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投稿者 gaattc 日時 1999 年 11 月 03 日 04:43:53:

回答先: 転載: 国際情勢セミナー年間研究レポートの送付について 投稿者 gaattc 日時 1999 年 11 月 03 日 04:37:33:

第1章 中国共産党十五全大会と中台関係

はじめに−−「ネオ・ナショナリズム」と「多極化への復帰」の時代
 
 21世紀は「中国の世紀」といわれるが,そうした中国問題の重要性は,西太平洋の沿海地域に及んだ工業化の波が中国の経済成長を促進するというベクトルとヨーロッパ,カスピ海周辺から陸路を経て中央アジア,ロシア極東部,中国内陸地帯へと及ぶもう一つの新しいベクトルとの接点にアジアの大国,中国が存在するという視点を加えたときに,はじめて地球規模の中国問題の重要性とその新たな意味合いが浮上してくるといわざるを得ない。言うまでもなく,この問題は,最近の日本が推進し始めた「ユーラシア外交」とも関連しており,1997年の「三つの大事」といわれたケ小平の死,香港返還,中国共産党十五全大会といった難題をなんとかくぐり抜けた江沢民政権が,一連の米中,中露,日中の首脳会談を展開してきた点とも論理的には符合する。
 さらにこれは,アメリカによるNATOの東方拡大がロシアや中央アジアの旧ソ連の分離主義とかかわり,ひいては「平成のシルクロード」を経てアジアの大国,中国のナショナリズムに根ざした「華夷秩序」に出会うことになるという,「ユーラシア国際システムの誕生」とそこでのパワー・バランスという側面ともかかわっている。従来われわれは,21世紀を「アジア,中国の世紀」と主張し,東南アジアの拡大ASEANを含めた西太平洋地域の成長という側面に目を向ける傾向が強かった。もとよりそうした視点が重要であることはいうまでもないが,冷戦後の今日,21世紀に向けた世界新秩序を模索するにあたって,今一つ新しい国際システムが中央アジアを中心にしてグローバルなかたちで出現しつつあることに対しても,目を向けておく必要があろう。

1 中国共産党十五全大会の分析−−人事を中心にして

 中国共産党十五全大会は,江沢民体制の今後を占ううえで多くの示唆を与えている。党のナンバー3の実力者,喬石を排除したことは,ナンバー2ながら総理の座を任期満了で降りなければならない李鵬の全人代常務委員長ポストへの転出を可能にした。朱鎔基副総理がナンバー3の座に格上げされたことは,彼が李鵬の後継総理であることを印象づけた。政治局常務委員のニューフェイスは尉健行(党中央規律検査委主任)と李嵐清(副総理,前対外経済貿易相)の2人にとどまり,高齢のため退任した劉華清中央軍事委副主席に代わる軍人の常務委入りはなかった。新たな江沢民指導体制は,素直に受け取れば反腐敗の綱紀粛正(尉健行)と国際経済重視(李嵐清)で内政,とくに経済重視の姿勢を鮮明にしたといえる。
 党大会が始まるまで安定優先がうたわれ,人事も現状維持が基調とされていただけに,喬石が党中央委から外されたことは内外に驚きをもって受け止められた。喬石といえば,「中国のアンドロポフ」とも称されたように,党の公安部門,政法部門,組織部門に長く携わってきた実績をもつ。さらに上海をベースにした党活動という点では,江沢民国家主席の先輩にあたる。党歴でも政治実績でも喬石にはるかに劣る江沢民がケ小平の後ろ楯のない今後5年の指導体制を形成するうえで,喬石の存在が煙たかったことは想像に難くない。総理退任後の処遇で,人事権者・江沢民に擦り寄った李鵬はすでに政治的障害になる存在ではなく,江沢民は今回の人事で権力基盤をさらに堅固にしたといっても過言ではないだろう。
 それに対して政治路線については,まったくといってよいほど新味に欠ける党大会であった。ケ小平理論を共産党の綱領に書き加えたことが象徴するように,ケ小平路線の全面継承が確認されたに過ぎない。北朝鮮が金日成死去後も「遺訓政治」を標榜したように,江沢民もまさにケ小平の「遺訓」を政治指導のカナメとしているように見える。江沢民にとって無理もない選択であったかもしれない。指導部にコンセンサスを求めるなら,ケ小平路線の継続に異を唱えるものはいないし,ケ小平によって党総書記に引き上げられた江沢民としては,ケ小平の不在が現実のものになったからといって,掌を返すようにケ小平路線を見直すわけにもいかなかったはずだからである。
 しかしながら,江沢民国家主席が人事で権力基盤を固めたこと,ケ小平路線の継承を打ち出したことの国際的文脈を考えてみると,また違った側面が見えてくる。江沢民体制が安定の度合いを高めたことは,国際社会における交渉相手としての信用度の向上につながるし,ケ小平路線の継承は,「改革・開放」というこれまでの中国政治の継続性が確保されたことを意味する。さらに言えば,江沢民がケ小平理論の解釈権を独占することによって,今後はより柔軟な政策運営が可能になる可能性さえ否定できない。中国の指導者は,権力基盤が弱いときには原則固執の強硬姿勢を取り,強いときには原則を柔軟に運用する傾向にあるからである。
 そうした意味で,江沢民政権の今後が順風満帆であるのかといえば,そこには大きな問題がのしかかっている。言うまでもなく国有企業改革である。今回の党大会の焦点の一つは,社会主義市場経済における企業の所有形態についての江沢民による政治報告での言及があった。すなわち大胆な株式制の導入であって,株式を国や集団が保有していれば社会主義の原則である公有制は守られるという論理を展開した。その論理が正しいかどうかは別にして,国が丸抱えのまま赤字を累積するばかりの国有企業を,株式制導入によって整理・統合しなければならないという危機意識がくみ取れる。国家財政収入ではまだ国有企業の果たす役割が大きいにもかかわらず,すでに国内総生産(GDP)のシェアでは国有企業は30%を割り込んでいる。国際競争力に欠ける国有企業を助けるために,外資企業への優遇政策も見直しを迫られているのが現状であって,赤字国有企業を整理するために大量失業の発生さえ覚悟しているのが江沢民新体制なのである。だからこそ,江沢民は人事優先で権力基盤固めを最優先したと解釈することも可能である。

2 新鮮味を欠く21世紀の「責任大国」・中国
 
 ところで,21世紀に向けた江沢民政権の経済面での路線は,限りなく資本主義に近い「脱イデオロギー」化した「ケ小平理論」としての「社会主義市場経済」の追求といってよいだろう。しかしながら,既述のように,国有企業の改革と株式制の導入といった経済改革によって,中国経済が今後も順調に高度成長を継続するという保証はなく,そうした難題に加えて以下に述べるような多くの国内問題を抱える江沢民政権が体制の安定を維持するためには,中国の文化,文明,民族を基礎にした「国益」概念の再定義たる古くて新しい「大中華ナショナリズム」(「大漢民族ナショナリズム」)に傾斜する可能性が高い。その意味で,現在の中国は,地球規模で進行する「国際政治の伝統的多極化への回帰」「国家の分裂」「世界経済のグローバリゼーション」に対して,民族,文明に基づく「国益」追求としての「ネオ・ナショナリズム」を志向しているということもできよう。
 そうした状況を,最近の江沢民政権が展開してきた外交面からより 具体的に問題を拾い起こしてみると,97年10月末に実現した江沢民訪米による米中首脳会談,続く11月初旬のロシアのエリツィン訪中による中露首脳会談,そしてその2日後の李鵬訪日による日中首脳会談といった一連の首脳外交が,日米中露の「四極構造」によるパワー・ゲームを推進し始めたとの議論がわが国でも高まっている。
 確かに,江沢民訪米は,中国の国家元首の訪米としては85年の李先念国家主席(当時)以来まさに12年ぶり(最高実力者としての訪米は72年のケ小平以来)であり,この訪米にかける江沢民政権の意気込みはかなりのものがあった。すなわち,経由地ハワイでギターをひきならし,リンカーンの演説を英文で暗唱しながら米国建国の地,ウイリアムズバーグを訪れるといった江沢民国家主席のパフォーマンスは,米国製航空機の購入などの経済外交とともに,96年3月の台湾の総統選挙と中国の軍事演習で冷え切った米中関係を改善するものとして,中国側の積極性を示すに余りあるものがあった。
 そして,そこでのクリントン大統領との共同声明で唱われた「建設的かつ戦略的パートナーシップ」は,米中ホットラインの開設とともに,江沢民主席の悲願がかなったものといってよいだろう。ただし,他方において,江沢民主席がハワイの真珠湾を訪れて第二次大戦中の米中同盟関係と日米離間戦略を示唆し,毛沢東の揚子江遊泳に似せてハワイで泳ぎ,中国の最高指導者としての自己の健康状態の良さを内外に示すあり方は,中国指導層の旧態依然たる姿でしかなく,21世紀の大国中国の最高指導者として新鮮味に欠けるものがあった点は否めない。
 一方,ロシアのエリツィン大統領を北京に迎えた江沢民国家主席は,両国間の「戦略的パートナーシップ」をうたいあげるとともに,懸案であった中露国境4200キロの国境線を原則的に画定した。ただし,ここでは,黒瞎子島ら三島の領有権が棚上げされ「共同利用」もなく,それ以外の国境線上の島々では基本的に中国側が主権を回復し,期限のない「共同利用」を可能としたという点で,これまた中国側の一定程度の成果であったということができよう。
 これに対して,その2日後に日本を訪れた李鵬首相は,江沢民主席が対米,対露関係で示した「戦略的パートナーシップ」の語を使用せず,むしろ「二国間の友好と子々孫々まで続く歴史問題」といったこれまた旧態依然の対日発言を繰り返した。言うまでもなく,日本を含めて欧米先進民主国が外交面において期待するのは,21世紀における水平的な国家間同士の「多国間協力の時代」に参画する「責任大国」としての中国である。だが,既述のように,中国はアジアの周辺諸国に対して,依然として「大漢民族ナショナリズム」に基づく階層的,垂直的な「中国的世界秩序」(「華夷秩序」)における周辺諸国への影響力の行使を企図しているかにみえる。21世紀に向けた中国をリードする江沢民政権の外交面での課題は,こういった方向性の是非にあると言わざるを得まい。

3 内政で難題を抱える江沢民政権
 
 他方,内政面においては,前記の「三つの大事」(ケ小平の死去,香港返還,共産党十五全大会)をなんとか乗り切った江沢民政権は,短期的にはその安定度を増しているかに見える。しかし,江沢民主席が十五全大会の政治報告で「社会主義の前途と運命にかかわる問題を解決することのできる理論はケ小平理論以外にない」として,ケ小平の名前に60回近くも言及したとき,そこにはケ小平理論の「絶対化」の傾向すら見てとることができよう。江沢民政権にとって,いわゆる「ケ小平理論」は,もろ刃の剣である。すなわち,江沢民主席がこうした「ケ小平理論」の強調によって中央レベルでの権力基盤の確立を計ろうとするとき,彼の最大のライバルである喬石全人代委員長や軍幹部の中から,「江沢民は毛沢東,ケ小平らのように個人崇拝をやろうとしているのではないか」との不満が出始めているといわれる。
 また,すでに多くの外部の観察者が指摘しているように,かつて「社会主義初級段階論」を提起した趙紫陽前総書記や,92年のケ小平の「南巡講話」につづく「第三の思想解放」を進める江沢民主席には,「公有制の実現形式は多様化してよい」といった発言はあっても,現時点で「第三の思想解放」と呼ぶべき21世紀に向けた彼自身の新しい理論,路線が備わっているわけではない。十五全大会で現実化した喬石全人代委員長の引退は,「自発的引退」との説もあるが,別の情報として,夏の北戴河会議で江沢民主席が薄一波らの長老と根回しの末,「70歳以上は退くべきである」との世代交代論を突然喬石委員長に突きつけ,喬石は反論できずにやむなく引退を認めたという説もある。
 興味深いことに,ケ小平がまだ影響力を発揮し得た94年ころ,いわゆる「上海人脈」で中央での自己の政治的基盤を固めようとした江沢民主席に対してケ小平は,「人事のバランスが必要である」として江沢民主席を叱責したことがあった。しかし,そうはいっても,毛沢東やケ小平ほどのカリスマ性をもたない江沢民主席にしてみれば,多くの権力者にありがちなように,その政治的基盤を固めるにあたって自己の人脈に依存する方向に傾斜することは避けられないであろう。また,江沢民主席にとって幸運であったことは,自己の権力強化のために必要な地方の党,軍指導者の入れ替えといった人事権の行使によって政治的基盤を固める時間的ゆとりが,ケ小平の退場までに与えられ,そこでは,ケ小平の遺産の継承と同時に漸進的な「脱ケ小平化」のプロセスを進めることを可能とした点である。
 一方,現在の中国における最大の懸案事項ともいえる国有企業の改革は,北戴河会議以前の5月の時点で総理昇格が内定していた朱鎔基副総理によって進められることになるが,その朱鎔基周辺には,「経済政策に通じた実力者」という巷間伝えられるインフォメーションとは異なり,彼が中国経済の量的拡大と彼個人の「拝金主義」のゆえに,インフレ経済をある程度容認するといった声も存在する。確かに,現在の中国経済の高度成長は,量的拡大に過ぎないものであり,もし成長率が3%からゼロ成長となったとき,社会が大きく混乱するという見方もある。また,国営企業改革は,所有権と経営権の分離が進められ,その将来を楽観視する向きもあるが,現在の国有企業改革は,企業内部の共産党委員会,党組織でなければ物資の買い付けすら容易でないという実状から出発しなければならないのであり,改革の将来には暗雲がたちこめている。
 そうしたなかで,中国社会の現状は,北京市の二環路より外側の治安の悪化を武装警察がコントロールできず,たとえ軍の50万人削減で120万人といわれる武装警察,軍関連企業,民兵などは,軍に断固とした影響力をもたない江沢民主席にとっての「私兵」と化す可能性もある。同時に江沢民主席にとっての軍の存在は,台湾向けの軍事演習によってますます明らかとなった国防近代化や兵器体系の必要性を軍がこれまで以上に強く主張し,江沢民主席もそれに耳を傾けざるを得ないという傾向が強まるであろう。
 さらに,もう一つの不安定要因たる少数民族による 独立運動の激化は現在,@ウイグル Aチベット B朝鮮民族 Cモンゴル−−の順で状況の深刻さが見られ,その他の内政問題としては,中央の威信の低下と中央・地方の綱引き,特権幹部の汚職,沿海地区と内陸地帯の格差,開発優先によって生じる耕作地の減少と食糧事情の悪化,農民の抗議行動,1億といわれる潜在的失業者の存在,「民主化」要求運動再燃の可能性など,挙げればきりがない状況である。
 そうしたなかで,前記のように一方で「ケ小平理論」を継承しながら他方において「脱ケ小平化」を進める江沢民主席は,北京市を「独立王国」と化していた陳希同党書記の更迭に見られるように,最後はケ小平ファミリーにつながる特権幹部に対して断固たる「反腐敗闘争」を展開し,中国人民の彼に対する支持の声に耳を傾けながら,いずれは「6・4天安門事件」の再評価につながる重要なカードを手中に収めているであろう。したがって,各種の不安定要因を抱えながらも江沢民政権は,中央政府の権限をマクロな経済政策と国防,外交といった領域に限定し,地方に権限を下方する形で緩やかな連邦制を志向するとき,21世紀に向けた楽観的シナリオとしての「中国の実験」の軟着陸を展望することも可能であるが,それは,中央の威信の低下と社会の弛緩状況,すなわち内側からほころびる「縮小する中国」という将来展望と背中合わせとなっている。
 そして,外部の観察者は,江沢民世代に続く「文革世代」の登場を,「もはや,文革のようなものを二度とやりたくない」と考える21世紀の新たな中国社会の担い手として期待する向きも存在するが,彼らは,むしろ政治に無関心であり,文革のゆえに実現できなかった自分たちの「拝金主義」に躍起となり,上司の指示のもとに集団で動くのを嫌がる性癖をもつともいわれる。以上のように見てくると,江沢民政権が21世紀の「責任大国」中国を支える国内的基盤を有するのか否か。楽観的評価を下すには余りにも難題を抱えすぎていると言わざるを得まい。

4 台湾の内政・外交−−国家発展会議から第二段階の憲政改革
 
 ところで,最近の台湾における李登輝政権の重要な政治日程は,96年末の国家発展会議で第二段階の憲法改正のための与野党コンセンサス作りを行い,それにもとづいて97年7月に国民大会で憲法改正を実現したこと,さらに香港返還で生じる台湾の対香港,対中政策を処理しながら,9月に李登輝総統が米国経由でパナマ運河国際会議に出席し,11月の中国共産党十五全大会を江沢民政権がどのようにくぐり抜けるかを見極め,11月末の台湾地方首長選挙を経て,98年1月末の「春節」(旧正月)での江沢民「八項目提案」3周年記念において,中国側の中台関係に関する何らかのシグナルが提起されるか否かを冷静に見守るという点に集約された。そして,そのプロセスは,以下のようなものであった。
 まず,上記の国家発展会議は,96年3月の総統直接選挙での李登輝総統の当選あたりから総統府周辺において考慮されはじめ,現実には12月23日から28日にかけて台北で開催された。会議参加者は,政党代表が42名,民意代表が37名,行政府代表が33名,学者・専門家その他の有識者代表が57名からなる169名であり,会議の主たるテーマは「憲政改革」「経済発展」「両岸関係」の3項目であった。この会議は,反李登輝勢力である新党にいわせれば,「6年前の国是会議の焼き直しで,同じことの繰り返し」に過ぎない。このため,新党は閉会前日に離脱したが,台湾人を中心とする与党国民党と最大野党の民進党が第二段階の憲法改正のためのコンセンサス作りとして,前記の3項目に関して議論し,ある程度の意見の一致を見たことは重要であった(「国家発展会議:共同意見」)。
 そうしたなかで台湾では,国家発展会議の同意事項を基礎にして97年7月の憲法改正に向けた動きが活発化したが,それにいたる春,初夏の時点で,内閣を揺るがす豚肉の口蹄疫事件と治安の悪化という問題が表面化した。すなわち,台湾の行政院農業委員会は3月20日,台北,桃園,新竹などの九つの県と市で豚に口蹄疫が発生したことを明らかにし,豚肉の輸出を停止する方針を決定した。こうした事件が発生したのは,台湾では68年ぶりであり,台湾内部では,その原因として中国,タイなどからの病原菌の持ち込みなども噂された。さらに,台湾内部の治安悪化については,4月14日,台湾のタレントである白冰冰女史の長女が通学途中で誘拐され,同月28日に惨殺死体となって発見されたことに表象された。こうした治安の悪化は,香港,中国,台湾のヤクザ社会「黒道」の暗躍として台湾住民の政府に対する不信感を増大させていたが,この少女惨殺事件は台湾社会の暗部を映し出す象徴的出来事として政治問題化し,内閣を揺さぶった。
 そして,そうした治安の悪化に対する台湾住民の抗議行動は,96年5月初旬の李登輝政権発足以来最大規模といわれる新党,民進党,自発的住民の参加による2万3千から延べ5万人のデモ(示威行動)へと発展し,先の口蹄疫事件と相まって,関連閣僚の農業委員会主任委員,内政部長が責任を取るかたちで辞意を表明し,野党から辞任を迫られていた連戦行政院長も一度は辞意を表明した。ただし,李登輝政権は,7月の憲法改正後のより大幅な内閣改造を予定していたため,この時点では「連戦院長を守って,閣僚を切る」との言葉通り,前記の関連閣僚と内閣スポークスマンの新聞局長更迭を含んだ内閣の一部改造が実施された。
 こうしたなかで,前記の国家発展会議の合意にもとづき,7月1日の香港返還前を目指していた国民大会での第二段階の憲法改正が7月18日にまでずれ込み,以下のような内容の改正案が採択された。すなわち,この段階での台湾の憲法改正は,改正前の憲法が,総統の行政院長(首相)指名に対して立法院の同意権を必要とし,同時に議席数での与党国民党と野党(民進党ならびに外省人系の親中国的な新党)の議席配分で与党がかろうじて過半数を確保している伯仲国会の現実があり,その立法院の同意権を削除し,総統に行政院長任命権と国民大会解散権が与えられることによって,総統の権限をより強める「総統制への傾斜」(フランス式に類似する)を意味した。さらに,立法院に対しては,総統,副総統の解任案が与えられ,立法院の定数を164から225に増やすことも決定された。
 また,懸案となっていた台湾省の簡素化については,省が行政院の下で県を監督し,省主席と省議員の選挙は,98年12月の任期満了をもって廃止し,今後は9人の省委員をおき,そのうち1人を省主席とし,省委員は行政院長の選出,総統の任命によるものとされた。台湾省の簡素化については,李登輝政権の側からすれば,中央政府と省政府が人口の面で85%,土地面積の面で95%重複しており,台湾が以前から有していた虚構をはぎ取ることになるが,それは大陸からの自立化を強めるがゆえに,親中国派の新党から強い反対の意見が提出された。また,それまで,李登輝総統の片腕として手腕を発揮してきた国民党の宋楚瑜省主席も,李登輝政権の地方議会の改革の速度が速すぎるとして,李登輝総 統との摩擦が生じ,7月16日の時点で,98年末の任期満了までは勤務を全うするが,その後は政界を引退すると発表した。
 こうした憲法改正の地方への徹底化は,地方議会での国民党政治家が蒋介石の台湾移転以来の古い金権政治の体質をもち,そこに中国,香港のヤクザ組織の手が伸びて,前記のような治安の悪化を招いていることに対する地方政治の改革という側面をも含んでいる。一例をあげれば,桃園県の県長(県知事)がこの黒いヤミ組織によって暗殺されたが,その補欠選挙では「台湾ナショナリズム」を標榜する野党民進党候補・呂秀蓮が当選し,国民党の古い体質に対する台湾住民の改革加速化の要求はますます強まった。さらに,李登輝政権が推進する第二段階の改革は,マスコミ,すなわち新聞関係にも及び,国民党機関誌『中央日報』の社長交代などで,同紙以外に『自由時報』『自立早報』『民衆日報』などが,台湾住民の意思を代表するリベラルな新聞へと変化し,テレビ関係では,台湾の指導層と民意を反映する「民視」(民間出資のテレビ)が5月中旬から開局されて視聴率を上げているのに加え,司法,教育といった旧来のあり方を改造しないかぎり,将来は政権が国民党から民進党へと移行する可能性を否定できないという台湾社会の現実を反映している。
 いずれにせよ,重要なことは,先の国家発展会議からこうした第二段階の憲法改正を進めるにあたって,台湾人中心の国民党と民進党との政策上の大まかな合意が88年の李登輝政権発足以来初めて成立し,この二大勢力が今後の台湾政治の中軸となることがはっきりした点であろう。また,ここで注意しておかねばならないことは,96年の台湾の総統直接選挙から2年近い時間を経た今日,台湾の内部事情が急速に進展し,国民党はもとより,政権奪取の可能性を考慮している民進党要人ですら一切「台湾独立」を主張せず,それが台湾社会の民意を反映した現実として定着してきた点である。
 さらに興味深いことに,台湾には「台湾共和国」を公然と主張する建国党,建国会といった「急独」(急速な独立)勢力の誕生に加え,「急統」(急速な統一)主張の「新同盟会」(主として外省人退役軍人によって構成される)や労働党(社会主義と福祉を標榜するうえで中国とイデオロギーを共有する小政党)が両極端の過激な主張を少数勢力として主張する以外は,台湾のほとんどの勢力がその中間に位置し,国民党を離党した「親中国派」の外省人勢力たる新党ですら,選挙での票がとれないとの現実から内部亀裂を起こし始め,前記の「急統」である「新同盟会」や「統一連盟」との距離すらも生じ始めたのである。

5 香港返還前後の台湾,李登輝総統の中南米歴訪と,台湾の地方首 長選挙

 一方,97年7月1日,「一国家二制度」の方針のもとで香港の中国返還が実現した。ただし,香港返還の台湾への影響は,後述のように,両者の歴史的背景や現状が大きく異なるがゆえに報道されているほどに大きなものではない。台湾400年の歴史的伝統を有するといわれる台湾の立場は,「台湾人ナショナリズム」の台頭,文化的概念としての「新台湾人主義」「心の改革」といった表現に示されるように,香港,中国とはその性格を異にする。台湾はすでに,96年3月の総統直接選挙から,5月の総統就任式典,12月の国家発展会議を経て第二段階の憲政改革と「現実外交」(「実務外交」)を着実に推進し,これまた21世紀に向けた戦略的思考にもとづいて遂行しているのである。
香港の中国への返還は,中国側からすれば,過去に一度もその「領土主権」を失ったことはないという前提のもとで,帝国主義時代の英国に奪われてきた「主権の行使権」を「回収」するということになる。だが,それを台湾側から見れば,中国が「一国家二制度」と香港の「現状維持」という国際公約を遵守したとしても,「香港は台湾とは違う」と主張し,逆に香港の「現状維持」が守られずに「中国化」してしまったとすれば,「やはりそれ見たことか」という台湾側に対する肯定的回答が台湾住民の圧倒的民意としてはね返ってくるであろう。
 そして,香港が中国と台湾の中継基地であったことからして,中台「直接通行」や中国が要求する「三通」の早期実現が話題となるが,その点については,高雄とアモイ,福州との直航が中国のいう「定点直航」,台湾のいう「域外航運センター」として97年4月中旬からようやく開始され,しかもそれはパナマなどの第三国船籍をもつ貨物船による「直航」であって,中国側はそれを国内線と主張し,台湾側はそれを国際線とみなしている。また,そうした「直航」の現実は,貨物船の中身がほとんど空荷に近い状態だといわれる。したがって,中国側が強く主張する「三通」の実現は,台湾側にとっては,まだまだ先の話なのであり,香港に代わる中継基地が必要なら,10億ドルの経済投資が考慮されている沖縄ということも考えられる。
 しかしながら,台湾の沖縄投資は,たとえ沖縄と台湾との間に「自由貿易地帯」が出現しつつあるといっても,沖縄が日本の領土であり,東アジアの安全保障維持のために米軍基地が存在するという戦略的意味合いもあって,問題はさほど簡単なものではない。また,古来の歴史書をひもとくと,台湾は「琉球」と呼ばれていた時期もあり,両者の歴史的背景もこれまた複雑である。
 ところで,97年8月25日から28日まで,国民党の第十五回党大会が開かれ,李登輝総統は閉会日の28日に連戦行政院長の後任として,総統の信任も厚い簫万長・国民党立法委員を新行政院長に任命し,国民党も新しいイメージで行政を司ることとなった。だが,前記の治安の悪化など,国民党にとって強い逆風が吹くなかで97年11月末に実施された地方首長選挙では,投票率66%の即日開票で国民党の惨敗が判明は15議席),民進党は12議席(前回は6議席)という野党民進党の圧勝となり,得票率でも国民党が42%(前回は47%),民進党が43%(前回は41%),新党1%と,台湾史上はじめて議席,得票率双方の与野党逆転が表れた(97年11月29日付け,台湾の新聞各紙)。
 この選挙結果は,李登輝総統の故郷である台北県で国民党公認候補に加えて無所属の国民党系候補者が立候補するなど,呉伯雄・国民党秘書長(幹事長)を中心とする国民党選挙参謀の戦略的失敗が目立つ国民党の「自滅」といった観が強い。ただし,この選挙での国民党の惨敗は,同党にとって重要な教訓を与えた筈であり,とりわけ李登輝総統の胸の内には,民進党を使って前記の古くさい国民党の体質を改善し,将来に向けての健全なる政党政治のレールを敷くという深謀遠慮が秘められているのかもしれない。


6 緊張緩和に向かう中台関係
 
 ここで最後に中台関係についてふれておくと,中国の江沢民主席が十五全大会の政治報告のなかに,江沢民「八項目提案」を公式に書き込み,同大会での台湾問題小組(第十分科会)の決議文が「八項目提案(原文,八項主張)は,台湾問題解決の基本方針,綱領である……台湾は自己の軍隊をもってよく高度の自治権が与えられる」と規定したことの意味は,江沢民主席が3年 前に春節の茶話会という非公式の場で同提案を打ち出したものとは大きく性格が異なることを理解しなければならない(江沢民「中国共産党十五全大会政治報告」『人民日報』,中国共産党十五全大会「台湾問題小組:第十分科会」の決議文)。
 すなわち,これは,江沢民と李登輝という中台最高指導者間の握手をも含んだ中国側の台湾に対するソフトなアプローチ,すなわち江沢民政権が先の軍事演習から一転して台湾への柔軟戦略へと公的に復帰したことを,海外華僑や世界に対してアピールするものであり,中台和解に向けた中国側からの対話路線への復帰と解釈することができる。台湾に対する中国側の新条件は,「『一つの中国』の原則を堅持しなければならないが,その定義の解釈は曖昧にしてもよい」といったものや,汪道涵・海峡両岸関係協会会長が台湾の許歴農・新党立法委員に対して語った「『一つの中国』は,中華人民共和国の国名にこだわらない」といったものなど,中国側の「焦り」と熱意が十二分に示されている。
 中国側の「焦り」は,先に実施された台湾での県市長選挙において国民党が惨敗し,ポスト李登輝の次期政権が「台湾独立」を党の綱領でうたっている民進党のスーパー・スター,陳水扁・現台北市長に移行する可能性の高まりを意識してのことであろう。すなわち,江沢民の中国としては,民主化された台湾の選挙で最大野党の民進党に政権が移る前に,国民党現職の李登輝政権との和平交渉に入る方が妥当だと考えても不思議なことではない。そうした状況のなかで,97年10月26日からの江沢民訪米によって実現した表面的かつ便宜的な米中和解は,クリントン大統領が中台和解を演出するという流れでもって解釈することも可能である。
 そして,こうした中台和解を歓迎するムードは,台湾内部においてもかなり高まっている。中台関係は現在,先の台湾総統選挙と中国の軍事演習以来,双方のホットラインが切れており,その修復を計ることが海峡両岸の緊張緩和のためにも必要である。ちなみに,97年2月後半に行われた『産経新聞』の李登輝総統との3時間に及ぶインタビューによれば,台湾側はそうした準公式ホットラインを通じて,95年の李登輝訪米の敢行を中国の唐樹備・海峡両岸関係秘書長に前もって伝えていたことが明らかになった(『産経新聞』97年12月20日付け)。台湾側としても,そうしたホットラインの修復と「一つの中国」といった条件をつけない中国との対話再開の意図を否定している訳ではない。
 また,香港返還後の海峡両岸において,「直航」や「三通」などを急ぐ台湾国内のビック・ビジネスの圧力も強まっており,97年10月中旬のエバー・グリーン海運の張栄発会長が北京で江沢民国家主席と会談し,帰国後「中台の密使となってもよい」と発言してみたり,北京で江沢民主席と会談して資金を受け取り,子息を北京に残したまま帰国した民進党の許信良主席が対中「対話」路線を打ち出すなど,台湾国内においても中台和解に向けて浮き足立つ動きが生起し始めている。ただし,中国がソフトなアプローチを展開し,米国,世界の華僑が支援するなかで,台湾の各界人士が安易にそれに迎合することは,台湾政府当局から見れば依然として危険な兆候であると言わざるを得まい。
 言うまでもなく,中国の柔軟戦略は,一種の「攪乱戦略」ないしは「統一戦線工作」であって台湾の政府当局はそれを十分承知している。したがって,中国からのソフトなアプローチと台湾国内の動きをにらみながら,李登輝政権は「戒急用忍」(急ぐのを戒め,忍耐で対応する)という「現状維持」を死守せんとしている。もとより,台湾海峡の緊張緩和は,台湾のみならず日本を含めた世界各国の願いである。また,冒頭で述べた21世紀に向けた世界新秩序における「多極化への回帰」「国境線の引き直し」といった点からすれば,台湾で『和平七雄論』(「七つの中国」)といった著作が96年10月に出版されていることも興味深い。
 こうして中台両岸関係の行方を見通す場合,台湾の李登輝総統がいう「北京,和平への旅」の実現可能性はともかくとして,巷間伝えられていた98年1月末の江沢民「八項目提案」3周年記念での新春茶話会で演説を行ったのが銭其ク・外交部長兼副総理であってその内容に新鮮味はなく,3月の全人代での新首相(朱鎔基副首相の昇格が確実視されている)の政府活動報告や同会議での議論を見なければならない。ただ,いずれにせよ,98年は,中台関係にも新しい動きが見られる分岐点となりそうである。

第2章 中国経済の現状−−国有企業改革を中心に

はじめに
 
 1997年秋の共産党十五全大会において,江沢民総書記は次のように述べた。「企業改革の深化,技術進歩及び経済構造の調整に伴って人員の移動と職員労働者の一時解雇は避けられない。これは一部の職員労働者に一時的な困難をもたらすであろうが,根本的には経済発展に有利であり,労働者階級の長期的な利益に合致する」−−労働者が主人公の国で,労働者にとって根本的権利である雇用の保障が,資本の論理の後に退きつつある。
 中国では,92年の共産党十四全大会において「社会主義市場経済」への移行をうたい,市場経済化を加速化した。ところが社会主義の要締たる国有企業の業績が,93年末からの引き締め策への転換を契機に急速に悪化し,国有企業の「不良債権」は今や国家財政規模を凌駕するともいわれている。また,レイオフ労働者数は97年ですでに1000万人をこえ,今後さらに同数の失業者が発生するおそれがあるという。
 共産党十五全大会では,中国が「社会主義初級段階」にあることが再び確認され,社会主義か資本主義かをめぐる無用なイデオロギー論争を排し,所有を多元化していく方向が示された。そして社会主義の経済的拠り所である公有制の定義について,従来の「国有+集団所有」から「国有+集団所有+混合所有の国有・集団部分」へと読み替えが行われ,株式制の本格的導入にお墨付が与えられた。国有企業改革のために広く資金源を求めようというねらいが,その一端にあったことは確かである。また,内外市場の安定的拡大が改革の重要な環境条件であることもいうをまたない。ところが香港の金融不安,東南アジアの通貨危機が,正念場を迎える国有企業改革の環境を悪化させている。朱鎔基副首相は,3年で国有企業の赤字問題を基本的に解決するとぶちあげた。しかし,そのときこれほどの困難な環境は計算に入っていたのだろうか。本章では,中国経済の経済改革のもつ特質をとらえたうえで,国有企業改革の質的転換とその課題について述べてみたい。

1 経済改革とは何だったのか

(1) 社会主義の経済改革と中国
 社会主義国(ないし旧社会主義国)で行われてきた経済改革とは,等しく計画経済から市場経済への「移行」を企図するものであることは周知のとおりである。ただし,その「移行」プロセスは等しいものではなく,大きな経済変動やマイナス成長を経験した旧ソ連・東欧の経済改革との比較から,中国における改革の良好なパフォーマンスに関心が注がれてきた。
 旧ソ連などにおける「急進的経 済改革」(ショック療法)が経済社会に混乱をもたらしたのに対し,中国の経済改革は「漸進的」であり,それが改革成功の一因とされてきた。その漸進的経済改革の特徴は,この改革が「増量改革」とも呼ばれているように,既存のストックの再配分問題を避け,新たに生み出されたフローについての,国家と企業(及び労働者)との間の分配比率を調整したところにある。つまり,企業と労働者への分配比率を高めることを物質的インセンティブとして,新たなフローを拡大していくというのが,中国式「増量改革」の精髄であった。既得権益が損なわれることのないこの方法は,非常に痛みの少ないものであった。市場経済化を進めつつ,共産党がなお政権の座にあり続けることのできる一因が,ここにあるといえよう。
 また,旧ソ連とは異なり,中国の産業構造が低位であり,膨大な農村・農業部門と非国有領域を抱えていたことが,経済改革に幸いした。農業生産への物質的インセンティブの導入が農産物供給を増大させたのみならず,農業部門から析出された労働力と,農村部で新たに創出された資本とが結合して,郷鎮企業とよばれる「近代セクター」が生成,発展したのであった。このような開発経済学が想定するところの途上国の経済発展プロセスがあらわれたことは,中国の経済改革における大きな特徴である。きわめて高い供給弾力性と農村の所得・雇用水準の向上によって,郷鎮企業が80年代における中国のマクロ経済の安定に,巨大な役割を果たしたことは事実である。

(2) 国有企業における「利潤関心」メカニズムの導入
 郷鎮企業が当初から市場経済を前提として生成・発展したのに対し,計画経済を担ってきた国有企業は,段階的に市場経済の海に漕ぎ出していくことになった。国有企業に対する漸進的改革は,70年代末に企業自主権の一部を拡大することから始まり,84年の市場導入とともに企業自主権のいっそうの拡大がはかられてきた。
 新たなフロー,すなわち利潤の取得を企業運営の基本的インセンティブとすることを,かつて社会主義の経済改革を先導したハンガリーにおける,初期の企業改革からとって「利潤関心」と呼ぶ。80年代における中国の国有企業の「増量改革」は,この「利潤関心」を基本原理に,請負制を具体的形態の中心として進行してきた。請負制は確かに利潤の増大に貢献するものであったが,しかし「利潤関心」は,利潤の短期的最大化と労働分配の増大に注力させるインセンティブはもつものの,長期的かつ持続的な効率的経営にはつながらなかった。
 また,国家・行政は,企業経営の意思決定(投資・人事)に関与し,ずさんなフィージビリティー・スタディーに対して融資を引き出すことに加担した。この行政的立場からの企業経営への介入は,政府と企業との間の経営責任の所在を不明確にし,企業経営において,ハンガリーの経済学者J.コルナイのいう「ソフトな予算制約」という問題を引き起こした。それでも80年代は,なお「不足の経済」( J.コルナイ)状態であったため,国有企業の「利潤関心」にもとづく量的拡大行動のもつ欠陥は隠蔽され,中国経済は漸進的経済改革を謳歌していた。計画から市場への「移行」と同時進行する途上国の経済発展プロセスにより,国有企業(工業)の生産額シェアは大きく下降したが,なお過半を占めていた(図2-1)。
 

 しかし,88年後半からの引き締めを経て90年代に入ると,市場環境は一変していた。従来の技術水準での財の供給はすでに飽和状態に達したにもかかわらず,市場環境の変化に国有企業の経営メカニズムは対応できず,なお量的拡大を志向し,過剰投資・在庫から経営不振に陥ったのである。労働集約型産業は80年代後半から郷鎮企業などとの競争において劣勢に立たされていたことに加え,輸入代替工業化が築いた自己完結的産業構造が,輸出志向型工業化の展開,外資の参入によって寸断され,計画経済時代以来国有主体であった素材産業,産業用機械産業は輸入によって迂回されることになった。閉鎖経済から開放経済へ鮮やかに転身を遂げたかにみえた中国経済は,外貨獲得の成功の陰で,産業構造の断裂という病状を悪化させていたのであった。
 80年代末からの引き締めで未曾有の額に達した国有企業の赤字額は,92年の南巡講話以後の改革開放加速によっても縮小することはなかった。むしろ,その後の再引き締めで急速に拡大した(図2-2)。

改革開放加速化でも赤字が縮小しなかったことは,国有企業の経営不振が決してマクロの緊縮に起因するものではなく,企業および産業の構造問題であることを示している。企業の構造問題についていうならば,「利潤関心」メカニズムの下では企業の蓄積欲求は弱く,投資をはじめとする諸行動は極度に借り入れに依存したものであった。国有企業の資産負債比率が高いのは,一つにこうした企業体質が背景にあるためであると考えられる。それゆえ改革が金融部門でも進み,融資がタイトになるや,たちまち返済不能の債務が累積するに至ったのである。
 『日本経済新聞』は,学生向けに企業選びのチェックポイントを紹介するなかで,安定性をみる指標としては,資本構成比率(自己資本/総資本),固定比率(固定資産/自己資本),当座比率(当座資産/流動負債)などをあげている(98年3月10日付け)。これらの指標から,中国の国有工業の財務指標をみてみるとどうなるだろうか。資本構成比率は同一概念の統計が得られないので,負債/資産比率で代替した。資本構成比率は50%以上(したがって負債/資産比率は50%以下),固定比率は100%以下,当座比率は100%以上なら安心だという。結果は表2−1に示したとおりだが,多くの産業がこれらの指標をクリアするに遠く及ばないことがわかる。中国の国有工業部門は,日本の学生からみて,安定性という面では就職先として魅力がないということになる。国有工業では,97年の国有企業の赤字額がさらに8.2%増大している。また,カバレージを国有独資に限定した事情もあるものの,90年代以降,国有工業のシェアは激減し,3割程度に落ち込んでいる。


(3) 社会主義市場経済と「現代企業制度」−−「財産関心」メカニ ズム
 冒頭に記した,労働者にとって根本的権利である雇用の保障が資本の論理の後に退く「大転換」の伏線は,93年まで遡ることができる。あるいは,あくまでも後知恵ではあるが,84年の財の市場導入からすでに始まっていたと考えるべきかもしれない。
 92年の中国共産党十四全大会において,社会主義市場経済体制の樹立が打ち出され,翌93年3月の第8期全人代では,憲法修正により,計画経済が揚棄され,国民経済の基本メカニズムには「社会主義市場経済」が据えられた(憲法第15条)。そして,憲法16条「国家統一的指導への服従及び国家計画の全面的達成」を活動の前提としていた「国営企業」は,そのくびきを外され,所有と経営との分離という含意から「国有企業」と称されるようになった(第16条)。
 さ らに,同年11月の14期三中全会において,中国当局は,社会主義市場経済システムの具体化をはかった。すなわち,同システムとは,資源配分の基本的役割を計画ではなく市場に委ね,社会主義の国家が,財政・税制・金融政策などを運用して市場をマクロ的にコントロールするシステムであるとされた。そして企業制度については,市場で自主的に活動する経済主体としての「現代企業制度」の確立が目指されることになった。市場で自主的に活動する経済主体とするということは,国家が資産を現物形態で所有する国有企業を,価値形態で所有する国家投資企業へと転換することであり,その後者の形態を「現代企業制度」と呼ぶのである。さらに,三中全会では,所有権改革の必要性が実質的に公認された。同月には有限責任公司,株式有限公司などの法的規定を明文化した「公司法」が成立した。これ以後,それまで注意深く避けられてきた「資本」という表現がためらいなく用いられるようになったのである。
 途上国の経済条件から先進国経済へのキャッチアップを目指すには,産業構造の変化にともなって企業の淘汰と資本移動が不可避だという認識に,中国が達したことを表わしている。しかし,それには,具体的な特定財貨の生産を念頭におき,フロー部分の拡大と分配に関心を集中する「利潤関心」メカニズムでは対応できない。そこで,不採算部門から採算部門へ資本を移動し,資本の技術水準を引き上げ,利潤生産能力としての資本構成に常に配慮する関心,すなわち80年代のハンガリーで議論された「財産関心」メカニズムの国有企業への導入が,必至となってくるのである。「現代企業制度」の導入とは,すなわち「財産関心」メカニズムの導入であり,これはハンガリーの経済改革が行き着いた結論に等しい。上記の財産関心メカニズムは,「ソフトな予算制約」のタイト化と表裏一体の関係にあり,いわゆる国家の「温情主義」(J.コルナイ)との決別を意味している。

2 国有企業改革の現状

(1) 「抓大放小」と企業集団化
 中国においては,「財産関心」メカニズムの導入が,直ちに国有資産の民間への売却にはつながらなかった点で,旧ソ連・東欧とは異2000社の小型企業については,国が関与せず,株式合作制導入,個人,外資への売却などをあらゆる手段が許容され,実質的に民営化が容認されている。これを「放小」(小を放つ)と表現する。企業規模は明らかでないが,国有企業が郷鎮企業に買収されるという「下克上」もみられる。他方,1万6000社の大中型企業については,「現代企業制度」改革や企業集団化をすすめており,これらについては国有を維持しつつ,コーポレート・ガバナンスの強化を重視する方向が打ち出されている。これは「抓大」(大をつかむ)と表現される。
 97年は,従来にない大胆なストックの再編が進行しており,3000社が淘汰されたとされる。ストック再編改革の試行都市は96年の58から97年は111へ,重点試行対象企業は300から512(うち112は内外で株式上場)へ,同じく重点試行対象企業集団は57から120へと大きく拡大した。資産額にすれば全国有企業の70%を覆う改革である。鉄鋼業で大規模な企業集団化による企業再編が進み,石油化学,自動車などの業界でも同様の動きが進行しつつある。
 97年7月中旬から下旬にかけて,朱鎔基副首相は遼寧省の40社余りの国有企業を視察したが,3年前後で赤字大中型国有企業の大多数を苦境から脱出させると言明したのは,このときのことである。大中型国有企業のなかでも赤字企業が集中しているのが紡織産業,機械産業,軍需工業の5900社とされる。97年末の中央経済工作会議では,そのうちまず紡織工業を,国有大中型企業赤字問題解決の「突破口」とすることが打ち出された。同産業は資産負債比率が80%をこえ,国有企(1000万錘),雇用の9%(120万人)の削減によって3年以内の黒字転換を目指している。

(2) 国有維持の下での「財産関心」メカニズム
 国有を維持する中国的財産関心メカニズムは,主管部門と企業との間の行政的関係を,出資関係に改めるという形で形成されようとしている。これを改革の先頭をいく上海市の,改革の突破口に定められた紡織産業の場合で見てみることにする。
 従来,市経済委員会及び各工業局がともに傘下に直営企業を擁し,政府機関と国有企業との間は行政的上下関係にあった。そうした関係は,市経済委員会は産業政策遂行に専念して企業管理から離れ・各工業局は業種別の国有資産経営公司(持ち株会社)化し・市国有資産管理委員会がこれら国有資産経営公司や企業集団に国有資産経営を委託する,という形態に変化している。そして業種別国有資産経営公司や企業集団とその傘下企業との関係は,全て出資関係に転換され,個別企業のなかには株式上場や外資導入により,外部からの出資を受け入れているものもある。
 上海の紡織産業の監督官庁である旧紡織工業局は,95年に撤廃され,「上海紡織持ち株会社」が新たに設立された。300余の紡織関連企業は,現在では持ち株会社の全額出資子会社である集団公司20数社が所有するという構造になっている。また上海紡織持ち株会社の傘下企業と外資との合弁が200社ほどあるという。
 傘下企業の一例をあげておくと,紡織機械メーカー大手(国内シェア25%)の中国紡織機械株式有限公司は,持ち株会社の孫会社の形をとっている。92年に株式会社化し,96年末時点で発行株式の52%を国家株(実質的に持ち株会社所有)が占め,40%余りが上場流通している。流通株式の4分の3以上はB株である。
 構造調整を迫られている上海の紡織産業は,個別企業ごとに大幅なリストラや多角経営を行い,さらに持ち株会社レベルにおいても,過剰なスピンドルを削減し,工場跡地をより収益性の高い不動産や第3次産業事業にふりむけるなど,「財産関心」にもとづく資産経営が実現しているようにみえる。ただし,このような国有資産管理制度改革が,従来の行政と企業との関係を完全に改めることになっているかどうかは,次のような理由から疑問の残るところである。
 「上海紡織持ち株会社」は,市政府の国有資産管理委員会から,国有資産の保全・増殖の目標を与えられ,利益獲得能力などの審査を受けている。そのスタッフは,紡織工業局時代の3分の1に削減したとはいえ,旧スタッフが存続しており,意思決定の場である監事会は主として政府の役人によって構成されているという。
 そのような持ち株会社が,全額出資子会社の董事会人事も握っているとなれば,従前の体制と実質的にどう違うのか,コーポレート・ガバナンスの強化にはつながらないのでは,という懸念が生まれる。現代企業制度試行中の100社について中国側が行った調査(96年末)によれば,総経理の人事権はなお36%が政府部門の任命によっており,総経理の権限の中でも,「年度をまたぐ重大な投資」についての権限は28%,余剰人員の整理については24%の企業で確立されていない。
 また,持ち株会社が,財産関心にもとづく資産経営を行う主体となったと しても,上海など特定の行政地域の特定業種の利益を代表する独占集団となるおそれも否定できない。持ち株会社が地域行政とのつながりを色濃く残した形で,傘下企業の国有資産経営をコントロールするという,曖昧な形態が中国的特色なのか,それとも現在の制度が地域との紐帯から独立した資本に転化していく過程の過渡的形態なのか,今後の展開が注目されよう。

(3) 財産関心メカニズムへの転換を進める環境・阻む環境 
 上海市の紡織産業は90年代半ばから急速に競争力を失い,生産能力を3分の1に圧縮し,55万人いた労働力を30万人へ削減する調整が行われてきた。こうしたダイナミックな調整が可能なのも,上海の経済発展レベル,成長速度の高さから生まれる第3次産業などの新規雇用吸収力があってのことであり,従来国有企業が抱えていた社会的負担を社会化できているからにほかならない。削減された労働力(主として若い女性の場合)は市政府や各方面のサポートにより,再就職訓練の後,ホテルやスーパー,地下鉄職員などに転職している(ただし年令層の高い労働力の転職は容易ではない)。また,上海の繊維産業は現在,現役労働力30万人に対し,同数の退職者を抱えているが,退職者手当は社会保険から支給されているため,企業財務を圧迫しないのである。
 しかし,上海のような,リストラを伴うダイナミックな構造調整が順調に展開する地域はきわめて限られている。そうした力のない地域,たとえば東北などの場合には,市場経済の主体としての企業に「財産関心」メカニズムを形成すること自体が困難である。計画経済時代の国有企業は,経営に特化し価値増殖する主体ではなく,計画を実行する生産の場であると同時に雇用を確保し,生活する場でもあった。計画経済は,生活の側面での「安定」を保障するシステムであり,それが,政権の拠り所ともなってきた。計画経済から市場経済への移行は,企業を生産と生活の場から資本蓄積の場へと変える。資本蓄積の本性は,ヒトやモノといった具体的な形態は一切顧みることなく,価値増殖のためには人員削減も含めて徹底した支出の切り詰めを追求するものである。
 しかし,雇用の確保と生活の安定を供給することで支持を得てきた政権の下で,そもそも過剰雇用が常態となっていた国有企業を資本蓄積の主体としようとする場合には,地域経済が過剰労働力に雇用の場を創出できる持続的成長局面が必要であり,そうした環境を前提に,企業から価値増殖にかかわりの無い,社会的負担を取り除く必要がある。世界銀行の調査によれば,94年に国有企業の教育・医療・住宅・年金などの負担は賃金総額を100とすると76にも達しており,このことが国有企業の競争力を著しく削いでいることは間違いない。改革以後の「利潤関心」メカニズムの下で,全般にこれら非営利支出は膨らんでいったのである。
 企業の業績が悪化して,地域経済の停滞から雇用創出が難しい場合,雇用確保は企業の抱き合わせがしばしば行われてきた。計画経済の下で企業が担ってきた負担を分離して,これらを社会化する余力が地域財政に乏しい場合,労働者は生活の場としての企業を離れることが難しい。企業をスリム化する「企業努力」が雇用確保の面から採用しにくい状況の下では,企業経営メカニズムを資本に近づけることは難しい。雇用確保が限界にきた地域では,労働争議が発生するのは想像に難くなく,97年だけで,少なくとも四川省南充市(6月),綿陽市(6〜7月),自貢市(10月),宜賓市(12月),安徽省合肥市(12月),黒龍江省チチハル,チヤムス,牡丹江,伊春の各市(11〜12月)では,国有企業労働者や退職者による大規模なデモや市庁舎を取り囲む騒ぎなどが起っている。

3 改革の方向

(1) 分社化・上場
 巨体を持て余して沈没することを避け,分社化・株式上場に賭ける国有企業も現われている。遼寧省の鞍山鋼鉄公司は中国を代表する鉄鋼企業である。首都鋼鉄公司が80年代から改革に着手して市場化に適応してきたのに対し,鞍山は改革に出遅れてきた。鞍山鋼鉄公司は90年代初頭まで政府からの指令計画により生産を行ってきた。90年代初頭の高度成長ブームで増産に努めたが,その後引き締め,急激な価格自由化,指令性計画の縮小で,市場競争にさらされるようになると,コスト競争力のなさを露呈,業績が悪化した。そこで同公司は94年から本格的にリストラの準備に入った。50万人にも上った人員(うち製鉄そのものに従事するのはわずか7万人)のうち,工場労働者の1割,事務労働者の2割の削減(サービス業会社を設立して吸収),生産部門の子会社化・独立採算化,社会的機能の政府への段階的移管などが,その内容である。
 興味深いのは,97年5月に,収益部門の3工場を集めて「鞍山新圧延株式有限公司」を設立し,同年7月に香港で上場していることである。同公司は福利部門を抱えておらず,従業員はわずか4500人である。発行株式の52%は鞍山鋼鉄公司がもっている。分社化・株式上場には,「肥大化した鞍山鋼鉄公司から人員や機構を一つ一つ引き剥がしてリストラするよりも,むしろ鞍山鋼鉄公司のなかで最も収益の上がる部分を株式会社として独立させ,株式会社がその収益により必要な部門を買収していったほうが手早くリストラが進む」(丸川知雄「国有企業改革と地域経済−遼寧省を中心に」ジェトロ『中国経済』97年12月号)との読みがある。
 また,同じく遼寧の本渓鋼鉄公司も改革の遅れから経営が悪化し,大胆なリストラを迫られている。同公司では,96年からレイオフ,早期退職など人員削減を実施し,分社・独立採算による経営の立て直しを目指している。鉄鋼部門を株式会社化し,97年7月にB株を深ョに上場したが,いきなり値下がりしたという。本渓では今後もいっそうのリストラ,人員削減が予定されている。上海では紡織産業の25万人の人員削減が,他に受け皿があったためにスムーズに進んだ。しかし,本渓ではその半分以下の失業すら解決することが難しく,リストラの進行は前節で述べたような社会的緊張を高めることにつながる。再就職と社会保障について朱鎔基は,企業と政府,社会保険で各3分の1ずつ負担すると述べているが,負担力の地域間格差は著しい。

(2) 株式制導入と資金調達
 国有企業改革の方針は,企業規模によって異なっているが,基本的には「利潤関心」から「財産関心」へと企業経営メカニズムを転換することを目指す点では共通している。14期三中全会以来,「全人民所有制」という言葉が姿を消し,これを「国有」と改めて,多様な所有者の一つとしたことは,「みんなの財産」から生まれた果実部分をみんなで分けあうシステムから,所有者が財産の持ち分に応じて果実の分配により,したがって財産の保全や改善にも関心を払うシステムへの転換を意味している。株式制はまさにこれを体現しており,国有からの民営化になる株式合作制も同様の原理に立っている。
 そして国有を多様な所有者の一つに後退させたのは,国有企業に民間資金を導入することで経営を立て直すこと,「財産関心」にもとづく複数の所有主体を形成す ることでコーポレート・ガバナンスの強化をはかること−−をねらったものである。その国有企業改革における民間資金の導入で当局が期待するのが共産党十五全大会でのお墨付きがでたことからも明らかなように,大型企業における株式制の推進である。
 朱鎔基が3年で国有企業改革を,と述べたのは次のような資金調達の目算があったためである。まず,赤字補填などに必要な資金は2兆元で,このうち香港での株式上場で7500億元,香港上場企業の保有株式売却で2000億元と,ほぼ半分を香港で調達するはずだった。さらに上海および深ョ市場での上場で7500億元,税金と国債で3000億元を手当する予定であった(『朝日新聞』98年2月24日付け)。ところが周知のとおり,97年秋以降,東南アジアの金融不安が香港へ波及し,香港での資金調達の目論見ははやばやと外れることになった。
 また,国内株式市場での7500億元の調達も無理はないのだろうか。3年で改革ということであれば,調達額は年間2500億元となるが,証券ルートでの資金調達が急拡大した97年でさえ,調達額は1300億元であり,それ以前は,債券を含めても最高で年間650億元にすぎない。中国の株式市場の規模は現状ではなお小さく,上海と深ョ市場の株式時価発行総額を合わせても東京市場の10分の1である。もし現状のまま,株式を大量発行すれば,株価の下落を引き起こすとともに国債発行にも影響を与えることから,年間2500億元を株式市場で調達することはかなり難しいと考えられる。
 ただし,中国で株式市場の拡大が不可能だというわけではない。中国内の個人貯蓄は97年末で4兆6280億元にものぼり,95〜97年の3年間だけで約2兆5000億元増えており,今後,個人所得のうち消費されずに何らかの形で蓄積される部分がますます拡大することが予想される。ただし,現状では,中国の株式市場はなお底が薄く,機関投資家不在のため価格が乱高下してリスクが高いため,個人貯蓄を大きく株式市場へシフトさせるに至っていない。そこで,機関投資家を育成し,この膨大な個人貯蓄を機関投資家を通じて株式市場に吸収することが求められよう。
 国内株式市場の底が浅いことから,香港など域外での上場に資金調達の期待を向けてきた。しかし,域外での上場・資金調達に過度に依存することは,このたびの香港ドルの動揺,株価の急落で上場を見合わせる企業が相次いだことが示すように,外部環境の変化で国有企業改革の帰趨が揺さぶられることにつながる。それゆえ,時間はかかるであろうが,個人貯蓄を国内株式市場に引き込むための環境整備が求められるところである。また,上場に際して内陸国有企業が優先されているというが,株式上場は内陸国有企業の不良債権処理のための錬金術ではなく,株式市場が資本の優劣を如実に反映する鏡であることを,再認識する必要があろう。

おわりに
 
 株式制の推進など資産構造の転換を軸とする国有企業改革は,採算の悪い国有企業に間接金融を通じて資金供給を行い,経営と雇用を支えてきた従来の方向とは異なるものである。中国の国有企業は,「生産と生活の場」から「資本蓄積の場」へと変わろうとしている。既得権益に手をつけず,拡大するフローの分配への関心を改革推進のエンジンとする時期は終わり,今後は,ストックのスクラップ・アンド・ビルドが行われ,生産要素が大きく流動することになる。経済成長を促進するためには,資本の蓄積行動が何よりも優先されなければならないが,それには行政や党の企業経営への無用な干渉を排除しなければならない。しかしそれは果たして可能なのか,またそれが実現したとしても資本蓄積行動にともない生起する,失業や分配格差の問題をいかに処理していくか,政権の課題は山積している。
 経済改革の基本メカニズムが,「利潤関心」から「財産関心」へと転換したことは,経済改革から得られる利益の分配構造を大きく変化させる。したがって,国民的合意の新たな形成が要請されている。98年3月の全人代第1回会議における李鵬報告では,国有企業問題について,数字をともなう98年の具体策は,不良債権400億元の償却,財政支出500億元の出資への転換という対照療法的で数量的にもきわめて不十分なものしか提示されておらず,レイオフされた労働者に対しては「労働観念の転換」を求めている。労働側に失業の労苦と「労働観念の転換」の努力を強いる以上,政権側も財政金融を通じた所得再分配の整備で応えることができなければ,今後の改革は国民的合意を得られないであろう。
 国有企業改革の方向が「資本の論理」の強化に向いていることは明らかであるが,いかに国民的合意をとりつけることができるのか,経済改革はいよいよ正念場にさしかかったといえよう。

第3章 治安問題−−中国・香港・台湾の比較分析

はじめに
 
 1997年9月に開催された中国共産党第十五回全国代表大会で,江沢民総書記は「偉大なケ小平理論の旗を高く掲げて,中国の特色をもつ社会主義建設を21世紀に向けて全面的にすすめよう」と題する報告を行い,「中国の特色をもつ社会主義建設」という「ケ小平理論」のもとで共産党が引き続き「経済建設を中心」とすることを決定した。そしてそのためには「改革・開放」の路線を採り,「社会主義市場経済」を実施することを今後も維持,発展させることを明らかにした。
 今党大会の報告によれば,そもそも「社会主義の根本的任務は社会の生産力の発展である」が,現在なお「社会主義初級段階」にある中国においては,「社会の主要な矛盾」が「人民の日増しに増大する物質的需要と立ち後れた社会生産の間の矛盾」で,この矛盾を解決するためには,経済建設という中心に党や国家のすべての活動を奉仕させなければならないのである。
 当然のことながら「民主の発展と法制の強化,政治と企業の分離,機構の削減,民主監督制度の改善,安定と団結の維持」を「主要な任務」とする政治体制改革は,党の報告によればこの「中心」に奉仕させられる。とりわけて政治体制改革によって維持しなくてはならない「安定と団結」は,経済発展を至上課題とする中国共産党にとっては不可欠の「任務」であるばかりか,党自身も認めるように「党の存亡」にもかかわる重大な「任務」なのである。
 そこでこの「任務」の重要性を痛感する党は,「安定と団結を擁護する」ために主要な課題の一つである社会治安の改善を求め,したがって治安対策を重要な任務の一つと位置づける。それは,「改革・開放の深まりと経済関係の調整に伴い,経済と社会生活におけるさまざまな矛盾には新しい状況と変化が出現しており,そのなかでは大衆の切実な利益にかかわるいくつかの矛盾が比較的際だって」いる。そして,この新たな状況の変化とそれに起因する矛盾が「大衆の切実な利益」を阻害しているばかりか,この状況は「人民大衆の生命・財産の安全と改革・発展・安定にかかわる大きな問題」となって立ち現れているからにほかならないからである。
 中国共産党が十五全大会で「中心任務」として「経済建設」を決議したが,同時 にそのための良好な環境作りについての提起が行われた。中でも人々の生活や経済活動にかかわり社会の安定を維持する上で最もゆるがせにできない「社会治安環境」の改善について強い関心を示した。本章では,この「社会治安環境」の改善が具体的にいかなる状況のもとで提起されたのかについて「人民大衆の生命・財産の安全」と直接かかわる刑事犯罪の最近の動向を見ることによって検討してみたい。
 これに加えて,これまで社会治安問題,なかんずく刑事犯罪の動向を検討する上では,とくに中国に関して一つの統治権力の及ぶ範囲内にのみ限ってそれを行うことで事足れりとしてきたが,他の諸活動においてボーダーレス化が叫ばれている今日においては,こうした作業だけでは次第に説得力を欠き,また,今日の対外開放のもとでは,孤立し閉塞した一つの権力の支配領域として,もはや存在できない中国としては,なお更のことであろう。
 本報告では,このような問題意識に立って地理的広がりについてはなお限界があり,また「中華世界」として歴史的に一つの価値観を共有して文化的政治的に密接な関係を持つものの,異なった支配権力のもとにあり,あるいはかつてあった地域,すなわち台湾・香港・マカオについて初歩的ではあるが各々の地域での刑事犯罪の動向を検討し,中国の動向との比較検討を試みる。つまり,そうすることによって中国の治安状況がこれらの地域とどのように相互に影響しあい,あるいはどのような関係を有するのか,あるいはいかなる位置づけができるのかといった新たな視点から初歩的ではあるが考察しようと試みるものである。

1 中国の社会治安動向
 
 1997年11月11日,十五全大会の提起を受けた公安部は,浙江省杭州において「全国公安機関が党の十五全大会精神をやりぬく工作会議」を開催した。会議では,公安部長の陶駟駒が「党の十五全大会の精神をまじめにやり抜き,努力して公安工作と公安隊伍の建設の新局面を作り出そう」と題する基調報告を行った。
 同報告では,共産党十四全大会(92年)以降における公安部の活動の一般的な状況とその活動を通じて得た主要な経験を総括した陶部長「1995年に,全国の刑事案件がピークを迎えた後,翌96年の全国における刑事案件の総数が初めて下降した。今年はさらに大幅に下がり,全国の大部分の地区の治安状況は改善され,大衆の生活における安全感は明らかに増大した」と,誇らしげに語ったのである。
 しかしながら,この公安部長の報告の内容とは大分趣を異にする状況が,例年通り3月に開催された全国人民代表大会において明らかにされたのであった。明らかになったその状況とは,社会治安問題について重要な職責にある最高法院(最高裁判所)および最高検察院の報告の内容によって示されたものである。そしてこれら両院の報告に対して,代表大会に参加した代表から実に3割以上の批判票が集中した。最高検察院に対しては,40.4%と過去最高の数字を記録したのであった。
 その批判の中身は,「私情にとらわれて法律を曲げる警察」,「法律を無視する党高官の取締りに二の足を踏む司法当局」,「軽微な犯罪に重い判決を下すが,重大事件には軽い判決で済ます傾向のある裁判所」さらには「地方保護主義のための不公正に目をつむる裁判官や検察官」など不公正な裁判や取締り当局の不正に対するものであった。さらには,取締り活動の成果と一向に改善されない現状とのギャップなどに対しても一部の代表はその苛立ちをあらわにする。代表大会代表の意思表示だとはいえ,一般民意を如実に表現しているものとして差し支えないであろう。
 さて,最も批判の集中した検察院の報告によると,刑事案件については,96年1年間で各級検察院によって起訴された刑事犯罪者は前年に比べて27.3%も増加した。さらに「社会治安に深刻な危害を及ぼした犯罪(たとえば,殺人,強盗,強姦,婦女子誘拐・人身売買,爆破など)」で処罰されたのは,同様に17.3%増加の多きに達した。犯罪の凶悪化,広域化,大型化,集団化の傾向が顕著であるという。
 こうした数字の増加は,一方では95年の全国人民代表大会でやはり批判票が集中し,それに応えるべく幾度となく繰り返された「厳打」,すなわち全国一斉の集中取締りを実施した取締り当局の努力の結果だったいうことができよう。しかしながら,当局のこうした努力を認めつつもなお批判票が増えたのは,十五全大会で党中央が重要課題として提起した社会の「安定」とは依然として程遠いばかりか,かえって悪化する社会治安の情勢に対して,それをくい止める具体策を打ち出せない当局のあり方への民意の苛立ちだといえるのではないだろうか。そうだとするなら,上述した公安部長の報告は,いったいどのように解釈したらよいのであろうか。
 全国人民代表大会での検察・法院の両院報告では,「社会治安に深刻な危害を及ぼした犯罪」といった突出した項目や検挙・起訴した人数,あるいは裁判所が受理した件数など,限られた数値しか例年公表されない。刑事犯罪の全体像,ひいては社会治安の実情を知るなら,たとえば,刑事犯罪の発生総件数や発生率など少なくとも台湾・香港・マカオそれにわが国などをはじめとして,各国においては公表されている数値を公表すべきである。しかしながら,こういった数値はほとんど公表されず刑事犯罪の全体像が一般の人々には把握できないのが実情である。そんな中で「今年(97年)はさらに大幅に下がり,全国の大部分の地区の治安状況は改善され,大衆の生活における安全感は明らかに増大した」と「大見得」を切った陶駟駒公安部長ではあったが,社会治安状況にたいする公安部長のこのような断言は,果たして人々に対して説得力を持つのであろうか甚だ疑問である。さらには,全国人民代表大会開催中の北京で,爆弾テロ事件が発生するという由々しき先例に見舞われた97年の社会の治安状況は,果たして人々の生活に安心感を与えることができる1年であったのかまことに興味深いところである。
 すでに述べてきたように,公安(警察)当局は刑事犯罪の発生件数がすでにピークを越えて減少に転じ,社会治安の改善が顕著であることから人々の安心感が広がったと断言したものの,一方でこれとはまったく逆に全国人民代表大会では社会治安対策の主要な職責を担う検察・裁判所の報告に対して代表の批判が過去最高を記録し,なお人々の社会生活における安全感が満足のいくものでないことをあらわにした。社会治安状況に対する当局のある意味では楽観的というべき論調と,全国人民代表大会の代表といった限界はあるものの人々のそれに対する危機感からくる不満との間の乖離は,いかなる現実から生じるものなのであろうか。
 次に掲げるグラフ(表3−1:中国における最近の刑事犯罪の動向)は,この10年間における刑事犯罪の動向を各級裁判所で受理した一審の刑事案件と刑事犯罪発生率(人口10万人あたりの発生件数)を表したものである。

表3−1 中国における最近の刑事犯罪の動向


中国・刑事犯罪・法院受理件数・発生

「人民日報」1986年以降各年における全人代報告,中国公安部報告などで作成

 表3−1では,刑事犯罪の発生率は毎年数値が公表されているわけではないので,その実態の推移が正確には把握できない。86年,87年および90年から92年と94年については当局の公表数字である。96年の発生率は,香港の雑誌『争鳴』(97年4月号)から算出したものである。
 刑事案件について裁判所での受理件数をみると,90年をピークにして93年まで減少したが,94年には件数で90年をこえ,その後再び増加し,96年では過去最高の受理件数を記録した。発生率では,86年と87200をこえた。94年には142にまで減少したが,96年には400近くまで激増しているのである。これらの数字を検討すると,幾分の波はあるものの数値は全体として増加しており,とくに発生率は判明している数値だけでみると8倍近くにも増えていることが分かる。
 この両者の数値について見てみると,裁判所での受理件数は,86年が29万8000件余であったのが96年には57万2000件余と2倍弱にしか増えていないのに,刑事犯罪発生率が8倍近くも増えているのである。全国人民代表大会における最高法院と最高検察院の両報告に対する批判が,最も多かったことの理由がこのあたりにあるのであろう。公安部長は,「95年に,全国の刑事案件がピークを迎えた後,翌96年の全国における刑事案件の総数が初めて下降した」と述べた。しかし,刑事犯罪の増加とそれによって招来する社会治安の悪化に対して,数値を見るかぎりでも明らかなように,取締り当局が充分に対応していないのではないかという不満が,少なくとも代表大会の代表の批判票の多さに表れているといえよう。加えて,取締り当局のさまざまな腐敗は,人々の不満に拍車をかける。公安部長は,刑事案件の発生が減少したことで人々の安心感が増大したと述べた。しかしながら,果たしてそう言い切れるのか,これまで見てきた数値から判断してして甚だ疑問と言わざるを得ないのである。

2 香港およびマカオの動向

 香港の刑事犯罪発生件数およびその発生率について,香港政庁編の『Hong Kong (Annual Report)』などから,86年から96年までの動向をあらわしたものが表3−2である。

表3−2 香港における最近の刑事犯罪の動向


香港・犯罪発生率
 

 香港社会の急激な変動は,1949年の中華人民共和国建国以来急激な人口増によって戦後最初のピークを迎えたが,とくに60年代は工業化の波によってさらに急激に変動し今日に至っている。この時期のある年には,中学校への入学者数が425%,工場従業員の年収が20倍にも増加したが,反面失業率はわずかに3%にとどまった。
 しかしながら,こうした人口増や工業化の進展という社会変動は,社会の豊かさを招いたばかりでなく強盗や暴行といった暴力犯罪がそれぞれ3116%増と722%増,さらには未成年の逮捕者が500%増といったような最悪の社会治安情勢をも伴っていたのであった。
 表3−2に示されたように,90年に犯罪発生率が急激な増加をみせている。その増加原因の主要なものは,武装強盗の増加(前年比1577件増)と自動車窃盗の急増(前年比44.6%増)であった。こうした香港の犯罪が中国との関係において,以前には見られないほど深く密接にかかわり合ってきた。それは,盗まれた自動車が大量に中国に渡り,武装強盗団が中国の広東省から来て仕事を終えると中国領内に引き揚げることが度々起きたことがその証左であり,さらには中国からの不法入国者が急激に増加したこと(90年には1日で76人の割で流入し,以後年々増加し93年には年間3万5000人余と一つピークを迎えた)などもその一つの背景となろう。
 こうした中国と深いつながりのある犯罪も香港当局の努力と中国当局との連携によって次第に鎮静化の方向にある(92年から96年まで中国から香港に送還された刑事犯は90人以上となった)。96年の犯罪発生率は,1252.6と90年代に入ってからは最低の率を記録したことがその証となろうか。
 さて,香港の刑事犯罪の動向にみる社会治安の動向は,上述したようにとくに最近においては中国の治安動向とまったく無関係に推移するのではなく,ある程度の影響を被ることは否定できない。7月の香港返還以降の動向についてはなお明らかではないが,犯罪が急激な都市化や工業化のもとで,その変化に伴って正比例し,社会治安もそれにつれて悪化したことは60年代の香港社会が経験したことであった。中国が70年代末以降の「改革・開放」路線を採ることで急速な経済発展を遂げるなかで,経済的政治的に密接な関係を急速に構築してきた香港は,以前にも増して経済発展を遂げた。とくに中国との関係でいうなら,90年以降の香港における社会治安の悪化は,香港自身の状況に加えて,中国社会の経済発展がもたらした社会の流動化の影響をもろに受けたことによるのであろうことは容易に想像できるところである。
 すでに見てきたように,香港の経験に則していうならば,中国における社会治安の悪化は,その主要な要因が中国自身の経済発展によるところであることは明らかであって,香港の状況はかかる中国の変化に伴ってその影響のもとにあると言わざるを得ないのである。
 ただ,96年における犯罪の発生率の低下は,当局の努力の成果でも(GDPは,95年が2.7%,96年が2.2%増と衰微),すなわち安定がもたらした結果に帰結するのであろう。しかしながら,返還以降さまざまな分野で「中国化」が顕著となってきた香港において,中国における治安悪化の影響は,もはやこれまでのように香港自身の状況によって,ある程度コントロールできるとはだれも保証できるものではなく,直接的に香港の社会治安の動向に反映する。このことは,香港に隣接するマカオの状況が如実に表しているといえよう。
 マカオは,香港に隣接する人口40万余りのポルトガルの植民地であり,カジノなど観光業を主要な産業とする静かな土地で,香港と同様に99年には中国に返還される予定である。ところが,カジノの利権などをめぐって犯罪組織が白昼堂々と抗争を繰り広げ,本来「静かな土地」であったマカオがにわかに騒然としてきた。
 このような状況に対して返還を前にした中国当局は,最近担当者を異例のやり方で派遣し(本来なら香港経由で派遣するところを直接派遣),マカオ当局に治安対策の強化を再三申し入れたのである。
 中国当局のこの申し入れに対してマカオ当局は,抗争当事者の犯罪組織については中国当局にも取締りの責任があると反論するなど,さほど積極的な対応をしなかったという。
 ところで,中国当局がこのような申し入れをしなくてはならない背景となったマカオの治安状況は,どのようなものなのであろうか。以下に掲げる表は,最近のマカオの状況を示すものである。

表3−3 マカオにおける最近の刑事犯罪の動向

発生件数
暴力犯罪
その他
犯罪発生率

1993年
   5,322
   1,307
3,401
1,346.3

1994年
 5,966
 1,111
3,744
1,453.3

1995年
7,181
1,365
4,618
1,692.0

資料: Macau in Figures http://dsec.ctm.net より作成

 表3−3は,93年からわずか3年間の動向を表にしたものにしか過ぎない。この表だけからではマカオの治安状況を検討することは,資料の制約があるとはいえ,当然のことながら満足のいくものではない。しかしながら,単純とはいえ,かえって最近の状況を端的には表しているといえる。それは,この表から少なくとも次のようなことが読み取れるからである。同時期の香港に比べて犯罪発生率の伸びが急激であること,94年以降には香港に比べて発生率が高くなったこと,犯罪の種類でみると暴力犯罪については香港では減少しているにもかかわらず逆にマカオでは増加し,上述したように組織犯罪による凶悪犯罪増加の裏付けとなっていることである。
 このような犯罪状況について,マカオ当局は中国から犯罪者および犯罪組織が大量に流入した結果,犯罪が増加したと表明している。まさしくこのことが,マカオ当局が中国当局の責任を言及する根拠となっているにほかならないのである。
 一方で,マカオの経済状況は,GDPの伸びが93年の13.3%から95年の12.9%と高い伸びをみせ,失業率は同時期2.1から3.6%と比較的安定している。マカオは,まさしく中国と同様に高い経済の成長率を誇っていることも見逃せない。失業率が徐々にではあるが悪化しているとはいえ,この点に注目すると,犯罪発生率の増加はこれらを要因としているともいえる。そうだとすると,マカオ当局が中国当局の責任を追求したときの根拠がにわかに重みを増してくるのである。当然のことながら,経済成長に伴う犯罪の増加とそれを要因とする社会治安の悪化に対するマカオ当局の「無為無策」の責任は免れないものの,同じような経済成長を遂げる中国の治安状況悪化は,今や独り中国国内だけの問題に押しとどまらず,犯罪の輸出という形をとり,マカオの状況は,その影響をモロに被った結果にほかならないといえよう。

3 台湾の動向
 
 台湾と中国との関係には,中国の対外開放路線への転換もさることながら,87年に実行された台湾の戒厳令解除によって新たな関係がもたらされた。台湾は戒厳令解除以降もなお「三不通」政策を改めないが,実質的には台湾と大陸との間でのさまざまな交流は解禁されたといっても過言ではなく,人や物の交流は年々盛んとなっている。とくに台湾の対岸で歴史的文化的に太い絆のある福建省を足掛かりに,台湾から大陸への直接投資は急増しているのである。
 台湾は,80年代以降急速に経済発展し,それにつれて政治的民主化が進展して,かつての国民党一党独裁の政治は,現在では総統の直接選挙などでみられるように複数政党の存在が認められている。台湾における経済発展や民主化の進展は,「台湾の奇跡」とよばれ,これまでアジア経済の牽引的存在として重きをなしてきた。さらに,最近ではかつて同じように経済発展した韓国や香港などの経済が,かつての面影もないほどに凋落しているなかで,なお好調が伝えられるのは,その経済政策の手堅さや経済の構造的要因によるといわれている。
 さて,政治的経済的に大きく変化した台湾における社会,とくに社会の治安状況はどのように変化し,さらに今日どのような状況にあるのかを以下で検討してみよう。
 以下に掲げるグラフは,上述した中国や香港と同じ時期に限定し,刑事犯罪の動向を発生率の推移で表したものである。

表3−4 台湾における最近の刑事犯罪の動向

台湾・犯罪発生率


資料:「中華民国年間」民国85年(1996年) 版,内政部刑事統計資料(1997年)などから作成

 台湾の刑事犯罪の発生率は,85年以降これまで見てきた他の地域と同様に,概して増加傾向にある。85年が317.3で,96年は941.1であるから3倍以上の発生率増となっている。著しい経済発展を遂げる台湾においても,当然のことながらこのような犯罪の増加を伴っているのである。
 グラフをもう少し詳しく検討すると,90年は85年の1.4倍であるのに96年は90年の2倍も発生率が増加している。このことから,中国と同様に90年代以降の増加率がそれ以前の増加率に比べて著しく多いこと,さらに香港とは逆に94年以降急激に発生率が増加していること,また減少から増加に転ずるところが2か所あり,中国や香港における動向と共通する現象で,時期的にも大体似通っていることなどが見て取れる。
 90年代以降の台湾における犯罪の増加は,主要な要因の一つとして大陸からの流入者の増加に求める向きもある。事実,戒厳令解除以後,急激に大陸からの密航者が増えているという事実はある。香港のように中国の当局と密接な連携のもとにこれら不法入国者の摘発および犯罪者の取締りが行われているわけではないので,かかる議論も説得的ではあろう。また,国民党一党独裁が崩壊し多党化現象の真っ直中,急速に民主化の進展する台湾では,こうした政治的原因によって,例えば地方行政の首長が利権がらみで殺害されることは極端な例ではあろうが,従来の利権構造が次第に払拭されつつあるなど,社会の構造的変化を伴っての流動化が促されている。そしてこのことは,社会治安の悪化を招く大きな要因となっていることも見逃してはならないであろう。
 しかしながら,「台湾の奇跡」と呼ばれる経済発展を現出させた台湾においても,なお詳細なる検討の余地はあるものの,大まかにいってこれまで見てきたように中国や香港と同様に,その社会治安動向は経済動向いかんによって決まる点は,どうしても見逃せないところだといえよう。

おわりに
 
 今や諸般の活動は,とくに経済の活動に注目するなら都市化や工業化あるいは人やモノの流動化が激化する経済発展は,一国や一地域の枠を越えて広がり,その動向はあたかもこれらの活動領域にそれぞれ異なる支配権力が無く,このために何の制約も受けないかのような動きをみせる。もし社会治安の動向が,こうした経済活動の影響のもとにあって密接に連動するとするなら,当然のことながら社会治安の問題は,もはや一つの地域や国家の枠組みを越えて,ボーダーレスという当然の条件の下で考慮しなければならない。
 十五全大会で,他のアジア諸国が凋落する中でさらなる経済発展を追求し21世紀には経済大国化するとした中国は,内部にさまざまな矛盾を抱えつつ強気の姿勢をとる。
一方で,経済成長などによってもたらされる工業をはじめとする諸産業の大型 化や集中化に加えて,各種人材,資本が流入することによる都市の急激な発展と翻って工業化によって大型化する都市を後目に,農村部においては人材の流出や投資の不足から疲弊する社会資本が放置される状況は,地域間の大きな格差を生んでいる。さらに,党や行政府のとくに経済部門の権限強化は,たとえば本来集権的な構造にあって権力に近い者や経済発展の波にうまく乗ったものにとっては有利であり,それゆえにこれまで経験しなかった階層間格差の一因となっている。このような国内の矛盾は,急激な変化に伴ってますます先鋭化している。こうした地域間や階層間における経済格差をはじめとするさまざまな矛盾は,当然のことながら刑事犯罪の温床となっているのである。したがって,先行する香港や台湾の経験に即して言ううならば,刑事犯罪の増加率は経済成長の進展度と正比例する関係にある。急激な経済発展は必然的に深刻な治安の悪化を伴うものであって,究極のところでは経済成長か社会の安定かの二者択一を迫るものといえる。
 さらには,経済活動と同様に犯罪活動は,今や国家あるいは地域といった個別の権力の枠組みを越える存在でもあるということを厳しく認識しなくてはならない。おそらく資本や商品の移動は,その移動先と移動元のそれぞれの事情を反映するだけでなく,相互に影響し合うものでもあるように,今日,犯罪活動も同じような性格を持つものと考えるべきなのであろう。そうだとするなら,社会治安の問題も相互に関連し合うものだとすることは当然の成り行きなのである。
 翻って,中国が今後ますます対外開放を進め,経済発展するとなると,台湾や香港あるいはマカオといった中国と密接な関係にある地域もまた同様に,中国の動向を注視しなくてはならないといえる。


第4章 中国の軍事・安全保障分析−−装備近代化の進展と課   題

はじめに−−過渡期を担う江沢民体制
 
 1997年2月のケ小平の死は,中国にとってカリスマなき時代の始まりであった。中国にとって未知の領域ともいえる時代のなかで,江沢民指導部は7月の香港返還,9月の共産党大会を乗り切った。紀元2002年までの政権を担当することになった江沢民の任務は,まさに世紀の変わり目の中国,カリスマなき時代の中国を新たな段階に導く過渡期を担うことにある。この時期を乗り切るということは,中国にとって「21世紀の超大国」への扉を開くことを意味する。
 この過渡期を乗り切る課題の一つが軍の近代化である。中国の軍事力はその規模において世界最大ではあるものの,老朽化した兵器装備に代表されるように現代のハイテク戦争を戦える態勢にあるとはいえない。そうした意味も含め,中国がその国際的地位に相応しい近代的な軍事力の保持をめざすことは,江沢民指導部にとって必然的な要求であろう。
 かかる状況のもとで,党大会で確認された軍指導部が今後の中国の軍近代化を担うことになる。しかし,マンパワー中心に組織されてきた軍を,ハイテク化した機動力のある近代的な軍へと再編する作業が容易でないことはいうまでもない。本章では,党大会で確認された軍人事を検討し,さらに兵器装備の近代化に向けた取り組みを概観することでその作業の一端をうかがいつつ,中国の軍近代化の問題点をいくつか指摘することとしたい。

1 中国共産党十五全大会に見る軍の陣容

 97年9月の中国共産党十五全大会で,劉華清(党中央政治局常務委員,中央軍事委副主席)と張震(中央軍事委副主席)の2名が高齢のため引退し,代わりに張万年中央軍事委副主席が党中央政治局委員,中央書記処書記に就任し,遅浩田中央軍事委副主席・国防部長も中央政治局委員に就任した。当初,張万年が劉華清の後を襲い,政治局常務委入りが有力視されてきたが,結局見送られることになった。その背景に,張万年と遅浩田の確執があったともいわれるが,真相はわからない。
 これまでは政治局委員以上の軍人は常務委員の劉華清と委員の楊白冰であったが,楊白冰が事実上活動を停止していたため,実質的には劉華清1人が軍人を代表していた。今回の人事で張万年と遅浩田の2人が政治局入りしたことで,軍の影響力は維持されたと見ることができよう。ただし,この2人が協力関係を築けなければ,その影響力は減殺されざるを得ないであろう。
今回の党大会では,江沢民が政治報告の中で今後3年のうちに50万の兵員を削減することを公表し注目された。現有の総兵力が約300万であるとすれば,250万の軍隊規模をめざすことになる。削減される対象は,戦略的重要度の低い歩兵が中心で,主に武装警察部隊に転換されるとみられている。兵員削減の目的は,軍の少数精鋭化でハイテク装備の充実を図り,「現代的条件下での局部戦争」を戦う能力のある軍隊を作ることである。周知のように,中国の軍近代化はケ小平の指導下で進められ,85〜86年には100万の兵員削減を行うなど,スリム化の努力を行うとともに,88年には階級制度を復活させ,近代的軍隊の体裁を整えた。翌89年から,毎年2桁の国防支出増が開始され,軍装備の近代化に拍車がかけられてきた。
 冷戦後の90年代に入ると,アメリカの東アジア戦略の見直しによる軍事プレゼンスの削減が中国海軍の南シナ海進出,ロシアからのスホーイ27戦闘機などハイテク兵器の中国への供与などと相まって,軍事大国化する中国の「脅威」さえ囁かれるようになった。今回の党大会をふまえ,97年11月27日から12月1日にかけて北京で総参謀部による全軍装備工作会議が開催され,まだ詳細な報道はないが12月に中央軍事委拡大会議が開催され,軍指導幹部の異動が進展する。中国の軍事的「脅威」は,実態と比較し誇張されたイメージが先行しているが,周辺諸国への「脅威」となるかどうかは別にして,近代的な軍事力を整備できるかどうか,解放軍がまさに正念場の時期を迎えていることはたしかである。

2 軍近代化の展開と戦略

 「改革・開放」路線を推進するなかで,軍の近代化はこれまで経済建設の大局にしたがうことが原則とされてきた。経済の基盤を確立することがまず優先され,軍の近代化は「後回し」とされてきたのである。事実,80年代の国防支出は,90年代の急増ぶりとは対照的に低く抑制されてきた。しかし,92年の中国共産党十四全大会で江沢民が軍の役割について「国家の主権,領土,領海,海洋権益の擁護」を挙げ,「国家の安全と現代化建設の基本的な保証」であると指摘するに及び,軍の近代化のペースが国の経済成長に見合うレベルにまで引き上げられていることが確認された。
 中国は80年代後半から,経済と科学技術を中心とした総合国力の強化を強調するようになる。経済と科学技術を前面に出すことによって,軍事力の位置づけは相対化されたかのような印象を受けるが,中国にとって軍事力が総合国力の全般を表す指標であることに変わりはなく,むしろ経済と科学技術は軍事力強化の基礎とされるのである。
中国内部において軍近代化の優先順位が高まったことは重要な変化である。しかし,それがそのまま中国 が「軍事大国」をめざして邁進することを必ずしも意味するものではない。まず第1に,中国の成長が著しいとはいえ,その経済基盤はまだまだ脆弱であり,「経済建設」優先の路線はここ当分継続されると考えるべきであろう。第2に,中国は80年代から「独立自主」外交をテーマに,周辺諸国との友好関係を確保・推進する全方位外交をめざしてきた。それは,「経済建設」を優先させるために平和な国際環境が必要であるとする現実的要請に基づくもので,周辺諸国を懸念させる軍事大国化は,その要請に逆行するものだからである。第3に,国家としての経済成長は順調だが,政府の財政は赤字基調が続いており,国防支出を急拡大させる余力はない。そして第4に,全方位外交の成果もあって,中国にとって外部からの軍事的脅威はおおむね見当たらない状況にあり,軍備の増大を急ぐ客観的情勢にはないことを指摘しておくべきだろう。
 その結果として導きだされる見方は,中国にとって経済成長を犠牲にするような急激な軍備増強路線が選択される可能性は低く,軍の近代化はあくまでも経済成長と歩調を合わせたレベルにとどまり,その意味で抑制的なものと考えるのが妥当であろう。
 そうであるにしても,あるいはそうであるからこそ,有限な資源を中国が軍近代化に向けてどう重点配分していくかに注目しなければならない。中国共産党十五全大会の江沢民報告では,50万の兵員削減と同時に,「現代技術,特にハイテク条件下における防衛作戦能力を向上させなければならない」と述べられているように,第1に局地的事態に対応するための柔軟反応が可能な小規模ハイテク戦力の構築であり,空挺戦力の充実など機動力のある急速反応部隊の整備が指摘できる。しかしながら,第2として日本の26倍という広大な本土を防衛するためには,内陸国境などで紛争が生じた場合における補給の弱点をカバーする意味からも,装備の水準は高くなくとも一定規模の兵力を確保しなければならず,それを分散配備しておく必要がある。さらに,第3として国外からの核攻撃の脅威に対処するため,小規模ながら信頼性の高い核抑止力を維持することが求められる。
 こうした戦略的要請に具体的に対処する場合,地理的に重点が置かれるのは東部沿海の海上防衛ということになる。80年代後半から推進された中国東部の沿海諸都市を中心とする経済発展戦略の結果,経済産業基盤を外部からの攻撃に脆弱な東シナ海沿海部に抱えることとなった中国にとって,それを守るためには海・空軍力の強化が必然的に求められることになる。
 90年代に入って,中国がロシアから航続距離の長いスホーイ27戦闘機の導入を開始したり,静粛性の高いキロ級通常動力潜水艦を購入したり,さらには東風11号 (M−11) ,東風15号 (M−9),東風21号といった新世代の戦術ミサイル,準中距離ミサイルの開発をすすめてきた背景には,こうした状況が指摘できるのである。
 また,核抑止力については,中国はアメリカ,フランスなど他の核保有国が相次いで核実験を停止するなか,96年夏まで核実験を継続し国際世論の批判を浴びたが,通算45回目の実験を最後に停止に踏み切った。言うまでもなく,同年秋に調印された包括的核実験禁止条約(CTBT)をにらんでの措置であった。中国が核保有国のなかで最後まで核実験の実施に固執したのは,中国が現在計画している新世代の戦略ミサイルに搭載するための核弾頭の小型化をめざしていたからである。実験停止を決定したからには,中国は核弾頭の小型化技術をとりあえず確立したと解釈できる。今後は,こうした核弾頭を搭載したミサイル開発に重点が置かれることになる。
 次節において,中国軍の装備近代化の実態を具体的にフォローしてみることにする。

3 兵器装備近代化の重点領域

 中国の軍装備が西側先進諸国との対比において,大きく後れを取ってきたことは周知の事実である。1950年代末から80年代を通して,中国は軍装備の近代化に関して,現実に「自力更生」路線を選択せざるを得なかった。中国軍の「巨大さ」はあくまでも量的なものであって,それが91年の湾岸戦争によって西側のハイテク兵器の前では中国のようなローテク兵器の軍備が無力であることを露呈してしまった現在,兵器装備のハイテク化は中国軍にとって焦眉の急ともいえる課題となっているのである。
 中国は,米ソ冷戦の終結とその後のロシアの経済的窮乏を奇貨として,ロシアをハイテク装備の主たる供給源に,90年代に入ってから急速に装備の近代化・ハイテク化をめざすようになった。また,冷戦終結による国際的な緊張緩和によって,西側先進各国の防衛産業への需要が低下し,生き残りをめざすために中国への兵器の売り込みを図るようになってきた現実も指摘しなければならない。
 中国が現在,重点を置いている兵器装備の領域を取り上げ,中国のその現状を検討すれば次のとおりである。

(1) 情報・監視・偵察システム
 現代のハイテク戦争は,言うまでもなく情報戦争であり,いかに早く正確に敵の行動を把握するかが重要な目標となる。そうした点について中国を見た場合,中国は衛星打ち上げを国際ビジネスとして展開しているように,衛星打ち上げ能力は高い(ちなみに,中国が衛星打ち上げに使用している諸タイプの「長征」ロケットは,中国の大陸間弾道ミサイルである東風5号と基本的には同一である)。しかし,軍事情報・監視衛星の分野では大きく立ち後れており,現在でもリアルタイムで処理できる写真偵察衛星の能力は保有していない。こうした後れは中国も自覚しており,急速なキャッチアップをめざしている。軍用の静止軌道衛星を一両年のうちに打ち上げることができれば,映像情報・偵察の分野での能力向上は間違いない。
 (AWACS)を持っていない。こうした能力がない状態では,海・空軍の統合作戦などでも限界がでてくる。中国は80年代後半から早期警戒機の獲得をめざしてきたが,現在の中国国内のレーダー技術等では不可能であり,外国メーカーの協力を取り付けたとしても,契約時点から運用可能な機体を保有できるようになるまで,4〜6年を要するとみられている。そうしたなか,注目されているのがイスラエルとロシアが協力して,ロシアのベリエフA50輸送機の機体にイスラエルのファルコン・レーダー・システムを組み込んだAWACSを中国に売り込んでいることである。このレーダー・システムは800キロの範囲で管制が可能な能力をもつとされ,ロシア側の情報では中国は8機ほど購入する意思を示しているとされる。

(2) 指揮・管制システム
 情報・監視・偵察システムによって得られた情報を実際の作戦に運用する際の指揮・管制・通信・コンピュータ・情報システムの技術進歩がめざましいことは,湾岸戦争を例に引くまでもない。そしてこの分野においても中国が大きく立ち後れているのは事実であって,西側の水準と比較し2世代前の状況であるとみられている。
 2世代という期間が具体的にどのくらいのリードタイムを意味するかはわからないが,かりに10年程度であるならば, この分野での中国の劣勢は当分の間続くものと思われる。ただし,中国で爆発的に携帯電話が普及したように,地上のインフラ整備にかかる比重のすくない衛星による通信システムが中心を占める今日の技術革新は,技術的・設備的な後進性を一挙に先進的水準にまで高めることを可能にした。いわゆる情報技術革命が進行している現在,中国の軍事通信・情報技術が飛躍的に向上する可能性のあることを無視するわけには行かないだろう。

(3) ミサイル開発
 中国が現在取り組んでいるミサイルの世代交代とは,これまでの液体燃料・固定基地配備のミサイルから,固体燃料・車載移動式のミサイルへの転換である。すでに実戦配備されている新世代のミサイルとしては,東風11号 (射程300キロ,弾頭重量500キログラム) ,東風15号 (同500キロ,500キログラム)の核弾頭搭載可能な戦術ミサイルと,夏級原子力潜水艦に配備されている巨浪1号(SLBM),ならびにその地上発射型の東風21号 (MRBM)でともに射程は1800キロ前後である。95年夏と96年春の台湾近海に向けたミサイル発射訓練で使用された東風15号は,輸出用の名称であるM−9のほうが通りがいい。命中精度を示す半数必中界 (CEP)は280mであるが,カー・ナビゲーションなど民用でも普及が著しい衛星を利用した位置確認システムである「汎世界測位システム」(GPS)が今後導入されれば精度は誤差30〜40mにまで向上するといわれている。東風21号は車載移動式で日本を射程内に収めて配備されているとの情報もある。200〜300キロトンの核弾頭を装備するほか,通常弾頭型もある。
 12000キロの東風41号の大陸間弾道ミサイル(ICBM)で,東風31号には潜水艦配備型である巨浪2号という派生型も同時開発中である。東風31号は96年12月28日に4回目のテストが行われたという情報があるが,これら開発中の新世代ミサイルの実験情報はきわめて少ない。東風31号は,早ければ98年にも配備開始の可能性があるといわれる。なお,巨浪2号を搭載する新型原子力潜水艦(タイプ094)は,16基の発射管を装備するとされ,建造されるとしても2005年ころとみられている。東風41号は,現在配備されている東風5号を後継するフルレンジのICBMで,ほぼ全米をカバーするだけでなく,3〜6個の弾頭をもつMIRV(複数個別目標弾頭)を装備するといわれる。2010年ころの実戦配備が見込まれている。
 注目されるのは,中国がこのMIRV技術ならびにICBMの精度向上に関して,ロシアからSS−18の技術を導入したという情報があることである。ロシアのSS−18ICBMは,アメリカが最も恐れた核ミサイルの一つであり,米ソの戦略兵器削減交渉(START)でも,アメリカが真先にソ連に廃棄を要求した,アメリカも保有してMIRV技術を獲得すれば,開発中のミサイルのみならず,現有の東風5号ICBMにも応用されることになろう。

(4) 海上戦闘能力
 中国の海上艦船は,潜水艦も含めて旧式艦が多く,また領海上空をカバーする航空戦力にも限界がある。こうした状況のもとで,例えば南シナ海だけを取り上げても中国の制海能力は十分とは言い難い。しかし,21世紀に向けて近代的な戦力の導入も着々と進められている。
 その成果として,中国は90年代に入って2隻の旅滬級ミサイル駆逐艦を建造しており,4200トンという排水量は中国海軍の海上戦闘艦として最大である。ただし,主動力であるガスタービン・エンジンはアメリカ製で,装備されるクロタール短SAM(艦対空ミサイル)やその管制装置,レーダーはフランス製という具合に,外国製の部品や装備を組み合わせて作られているのがこの艦の特徴となっている。ただし,中国はまだ船舶用ガスタービン・エンジンを製造できず,アメリカから同エンジンの供与が期待できない現在,同艦の建造を続けるためにウクライナ製ガスタービン・エンジンの調達が予想されている。
 さらに中国は,ロシアからソブレメンヌイ級駆逐艦2隻の購入を決めている。96年3月の台湾海峡危機において,アメリカが空母ニミッツ,インディペンデンスを展開し,その強大な攻撃力を誇示したことへの対抗措置とみられており,2000年までに中国に引き渡されると見込まれている。これによって,中国は初めて近代的な戦闘能力を備えた戦闘艦の保有が実現することになる。とくに注目されるのは,同艦が装備するSS-Bsyuracom-22サンバーンと呼ばれる対艦巡航ミサイルで,これは水面ぎりぎりの高度をマッハ2のスピードで飛翔するものである。アメリカ側の分析では,イージス・システムを備えた艦船でなければ対処できないとされるが,たとえば台湾海軍にはイージス艦は存在しない。アメリカ海軍にとっても侮れない戦力となる。
 中国が空母獲得に長年にわたって執着しているのは事実だが,ここにきてロシアからの駆逐艦導入を先行させたことは,中国の海軍戦略の転換をうかがわせる。空母が基本的に攻撃に脆弱なターゲットになりやすく,アメリカ海軍もイージス巡洋艦・駆逐艦によって空母を護衛している。中国が1〜2隻の空母を保有しても,それを護衛するイージス艦の保有にまで手を回す余力はない。それよりはむしろ,アメリカの空母機動部隊に直接的な脅威となりうるソブレメンヌイ級駆逐艦を保有したほうがメリットが大きいという判断が見て取れる。
 潜水艦戦力の強化においてもロシアの協力が大きい。中国はロシアから4隻のキロ級通常動力潜水艦を購入する契約を結んでおり,すでに2隻の引き渡しが完了している。残りの2隻のうち1隻は年内にも引き渡され,最後の1隻も98年内には引き渡される見込みである。最初の2隻は,輸出用のタイプ882と呼ばれるものであるのに対し,残り2隻はタイプ636と呼ばれ,アメリカの改良型ロサンゼルス級原子力潜水艦に匹敵するほど静粛性が向上していると評価されている。
 ロシアはまた,中国の次世代原潜開発にも協力しているとされる。中国の原潜は漢級と呼ばれる攻撃型原潜5隻と,それを基礎にした夏級ミサイル原潜1隻があるが,ともに性能的に問題を抱え,作戦行動も沿海部分にとどまっている。こうした苦い経験をもとに,中国は次世代の攻撃型原潜(タイプ093)と,これをベースとするミサイル原潜(タイプ094)を開発中であるが,ロシアは95年以来中国に協力してきているとされる。タイプ093の建造はすでに94年に開始されており,一番艦は2001年に就役が見込まれている。同級の原潜は2010年までに計3隻が建造される見通しで,旧ソ連のビクター級原潜に匹敵する性能をもつと予想されている。
 タイプ094のミサイル原潜は,一番艦の建造が2005年頃で,2010年までに3隻が建造される見込みである。前述のように,同艦にはそれSLBMがアメリカ本土をねらう状況が出現すれば,アメリカの攻撃型原潜にとっても新たな重大任務が課せられることになる。

(5) 航空戦力
 中国はすでにロシアから50機のスホーイ27戦闘機を獲得している。そして今後15 年にわたって同機を200機ライセンス生産することになっている。さらに中国は,ロシアに対してスホーイ27の対地攻撃能力を向上させたスホーイ30戦闘機50機の購入を現在交渉中であるとされている。スホーイ27戦闘機は,周知のように米軍や日本の航空自衛隊の主力であるF15戦闘機に匹敵する性能をもつばかりでなく,作戦行動半径が1500キロにおよぶ航続距離を誇る第4世代を代表する戦闘機の一つである。中国が前述のAWACSや後述する空中給油機を獲得すれば,スホーイの脅威は,そこにスホーイ30がラインナップされれば,南シナ海はおろか,グアム島やオーストラリア,さらにはインド洋にも及ぶことになる。
 高価であるがゆえに多くの機数をそろえることが困難なスホーイ27を補完する意味で,中国が開発中のJ10戦闘機が注目されている。注目されるのは,その性能がアメリカ海軍の次期主力戦闘機であるF18E/F型よりも性能で上回ると見積もられているだけではなく,それが外見からアメリカの援助でイスラエルが開発し,結局87年にキャンセルされたラビ戦闘機にきわめて似ているからでもある。イスラエル当局の否定にもかかわらず,J10戦闘機の開発にイスラエルの協力があったとする情報は多く,アメリカがラビ戦闘機の開発に14億ドルを注ぎ込んだのみならず,これによってアメリカとイスラエルの最新の
航空軍事技術が中国に流出したことになる。ただし,開発をめぐる情報は錯綜しており,すでにプロトタイプが完成したものの墜落し,開発が行き詰まっているという情報もある。もし順調に開発が進むものとすれば,2005年までに飛行中隊規模(約20機)ほどの就役が見込まれるとされている。
 空母をもたない中国にとって,海上の防空能力を向上させるために空中給油機の保有は大きな課題となってきた。96年11月,広東省珠海で開かれた航空ショーでロシアが展示したイリューシン(IL)78空中給油機が一際注目を集めたのはそうした事情が周知であったからにほかならない。同機はスホーイ30に5回(5機分)の給油能力をもつとされている。中国はすでに同型のイリューシン76型輸送機を10機ほどロシアから購入している実績があり,この空中給油機を購入する可能性はかなり高いとみられている。

4 中国軍近代化をはばむ障害

 中国の軍近代化について,装備を中心に検討してきたが,明らかに見て取れる特徴は外国それもロシアの協力がきわめて大きいことである。装備のハイテク化は,中国の現在の国内の工業技術,科学水準では実現できないがゆえの対応であることは間違いない。しかし,たとえばスホーイ27戦闘機の国内ライセンス生産の計画に端的に示されているように,中国は経済的理由から主要兵器を必要なだけの量を購入することよりも,一定の数量を購入したあとは,それを国内生産 (リバース・エンジニアリング) しようとする傾向がある。もちろん,それによって国内の工業技術水準を向上させようとするねらいもあるだろう。そうした意味で,今後の中国の軍近代化は,中国自身が外国の技術をどこまで消化し再現できるかが問われることになる。ただし,中国はこの点についてはかばかしい実績をあげてはいない。1960年代に手に入れたミグ21戦闘機をもとに複製化を試みたJ7戦闘機が結局,それ以前のミグ19を基礎にしたJ6戦闘機から主力の座を奪えなかったことがそれを示している。
 さらに指摘しなければならないのは,導入したハイテク兵器を実際に運用する能力,さらに他の戦力と組み合わせて統合作戦のなかで運用する能力など,ソフトウェアに属する部分が中国に十分蓄積されているかどうかがますます問われることになる。すでに2隻を導入したキロ級潜水艦についても,整備不良や乗員の訓練不足から運用実績があがらないという情報もある。
 しかし,もっと基本的な議論をするならば,中国は以下の3点で軍の近代化に大きな限界をかかえているといえる。まず第1に,ハイテク条件下の現代戦争を戦う人材の育成が大きく立ち後れていることである。ケ小平が進めた軍事改革のなかで,幹部の若年化,専門化が課題となり,とくに陸・海・空の3軍協同作戦を指揮できる幹部を養成するために国防大学が設置されたのが86年であった。以来12年を経ているが,中国が部分的にせよ西側の水準に近い兵器を配備するようになったのは90年代以降であり,それまでハイテク兵器を運用する実戦経験はもとより演習の経験さえなかった。また,研修留学その他軍事的先進国家への人材派遣を積極的に行った形跡もみられない。せいぜい幹部の相互訪問などによる交流が始まった程度である。中国は長く毛沢東の「人民戦争論」に立脚した軍事ドクトリンを信奉してきたが,その過程で兵器装備の近代化が実際の戦術,戦略にあたえてきた影響などの研究は等閑視されてきた。こうした状況のもとで,中国でハイテク戦争に備えた軍人の教育にあたって,それを指導する人材が確保されているようにはみえないし,この点に関して早急な事態の改善は望むべくもないのである。
 第2に,中国は82年以来,独立自主の外交をうたい文句にしているが,それ以前からアメリカやソ連と対立してきた関係もあり,軍事的には孤立した状況が続いてきた。「改革・開放」の時代を迎えても,兵器装備の近代化に向けての西側接近はあったが,その運用思想や運用ノウハウでの協力関係までには至らなかった。特定の国との軍事演習の実施は独立自主外交の主張と矛盾するからである。軍は,日頃の訓練や演習を通じて実力を高める組織であり,解放軍も例外ではない。日本の自衛隊でさえリムパックなどアメリカと共同の演習を行うことで,より高い能力をもつ軍隊に接する機会を確保している。こうした
機会を欠いている中国が,アメリカと何らかの軍事的協力関係をもつ東アジア諸国と比較しても,自らの能力を向上するにあたって大きな限界を抱えていることがわかる。
 第3に,中国の伝統的軍事思想がネックとなる。圧倒的に陸軍兵力が優勢な解放軍では,陣地戦を主体とする陸軍の軍事思想が中心を占めざるを得ない。また,アメリカと異なり本土から遠く離れた場所での作戦経験は皆無であるといってよい。すなわち,解放軍の作戦思想は基本的に本土防衛の守備隊的発想に捕らわれることになる。海軍力・空軍力は陸軍の作戦を補助する副次的戦力の位置づけとなるのであって,湾岸戦争で鮮明になったような空軍を主力とする三次元の発想はおろか,中国海軍の外洋艦隊への発展などを構想する思想的バックボーンを,現在の60歳台の解放軍指導者たちが共有しているとは思えない。それより若い世代にせよ,陸軍出身者が圧倒的多数を占める状況が変わらないかぎり,陸軍的発想の呪縛から逃れることは難しいと言わざるを得ない。
ここで指摘した中国のかかえる軍近代化の限界は,時間的経過にしたがって克服が可能である。可能であるにせよ,克服するためには相当な国内的努力と意識改革,そして時間が必要である。そして,そうしたプロセスを通じて中国が軍事的に「普通の国」になることを期待してもいいかもしれない。中 国の軍事的実力が冒険的行動を行うにはあまりに劣るという現実を中国が認識し,そして周辺諸国との軍事交流によって中国の軍事力に関する幻想が消滅することは,中国がこれからの国際社会で周辺諸国と円滑な関係を築くうえで有益と思えるからである。        

おわりに

 ハイテク兵器による現代的条件下の局部戦争に備えようとする中国にとって,現在はそのためのハイテク兵器を供給してくれる国もあれば,それをある程度購入できる財源もあるという意味で恵まれた環境にあるといえる。そして,近代化に向け重点を置いている分野についても決して的外れな方向にあるわけではない。これがこのまま順調にすすめば,そして本稿で指摘した問題点の改善がすすめば,中国が21世紀の軍事大国の地位を確保することは十分可能だろう。しかし,現状において中国にはまだまだハイテク兵器を自国で生産する能力はおろか,十分に運用する能力さえ整ってはいない。それがためにここ数
年は,中国が深刻な軍事的脅威を周辺諸国になげかける可能性は低いと考えてよいように思われる。ただし,21世紀の最初の10年が経過し,経済規模も日本に匹敵するようになる頃の中国の軍事力の水準がどうなっているか,その結論を現段階で出すことはできないにしても,留意しておく必要があることはいうまでもない。


第5章 ASEANにとっての中国−−安全保障の観点から

はじめに
 
 1997年の夏の重要な出来事の一つとして,「日米軍事協力の指針」(ガイドライン)見直しの問題があった。そのガイドライン見直しの過程で日本国内でも日中間でも問題になったのが,いわゆる「周辺有事」の議論であって,これに台湾が含まれるのかどうかで特に中国側を刺激することになった。同年9月初めの橋本訪中は,中国側に日本側の考えを理解してもらうための機会と位置づけられていたが,日本側の「周辺有事は事態の性質に着目したものであって,地理的な概念ではない」という説明に,中国側は対応を留保したままで終わった。あくまでもガイドラインの最終報告を見てから対応を決めるという姿勢である。
 しかし,だからといって中国側がそれまで何もしないわけではない。中国はすでに日米安保体制の強化に対抗する対応をしてきているのである。もともと中国は対台湾政策で,武力行使のオプションを否定したことはなかった。台湾が独立に向けて動くときや外国勢力がそれに介入してくるときには,中国は軍事力の行使も辞さないと明言してきていたのである。中国が台湾海峡で武力を行使すれば,国際海峡である台湾海峡の自由航行に支障がでるのは明白であるし,恐らくは上空の航空航路も規制を余儀なくされる。この地域が国際的な物流の重要なルートである以上,台湾をめぐる武力紛争は,中国側の「国内問題」であるとする主張は通用しない。否応なく国際問題化するし,当然ながら日本にとっても「周辺有事」の事態となる。しかもこの問題は,ASEANにとっての中国テーマとも関連する。したがって,本章では,とりあえず中国側が日米安保体制強化をにらんで取ってきた対応としてのASEAN接近に焦点を当てて論じてみる。

1 転換点となった1996年
 
 ASEANにとっての中国は,長い歴史の文脈でいえば「脅威」そのものであったし,ASEANが成立した当時も,そして現在でも中国に対する「脅威」感を払拭してはいない。しかし,米ソの冷戦が終わり,発展めざましい経済を中心に東アジアが脚光を浴びるなかで,ASEANは「成功した地域協力」としてその政治力に自信を深め,ASEANが主導する地域秩序をめざしてASEAN地域フォーラム(ARF)を実現させてきた。
 米ソ冷戦が終結し,東南アジアでアメリカのプレゼンスの退潮が予想されたなか,現実にアメリカが91年にフィリピンから撤退することを決め,この地域に「力の真空」が生まれる懸念が生じたとき,その「真空」を埋める国として中国が想定された。しかも92年2月には,中国は「領海及び接続水域法」を公布し,南シナ海の島嶼の全ての領有を宣言し,さらに南沙諸島のいくつかに領土標識を打ち立てる具体的行動に出ていた。そのため,同年夏のASEAN外相会議で「南シナ海宣言」が出され,南シナ海の領有権問題の平和的解決が求められることとなった。ARFの設置も,その隠されたテーマに中国への対処があったことは疑いない。そして,そこに中国の参加を取り付けたことによって,中国を東南アジアの安全保障秩序に参画させ,安定を構築するうえでの役割を担わせることでASEANと中国との建設的関係を築こうとするねらいが実現することとなったのである。
94年,ARFが設立されたことによって,アジアにおける多国間安保対話の時代の幕が開けたが,当初の中国の対応はきわめて消極的であった。中国は設立メンバーに名を連ねたものの,その目的は南シナ海における領有権問題をあくまでも二国間のイシューにとどめ,問題の国際化を阻止することにあった。さらには,台湾が新たにこの会合に加わり,国際的な活動範囲を拡大することを阻止することにあったといってよい。ASEAN側にしても,とりあえずは中国を安保対話の枠組みに取り込むことが目的であって,それ以上の積極的な中国側の対応を期待していたわけではなかった。
 しかしながら,ARFが会議の回を重ねて定着し,95年からはベトナムがASEANの正式メンバーに加わり,またASEANのミャンARF重視の環境が整ってきた。とくにベトナムのASEAN加盟によって,南沙諸島など南シナ海の領有権問題がASEAN全体の対応となることが予想されることになって,中国としても南シナ海問題でASEANと対抗してばかりはいられない状況となった。そして,まさにそうした環境の変化のなかで,日米安保体制の見直しが行われ,日本の軍事的役割の拡大が,中国にとって懸念される状況が生まれてきたのである。

2 中国にとっての日米同盟強化の意味
 
 96年4月,日米安保共同宣言が出され,日米安保体制を冷戦時代の対ソ対応型から,ポスト冷戦の時代に対応すべくアジア太平洋地域の紛争予防をめざすものへとモデルチェンジがうたわれたが,日米安保がアジア太平洋地域をにらんだ枠組みを設定したことに敏感に反応したのが他ならぬ中国であった。中国外交部の沈国放スポークスマンは,日米同盟が二国間の枠組みを超えるものにならないよう即座にクギを刺したが,中国側の関心は主に日本の軍事的役割の拡大に集中した。あらためて指摘するまでもなく,中国は日米安保条約が日本の軍事大国化を防ぐ「ビンの栓」の役割に着目し,その意味で同条約の意義を認めてきたといえる。しかし,中国の目から見て,日米安保のモデルチェンジはまさに中国を封じ込めるための日米同盟の強化と映ったのである。そうした判断のもとで,中国にとって日米安保条約はもはや日本の軍事大国化を防ぐためのものではなく,日本がその軍事的役割をアメリカとの連携のもとでアジア太平洋地域に拡大しようとするものとなったのである。
 日米同盟の強化を牽制す るために中国が取った対応がASEANへの接近であった。ASEANがARFを中心にすすめてきた多国間安保の枠組みに着目し,これを冷戦後の安全保障を確保する新しい手段と位置づけることによって,日米安保条約のような二国間の軍事同盟ASEANへの対応として対抗よりも協調をめざす方向に動く環境は整ってきていた。それを端的に示したのが,中国がARFの「信頼醸成措置」作業部会の共同議長をフィリピンとともに引き受けたことである。中国自身が,多国間安保にコミットする姿勢を見せることで,中国の主張に実質を伴わせる必要もあった。さらに言えば,96年春の台湾海峡危機で広まった東南アジア諸国の中国脅威論を緩和させる意味合いも含まれていた。
 しかし,中国の念頭に日米同盟があったのはまちがいない。それを明瞭に語ったのが唐家セ外交部副部長であった。同副部長は東アジアの安全保障について,「この地域では現在,軍事同盟によるのではなく,関係諸国が平等に参加して平和的な話し合い,対話,交渉によって,地域の平和と安全を守るという新しい安全観が形成されつつある。このような状況の下で,一方的に軍事同盟関係を強化することは賢明なことではなく,またこの時代の流れにも合わない」と述べつつ,「冷戦時代に,外国がアジア,日本に軍を駐留させることに,それなりの特定の対象があり,一定の理屈があったとしても,冷戦が終結した現在,駐留させている軍隊,そして日本との軍事同盟強化の矛先がどこを向いているのか,私にはよく理解できない」として,ARFのプロセスを高く評価すると同時に,日米同盟強化に強い懸念を示した(『世界週報』97年8月19−26日号) 。
 もとより,中国のASEANを中心とした多国間安保への支持の姿勢は,ある意味でASEAN諸国には迷惑なことにもなりかねない。というのも,ASEANのなかにはフィリピンやタイのようなアメリカの同盟国もあり,シンガポールやマレーシアもアメリカの軍事力展開に協力している。ARFの進める信頼醸成や予防外交に基づく「協調的安全保障」の枠組みは,現実にはアメリカの軍事的後ろ楯が必要だとするのがASEANの立場なのである。そうであるとすれば,中国の主張する軍事同盟排除の論理をASEAN側が受け入れる余地はなく,そこに中国のASEAN接近の限界が見えてくる。だが,そうした限界はそのままにして,中国のASEANへの接近路線はここしばらく継続されることになるだろう。日米同盟の強化が中国に向けられる可能性のあることを中国が懸念するかぎり,ミャンマーやカンボジアへ圧力をかけるアメリカ流の人権外交に反対するASEANとの協調がそれに対する牽制策となり得るからである。

3 安全保障面から見た東アジア経済危機とその解決策
 
 ところで,97年末以来,東アジアの金融・経済不安は終息するどころか,ますます混迷の度を深めている。しかも混迷は政治・外交に拡大しはじめている。高齢と健康不安を抱えるスハルト体制に逆風となってインドネシアの次期大統領選挙にも影を落としているばかりか,東アジア諸国のなかではシンガポールとならんでキズの浅い台湾が,フィリピンやマレーシアなど東南アジアへの経済支援に動き,中国を刺激している。97年末,南アフリカとの国交が途絶え,外交的孤立を募らせていただけに,台湾の経済力をテコに東南アジアとのパイプを確保する絶好のチャンスともなっている。
 中国は東アジアの経済危機に表向きは平静を装っているが,中国がそうしていられるのは中国の通貨である元がまだ国際的交換性をもたず,中国国内の証券市場も絶対的に規模が小さいという,いわば中国経済が後進的であるがゆえの利点に加え,中国が抱える対外債務もその多くが長期債務であるという点も幸いしている。しかし,それだけで中国が東アジア経済の経済危機から免れるほど,今回の危機は甘くはない。現実は,香港経済が中国の防波堤の役割を果たしているのである。
 周知のように,香港ドルは米ドルと1:7.8の比率で固定され(ペッグ制) ている。これが香港ドルの信任を高め,香港を国際金融センターとして未曾有の繁栄に導いたといってよい。しかし,東南アジア通貨の下落が相対的な香港ドルの上昇を招き,その割高感が売り圧力となって香港を襲っている。ペッグ制死守が国際金融センターとしての香港の至上命令であるため,香港政庁は高金利政策もいとわず香港ドルの防衛に走ってきたが,その代償は極めて大きなものになっている。すでに株価はハンセン指数で8000ポイントを割り込むなど,半年で価値を半減させ,不動産価格もピーク時から3割以上値を下げている。
 それでも,香港はペッグ制を死守しなければならない。なぜなら,一度でもペッグ制を見直して下値誘導したり,フロート制にでもしようものなら,それは香港の国際金融センターとしての投資価値を大幅に下落させ,資産の海外逃避は言うまでもなく株価も不動産も一切合切ふくめて,香港経済がパニックに陥る可能性が高いし,これまで徐々に香港ドルと中国元とを等価値に近づけてきた中国経済にも直接的な打撃をもたらす。中国は,順調な返還を達成するために膨大な資本を投入してきた香港で大損した上,中国元も下方修正を余儀なくされよう。またそうすることで対米貿易黒字が一層拡大するようなことに
なれば,国内市場の開放圧力をますます強く受けることになる。そうなるよりは,香港の株式市場が野垂れ死にしようが中国は傍観を決めこむだろう。香港には97年11月末で約965億ドルの外貨保有があり,しばらくは時間を稼ぐことができる。運良く経済危機の嵐が去り,アジア経済の再建が早急に進めば野垂れ死にせずにすむ可能性もある。しかし,それは成り行き次第であって,香港に対する中国の基本姿勢は変わらないと見るべきだろう。
 一方,中国の保有外貨は約1300億ドルと,日本に次いで世界第二の規模を誇るまでになっている。香港と合わせれば2000億ドルを軽く超え,それだけで香港ドルの信任に大きな影響を与えるはずである。それにもかかわらず,そうならないのは中国経済の抱える弱さゆえといえる。実は,中国経済の抱える不良債権は,比率で韓国並み,規模ではそれを凌駕するGNPの2割以上にもおよぶ大きさなのである。不良債権の多くは国有企業絡みである。97年9月の党大会で打ち出された国有企業の株式会社化推進政策では,大規模な優良国有企業を香港で上場し,不良債権を償却する資金を安価に調達することをもくろんでいた。大規模でもダメな国有企業は整理し,優良部門だけ切り離して生き残りを図る。そして,救うべくもない小規模国有企業は倒産するにまかせる。
 もちろん,失業者が溢れ出るが,ある程度の部分は既存の,そして新規参入の外資系企業が吸収してくれることを期待するという構図を描いていた。上手くいったとしてもそれなりに痛みをともなう処方箋だが,香港での中国国有企業の上場など,ここ当分期待できる情勢にないのは大きな誤算である。今は,国内経済の破綻を表面化させないだけで精一杯で,「香港売り」圧力が「中国売り」圧力へと転化することをく い止めるのに余念がない。中国側の態度が冷淡すぎるということもできるが,現実には中国に香港を救うだけの余裕がないことを示していると言わざるを得ないのである。

4 米国防長官の東アジア歴訪の意味するもの
 
 そうしたなかで,アメリカは韓国やインドネシアへの直接経済支援を通して東アジアの経済危機に関与の姿勢を鮮明にしている。アメリカ国内では,IMFによる韓国やインドネシアへの支援がかならずしも破綻した経済再建に有効ではないという意見もあって割れているが,いずれにせよこの危機が香港や中国に飛び火すれば,香港や中国が外貨保有の多くを米国債で保有している現実に照らして,アメリカも無傷ではすまないという事実がある。現に,サマーズ財務副長官をインドネシア等に派遣したのはその懸念を証明するものである。
それにもかかわらず,あるいはそれゆえにこそ,アメリカはこの1月中旬からコーエン国防長官の東アジア歴訪を開始させた。コーエン長官のアジア歴訪は,本来なら97年秋にも実現していたものだが,イラクへの国連査察問題がこじれ,一触即発の事態となったために延期されていた経緯がある。偶然なのか,それと時期を合わせたのかはわからないが,アメリカ情報局がインターネットを通して公開している『アメリカの外交政策課題』という雑誌(印刷物の体裁を取っていないため,『エレクトロニック・ジャーナル』と銘打っている)の最新号(第3巻第1号,98年1月)は「アメリカとアジア太平洋の安全保障」を特集し,キャンベル国防次官補,カートマン国務次官補など実務当局者が総出演している。この時期に経済ではなく安全保障をテーマに東アジアとの関係を見ようとしているアメリカの姿勢の裏に何があるのか,考えざるを得ない。
 コーエン国防長官は,マレーシア訪問を皮切りに,インドネシア,シンガポール,タイ,中国,日本,韓国を歴訪したが,まずその背景から今回の訪問を位置づけてみると以下のことが指摘できる。東アジア経済が日本も含めて漂流状態にある現在,アメリカはまさにグローバルな意味で「一人勝ち」状態である。「一人勝ち」がアメリカという「中心」に向かう求心力を生む。好むと好まざるとにかかわらず,軍事でも政治でも,経済でもやはり頼りになるのはアメリカなのだ,という表現が最も説得的な状況が生まれているのである。次にアメリカのこの地域における安全保障上の利益である。利益は第1に,アメリカの立場にチャレンジする国家の出現を抑えることであり,第2にアメリカの同盟国の安全保障を確保することであり,第3にアメリカの支持する多国間安保協力を推進することであって,こうしたことを確保・実現することによってこの地域での紛争を未然に防ぐことである。
 こうした観点から見ただけでも,コーエン長官の歴訪目的が複合的であることがわかる一部に露骨な言い方も含むが,東南アジア諸国に対しては多国間安保協力を中心テーマに,軍事力・政策の透明性を求めること,中国に対してはアメリカとの軍事交流を促進することによってアメリカと中国との「力の格差」を認識させアメリカへのチャレンジを思いとどまらせること,金大中政権への移行を控えた韓国に対しては,北朝鮮との南北米中による「四者協議」による和平枠組み推進を前提としつつ,有事の際のアメリカの支援を確認すること,日本に対しては,97年9月に策定された「日米防衛協力のための指針」(新ガイドライン)に実効性をもたせる法整備を進めることなどが考えられる。

おわりに−−アメリカの役割

 いずれにしても,アメリカが強調することになるのはアメリカの軍事的卓越性の強調である。そして卓越性を象徴する表現は「単独行動」の宣言である。他国の意向にかかわらず,「アメリカは国益に基づいて単独でも行動を起こす能力と意思をもつ」という姿勢ほど説得力をもつものはない。もちろん,そのためにアメリカは朝鮮戦争でもベトナム戦争でも辛酸を嘗めたが,だからこそアメリカの東アジア安保へのコミットメントが信用されているのである。現に,コーエン長官はマレーシアでアメリカの行動を制約しないことを求め,単独行動の権利を確認した。
 経済危機が政治や社会治安などさまざまな余波を生みつつある現在,アメリカの安全保障コミットメントの確認ほど,ある意味で東アジア諸国の政府を力づけるものはないかもしれない。小手先の市場介入や国内論争を引きずった経済支援よりも,アメリカの関与を確信させる効果を見て取ることができよう。そうであるとするならば,コーエン国防長官の東アジア歴訪はアメリカならではのこの地域への支援メッセージなのであろう。


第6章 アジア太平洋地域のなかの米中関係

はじめに−−冷戦後の東アジア安全保障環境の変化
 
 冷戦終結から8年を経て,東アジアの国際関係にはようやく大きな方向性が生まれつつある。武力紛争から解放され,成長と繁栄が東アジアの代名詞とさえいえる状況のなかで,そうした状況を脅かす将来的な不安定要因に対して東アジア地域の各国が主体的に秩序形成への関与をめざすようになってきたのである。これまで,冷戦という状況下で東アジアの安全保障に関して主導的役割を果たしてきたアメリカは,新たな情勢が出現するなかで,自らの果たすべき役割,追求すべき戦略の見直しを迫られることとなった。
 現実に,東南アジアではASEANを中心に日本,中国など周辺ミャンマー軍事政権へのASEAN による建設的関与,ベトナムのASEAN加盟という一連の流れが生まれ,1997年にもASEANによる東南アジア10か国の一体化を実現する方向を生み出してきた。また朝鮮半島では冷戦の終結と平行して韓国とソ連,中国との国交樹立が実現するなか,北朝鮮は外交的に孤立感を強め,核開発による独自の安全保障戦略を模索したが,核問題での米朝合意を契機に経済的難局の打開,国家としての生き残りを対米関係改善に賭けるようになった。金正日体制のもとでの経済のソフトランディングは依然としてきわめて厳しい状況が続いているものの,対西側協調を基調とした政策変化が期待される状況にある。中国と台湾との関係については,台湾が李登輝政権のもとで政治民主化をすすめ,それが台湾政治の「台湾化」となって大陸・中国との政治的距離を隔てることに中国は懸念を強めているものの,経済交流の深化が海峡両岸の一体化をすすめていることは否定できない。
 そうしたなか,東アジアのパワー・バランスに将来的な影響をもたらすものとして,中国の経済的,軍事的台頭とASEANを中心とした多国間協調体制の模索,そしてアメリカの地域コミットメントの行方などの動きが注目される。それらが東アジアの秩序と安定にどうかかわっていくかが,いま問われている。問われる根拠は,第1に,台頭する中国の動きのなかには,地域経済と協調することによって東アジアの経済発展の牽引車となるのか,あるいは武力を背景に東南アジアに覇権を唱えようとするのか,その両面がうかがえるからである。経済的,政治的,そして軍事的に強大な中国の出現が東アジアの平和と安定にどうかかわるか,ポスト ケ小平の権力移行期にある中国の政策動向を見極めるには困難が伴うものの,その台湾への軍事圧力や南シナ海の領有権をめぐる高圧的行動から楽観は許されない。
 第2に,世界の成長センターと称される東アジアで,日本に続くアジアNIES,ASEAN諸国など,いわゆる雁行型経済発展の連鎖構造に乗って繁栄を達成しつつある国々が,その経済力を裏付けに防衛力の近代化を本格的にめざし,地域の防衝に主導的に関与しつつ,冷戦時代の大国依存の受動的安保体制からの脱却を模索していることである。しかし,そのために94年から開始されたASEAN地域フォーラム(ARF)で地域の信頼醸成などで進展を見せてはいるものの,アメリカや中国を含めた安保協調のための有効な多国間枠組みとして発展していくかどうかは,なお今後の課題である。
 第3に,そしてこれが本章の主題を形成するが,依然として東アジアの平和と安定にアメリカの関与が不可欠であるとはいえ,それが冷戦時代とは異なった理由付けを求められることである。92年秋,フィリピンのスービック海軍基地を撤退したアメリカは,1世紀余り確保してきた東南アジアにおける軍事拠点を失った。冷戦時代,ソ連や中国など共産主義勢力の「封じ込め」という大義名分で東アジアの安全保障に関与してきたアメリカは,コミットメントを継続する新たな理由付けとして,市場経済の拡大,政治民主化の促進をめざす「関与と拡大」戦略を標榜するにいたっている。日米同盟はそのために不可欠であるとするのがアメリカの立場である。
 右に指摘した三つの動きのなかで,現実に最も重要な要素となるのがアメリカの東アジア戦略である。中国が覇権的な行動を選択するかどうか,それに対応して東南アジア諸国の防衛力増強をめざす動きが軍拡競争の緊張をもたらすかどうか,アメリカの姿勢にかかっている部分がきわめて大きいことは否定できないからである。東アジアの安定にアメリカが果たしてきた役割を肩代わりし得る国は当面見当たらない。しかし,アメリカがこの地域の安定をめざして関与していくためには,東アジアの環境変化に適合した戦略を構築していかねばならない。クリントン政権の東アジア戦略を分析,評価する視点は,まさにこの点に求められることになる。

1 ウィンストン・ロード書簡の意味
 
 クリントン政権は,ブッシュ前政権の二国間関係重視の政策とは異なり,より多国間的な東アジア戦略の輪郭を形成してきたが,他方においてアメリカと東アジア諸国との関係ではギクシャクした状況が続いた。とくに中国との関係では,89年の天安門事件以来,毎年のように中国における人権状況の改善をめぐり議論の焦点となった最恵国待遇(MFN)延長問題はじめ,93年8月には中国のパキスタンに対する核弾頭搭載可能なM−11ミサイル技術供与が,大量破壊兵器の拡散防止を目的とするミサイル関連技術輸出規制(MTCR)に違反するとして経済制裁を実施したこと,また同時期に中国のイラン向け貨物船「銀河号」を化学兵器原料積載の容疑で臨検した「銀河号事件」,さらには北京での2000年五輪開催に反対する米議会決議など,米中開係は93年の秋まで摩擦が絶えなかったといってよい。
93年秋のアジア太平洋経済協力会議(APEC)総会がシアトルで開催されたこともあり,9月以降のアメリカの対中政策には政府高官を次々に中国派遣するなど関係改善をめざす動きが見られ,江沢民中国国家主席のシアトル訪問は実現した。しかし,これによって米中開係が旧に復したわけではなかった。また,マハティール・マレーシア首相が,自らの主唱する,ASEANに日中韓の3国を加え,アメリカを排除した形の「東アジア経済協議体(EAEC)」にアメリカが反対していることもあって,同総会への出席をボイコットしたように,クリントンの東アジア政策に対するアジア諸国の反発も顕在化していた。
 このような状況が推移するなか,94年4月に,米国務省で東アジア政策を担当する責任者であるウィンストン・ロード国務次官補が「対アジア関係に生じつつある不快感」と題する書簡をクリストファー国務長官に提出し,アメリカのアジア政策を批判するにいたった。きわめて異例といえるこの書簡で,ロード次官補は「威圧的あるいは強制的なアメリカの一連の政策は,アジア地域におけるアメリカのプラスイメージを損なう危険があり,さらにアメリカを『世界の弱い者いじめ』とはいかないまでも,『世界のお節介者』だと非難する勢力に格好の攻撃材料を与えている。適切な軌道修正を行わなければ,われわれはアメリカ自身の影響力や利益を損ねるおそれがある」と述べ,危機感を表明した。さらに,日本,中国をはじめ東南アジア諸国に見られるアメリカへの反感を表す例を列挙するとともに,「アジア各国はわれわれの関与を望んでいる一方,他の地域の傾向とは対照的に,自分たちの成果をますます意識し,誇りに感じるようになっている。アジアが一層の繁栄を続け,力をつけていることで,アメリカと同地域との関係を対等な立場で見ることが必要となっている。われわれには変化し続けるアジアの環境にうまく対応できるような洗練された外交が必要なのだ」と反省を促したのである。
 その後の展開として,クリントン大統領は94年6月,対中国MFN延長問題を中国における人権問題と切り離すことを決定したほか,10月には北朝鮮との間で核開発疑惑をめぐり93年以来根気強く続けてきた交渉の結果,軽水炉の導入などによって核兵器開発を事実上放棄させる「合意枠組み」の形成にこぎ着けた。しかし,11月にはクリントン政権の2年間の評価を問う米中間選挙で,民主党は記録的な大敗を喫し,実に40年ぶりに上下両院で共和党の優位を許すこととなった。中間選挙での敗北は,外交政策の行き詰まりというよりもむしろ国内政治や国内経済情勢から説明されるべきものであろうが,それにもかかわらず議会が共和党主導になることにより,以後のアメリカ外交での議会対策は重要な課題となった。とくに共和党の有力議員に台湾支持派が多く,95年6月の李登輝訪米も議会の訪米招請決議がこれを可能にした。中国が強く反対する台湾の国連加盟についても共和党は支持の姿勢を明確にしている。対中政策でクリントン政権は議会の圧力を受けざるを得ない状況を迎えることとなったのである。
こうした状況の変化は,どのようにアメリカ外交の軌道を修正していっただろうか。95年2月26日,クリストファー国務長官は議会で証言し,任期後半のアメリカ外交の原則を明らかにした。挙げられた原則は四つで,@アメリカが今後とも世界でリーダーシップをとる A世界の最も力のある国々との協力関係を強化・維持する B経済と安全保障上の協力を促進する国際的,地域的枠組みの改善 C民主主義と人権を支持・擁護する−−というものである。明らかに国際協調を重視し,とりわけ日本や西欧の同盟諸国,それに中国やロシアなど地域に大きな影響力をもつ国への配慮がうかがえる内容となったのである。

2 「関与と拡大の国家安全保障戦略」

 かかる外交原則の修正の基礎を盛り込 んだ文書が95年2月にホワイトハウスから公表された。「関与と拡大の国家安全保障戦略」と題されたこの文書は,94年にも公表されており,これはその改訂版となる。政権任期前半の2年を総括し,その外交成果を誇示し正当化しつつ政策目標を提示するこの文書は,クリントン政権の展開してきた外交・軍事戦略の理念を集成したものであり,表題が示しているように93年に打ち出された「拡大戦略」を発展させ,「関与と拡大」を政策のキーワードとするものである。クリントン政権はこれまで,市場経済の拡大と民主主義の促進,人権擁護を政策目標として掲げてきており,アメリカの利益とする民主主義市場経済の共同体を「拡大」するためにアメリカが「関与」するという構図でこの戦略を理解することができる。
 この文書の後半は世界各地域へのアメリカのアプローチに割かれており,ここでアメリカの東アジア戦略をある程度具体的につかむことが可能である。ここでは,安全保障,経済,民主化改革の三つの柱でアメリカの「関与」を説明している。経済ではAPEC重視の姿勢,日米貿易摩擦の解消,米中貿易の進展などが述べられ,また民主化改革ではアメリカの追求する人権擁護がアジア諸国にとっても普遍的価値のあるものだと主張する。しかし,最重点は最も紙幅を割いている安全保障であり,アメリカのアジアにおける同盟国との二国間関係とアメリカの軍事プレゼンスがこの地域におけるアメリカの安全保障上の役割の基礎を提供し続けるとし,現在約10万人のアメリカ軍の展開が地域の安定に寄与しているとされる。次いで,北朝鮮の核問題に代ASEAN地域フォーラムに見られる多国間枠組みへのアメリカの支持などが述べられる。
 特筆すべきは,それに続いて中国への「関与」について触れ,「アメリカの経済的利益と戦略的利益の双方を包含する中国への,より広範な関与をすすめつつある」と述べ,これがクリントン大統額の中国への最恵国待遇と人権問題との切り離しに如実に現れているとしている。そして「中国の増大する経済潜在力とすでに相当な規模の軍事力を考えれば,中国を地域に対する脅威としてはならない」として,近隣諸国に安心感を与えるとともに中国自身の安全保障上の不安を解消するため,中国が地域の安全保障メカニズムヘ参入することをアメリカが強力に促進し,その一方で大量破壊兵器の拡散を防ぐために中国の協力を取り付けるべく二国問安保対話を拡大してきたとする。

3 東アジア戦略報告のねらい
 
 「関与と拡大の国家安全保障戦略」を東アジアに適用して,具体的にアメリカの戦略を詳述したのが,ジョセフ・ナイ国防次官補を中心にまとめられた「東アジア戦略報告」(EASR)である。クリントン政権下で初めて包括的な東アジア戦略をまとめたこの報告の重点は,ブッシュ政権下で示されたアメリカ軍のプレゼンス削減基調に歯止めをかけ,10万人の兵力を東アジアに維持することをうたい,アメリカの軍事プレゼンスがこの地域の安定と繁栄に必至のものであることを確認し,そのための日米安保体制を堅持することの重要性を説くことにある。そして,仮にアメリカがこの地域から撤退すれば,第三国がその真空を埋めようとするとして,暗示的に中国の勢力伸長を牽制する。その中国については,大量破壊兵器拡散規制に向けた世界的な努力に参加させるなど,国際社会に関与させるとともに,中国が国際社会に建設的な態度で一体化することを支援し,中国の国防政策と軍事活動の透明性を助長するよう努めるとしている。ナイの「東アジア戦略報告」は,とくに日米同盟関係について「日本は冷戦後の実現可能な地域秩序と国際秩序を形成するうえでアメリカが努力するに当たっての当然のパートナーである」とし,「アジアにおけるアメリカの安全保障政策のクサビ(リンチピン)」と位置づけており,冷戦終結後の日米安保体制の再構築に重点があったことは明らかである。
 ソ連の脅威という共通した問題意識が消滅したあとの同盟関係のあり方について,クリントン政権は長期的なビジョンをもたず,状況対応的なアプローチを主体にしてきた。これがロード書簡に見られる政権内部の不協和音を生んできたし,また日本でも細川政権下の防衛問題懇談会の報告が将来の日本の安全保障の焦点を,日米安保よりもむしろアジアにおける多国間安保に置く印象をアメリカに与えることとなった。ナイは,台頭する中国という現実を踏まえて,中国が地域大国としてその重要性を増すことを前提に,いかに中国を地域覇権国家ではなく地域の平和と安定に責任を自覚する国に導くかという問題意識に立ち,東アジアの戦略環境の変化に対応するための長期ビジョンとして日米同盟の再構築をめざそうとしたのである。
 ところで,ジョセフ・ナイが94年9月に国防次官補としてクリントン政権に参加する以前に,『フォーリン・アフェアーズ』に寄稿した論文でブッシュ政権の「新世界秩序」を批判してこう述べていた。「リチャード・ニクソンやヘンリー・キッシンジャーに代表される現実主義者は,国際政治を主権国家間のバランスによって成立するものだとみなしている。つまり,世界秩序は主要国による力の均衡によって決定されるという見方である。一方,ウッドロー・ウィルソンやジミー・カーターに代表されるリベラル派は,国際政治を国家間関係のみならず,各国民衆の関係によって規定されるとみなしている。彼らは,国際秩序を国際法や国連のような国際機関だけでなく,民主主義や人権といった広範な価値観によって規定されると考えているのである」「ブッシュ政権の問題点は,彼らがあたかもニクソンのように現実主義者として振る舞いながらも,レトリックの点では,ウィルソンやカーターのようなリベラルな見解を表明している点にある。確かに現状ブッシュ政権はこの二つの考え方に対する自らの立場,あるいは距離を明確にせず,いわば無節操に折衷しながら状況に対処したのである」。
 このナイの批判は,そのままクリントン政権の外交戦略にもあてはまるものであった。市場経済と民主主義は,伝統的なアメリカの信条体系であり価値観である。それを国際的に普遍化し拡大することはアメリカの使命として認識されてきた。それは米ソ冷戦の過程でも同じであり,冷戦はアメリカの信条体系に対するソ連共産主義の挑戦という側面が色濃く投影されていた。クリントン政権の外交戦略は,そうした文脈でみて,けっして新機軸を打ち出したものではなく,ウッドロー・ウィルソン以来の伝統的なアメリカ外交の系譜を引き継いでいると理解することもできる。まして民主党はアメリカにおける保守派を代表する共和党よりも鮮明に民主主義の国際化をめざすリベラル国際主義の傾向をもち,民主党のクリントン政権にも当然それはあてはまる。ハーバード大学教授を務めてきた国際政治学者であるナイ自身も,その学問的系譜はリベラル国際主義の流れを汲むものである。
 このようにクリントン政権の東アジア戦略を見ていくと,「封じ込め」に取って代わるものとして採用した「拡大戦略」は,とりもなおさず市場経済と政治民主化というアメリカの価値観を普遍化しようとする試みと同義になり, 共産主義を「悪」とする冷戦下の行動基準を,ポスト冷戦の世界では閉鎖的経済や権威主義的政治体制を「悪」とするものへと変えるとともに,対抗手段として「軍事」偏重から「経済」分野への拡大をめざし,より一層アメリカの経済を中心とした国益擁護の色彩を強めてきたのである。
 問題は,そうしたクリントン外交と戦略が実行される段階で,ナイがブッシュを批判したように,場当たり的な対応が目立ったことである。世界を東西に分け,社会主義イデオロギーと対決した冷戦時代とは異なり,アメリカの経済国益と結びつける外交の展開は,アメリカの対応,アプローチを必然的に選択的なものにしてしまったのである。
 94年10月の北朝鮮の核開発問題をめぐる米朝合意枠組みにしても,北朝鮮の核開発の「過去」については不問に付し,かつ軽水炉建設や毎年50万トンの重油供与など,本来は核拡散防止条約違反で罰せられるべき北朝鮮に対して報奨的な結果となり,北朝鮮の核の脅威にさらされる可能性のあるわが国でもこの結果に批判的な言論が見られた。95年春には日本の自動車部品の対米輸入をめぐって日米関係が緊張した。アメリカの不公正貿易に対処するスーパー301条,知的財産権保護のためのスペシャル301条などで一方的な制裁圧力を仕掛ける強権的対応は,日米や米中の貿易摩擦を先鋭化させ,結果的に日本を含む東アジア諸国にアメリカヘの信頼感が揺らぐという結果をもたらした。6月の李登輝・台湾総統の訪米は,ホワイトハウスが議会の圧力に屈したように見えるが,その決定に中国の強硬な反発が正しく予測されていたようには見えない。8月にはアメリカはベトナムとの国交を正常化したが,その決定にあたり,これを「対中国包囲網」の形成と受け取る中国への配慮は希薄であって,重点はむしろ,めざましく活動しはじめたベトナム経済にアメリカのビジネス・チャンスを求めるところにあった印象が強かった。
 クリストファー国務長官が就任時に掲げた経済安全保障重視の外交は,結局,国内における雇用確保などの経済的要求がそのまま外交に反映され,外交行動においてリベラル国際主義に基づく「理念」と経済リアリズムに基づく「現実の行動」との乖離現象を招いてしまった。ナイ国防次官補のイニシアティブによる日米同盟の再確認作業とアメリカの東アジア戦略の再構築は,こうしたクリントンのアジア外交に生じたほころびを繕おうとする試みであった。

4 日米安保共同宣言に見るアメリカの戦略
 
 そうしたなかで,95年11月,APEC大阪会議にクリントン大統領が来日する機会をとらえ,日米同盟の再確認を行う政治日程が組まれたものの,米議会とホワイトハウスの予算編成をめぐる対立から,クリントン訪日は翌96年4月まで持ち越されることとなった。その間,とくに96年3月の台湾における初めての総統直接選挙をめぐり,中国が台湾近海2か所へのミサイル発射訓練を含む再三にわたる軍事演習で台湾に軍事圧力を加え,それに対してアメリカがインディペンデンス,ニミッツという2隻の空母を台湾近海にさしむけ,中国を牽制する行動をとった。アメリカは台湾海峡での中国の冒険的行動を座視しない立場を鮮明にしたのである。
この台湾海峡危機は,台湾問題がポスト冷戦の米中開係の今後を規定しかねない深刻な対立点であることを示すこととなった。しかし日米関係に関しては,95年9月に起きた沖縄における米兵の少女暴行事件にもかかわらず,日本において日米安保の再確認をすすめるうえで追い風となった。すでに述べたように,「東アジア戦略報告」に見られるように,アメリカの東アジア戦略の基礎は日米同盟に求められる。よって,4月のクリントン訪日による日米安保の再確認と,それにもとづく日米安保共同宣言は,「東アジア戦略報告」の政策展開を実行するうえでなさねばならない課題として位置づけられていた。
 日米安保体制がアメリカの東アジア戦略と不可分の関係にあることは,この共同宣言で明確に示されている。中国に対しては「この地域の安定と繁栄にとり,中国が肯定的かつ建設的な役割を果たすことがきわめて重要である」とし,日米両国が「中国との協力をさらに深めていく」としてアメリカの対中「関与」政策に日本も同調する姿勢を確認している。朝鮮半島については,「朝鮮半島の安定が日米両国にとりきわめて重要」という認識を確認しつつ,両国が「韓国と緊密に協力」することをうたっている。これはとくに北朝鮮がアメリカとの間で「新平和保障体制」をめざそうとしていることへの韓国の懸念に応えるものであり,訪日直前に韓国・済州島で行われた米韓首脳会談において打ち出された,南北朝鮮にアメリカと中国を加えた「四者会フォーラムや,将来的には北東アジアに関する安全保障対話のような,多国間の地域的安全保障についての対話および協力の仕組みをさらに発展」させることでの日米の協力も盛り込み,ARFなどがアメリカのアジア関与の基礎とする二国間条約のネットワークを補強するものというクリントン政権の姿勢を示している。
 こうして,日米安保体制が「21世紀に向けてアジア太平洋地域において安定的で繁栄した情勢を維持するための基礎でありつづけることを再確認」したアメリカは,ようやく東アジア戦略のグランドデザインと,それを実行にうつすバックボーンを手にいれようとしている。日米安保体制を今後実効性のあるものにしていくためには,日本の国内における法整備その他,沖縄の基地問題など高いハードルが行く手に控えているとはいうものの,その多くは日本の国内的政治課題といえ,今度はそれに対応し得る政治能力が日本の政治家や官僚,ひいては国民に問われることとなる。

5 「関与」と対中「封じ込め」の狭間で
 
 アメリカの東アジア戦略が軌道に乗るためには,東アジア諸国がアメリカの価値観を受け入れる用意がなければならない。ASEANがAFTA(ASEAN自由貿易地域)をめざし,またそれを内包するAPECが2020年を目標に貿易自由化をめざしていること,さらに韓国や台湾,フィリピン等で政治民主化が進展していることは,アメリカの価値観が東アジアで普遍化しつつある証左ともいえる。しかし人権問題について個人の自由よりも社会・集団の秩序を優先する東アジアの政治文化が,ASEANと中国との連帯を生み出していることは留意すべき現実である。ただし,東南アジア諸国にとって中国が伝統的に「脅威」であったこと,南シナ海の領有をめぐる対立点で中国がASEANは中国への配慮を必要としつつも,それ以上にアメリカとの同調という選択を優先するであろう。
 クリントン政権の対中「関与」政策は,中国の孤立化を回避すると述べながらも,中国にとってみれば民主化にせよ人権擦護の要求にせよ,中国が89年6月の天安門事件以後さかんに批判してきた西側による「和平演変」の策謀にほかならない。中国を市場経済型民主国家のコミュニティーに参入させようとするのがアメリカの目標であるとするなら,それは中国の共産党政権にとって体制の転覆を意味するからである。中国の対米政策は,「信頼を強め,面倒を 減らし,協力を発展させ,対抗しない」という原則に現れているごとく,融和・協調姿勢を基調としているが,それはあくまでも現状での中国とアメリカとの力の差を反映したものであって,対米劣勢を自覚した所産といえる。中国もさらなる経済発展をめざすためにアメリカや日本の協力を必要としているが,それは中国がアメリカに対抗し得る国力を蓄えるまでの「忍耐戦略」と見ることができよう。
 クリントン政権が東アジアの多国間安保対話を枠組みとして支持を明確にしているASEAN地域フォーラムは,ASEAN自体の東南アジア全域への拡大という意図と相まって,信頼醸成や予防外交に自信を深めつつある。台湾とアメリカは,中国の台湾への軍事圧力によって,いわば潜在的同盟関係にあることを証明したばかりか,台湾の経済的繁栄と政治民主化はまさにアメリカの理念を東アジアで体現する存在にさえなっている。
 クリントン政権が打ち出した「東アジア戦略報告」や「日米安保共同宣言」は,冷戦後の東アジアの環境変化に対するアメリカとしての処方箋であり,アメリカなりの地域秩序を確立するための模索である。しかし,これまで検討してきたように,台頭する中国への「関与」政策も,中国側は基本的に警戒を隠そうとはしない。97年9月に公表された「日米防衛協力のための指針(新ガイドライン)」が台湾にどう関わるかについて示した中国の強い懸念がそれを証明する。
 アメリカの政策が中国に対して攻勢的に推移するならば,米中関係の今後は,東南アジアや朝鮮半島を巻き込んで緊張は避けられないかもしれない。中国に積極的に関与し,責任ある政治大国に導くというアメリカの戦略は,現在から将来を見据えて,これに取って代わるべき政策選択肢を見つけることは難しい。しかし,96年11月にクリントン大統領が訪問先のオーストラリアでの演説で,「中国が今後数年間にめざす方向と,同国が将来におけるその偉大さをどう定義するかによって,次の世紀が紛争の世紀となるか協力の世紀となるかが決まる」と述べているように,中国の対応しだいでアメリカが「関与」に失敗したと自覚したとき,アメリカが敵対的な対中「封じ込め」に戦略を転じ,東アジアに新たな「冷戦」状況が生ずる可能性を秘めていることも看過すべきではないだろう。
 しかし,アメリカにとって中国との「新たな冷戦」状態を迎える展開が好ましいことではない以上,中国との関係修復に本腰を入れる必要は自覚されていたのである。

6 江沢民訪米が演出した米中の限定的和解
 
 96年はアメリカ大統領選挙の年であり,クリントン大統領は共和党のドール候補を下し,2000年までの第2期の政権を担当することとなった。クリントン政権第2期の東アジア政策の課題は,何といっても対中関係の修復であった。第1期で確立した対中「関与政策」がその意図とは裏腹に中国の警戒を呼び起こしただけでなく,95年6月の李登輝訪米から96年3月の台湾海峡危機までの10か月は,米中両国にとってまさに79年の米中国交樹立以来最悪の関係となった。その関係を修復するために96年11月のAPEC首脳会議の機会にセットされたのが,97年秋の江沢民訪米と98年のクリントン訪中という両国元首の相互訪問であった。
 以後,米中はこのイベントを成功裏に実施すべく,周到な準備を重ねてゆく。このプロセスの最初のステップとなった96年12月の遅浩田国防部長の訪米は,まさに李登輝訪米によって中国側がキャンセルした外交案件の復活であった。以後,アメリカ側から新任のオルブライト国務長官,ギングリッチ下院議長,ゴア副大統領などが訪中し,江沢民訪米の地固めを進めていった。
 中国側としても,共産党十五全大会で権力基盤を固めた江沢民が,超大国たるアメリカの指導者と対等に渡り合うことでリーダーシップを内外に示す絶好の機会と位置づけられた。ただし,アメリカとしては,これを関係修復プラス「関与」政策の具体的成果を求める機会と位置づけ,@イラン,パキスタンへの核関連輸出阻止について中国の確約を求める大量破壊兵器の拡散防止 A中国の市場開放努力,経済活動の国際規範遵守を求めることによる中国のWTO加盟問題の進展,Bチベット問題,民主活動家釈放問題(魏京生,王丹),宗教弾圧等の人権問題での改善努力 C海洋事故防止協力,軍事交流拡大など防衛分野での協力関係推進 D法律専門家の相互訪問,テロ・麻薬取締りの協力など,法による統治の促進 E地球温暖化防止への協力 (石炭関連技術等) によるエネルギー・環境対策の推進 F宇宙開発技術など科学技術の協力 G米中ホットラインの設置等の戦略協議−−などが課題として設定された。
 注目された江沢民訪米では,10月29日の共同声明で,@建設的かつ戦略的パートナーシップ構築を決意 A中国は台湾問題が米中関係における最重要かつ敏感な中心課題であることを強調,アメリカは「一つの中国」政策と三つの米中コミュニケの原則を堅持 Bハイレベルの対話と協議を進め,元首の相互訪問,ホットラインの設置,閣僚・準閣僚クラス高官による政治,軍事,安全保障・軍備管理問題での協議を推進 Cエネルギー・環境問題での協力では,中国国家計画委員印 D経済関係と貿易に関して中国のWTO加盟に向けて中国が一層の関税引き下げに努力し E原子力の平和利用協力について85年に締結された「米中原子力平和利用協定」の履行に向けアメリカが必要な措置をとること F核不拡散については「包括的核実験禁止条約」発効に向けての米中協力と,国連軍縮会議での「核兵器・核爆発装置用認 G人権問題では,人権に関する両国の相違点は解決されなかったものの,政府・非政府レベルでの対話継続には合意 H法律分野における協力では,国際的組織犯罪,麻薬,マネー・ロンダリング等に対処するための法の執行における協力の強化等がうたわれ I軍事交流では米中両国の海軍,空軍間での事故や誤解,誤算を回避しうる海上の安全強化のための協議メカニズムの設置や,人道援助,災害救助分野における情報・意見交換で合意され J科学技術,教育文化交流で科学技術協力計画を継続的に発展させることになったとともに,教育文化交流を拡大することで合意した。
 しかし,クリントン・江沢民による共同記者会見では,はしなくも両者の意識の違いが浮き彫りされる結果となった。台湾問題についての質問に,江主席が台湾問題は中国の主権に関わる問題であり,「一国二制度」が平和的統一の唯一の正しい政策であると強調,武力行使を放棄しないのは,中国の内政に干渉を試みる外部勢力,台湾の分離・独立を試みようとする勢力に向けたものであり,台湾同胞に向けたものではないとし,台湾問題でクリントン大統領とはっきりした言葉で議論できてよかった,と述べ,台湾問題で意見の相違があったことを示すことになった。
 また,89年の天安門事件について,江主席は「中国共産党と中国政府は,この政治的風波に関して正しい結論を引き出している。人口12億を超える国に社会的政治的安定がなければ,今日の改革・開放もありえない」と述べたのに対し,クリント ン大統領は「事件の意味をめぐって米中が異なる見解を持っていることは明らかである。政治的な反対意見を許容しないままであるために,中国は得られたはずの支持を世界から得られないでいる。アメリカの見解を示すものが天安門事件に対する制裁措置であり,現在,制裁措置を継続しているのはアメリカだけとなっている」と語り,アメリカの立場を確認した。
 これに対し,江主席も「米中両国は地理的にも歴史的にも文化の伝統でも経済発展でも価値観でも異なる。ゆえに天安門事件で異なった見解をもつのは当然だろう。民主主義や人権,自由の概念は相対的で特有なもので,これらはそれぞれの国が特定の国家のおかれた状況によって決めるべきだ。人権などの問題をめぐる議論は,内政不干渉を基礎になされなければならない」と反論したが,クリントン大統領はこれに対し,「中国はこれらの問題で歴史の誤った側にいる」とクギを刺した。
 この江沢民訪米による米中首脳会談をどう評価すべきだろうか。まず,アメリカ側の成果を確認してみると,@政府間対話の制度化による相互理解の促進が図られたこと A大量破壊兵器拡散防止ではイランへの核輸出停止約束の取り付けで成果をあげ,その見返りとしての原子力協定凍結解除に踏み切り,アメリカ原発メーカーの中国市場への参入を可能にした。また,WTO加盟問題では,中国に半導体等の輸入関税をゼロにする「情報技術協定」調印取り付けたうえで,さらなる市場開放を条件付けることに成功した。これに関連し,米中貿易インバランス是正問題では,中国がボーイング50機30億ドル含む40億ドル以上の購入商談を成立させ,また台湾問題ではアメリカが「一つの中国」政策を確認するにとどめ,米台関係の現実に支障はなかった。総じて,アメリカは経済的に中国から得るところが大きかったといえる。
 その一方,中国の成果も決して少なくはなかった。なによりも,中国の指導者としての江沢民の存在をプレーアップするとともに,建設的かつ戦略的パートナーとしての「認知」を獲得することによって,21世紀の大国・中国を印象づけることに成功したといってよい。その一方で,人権,チベット問題ではアメリカの圧力に屈しない姿勢を誇示できたし,核,環境問題などでは協調姿勢をアピールできた。それに加えて,ボーイング機の大量購入などで中国市場の重要性をアピールし,貿易インバランスでのアメリカの圧力軽減,取り込みを図ることにも成果をあげた。こうして,クリントン大統領と対等に渡り合う江沢民主席を演出することに一定の成功を収めたことで,イメージ優先を戦略としていた中国にとっての米中首脳会談は成果をあげたことになる。
 首脳会談を終えたあとの談話を見てみると,まず江沢民自身が「全般的に言って,今回の訪問は成功であった。われわれは『理解を増進して共通認識を拡大し,協力を発展させて未来をともに創りだす』という目標を達成することができた (達到了増進了解,拡大共識,発展合作,共創未来的目的) 」と自賛し,外交部スポークスマンの唐国強も,「今回の訪問は,中米関係が過去数年来の曲折・起伏に終止符を打って新しい未来を切り開く重要な契機となり,中米関係を新たな歴史的発展段階へと押し上げた」と称賛した。『人民日報』社説でも,「江沢民主席の今回の公式訪問が滞りなく成功したことに熱烈な祝意を表明する」とし,新華社も「中米関係史上に新たな一章が記された」と報じた。

おわりに−−継続される米中関係の調整

 江沢民訪米による米中首脳会談は,こうして双方がある程度満足できる成果をあげることができたといってよい。しかし,米中関係修復のプロセスは,98年のクリントンの訪中の成果を見なければ結論を出すわけにはいかない。問題は,クリントン訪中の時期さえ決定できないアメリカ国内の中国認識にある。江沢民訪米の時点では,クリントン訪中は98年春頃と予測されていた。しかし,江沢民の人権や政治民主化での頑な態度が作用してか,議会の反中国姿勢が強まることになり,98年秋の中間選挙前のクリントン訪中が選挙にマイナスに作用することを懸念し,自然とクリントン訪中は中間選挙後といわれるようになってきた。こうした状況が示唆するのは,アメリカにとって米中関係の「重さ」が国内政治の動向よりも「軽い」という現実である。
 もはや「三選」のない第2期クリントン政権とすれば,大事なのは「歴史に名を残す」偉大な指導者としてのリーダーシップの発揮であって,中国との関係修復をなし遂げ,アメリカの東アジアにおける地歩を確固たるものにすることはそれなりに大きなテーマであるはずである。その意味で,「中間選挙」に拘泥する姿勢は民主党の党略にすぎない。しかし,その党略が優先される国内事情が示すのは,共和党主導の議会に根強い反中国意識への配慮だろう。厳しい対中認識をもつションを用意しているようには見えないだけに,江沢民訪米で一定の成果をあげたクリントン政権にとって,98年の対中外交は,国内におけるリーダーシップが問われることも含め,今後の米中関係の展開にとって重要な意味をもつものとなろう。


おわりに−−中国の対日政策と日本の対応
                                1997年9月から11月にかけてのわずか3か月の間に,日中,米中,日露,中露の四つの首脳会談が展開された。東アジアの国際関係を規定する主要4か国の関係調整が進展したことから,にわかに日米中露の4か国関係がクローズアップされるようになった。非公式ではあったが,日露首脳のクラスノヤルスク会談で,紀元2000年までに平和条約締結をめざすことで合意が形成されたことが,とりわけ,わが国において注目された。中露首脳会談では,国境の確定作業の完了がうたわれ,両国の「戦略的協力パートナーシップ」が確認された。
たしかに,無節操ともいえるロシアの中国への兵器輸出が中国の軍近代化に拍車をかけるという点で,ロシアは地域の安定にとって攪乱要因であるとさえ言えるが,現在のロシアに東アジアのパワー・バランスを左右する力は表面的にはまだ備わっていないかに見える。しかしながら,97年4月,日米安保共同宣言がうたわれた直後,あたかもこれに対抗するかのように中露間で「戦略的パートナーシップ」がうたわれたが,中国はロシアの東アジアパワー・ゲーム参加の意図が見える機会を巧みに利用し,同年10月末から11月上旬にかけてのわずか2週間のあいだに米中,中露の二つの首脳会談をこなして大国間外交の推進役といった役割すら演出して見せた。事実,非公式の日露首脳会談を除いて,残る三つの首脳会談ではすべて中国が絡んでいるのである。そして,それがために現在進行しつつある中国の基本戦略を見えにくくしていることを指摘しなければならない。
 97年11月11日,北京を訪れたエリツィン露大統領と江沢民主席によって署名された共同声明が発表されたが,そのなかにこんな一節がある。「 (中露) 双方は満足の気持ちで次のように指摘する。中国,ロシア,米国,日本の相互関係は,先の首脳会談で,積極的発展を みた。中国とロシアは次の点を確認する。国と国が第三国に対抗する軍事同盟と戦略的連合を結ぶ時代は過ぎ去った。各国,とくに大国は世界多極化の趨勢に従うべきで,相互尊重,平等および各方の利益に配慮する原則を踏まえて関係を発展させなければならない」。これは江沢民外交の自画自賛であるとともに,ロシアを巻き込んでの日米同盟への牽制とアメリカの突出を抑える「多極化」志向の表明でもある。
 中国の意識する「多極化」世界が実現されるためには,アメリカが唯一の超大国に位置する「一超多強」の状況を否定しなければならない。言い換えれば,中国側が「平和と発展を妨げる覇権主義と強権政治」という常套的表現で牽制してきた,アメリカによる中国への内政干渉 (具体的には台湾問題と人権問題) の排除をめざすことになる。そうした意味で,江沢民が訪米し,アメリカとの間に「建設的かつ戦略的なパートナーシップ構築をめざす」ことで合意したことは重要である。江沢民国家主席は,同年9月の共産党十五全大会をなんとか乗り切り,権力基盤を固めた余勢をかって,米中首脳会談に臨み,アメリカと対等な中国,クリントン大統領と対等に渡り合う自らのリーダーシップを内外に示すことに成功した。「建設的かつ戦略的なパートナーシップ構築」は,アメリカが中国の大国としての地位を認知し,東アジア国際秩序を形成する重要なプレーヤーであることを国の内外にアピールしようと試みたのである。
もちろん,そのために中国が払った代償も小さくはない。ボーイング社からの旅客機50機,30億ドルの商談をまとめたことでアメリカの対中貿易赤字の不満を慰撫し,大量破壊兵器の拡散防止に神経質なアメリカに向け,イランへの核関連輸出を行わないことを確約するとともに,核関連物質の輸出を規制する「核輸出管理条例」まで公布・施行していた。また,実際に訪米して,中国の人権問題への取組に非難が集中し,江沢民が帰国後,米下院で一連の反中国法案が可決されたことに素早く反応し,11月16日には,かねてよりアメリカ側から釈放要求が出されていた服役中の民主活動家・魏京生氏を「病気療養」を理由に仮釈放し,訪米を許可することを決定した。95年の李登輝・台湾総統の訪米から96年3月の台湾海峡危機にかけて緊張状態にあった米中関係を修復するため,中国はまさになりふり構わず首脳会談の成功をめざしたのである。
 東アジアの国際関係の帰趨を左右するのは日米中3か国のトライアングル関係であるといわれてきた。しかし,中国の目からこのトライアングルを見たとき,同盟関係にある日本とアメリカの太いつながりに比べ,日中,米中の関係が脆弱なことは明瞭である。経済的にも軍事的にも強力な日米に,単独で対抗する不安が中国にある。だからこそ,スタンレー・ロス米国務省次官補が明らかにしたように,アメリカが日米防衛協力の新ガイドラインをめぐって日米中3か国安保協議の提案をしても,中国はこれを拒否するのである。中国のねらいは,日米関係に一定の距離を置かせつつ,米中関係をより「対等」に近づけることである。97年の江沢民主席の訪米がハワイから始まり,真珠湾を訪問して日本がかつては米中共通の「敵」であったことを思い出させようとしたことは,日米関係にクサビを打ち込もうとする中国側の露骨な意思表示であった。江沢民訪米の直後に李鵬総理の訪日が予定されていたなかでのこの行動は,日本を戦略的に「軽視」する意図もまた含まれていた。
 その李鵬総理の訪日では,同年11月12日に李鵬総理が「日中関係五原則」を自らうたいあげた。第1が「相互尊重,内政不干渉」であり,第2が「小異を捨てて大同につき,意見の食い違いを適切に処理する」こと,第3が「対話の深化と相互理解の増進」,第4が「互恵・互利による経済協力の発展」,そして第5が「正しい歴史観による友好の実現」である。ここに見られる対日観に,アメリカやロシアとの「戦略的パートナーシップ」をめざすような外交戦略の要素は微塵もなく,あるとすればせいぜい「経済的パートナーシップ」の構築である。第5の原則などは,中国側の歴史観を「正しい」ものとして日本に受け入れさせようとする尊大さすらうかがわせるものであり,そうした「軽視」の姿勢こそが現在の中国の対日戦略なのである。
 前記の97年9月,橋本総理が訪中したとき,新たな対中政策として@相互理解 A対話強化 B協力関係の拡大 C共通の秩序形成に向けた貢献−−の4原則を打ち出し,中国を「建設的パートナー」と位置づけていた。これに対し,江沢民主席は「さらに長期的で戦略的な角度から両国関係を認識・把握し,健全で安定的な中日関係で21世紀を迎えなければならない」と発言していた。李鵬総理も訪日段階での橋本総理との会談で,「中日双方は長期的,戦略的レベルで中日関係をとらえ,両国関係の方向を定めなければならない」と述べていた。しかし,そこではついぞ「パートナー」という表現はきかれなかったのである。
思えば,日米安保共同宣言以来,中国は日本の軍事的役割拡大に注目し牽制をし続けてきた。軍事的役割の拡大は,必然的に政治的役割拡大もともなう。中国はまた,日本の国連安保理の常任理事国入りをめざす動きにも神経質なまでに注目してきた。中国の目からすれば,アメリカとの同盟関係を強化しつつ軍事的,政治的な役割拡大をめざす日本をなんとか牽制しなければならない。しかも,米中関係の修復作業と両立させる方向でそれを行わなければならないのが中国の課題なのである。
だからこそ,日米防衛協力の新ガイドラインについても中国は批判の矛先をもっぱら日本に向けてきた。江沢民とクリントンの首脳会談でも,新ガイドラインの意味を説明しようとするクリントンに対して,江沢民主席は中国と日本との「歴史」に言及して牽制していた。つまるところ中国は日本を外交上の「パートナー」とはみなさず,日中関係は米中関係の「従属変数」であるという「軽視」した位置づけで日本を牽制しようとしている。その戦略的認識にしたがえば,日米同盟が中国にとって危険なものになるかどうかは,アメリカ次第なのであって,日本にイニシアティブはない。
 それゆえに中国は,敢えて日米安保条約を肯定してみせる。李鵬総理がNHK記者の新ガイドラインについての質問に答えた際,新ガイドラインそのものには言及せず,橋本総理が「日米安保条約は日本憲法の規定に反していない」「条約は防衛的なものである」などと中国側に説明してきた点を挙げ,基本的にこの説明を中国が受け入れる姿勢を示したのである。ただし,「日米安保協力の範囲に台湾は含まれないと指摘してくれたら,なおのこと申し分なかったのだが」とクギを刺すことも忘れなかった。中国の対米重視政策と対日「軽視」政策とは,まさに裏腹の関係なのである。
 以上のように見てくると,日本外交はまだ,中国の既述のようなしたたかな対日政策に対して1国でもって対応し得る「戦略的志向」を有してはいない。98年の江沢民訪日が予定されるなかで,その際に江沢民主席が日中関係において他の大国同様に日本との「戦略的パートナーシップ」をうたいあげ るか否か,興味深いところである。ただ,第1章でも述べたように,橋本政権の「ユーラシア外交」は,アメリカによるNATOの東方拡大,分離と統合の時代に入った独立国家共同体(CIS)のなかの中央アジア各国,イラン,トルコなどの中東諸国,インドなどの南アジア諸国,極東ロシアのシベリア開発問題が絡み,ひいては地球儀の西側から中国へと向かう新たなベクトルが動き始め,そこに21世紀に向けた「新国際システムの誕生」を予見することも可能であり,それは,これまで日米が大西洋から西太平洋へと押し寄せる工業化,民主化の波に対応し,東南アジア・ASEAN諸国を迂回して多国間協力と競争の国際システムに「責任大国」中国を引き出すというベクトルとは逆のものである。
 だとすれば,日本外交は今後,中国に対して,従来のアジア・太平洋「多国間協力と競争」の論理と中央アジア,ロシアから流れるもう一つのベクトル,環流に対応しつつ,対中政策への極めてグローバルで新しい戦略的カードを有することになり,こうした21世紀に向かう新国際秩序における「戦略的思考」が今こそ求められていると言わねばならない。






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