすことができたのだ。礼典家とは「友愛結社」の複雑な儀礼の意味を研究し、編纂し、また改訂する理論家のことだ。
フリーメイソンの「古式公認スコット・ライト」(スコットランド儀礼)という位階制度の最高位である第32位階「王者の秘密の崇高な王子」(プリンス・オブ・ロイヤル・シークレット)の位階(古式公認スコット・ライトには最高大総監〈ソブリン・グランド・コマンダー〉という名誉位階があり、これを含めると33位階がある)はパイクによって新たに改訂されたものである。この位階を授けられる者は、「神殿」の中にいる「最高法院」(グランド・コンシストリー)のメンバーの承認を得なければならない。神殿に入ると参入者に質問が投げかけられる。
「罪人のようにこの聖域に入ってきた者よ、お前は誰か」
それに答えて参入者がいう。
「私は知恵を愛する者であり、自由、平等、友愛の使徒です。人類の解放のために働く人々と結束するのが私の希望です」
「お前の目的は何か」
「フリーメイソンの最高の目的に奉仕することです。つまり、人類の自由と安寧のために戦い、勝利するために力を尽くしたいのです。私の望みはこの最高法院の王子として承認していただくことです」
参入者は最高法院のメンバーといくつかのやりとりをし、2振りの短剣を取り上げられる。その代わりに彼には「フリーメイソンのナイトならびにプリンスの剣」を授けられる。水によって浄化された剣を新たに授けられた参入者は、周囲に控える「ロイヤル・プリンス」たちの一員となり、敵に立ち向かうようにと鼓舞される。アメリカの歴史学者マーク・C・カーンズの『結社の時代』(邦訳・法政大学出版局刊)によれば、最高法院のメンバーたちは、最後にこういってロイヤル・プリンスたちを励ます。
「さあ、兄弟よ、最後の戦役に赴くがよい。我らは汝の成功を願って祈りを捧げるとしよう」
こうした友愛結社の儀礼は100年前のアメリカで大流行した。現在からみると、芝居がかって秘密めかしたイニシエーション(参入儀礼)のように思えるが、当時の男たちにとってはある程度の財産を費やしても参加する価値があった。彼らはいったいフリーメイソンに代表されるような友愛結社にどんな魅力を感じていたのだろう。そして言葉にはできない儀礼と象徴の秘密を解き明かしていった礼典家たちの動機とは? はるか古代にさかのぼると彼らが主張した秘密儀礼の本質とは何だろうか?
カリオストロ、気炎を吐く
カリオストロ伯爵ことジュゼッペ・バルサモ(1743-1795)は、イタリア、シチリア島のパレルモで生まれた。彼は少年時代、金銀細工師のマラーノという人物に、「金を都合してくれたらおれが魔術を使って、膨大な宝物を掘り出してやろう」ともちかけた。約束の晩に仲間を潜ませておいて、儀式を行うふりをしながら彼は仲間に合図を送った。カリオストロは物陰から飛び出した仲間たちと一緒にマラーノを打ちのめすと、彼が用意してきた金を取り上げたのである。こうした「どうしようもない不良少年」だったカリオストロは、1777年、ロンドンでフリーメイソンに入団している(ポール・ノードン『フリーメーソン』邦訳・白水社文庫クセジュ)。このとき彼が、自ら会得した錬金術とメイソンの組織の力を結びつけて大きなことをしてやろうと考えていたとは、誰も思わなかった。
フリーメイソンはそもそも「自由な(フリー)石工(メイソン)」の集まりといった意味で、起源をたどれば古代ローマ時代の石工の組合にさかのぼるともいわれている。フリーメイソン研究家のW・カーク・マクナルティは『フリーメイソン 儀礼と象徴の旅』(邦訳・平凡社刊)の中で、「実践的フリーメイソン」と呼ばれる職人の組織から、隠された友愛団のようなものを経て、さらにルネサンス時代の神秘主義の影響を受け、近代の「思弁的」フリーメイソンが誕生したという流れが自然だと述べている。ルネサンス期の神秘主義の伝統は、イギリスでは王立協会の前身であった「不可視の学院」(インビジブル・カレッジ)によって保たれたのではないかと考えられる。そして17世紀の半ばごろまでには「思弁的」メイソン、つまり哲学や神秘思想に興味を持つ裕福な人々が参加するようになり、1717年には最初の「公認された」(石工職人でない)フリーメイソン組織がグランド・ロッジを結成したのである(グランド・ロッジとはロッジの連合体のこと)。
フリーメイソンの起源の1つとして、薔薇十字団が考えられるという説は19世紀のイギリスの作家トマス・ド・クインシー(1785-1859)が1824年に発表した『薔薇十字団とフリーメイソンの起源に関する歴史的批判的探究』で唱えた。薔薇十字団は伝説のドイツ貴族クリスチャン・ローゼンクロイツ(1378?-1484?)が作ったといわれる団体で、イスラム経由の東方からの神秘的な知識をキリスト教的に解釈しているのが大きな特徴である。
西洋神秘思想史の研究家である吉村正和によれば、薔薇十字運動とはヨーロッパが錬金術、医学、数学、天文学などのアラビア文化を懸命に取り込もうとしたものであったという。この薔薇十字運動から精神的な錬金術、つまり自分を高め、生まれ変わるための変容の学問
である「薔薇十字錬金術」が生まれ、数の神秘を通じて創造の神秘に迫ろうとする「薔薇十字数学」が生まれてきた。だが、ドイツに「黄金薔薇十字団」という秘密結社が誕生したのは1750年ごろである(リュック・ヌフォンテーヌ『フリーメーソン』邦訳・創元社刊)から、1717年にイギリスで初めて組織化されたフリーメイソンに直接の影響を及ぼしたとは考えにくい。
さて、並はずれた行動力を持っていたカリオストロはヨーロッパ中を駆け回り、貧しい人たちを無料で治療したり、錬金術の公開実験を行って金を合成してみせたり、予知を行ったりして名声を高めた。しかし、彼は持ち前の反抗心と自惚れの強さのために、権力を握っていた貴族たちから「無教養な山師」呼ばわりされた。それでも彼は野望を捨てず、18世紀の後半には世界中で13万7675のロッジと2130万人の構成員がいたフリーメイソンを、「東方エジプト・メイソン団」(エジプト派メイソン団)によって統一しようと考えた。彼は霊媒などを使った「魔術」とフリーメイソンの儀礼を結びつけて、信じたがっている民衆の人気取りに走ったのである。
1789年にフランス革命が起きたとき、「反キリスト」とまでいわれていたカリオストロ伯爵はカトリックの総本山であるローマに滞在していた。聖職者や支配階級に属する者にとって、カリオストロはフリーメイソンという組織を使ってそれまでの支配体制をくつがえそうとしている危険な活動家だった。1789年12月27日、カリオストロは自分の妻から「異端」の告発状を出され、教皇自らの主催する異端審問会議の決定により憲兵に取り押さえられた。
被告カリオストロことジュゼッペ・バルサモの容疑は「魔術的実践、および教会法が禁じるありとあらゆる涜聖的行為を行い、神をないがしろにするフリーメイソンに加入した罪」であった。サン・レオ監獄に閉じ込められたカリオストロは、それから5年目の1795年8月26日の深夜、放り込まれた井戸の中で息をひきとった。このとき52歳と2カ月28日だったと「埋葬記録台帳」にある。
アルバート・パイクの冒険
フランス革命の余波がヨーロッパ全土を覆い尽くしたのち、60年ほどしてアメリカで「眠っていたような」スコット・ライトのフリーメイソンが息を吹き返した。19世紀の礼典家たちは結社の中で行われる儀礼の魅力を復活させることに血道をあげていた。儀礼の持つ美しい魅力こそが結社の構成員を増やすからである。事実1896年の統計によると、アメリカの成人男子の総人口1900万人のうち550万人あまりが何らかの友愛結社に所属していた。そうした友愛結社の中には、秘密儀礼を持った政治結社「ノウナッシング」、農民を儀礼でまとめた「農民共済組合」(グレンジャー)、会員に保険を提供する「労働者連合古代結社」、友愛儀礼を伴った労働組合「労働騎士団」などがあった。これらの友愛結社のほとんどがフリーメイソンから流れた礼典家たちによって組織されたものであり、ざっとながめるだけでも男性中心の社会の文化生活のいたるところに結社が存在していたことが分かる。
ちなみに、礼典家たちがどれだけ魅力的な儀礼を作ろうと努力していたかは、「最高部族ベン=ハー」という相互保険の秘密組合が存在したことでも分かるだろう。よくできた冗談ではない。1880年にルー・ウォレスが発表したベストセラー小説『ベン=ハー』に霊感を受けた礼典家が儀礼を編纂し、あの有名な戦車レースを再現することによって、「何十万という男たちがこの結社に参加」したのである。19世紀のアメリカの男性は、単なる社交クラブや避難所ではない、非日常的な儀礼の空間の中にこぞって参加していたのである。また、礼典家たちはほぼ一致して「儀式の魅力は理屈を越えたもの」であることを認めている。そんな礼典家たちの中で、アルバート・パイクの仕事は注目に値する。
少年時代のパイクは並はずれた記憶力を持ち、やすやすとギリシア語やラテン語を習得した。ハーバード大学に優秀な成績で入学したのだが、在学中に品行が悪いことを大学側にとがめられた。謝罪すれば済むことだったのだが、パイクはこの機会に大学の堅苦しい雰囲気から解放されて、自分の冒険心を満足させようと考えていた。結局、ハーバード大学から放校処分を受けたパイクはニューメキシコヘ冒険の旅に出た。それから教員、新聞記者、法律家、政治家と職を変えながら頭角を表し、1846年には義勇軍を組織してメキシコとの戦いに出向いた。
南北戦争(1860-1865)が始まると、パイクは南部連邦でインディアンの連隊を指揮した。しかし、アーカンソー州ピー・リッジの戦闘で、彼の配下だったインディアン兵が戦闘中に北軍兵士の手足を切断して殺害するという事件があったために、パイクは汚名を被ることになった。南軍からは命令に従わない反逆者だとされ、北軍からは味方の兵士を惨殺させた司令官だとされたパイクは、自宅に戻り、重要な書物と原稿を荷車に積んで逃亡した。そのときすぐそばには、彼が金を自宅に隠しているといううわさを聞いて北軍の兵士たちが迫っていた。パイクは自宅に火をつけて山中に逃げ込んだのである。このとき彼が携えていた書類こそ、スコット・ライトのフリーメイソンがのちに採用することになる新たな儀礼についての原稿とその研究書だった。
パイクは古代の経典(グノーシス派の文献、ゾロアスター教のアベスタ、バラモン教のベーダなど)を読み漁り、なぜ正しいと信じて行動した自分が迫害されなければならないのか、なぜ不正義がまかり通るのか、必死になって答えを探した。そして彼が到達した結論は、「逆境とは真理の矛盾したメッセージを人が受け入れるために通過しなければならない暗黒」であるというものだった。パイクはゾロアスター(ゾロアスター教の教祖)の言葉にならって「人間が格闘するのは人生の矛盾を取り除くためではなくて、その矛盾を内面化するためである」と考えた。そして、スコット・ライトの儀礼にこの考えを反映させ、儀礼を通して参入者たちが心の浄化や極端なものの調和を学べるようにしたのである。
パイクはフリーメイソンの儀礼を研究することで「完全な男性像」をつかまえて、参入者たちに伝えようとした。1868年以降、彼はスコット・ライトが用意した部屋に閉じこもって、1891年に没するまでプロの礼典家として隠者のような生活を送った。
19世紀のアメリカで盛んだった結社の役割についてカーンズは、パイクのような礼典家たちが社会の不安を敏感に感じ取り、儀礼という形でその不安の吐け口を用意したのだと述べている。カリオストロは抑圧されていたフランスの大衆の、そしてパイクは「男らしさ」に不安を感じるアメリカの仲間たちの「心理学的な意味での一種の避雷針」だったのだ。