Serpent in the Sky

 
★阿修羅♪

[ フォローアップ ] [ フォローアップを投稿 ] [ ★阿修羅♪ Ψ空耳の丘Ψ3 ] [ FAQ ]

 
投稿者 SP' 日時 1999 年 9 月 23 日 18:40:24:

 以下『天空の蛇』(ジョン・アンソニー・ウェスト著、大地 舜訳、翔泳社)より。


 ピタゴラス教団はピタゴラスが設立し、数学、哲学、調和などの理論を日常の倫理や実生活に応用した。教団は数十年で解散しているが、その後も小さなグループや個人がピタゴラス学派を自称した。
 「数」の神秘主義は退化し、散逸したが、リズム、調和、均衡に関するピタゴラスの原理は、芸術や建築物に重要な、時には支配的な影響をおよぼしてきた。個人的経験から「宇宙には根本的な秩序がある」と信じている人々は誰でも、これらの原理を納得することができた(いまでも納得できる)。西洋の歴史を通じて、偉大な創造力を持つ多くの人々が−−立場を明確にしない人もいたが−−明らかにピタゴラス学派だった。
 プラトンは自著『ティマイオス』で、自分がピタゴラス学派であることを告白した。三世紀から五世紀にかけて活躍した、アレクサンドリアの新プラトン主義者たちもそうだった。
 初期のキリスト教会はピタゴラス学派に対し、まったく興味を示さなかった。しかし、ローマの政治家であり、哲学者でもあったボエティウスは、六世紀にローマ帝国が滅びていくのを見ながら−−東ゴート王テオドリックに殴り殺される前に−−ピタゴラス学説を集めて書きとめた。ボエティウスはキリスト教徒ではなかったが、通常は不寛容なはずの教会内で、めずらしいことに尊敬を集めていた。そのため、ピタゴラス学説が完全に埋もれることはなかった。
 イスラム世界で見られる啓発的な要素は、後期新プラトン主義者の影響だと思われる。そのおかげでピタゴラス学説は炎を保ち続けた。そしてグノーシス派、ヘルメス学、錬金術の社会で、多かれ少なかれ、地下活動として生き残った。いずれにせよピタゴラス学説は生き残り、ゴシック様式の大聖堂という形をとって、満開の姿を現したのだ。
 ゴシック様式の大聖堂にまつわる謎はいまだに多い。大聖堂の建設に用いられた技術はそのころまでにキリスト教に取り入れられていた伝統的な工法とはまったく異なっている。そのため、大聖堂が人々に与える影響もそれ以前のものとは異なり、その知識がどこから来たかを知る人もいない。
 ゴシック様式の大聖堂建設者は一一世紀のフランスに現れた。以後三世紀にわたって、この動きはヨーロッパ中に広がった。だが、指導者も何もかも、出現したときと同じように、突然消え失せてしまった。後世の大聖堂、たとえばローマの聖ペテロ大聖堂、ロンドンのセントポール大寺院などが与える影響とは大きく異なっている。これは誰でも気づくだろう。
 このような影響は、偶然にもたらされたものではない。また、ゴシック様式の単なる大きさに付随するものでもない。現代の建造物は似たような影響を人々に与えることができないのだ。
 たとえばエンパイアステートビルやワーテルロー駅は、専門技術者や金融関係者には「聖なる」感覚を伝えるだろう。だが、その感覚は、ゴシック様式の大聖堂から得られるものとは違う。
 ゴシック様式の大聖堂はパルテノン神殿やタージマハル寺院と同様な影響を与える。誰が設計したにせよ、宇宙的な調和やリズムの法則、均衡の法則を正確に把握していたことがわかる。そして、人々に影響を与える方法についても、正確で深い知識を持っていた。
 ゴシック様式の大聖堂時代はヨーロッパ文明の絶頂期だった。大聖堂の建設に使われた正確な知識は、ミステリーのように失われたか、散逸してしまった。そして西洋では、もう二度と活気ある力とはならなかった。だがその知識はギルド、錬金術師、カバラ主義者、薔薇十字団、フリーメーソンに浸透している。そして、シュヴァレ・ド・ルービッチは彼らの著作に精通していたのだ。(p28-30)

 一生涯をかけて数学(特に数・調和・均衡の数学)を勉強したシュヴァレ・ド・ルービッチには、確信したことがあった。それはピタゴラスの教義が−−それがどれほどゆがめられ、回りくどくなっていようとも−−純粋な形においては、宇宙創造の謎を解くための鍵を握っていることだ。「古代文明においてはその謎がわかっており、それが神話として伝えられた」と彼は信じていた。そのため、空間的にも時間的にも、互いに完全に孤立しているはずの文化に、著しく似た神話が見られるという。
 このような全テーマの中心に位置するのが、あの神秘の無理数φ、すなわち黄金分割だ。シュヴァレ・ド・ルービッチは、もしも古代エジプトが究極的な宇宙の原理に関する知識を所有していたとすれば、それはテキストではなく、「調和と均衡の法則」「神話」「シンボル」として神殿に刻み込まれていると考えた。(p32)

 φは「数」ではなく、「機能」である。無理数を数と考えると、それがたとえ特別な類の数と見なすにしても、数の概念を無意味にしてしまう。
 数というからには数える用途に使えなければならない。だが定義からして無理数を使って数えることは不可能である。ひな鳥一・六一八……羽、あるいは卵三・一四一……個を手にしたり想像することはできない。
 φ、π、それに二、三、五の各平方根さえあれば、正多面体のすべての調和的組み合わせを定義し、表現することができる。この相互作用の網や、巨大な調和の複合体こそ、私たちが「世界」として認識するものである。この場合の「世界」は物質世界で、霊的世界あるいは意識の世界のひとつの(知覚できる有形の)側面である。この調和的世界を解明する手がかりは「数」であり、数を理解するには幾何学を利用すればいい。
 プラトンは幾何学を神聖と見なし、ピタゴラス学派は「すべては数である」と宣言した。エジプトの「リンド・パピルス」と呼ばれるパピルス文書の見出しには「数は自然を調べる法則、存在するものすべての謎と秘密を知るための法則」とある。(p101)

 数に男女の区別をつけるのは奇妙に思えるかもしれない。だが、数の機能的役割をよく考えてみれば、正しいことがすぐにわかる。「二」=「極性」は緊張の状態を表す。「三」=「関係」は和解の行動を表す。女性数=偶数は受け身の状態を表す。女性は行動を受け取る側なのである。男性は自ら行動を起こし、活発で、創造的、積極的(攻撃的、合理的)存在である。それに対応して、女性は受容性があり、受身で、創られる(感受性の鋭い、保護を受ける)存在である。
 もちろん、本書は男性優越主義を擁護するために書かれているのではない。ただ、宇宙には極性があり、男らしさ女らしさがあるのだ。自然界の無数の現象には、奇数が男らしく、偶数が女らしいという関係がある。それは、おそらく偶然ではない。生殖器は普通三つの部分からなる。哺乳動物のメスには乳房が二つ(あるいは二の倍数)ある。宇宙が偶然にできたのであれば、そのような一様性が生まれなくてもいいはずである。
 したがって「五」はピタゴラス学派にとって「愛の数」だったが、この乱用されている「愛」という言葉の無数の意味合いを考えると、「五」は「生命の数」と呼んだほうがいいのかもしれない。
 物質という考え方を説明するには四項目を必要と する。しかしその四項目では、物質がいかに創造されたかを説明するには不十分である。創造が起こるのは「五(男女の結合)」があるからだ。
 また、創造という意味で「五」が理解されていたからこそ、数多くの文化において「五」に敬意が表されてきた。また、五線星形や五角形は神秘的な組織などで神聖なシンボルとされてきている。世界最大の軍事司令部である米国防総省が、平面図を描くと五角形を基調としているのは皮肉な話である。古代エジプトでは、星の記号は五つの点を使って描かれた。悟りを得た人間の理想は、星になって「ラーの仲間になる」ことだった。(p59-61)

 「愛」の数、ピタゴラスにとって神聖だった数、五角形や五線星形に象徴される数は、ゴシック大聖堂のプロポーションを支配した。(p63)

 エジプトでは黄金分割が広く利用されている。黄金分割は原初の分裂から「五」までの数の流れを支配している。五線星形は黄金分割の部分からできていて、絶え間ない活動の象徴となっている。(p64)

 ピタゴラス学派にとって「五」は神聖な数である。同教団の会員は命を賭けて秘密を守ると誓わせられた(もっとも、そのような秘密があったとわかっているのは、誰かが漏らしたからにほかならない)。
 エジプトが秘密の知識を持っていたことに議論の余地はない。シュヴァレ・ド・ルービッチが明らかにしたように、エジプトの芸術や建築物には、調和と均衡の法則が使われているからだ。
 だが不運なことに、古代エジプト人は大声で話すギリシャ人よりも、秘密を守ることにずっと優れていた。あまりに優れていたので、エジプト学者たちは秘密があったことすら信じないほどだ。(中略)現代人が感情的・心理的に受けている影響を細かく見てみると、ピタゴラス学派の興味深い「数」のシンボル主義の背後には、危険な知識が隠されていることがわかる。
 芸術は、その出来の良しあしに関係なく、複雑な振動で構成されている。人間の五感、視覚や聴覚や触覚、そしておそらく嗅覚と味覚は、振動のデータを拾い上げるように作られている。
 データは脳で解釈される。そして、個人差はあるにしても、ほぼ同じ反応を引き起こす。ベートーベンの第九交響曲の最終楽章を子守歌だと思う人はいない。
 すぐれた芸術家は、創作が法則にかなっていることを本能的に知っている。ベートーベンの「音楽は哲学よりも高度なひらめきである」という有名な言葉を考えてみれば、そのことがわかる。これは後期の弦楽四重奏曲に取り組んでいたころのものである。
 だが、芸術家たちにしても、その法則の正確な性質はわかっていない。彼らが巨匠のレベルに達したのは、一心不乱に修業し、天賦の感性に恵まれ、長期にわたって試行錯誤を繰り返したからにほかならない。
 生徒や弟子に伝えられるものはほとんどない。技術だけは伝えられるが、「天賦の才」は伝えられない。ところが、古代文明において奥義を伝授された人々には、調和の法則に関する正確な知識があった。
 望みどおりの効果を生み出すには、調和の法則をどのように扱えばよいのか? 彼らはそれを知っていたのだ。彼らはその知識を建造物、美術、音楽、絵画、儀式、香に刻み込んだ。そしてゴシック様式の大聖堂や巨大なヒンドゥー教寺院、エジプトの驚嘆すべき建造物などをはじめ、数多くの神聖な作品を生み出した。それらは遺跡となっても、いまなお強力な影響を与えている。
 そのような効果が生まれるのは、製作者が何のために何をしているかを正確に知っていたからだ。これらは、複雑な知覚を巧妙に扱うことから生まれていた。
 さて、二〇世紀を眺めてみると、宗教芸術の傑作は見当たらない。しかし、知覚データの誤用から、数多くの有害な影響が生まれている。
 拷問は知覚データの悪用例だ。人類は拷問については前々から知っていた。だが、科学的に研究されたことはなかった。分析の結果、拷問は二つの形態をとることがはっきりした。それは「知覚の喪失」と「過剰刺激」だ。たとえば光の入らない独房で知覚を喪失させたり、あるいは鐘の下に縛りつけて音による過剰刺激を与えるのだ。
 今日ではよく知られていることだが、現代生活のストレスと緊張は、計量できるほどの害を人間の感情面と心理面に与えている。
 しかも、さらに油断のならない影響が明らかとなっている。空港のそばに住んでいたり、工場で絶え間なく騒音にさらされながら働いていると、気が立ってくる。また、合成資材を大量に使ったオフィスビルで空気を循環させると、空気中のマイナスイオンが不足する。そのことが五感によって検知されることはなくても、これは分子レベルの振動現象であり、はっきりとした害をおよぼす。意気消沈したり怒りっぽくなり、疲れやすく、感染症への抵抗力がなくなるのだ。
 さまざまな機械の出す周波数や超音波も、危険な影響を与えている。今日のデザイナーは、色やその組み合わせの効果を知っている。どのような色の組み合わせが有益、あるいは有害なのかを知っているが、なぜそうなるのかはわからない。
 実質的に、今日の都市生活者の生活は、穏やかではあるが継続的に拷問を受けている状態にあるわけだ。そこでは加害者も犠牲者も同じように影響を受けている。そして、誰もがこれを「進歩」と呼ぶ。その結果は意図的な拷問と似たようなものである。精神的に強い者はこの挑戦を受け入れ、直視し、切り抜ける。残りの者は屈伏し、無情かつ冷淡になり、動揺する。
 この耐えられない状況から救ってくれるのであれば、物にでも人にでも盲目的に従ってしまう。人は「自分のためだ」と思い込んで暴力に走り、あるいは暴力を大目に見る。このような状況を引き起こしているのは、高い理想を公言しながらも、自分が操っている力について、なんら把握していない人々だ。
 これらの現象は五感を通じて直接、あるいはイオン化していない空気、音、超音波のように、より微妙な生理的受容体を通じて現れる。したがって(少なくとも原則的には)数学的に表現できる。
 古代の人々は水素爆弾を作ることはできなかったはずだが、彼らには必要のないものだった。軍隊は殺人を目的として存在するものかもしれないが、戦争における究極の目標は大量虐殺ではなく、敵を心理的に征服することにある。野蛮な暴力は暴力的反発を引き起こす。軍事力だけに頼った専制体制は、めったに長続きしない。だが敵が心理的に無力なとき、支配者は安心していられる。
 現代社会を見てみると、人間は五感でも第六感でも感知できない現象を押しつけられ、奴隷にされているのがわかる。それを押しつけている側ですら、その事実に気づいていない。もしも自己中心的な賢者がいたとすれば、人間の五感を巧妙に操り、似たような状態を意識的に作り出すこともできる。
 過去のゴシック大聖堂や宗教芸術、宗教建築物には、調和や均衡の知識が正しく応用されている。現代教育のせいで感情が永久に損なわれているのでなければ、そこに行けば神聖さを感じるはずである。
 したがって、同じ知識を利用し、平気で悪事を働 く人間もいるかもしれない。原理的には、建物や踊り、歌や音楽を工夫することで、どこの国の人々であろうと、その大多数を骨抜きにすることができる。秘密を知っている人にとって、人々を操るのは造作もない。実際、秘密の存在を否定する人々ですら、二〇世紀のいま、その知識を使い続けているのだから。
 さらに、具体的な証拠はないが、繰り返し言われている伝承がある。それは「エジプトが衰えたのは、魔力の誤用がはびこったせいだ」というものだ。魔力とは、究極的には調和現象を操作することなのだ。
 これは、ある種の数学知識を秘密にしておく立派な理由のひとつだ。だが、個人の啓発や奥義の伝授という側面を考えると、理由はほかにもたくさんあることがわかる。つまり、簡単な秘密すら守ることができない者に対し、さらに複雑で危険をともなう秘密など教えられるはずがない、ということなのだ。
 最後になるが、西洋の知性は、直観や感情といった感性を失うことで発達してきた可能性も考慮しなければならない。つまり、過去の人々はこれらの感性的な部分が鋭く、そこでの数学知識の誤用は現在よりも危険だったかもしれないのだ。(p34-39)

 シュヴァレ・ド・ルービッチは「魔術」と「妖術」を慎重に区別している。
 「魔術」は「調和的な方法を用いて、自然界に存在する宇宙的エネルギーを呼び出し、利用する術」である。
 それに対し、「妖術」は心理的な環境に影響を与えるものだ。つまり「人間の生命力から生じるエネルギーを使う術」である。これらはどちらも実在し、現在でも効果がある。
 魔術には「白魔術」と「黒魔術」があり、妖術にも「白妖術」と「黒妖術」があった。さらに魔術と妖術のどちらにも、高位と低位の形態があった。
 このような分類はよけいなことだ、と合理主義者たちは思うだろう。彼らはどちらの存在も否定するからだ。だが、魔術や妖術が盛んだという点では、私たちの社会もほかの社会と変わらない。もっとも、現在の魔術や妖術はレベルが低く、ほとんどの場合つねに破壊的で、本来の性質を隠す名で呼ばれている。ヴードゥー教の妖術師が人形にピンを刺すと、犠牲者は死ぬ。これが妖術であり、人類学者は、妖術が実践されている社会ではこのような方法が有効であることを疑っていない。
 それでは、ヴードゥー教はこの二〇世紀の進歩的な社会でどのように機能しているのか? 魅力的な自動車の広告ポスターを見ると、もし新車「ウォンバット」を買えば、ポスターの中でウォンバットに乗っているきれいなブロンド娘か、似たような娘が手に入るような気にさせられる。そして、新しい「ウォンバット」を買ってしまう。
 このようにマジソン街の妖術師は、ジャングルのヴードゥー教の妖術師に負けない手練で、気づかないうちに人々の意志を操作している。技術的に考えると、これはまさに妖術なのだ。実際にブロンド娘を手に入れれば、妖術が効果を発揮したことになる。
 それは、対象者の意志に影響をおよぼすことで効果を生む。どのように起こったかはわかりにくいが、効果は抜群である。二〇世紀の妖術は、ビジネスマンからは「広告」と呼ばれ、政治家からは「プロパガンダ」と呼ばれ、心理学者からは「暗示」と呼ばれる。これらはすべて妖術であり、それ以外の何ものでもない。現代の妖術師も、妖術をかけられた人々も、何をしたのか、何をされたのかに気づいていない。それでもかまわないのだ。実際に妖術がかけられ、効果が出ているのだから。(p201-202)

 大工、陶芸家、ステッキ職人、漁師、船大工、酒造業者など、発達した熟練職人文化とすべての職業の絵がある。ところが、建築家が働いている場面はエジプト中を探しても見つからない。エジプトの巨大な建造物がどのように計画、設計され、施工されたかを示すものが一切ないのだ。
 図面の断片がパピルスに精密な格子状で描かれていることから、計画そのものが存在したことはわかる。それは当然のことであり、驚くに値しない。だが、これらの計画の根底にある知識については何も発見されていない。それでも、建築の知識は存在したのだ。建築物が実在していることが何よりの証拠だ。エジプト人の技術能力が高いことは古くから明らかだった。現在では、調和、プロポーション、幾何学、デザインに関する深い知識を持っていたこともわかっている。
 そして、これらすべての技術的、理論的な知識は秘密かつ神聖とされていたが、その秘密が守られたことも明らかだ。(p40)

 キリスト教徒の目から見れば、エジプトの神々はすべて偶像であり、すべてが等しく許せないものだった。エジプトのレリーフはキリスト教徒によってけずり落とされたのだという推測は筋が通っているように聞こえるが、証拠から見ると矛盾している。破壊作業を進めるにあたって、なんらかの選択があったことは明らかだ。ハンマーで打ち砕かれているレリーフもあれば、そのすぐ隣には同じように「異教」の神のレリーフが無傷で残されている。
 また、不可解な方法でけずり取られている場合も多い。姿全部がけずられていたり、顔だけがけずられているものもある。また、顔はそのままで身体や衣装の特定部分だけをけずり、あとは無傷で残している場合もある。歴史上、いかなる場合でも狂信者がこのような手法をとったことはない。レリーフをけずり取ったのが熱狂的なキリスト教徒の仕業だと考えたいなら、エジプト学者たちはこの奇怪で独特な行動を説明できるだけの証拠を見つけなければならない。
 碑文に彫り込まれたヒエログリフのけずり方を一見すれば、そのような証拠を発見できる可能性が非常に低いことがわかる。ヒエログリフにも同様の「選択的削除」が施されているが、これがキリスト教徒の仕業ではないことは明白だ。ヒエログリフの解読は、常にエジプトの神官たちの特権だった。キリスト教徒であるコプト人がヒエログリフの秘密を知っていたとは考えられない。写真を見ればわかるように、刻み込まれたヒエログリフをけずり取るには、石に深さ三センチの溝を彫らなければならない。しかし、そのすぐ隣の碑文がそのまま手付かずで残されていることもある。このようなことができたのは神官だけであり、今日広まっている考え方とは異なるシンボル的な理由に基づくものだ。
 エジプトの神殿が計画的に解体され、再建され、レリーフや碑文が意図的にけずり取られたことは、ド・ルービッチが「テンプル」と呼ぶ、賢人のグループがいたことを証明している。たとえ一〇〇〇のレリーフや巨大な彫像にファラオの顔が飾られていたとしても、決定を下していたのはファラオではなく、この機関(秘密結社と呼んでもいいだろう)だった。(p283-286)



フォローアップ:



  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。