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山陽新聞991026
総社・鬼ノ城 最大級の礎石建物跡出土 長辺15メートル 倉庫群存在か
岡山県教委、総社市教委による総社市奥坂の鬼ノ城(国指定史跡)発掘調査で二十五日までに、城内最大級の礎石建物跡が出土した。長辺十五メートルにもなる七世紀後半〜八世紀ごろの倉庫跡とみられ、これまでに確認されている礎石建物群と併せて大規模な倉庫群の存在が浮上。初の城内調査での発見は、堅固な防衛拠点を示す貴重な資料として注目されている。(30面に関連記事)
礎石建物跡が見つかったのは、同城のほぼ中央部、標高約三六〇メートルの東西に走る尾根の北側斜面。約一メートル掘り下げた試掘溝内で、花こう岩の礎石二個が南北に三メートルの間隔で出土した。全体の見える北側の礎石は、長辺百五十センチ、短辺九十センチ、厚さ七十センチもの巨石。その東三メートルには、同様の礎石が露出していた。
さらに、その東側には延長線上に位置していたと思われる礎石四個があり、南北方向にも一、二個の礎石が想定されている。試掘溝からは、斜面を平らに造成した工事跡も見つかった。
礎石の配置や近くで出土した須恵器片などからみて、七世紀後半〜八世紀ごろの、内部にも柱が立つ礎石総柱建物と推定。耐久性に優れた性質上、城内の施設としては倉庫の可能性が高いとされる。
調査を担当している岡山県古代吉備文化財センターの岡田博主幹は「地形的な条件を考慮すると、最大で柱が東西方向に六本(約十五メートル)、南北方向に四本(約九メートル)並ぶ大型の倉庫になる。大量の兵糧、または武器を納めていたのではないか」と推測する。
これまで同城内では、昭和五十八年の踏査で、五棟の礎石総柱建物跡が確認されているが、今回はその中でも最大級の規模。同センターの葛原克人所長は「城内にかなりの数の倉庫が群在していたとされるが、その存在を示す貴重な発見。防御施設としての充実した設備がうかがえて興味深い」と話している。調査は来年三月まで行われ、城内を中心に百十五の試掘溝を入れ、なぞに包まれた同城の全容解明を目指す。
古代山城の共通規格考える材料
高橋護・ノートルダム清心女子大教授(考古学)の話 礎石建物跡としては十六年ぶりの発見で、鬼ノ城の倉庫群の広がりを示す貴重な手掛かり。柱の数や柱間の距離といった基本構造が、朝鮮式山城・大野城(福岡県大野城市)の倉庫跡に似通っており、両城の相関関係や西日本各地の古代山城の共通規格を考察する材料にもなるのではないか。
鬼ノ城 文献資料がなく、昭和四十六年の発見まで存在が明らかでなかったなぞの古代山城。外周二・八キロ、城内面積約二十九ヘクタール。近年の総社市教委による外郭線の発掘調査で、四方に設けられた壮大な城門、角楼などの遺構が次々に判明。他に類を見ない壮大で精巧な山城として、内外の研究者から注目を集めている。七世紀後半、唐・新羅の侵攻への備えとして築かれたとする説が有力。昭和六十一年に国史跡指定。
重要防衛拠点裏付け 総社・鬼ノ城礎石建物跡 建設に膨大な労力
総社市奥坂の古代山城・鬼ノ城で、二十五日までに出土した同城最大級の礎石建物跡は、同城が膨大な労力を注ぎ込んで築かれた防衛拠点だったことをあらためて裏付けた。兵糧庫・武器庫といった建物の機能や城内の地区ごとの性格を、具体的に考える大きな手掛かりとしても期待される。
「土地造成のために岩盤を掘削している。礎石一つの重さも一トンどころでないだろう」。調査担当の岡田博・岡山県古代吉備文化財センター文化財保護主幹は、建物建設にかけられた労力に驚く。
「唐・新羅との国際的な緊張関係の中で築かれた、大宰府の大野城(福岡県)に続く重要防衛拠点が鬼ノ城だ」。研究者が、巨石を用いた城門、石積みの防御施設・角楼など城の外郭部の壮大堅固な姿から与えてきた評価を、城内からも裏付ける成果だ。
城内施設の具体的な姿も、見え始めた。以前見つかっていた五軒の礎石建物には、柱が四本×四本(柱間二・一メートル)の方形タイプなどが知られていた。今回は六本×四本とみられ、柱間も三メートルとタイプが異なる。
くらしき作陽大の河本清教授(日本考古学)は「四本×四本の建物がこれまで言われていた通り兵糧庫だとすれば、今回の建物は、例えば武器庫など違った性格を考えないといけない」とみる。
さらに、礎石建物の隣の尾根で礎石のない掘っ立て柱建物の柱穴も出土。倉庫でなく、食器などの遺物から人が生活した建物では、と注目されている。
福岡県の大野城では、礎石建物の倉庫に対し、掘っ立て柱建物は管理棟とされており、古代山城に詳しい岡山理科大の亀田修一助教授は「今回の成果で今後、鬼ノ城内の他地点でも建物跡発見の可能性が強まった。それらを積み重ねれば鬼ノ城でも、各建物や場所ごとの性格が、よりはっきり見えてくる」と期待する。
鬼ノ城本来の姿解明に大きな期待を抱かせる成果は、偶然の発見ではない。
この発掘調査は、自然保護とのからみから、試掘溝の幅は二メートル以下―などと制約があり、建物跡の規模、性格の追求は難しいのでは、といわれた。
その中で、少しでも情報を得ようと城内を丁寧に踏査し、大石がごろごろする中に一つ、上面が平らな石を見つけ、礎石建物の一部である可能性を追ったのが今回の試掘溝。調査関係者の真しな取り組みが現れた成果とも評価される。(文化家庭部・岩崎充宏)