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『海底大陸アトランティス カリブ海に眠る謎の巨石群』より抜粋。
心霊考古学
「ポセイディア'75探索」を続けているなかで、ビミニがアトランティスの跡だったという可能性が強くなってきたので、私は他の方面からの助けを求めた。
先史時代の研究者の間で、心霊術が資料として使われだしているのを知って、私にはある種の満足感があった。これは、エドガー・ケーシーという天才的な心霊術師に負うところが大きかった。一九三七年、ケーシーはある人の前世の姿を見ているうちに、その人が死海の北西岸にあったエッセネ派の学校で、キリストと知り合ったと述べている。のちに死海写本として知られるようになる、古代エッセネ派の最初の手書き文書が発見されたのは、一九四八年のことだった。エッセネ派の共同社会は、クムランの発掘調査で、一九四九年に初めて発見された。ケーシーはまた、キリストとエッセネ派の間に実質的に密接な関係があったことを示唆しているが、これについては、現在も歴史学界と宗教界で調査が進められている。ケーシーの業績が、一九三七年にもっとよく知られていたならば、クムラン遺跡発見への直観的考古学の先鞭となっていただろう。実際にはケーシーは、自分の“予言”が正確だったという知らせを聞くこともなく、一九四五年に死んだ。
今日では多くの直観的な力が、普通の考古学的手段では確認されていない、古代遺跡の数々の機能について正しい答を提供している。有能な心霊術師の協力を得ることによって、古代遺跡の謎を解いたり、その建設者の知能の発達について、立証可能な仮説をたてることができる。私たちの友人であるバレンタイン博士が、ユカタン半島のロルチュン洞窟を発見するにあたっては、こうした新しい手段が重要な役割をはたしたのだった。
一九七四年にメキシコ・シティで開かれたアメリカ人類学会の席上、少なくとも二人の考古学者が、自らの研究のために心霊術師の協力を得たことを認めている。(中略)多くの心霊術師と仕事をしているうちに気がついたのは、彼らが霊感を得る方法が実にバラエティに富んでいることだった。ある者は、厳密な儀式の準備と神がかり的な状態を要求し、またある者は、簡単に軽い神がかり状態や瞑想状態になった。また別の者は、完全に自意識をもったままの状態で、与えられた心霊術の情報について注釈を加えることができた。前にも述べたとおり、未来の出来事について正確な日時を予言するのは最もおぼつかないことで、せいぜい八〇パーセントの信憑性しかないであろう。ある者は、与えられた場で起こった即物的な活動に特別な反応を示したが、他の者は、過去のもっと精神的な、形而上学的な局面に同調しているようにみえた。ある者は謎めいた話をするかと思えば、他の者は先史時代について首尾一貫した連続性のある説明をした。そして私は、一九七四年ラマール大学で研究をしていたとき、キャロル・ハフスティックラーという若い女性と知り合いになったが、この女性の心霊術能力を尊重するようになった。キャロルは、ブルックリンのメイモナイズ夢想研究所で、スタンレー・クリッパー、モンタギュー・ウルマン両博士のもとで、テレパシーを応用した心霊術被験者として働いていた。
キャロルにポセイディア'74について話してみると、彼女は私に、「ビミニについて心霊術的解釈を提供しよう」と申し出てくれた。私が「どんな情報でも助けになる」と言うと、彼女は、千里眼で見るかのように過去に照準を合わせた。彼女の語るところによると、ビミニは紀元前六〇三一年に天変地異に見舞われ、その余波は二〇〇年間も続いたという。私たちがアトランティスとして知っている文明は、紀元前四〇二一年まで続き、人口のいくらかはまだビミニ島地域に残ってはいるが、ほとんどの人たちはイギリス領西インド諸島とペルーに移住した。彼女の見た地球の変動によれば、地殻が崩れ落ちると、ビミニ島が南東へ移動して現在の場所まで来たという。この時期ははっきりしていないが、ビミニ自体は紀元前六〇三一年の天変地異のときに、海底に沈んでしまったという。彼女の言った年代は、いまは海底一五メートルのところが紀元前六〇〇〇年には古代の海岸線だったという、地質学者の推定と一致することがわかった。(p142-145)
キャロルは遺跡の起源をさぐっているうちに、宇宙人が惑星を種つけしてまわっているような霊感を得た。惑星を次から次へと種つけしてまわり、それぞれの惑星にすでに育っている宗教を発展させるのにふさわしい宗教を教えるという次第である。こうしたことは、一時に数カ所で行なわれようとしていたが、人類の間ではおおいに抵抗があったので、うまくいかなかった。
この、最初の予言がもたらした意味あい全体が、私を夢中にさせ、複雑な心境にさせた。一方で、私は、心霊が現世に降り立って示した人類の起源についての予言と、古来の説明の共通性におおいに興奮をおぼえた。しかし、アトランティスの謎をめぐって、宇宙人訪問などということは、考えも及ばなかった。現代作家のいく人かは、宇宙からの来訪というテーマを扱うのに、彼らの推理を裏づけるのが不可能なような、あやしげな方法を用いてきた。(中略)「私は、スバル星という単語をずっと抱き続けています」とキャロルは言い、さらに、「私がそう言い続けるのは、その単語がビミニ・ロード・サイトの知識とともにずっと伝わってくるからなのです」と言った。最初、彼女はそれがたんに重要な天文学上の方位を示すものとしか考えていなかった。キャロルは、慈悲深い人間の物語をもち出した。この人間は、今日の人類よりずっと進化していて、紀元前二万八〇〇〇年頃にプレアデス星団(スバル星団)から地球にやってきたのだった。オウシ座の三〇〇近くの星からなるこの星団は、太陽から四〇〇光年のところにおよそ六〇〇万年前から存在し、宇宙を一団となって高速度で移動する。秋には夕方に東の空に昇り、春には西へ移って日没後に現われる。
どの星も、天体望遠鏡が必要で、肉眼では見えないが、最も明るい星は、七つ星と呼ばれることがある。星団の本当の名前は、これらの明るい星をさして、ギリシャ神話からとられている。プレアデスはアトランティスと関係があるのだ。というのは、プレアデスはアトラスとプレイオネの間に生まれた七人の娘で、第一子(もともと、最も明るい星だった)がマイア、ついでアステロペ、タユゲテ、アルシオーネ、セロエーノ、エレクトラ、そしてメローペをさす。そして、アトランティスというのは、アトラスと関係があるという意味である。
キャロルの説明によると、プレイオンは明らかに大星団から一種の“伝道使節”だった。プレアデスの生命体は、彼らが訪れた地球人からみれば、神のように思われたに違いない。プレアデス星団からやってきた生命体は、とりわけて人間的な構造をしていたのではなく、彼らの体の組織は精神的な形で、もっと意識的に支配されていた。したがってその体は、思想の型によって動かされた。
一人の人間がこの意識の域に達したとき、同じような指向性をもち、同じ型に進化しつつある生命が超自然的に発生する周期をし
っかり見守るのが、彼の道徳的義務なのだ。というのは、自意識によってそうすることが、人間の場合には必要だからだった。あえていえば、これがプレイオンの生涯の仕事ともいえる。この地球での我々人類の仕事は、我々が何ものであるかをしっかりと自覚することだが、プレイオンは自分が何であるかを知っているので、その途上にある他の人たちを助けることが彼らの仕事になる。彼らが地球に現われた理由は、この惑星に存在している人類の進化を加速するための、進化の作用を実現することだった。
プレイオンは、大陸のひとつに首都、“商業の主要な中心地”、宗教の大きな中心地を見つけた。
キャロルが言うには、地球上の人類の中には彼らと接触する体制ができているものもあった。それは特殊な領域、つまり太陽神崇拝に見られるという。しかし収穫、武器、道具ではそうした交流はなかったという。彼女は言う。「私にもなぜかはわからない」 というのは、彼らは何かつくろうと思えば、例えば道具でも持てたに違いない。実際には、霊感でみんなやってのけていたので、その必要がなかった。このことは、“リーディング”が続けられるうちにますます明白になった。
当時の地球の文化は、いまよりもずっと心霊作用の力が強かった。しかし、心霊によるコミュニケーションがあったために、行動はあまり必要でなかった。プレイオンがここを訪れたのは、機能、つまり行動と呼ばれる領域をまず刺激するためだった。地球で行なわれたことの多くは、物理的な動きなしで行なわれ、彼らは人間の類型を物理的行為をとるものと見、次には精神的行為をとって物理的な力を弱めるものと見ていた。いうなれば、これらは人類が、初めよりは高度で違ったレベルだが、同じ質をもった最終産物をつくり出すためにたどる拡張と収縮の周期なのだ。宇宙には我々のに似た太陽系が無数に存在し、さらに、これら太陽系の進化の手助けをする生物がいるということがわかるに違いない。
プレイオンは、太陽といくつかの星が定期的に一直線に並ぶといった、未知の事実で人間の意識を高揚させ、浄化しようとした。そこで、地球の磁場を用いるために、ビミニを彼らの聖なる地の候補地に選んだ。彼らはさらに高度の意識をもちこんだ。それをビミニ・サイトの迷宮や、その他の意識を高揚させる特質によって教えこんだのだった。ビミニの遺跡を初めとするそうした特定の場所では、三人の女性を含む一三人の人々によって儀式が行なわれ、そこに一人一人が立って、ある種の意識の流れを発展させた。プレイオンが意識を改革するうえではたした大きな功績は、男女のエネルギーのバランスを回復させたことだった。
こうした謎めいた物語について、このバランスというのが、脳の左右の領域でその活動がはっきりと区別されていることを意味するのではないかと、私は理解している。現代の大脳生理学でわかっているように、脳の左半球の働きは分析的、論理的、直線的思考、つまり男性型で、右半球の働きは統合的、直観的感情、つまり女性型である。しかし、男女のバランスの背後にある意味あいを考えてみると、プラトンの人類の創造についての神話が思い起こされる。プラトンが言うには、最初の人間は球状をしており、神にとって恐るべき力をもっていたことから、神が男と女の半分ずつに分けたというのだ。こうして、人間は全体性を回復するために、たがいを追い求めるのに懸命になるわけで、神にとって、もはや人間は脅威とはならなくなった。キャロルが言うには、プレイオンの地球来訪のひとつの目的は、男女のバランス回復にあるというのだが、このキャロルの“リーディング”にもプラトン神話が色濃く投影しているように思われる。
キャロルの霊診で、プレイオンがもたらした文化がはっきりと識別された。それがアトランティスだったのだ。さらに彼女は、今日の我々の文化と、古代アトランティスの文化とを対比させた。「我々は、一方のサイクルの端にある。我々は、行動機能を限界ぎりぎりまでもってきた。そしていま、心霊的テレパシーとのつながりにたちもどらなければならないようになってきている」(p155-159)
プレアデスの神々
私は、紀元前二万八〇〇〇年に遺跡の四五度の方位と結びつくような、意義のある天文学上の現象があったかどうかを調べてみた。コルゲート大学のアンソニー・アベニ教授がコンピューターではじき出した、一連の天文学上の計算表を参考にしてこの方位を調べてみて、オウシ座の方位がその年代に有利なことを見つけてびっくりした。私は、アトランティスの人たちの聖牛崇拝を思い起こし、これとの関連を考えてみた。しかしプレアデス星団は、紀元前一万八〇〇〇年にならないとビミニの緯度まで上がってこないので、キャロルの言う紀元前二万八〇〇〇年とは矛盾する。
このくい違いの理由については、私がこの問題で相談することに決めたもう一人の女性心霊術師の“リーディング”が、ヒントを与えてくれた。彼女は、永年の信頼すべき友人で、その神通力のおかげで私が命びろいをしたこともあった。彼女の存在は、最も超自然発生的なチャンネル、この上なく純粋なチャンネルに近いと言われてきた。彼女は名前を世間に知られたくないと言うので、ここでは、ただアンとだけ呼ぶことにしよう。
私は、アンに、キャロルの説を支持するものでも否定するものでもよいから、追加資料となるものを出してほしいと頼んだ。彼女の答は次のようなものだった。
キャロルの説は、基本的には正しい。プレアデス星団は、宇宙の愛がひろがる源だった。ときどき他の星座からこのような生物が来訪することがあるが、とにかくプレアデスは、光明の生物、善意の使節で、困難な地球の発展期に人類を助けた。
アンは、一九七四年の遠征の前にも、ビミニ遺跡について考古学上の予言をしており、そのひとつの中で、遺跡が聖なる図形だけでなく、聖なる機能をもっていた点を指摘している。
私は彼女にたずねた。「ロード・サイトに聖なる図形が含まれているだろうか?」 彼女の答は、「はい、たしかにそのとおりです。プレアデス星団は、同じようなやり方で、形而下の広大な事業“最高位の息子たち”を地球の自然に変える事業を残していた」というものだった。
私は、プレアデス星団が人間の意識に影響を与えていることを、アンが認めた点に興味をそそられた。彼女は、ビミニに影響を与えた過去の地球の変動を生き生きと描いたキャロルの話に、さらにくわしい説明を加え、そこに展開される磁場の問題にも手がかりを与えてくれた。
アンが示唆するところによれば、はるか昔に、プレアデス星団はずっと中天高く(北に近く)昇って、だんだんと現在の東方の緯度へ移動した。一時プレアデス星団は、四五度の方位角で上昇した。ビミニの昔の天文学者は、プレアデス星団の上昇や位置だけでなく、上空の子午線にも興味をもった。これは、エジプトのクレオパトラの方尖塔に似た立柱を見ればわかる。地球の過去の大変動が、夜空を大きく変えたので、彼らは天体観測に強い関心を寄せ、変わりゆく天体をとくに用心深く見分けた。(中略)
一九七
六年後半、私はプラトンの神話、ケーシーの予言、ヴェリコフスキーの地球変動についての天体物理学説、現代の考古学者、地質学者、物理学者、超心理学者、そして心霊術師の発見、学説、さらに私自身のビミニでの実地探査と、すべてを結び合わせてみた。すると、次のような推測が成り立ってきた。
紀元前およそ三万年、プレアデス星団からこの惑星に向けて、いくつかの移住が行なわれた。これらの移住には、エーリッヒ・ファン・デニケンが示唆しているように、機械装備を必要としなかった。彼らは、おそらく何千年もの間、完全に肉体の形をとって降りてくることはなかった。たしかにこれらの生きものが地球に姿を現わしたときには、住民は神々が訪れたと信じて疑わなかっただろう。彼らは、物体よりエネルギーに近く、おそらく“光を放つ”固体か何かのように現われたのだろう。そして彼らは、秘伝をもつ、輝く人間だったのかもしれない。
物体よりエネルギーに近かったプレイオンは、人類を目覚めさせ、病いをいやし、そしてこの太陽系から人類が生まれたという起源を思い起こさせるために、神殿を建てた。これらの神殿は、ジョン・ミッシェルが“聖なる幾何学”と命名した技術で建てられた。これらの建築技術には、彼らのよく知っていた宇宙の構造、太陽系、またこの地球の生活と関係のあるいくつかの聖なる数字が使われた。これらの神殿は、さらに星や太陽や月の形に似せてつくられた。これらの天体の微妙なエネルギーが、神殿の幾何学形のなかで共鳴し、それによって意識を高揚させ、病気の治療もできるように増幅された。神殿を、地球の磁場と大きな関係のある場所に位置づけることによって、その効用を高めたのだった。これらの基準を具体化している最も有名な現存の神殿は、ギザのピラミッドだ。さらに神殿の効用は、音、いいかえれば歌によって高められた。何千年もの間、これらの神殿の霊験あらたかな効用は存在し続けたが、その後、多くの神殿が地球の変動で破壊された。秘伝を授けられた少数のグループの人々が、この種の知識をもっていたが、人類に対する実際の影響は、次第に失われていった。これらの神殿のひとつの名残り(おそらく、エジャートン・サイクスがいうように、“ムリアス”と呼ばれる複合体で、透明の壁と黄金の門をもった神殿)がビミニにあったと推定される。その後、数千年間にわたって、この神殿の遺跡はほとんど破壊しつくされたが、原形をとどめるものがいくつか残っている。我々が、技術と精力を十分に注ぎこめば、おそらくこの形式を解き明かすことができるだろう。ちょうど、アーサー・クラークの映画『二〇〇一年』のなかで月に埋められていた尖塔のように、これらの古代の石が、再び人類に語りかけることもありえないことではないだろう。
この仮説が、先史時代のいくつかの疑問を解明してくれるのであろう。第一に、天体観測よりずっと広範な、プレアデス星団についての古代の関心を説明するのに役立つであろう。また、地球上の人類の進化について、別の観点を与えるだろう。人類は、いつの時代にも、地球の外からの助けを得てきた可能性があるのだ。最後に、この仮説は非物質的存在のもつ秘伝とも一致する。この存在というのは、魂のことで、次第に形をとってきたものなのだ。実際に、この遠征調査のあと数カ月の間に、私はプレアデス星団が古代の人類の意識に広範な影響を及ぼしたことを示す証拠を、数多く見つけた。
キャロルの霊診によれば、プレアデスの生命体は、エネルギーとして、また光として、ごく一部が物質として固体化してやってきたものだ。これは、原則としてプラトンやプロティノス、そしてケーシーが考えた人類の起源についての説明と一致する。(p162-167)
神話の世界
私はこの研究で、一九七五年の遠征に加わったこともある、大学院博士課程で考古学を専攻しているジョン・ダグラス・シンガーと文通をしていた経験も、大いに役立った。プレアデス星団が、歴史、神話、人類学、そして考古学の信じられないような広範な一連の事実の中心だったことが、やがて明らかになった。次に示すのは、氷山のほんの一角にすぎない。
古代中国では、紀元前二十四世紀にプレアデス星団を崇めていたようだし、聖書でもプレアデスに言及していることがわかる。神がヤコブに問いかけて、「汝はプレアデスの甘美な感化力をつなぎとめることができるか」と言っている。
これらの星と神々との関係については、アンの霊診のなかでさらに強調されている。それによれば、プレアデスは神話のなかで理性として重要な場所を占めており、地球人にはおぼろげにしか理解されないだろうが、宇宙の愛は彼らの間からひろがったというのだ。
奇妙なことに、例えばオオクマ座のように、空にはもっと明るい七つ星が見つけられるのに、世界中の古代人が、七つ星といえばプレアデス星団にしか言及していない。太平洋のポリネシアでは、この星座は天の七つの小さな目として知られている。さらに、プレアデス星団は現在では肉眼で六つしか見えないのに、世界中どこでも七つと考えられてきた。
アポロドロスの著書(紀元前二世紀)のなかで語られているプレアデスのギリシャ伝説は、次のようなものだ。
アトラスとオケアノスの娘、プレイオネの間には、プレアデスと呼ばれる七人の娘があった。彼女らは、アルカディアのキレーネで生まれた。アルサイアニ、セローノ、エレクトラ、アステロペ、テイジェタ、そしてマイア……。ポセイドンが七人の娘の二人と交わって、セローノとの間にリコスが生まれ、彼女をブレスト諸島に住まわせ、そしてアルサイアニとの間には……
この一世紀後、シチリアのディオドロスは、この伝説にアマゾン族と戦争をしたアトランティオイ人の話をつけ加えた。アトランティオイの名前は、彼らの指導者、アトラスからきている。彼の名前にちなんで、彼の国で一番高い山の名がつけられた。アトラスは、占星術を完成し、球形を人類に初めて教えたといわれている。さらにディオドロスは、プレアデスが最も名の知れた英雄や神々と交わって、人類の大多数の種族の最初の先祖となった、と伝えている。これらの娘は、また貞節をもって知られており、彼女らの死後、人類の間に不滅の名誉を得て、人間たちによって天空で王座に据えられ、プレアデスと命名されたということだ。
古代ギリシャの神殿は、プレアデス星団が昇るか、あるいは沈む方向に向かって建てられ、古典世界では、プレアデスが朝出るときが夏の始まりで、朝沈むときが冬の始まりとされていた。このときが、また古代人には五月から十一月にかけての航海の季節とされた。プレアデス星団は、今日では天測航法には使われていないが、奇妙なことに、プレアデスの空域にある二つの重要な航海の目印になる星のアラビア語名は、この星団に関係がある。ひとつはペルセウス座のモーファクで、アラビア語でプレアデスの肘という意味だ。もうひとつが、オウシ座のアルデバラン(オウシの目)で、アラビア語のプレアデスの家来にあたる。私は、初めはビミニ・ロード遺跡に関して、そしていままた船乗りの重要な目印として、アルデバランとオ
ウシの感化力の大きさに驚かされた。
R・G・ハリバートンは、雑誌『ネイチャー』(一八八一年十二月一日号)のなかで、プレアデスを崇める普遍的傾向は、星座が宗教、暦、神話、伝説、そして象徴化の中心を占めていた、人類史の年代さえわからない古い時代にまでさかのぼると主張している。ハリバートンは、また次のようにも述べている。「古代人は、プレアデス星団のアルサイアニが宇宙の中心で、楽園一一我々人類の原始時代の家であり、神と死せる魂の住居一一はプレアデスの中にあったと信じていた」
ハリバートンは、ドーリア人の宗教についての彼と同時代の著者、ミュラーを引用して、ギリシャで一般に使われていた有名な八年周期は、月と恒星の運動をもとに測定され、プレアデス星団によって修正された、と述べている。さらに、デルフィ、クレタ島、そしてテーベのアポロの大祭はこの周期をもとに行なわれ、本来、太陽の神と一般に思われていたアポロはプレアデス星団の神で、したがって七の日は、アポロにとっても他のものにとっても聖なる日だった、と語っている。
ハリバートンは、ペルーではペルー人もキリスト教徒も、死者の祭礼を同じ日、十一月二日に行なうという事実をまず解明したのだった。ペルーでは、アヤマルカと呼ばれる“悲しみの祭礼”が、毎年十一月に行なわれた。それは、懺悔と悲しみの時期であり、太陽が南半球の空の最も高い点に到達する直前に行なわれた。ハリバートンは、これには他の天文学上の理由があるに違いないと感じており、新世界でも旧大陸でも、七の数字(七つ星)が神聖視されているところから、プレアデス星団が昇るときにあたるのではないかと考えられた。私自身は、古代人の多くが暦の初めの日として、プレアデス星団が子午線を通過するハロウィン祭の日を広く使っていることに注目している。しかし、プレアデス星団は、少なくとも二〇〇〇年の間、太陽の近くに昇ったことがなかった。ハリバートンは、ひき続いて古代の暦を研究するうちに、ティルバロールの非常に古い古代のヒンズー教の暦で、十一月をカルティカ(プレアデスの口)といっていることをつきとめた。のちに彼は、ポリネシアの暦がプレアデス星団の出没、あるいはずっと見え続けている夜によって決められたことに気がついた。
ロバート・グレイブスは、『白い女神』のなかで、プレアデス星団こそ、古代太陽神崇拝の神官にとってカレンダーの基準だったと述べている。古代ギリシャの歴史家ディオドロスは、ケルトのガリアの西の島(そこがイギリスだったとグレイブスは説明している)に住んでいた“ハイパーボリア人”と呼ばれた人々について紹介しているが、ハイパーポリア人の神の長はアポロで、アポロは彼らの中心都市に神殿をもっていた。アポロは、一九年ごとにこの島を訪れ、ハープの音楽に合わせて踊った。(イングランド南西部コーンウォール州ペンザンスには石の輪があり、それは一九の支柱をもっている。)アポロが滞在したのは、春分からプレアデス星団が昇るときまでだった。グレイブスによると、この年は七月に始まったとプリニウスが述べているという。
プレアデス星団に向いている、重要な方位をもっている古代構築物には、ペルーのナスカ平原の地上絵、ミシシッピー墳丘、南イングランドの古代教会、ペンザンス近くにあり、ボスカウェン・インと呼ばれるストーン・サークルなどがある。古代ドルイド教徒もまたプレアデス星団を崇拝していた。スコットランドの巨石遺跡カラニッシュも、プレアデス星団に向かって並んでいることがわかった。アンソニー・ロバーツの『古代イギリスのアトランティス伝説』によれば、古代遺跡がこのように配列されているのは、古代人がプレアデス星団を、全世界を溺れさせ、破壊してしまったといわれる大洪水と結びつけて考えていたからだという。またプレアデス星団は、かつて地球を訪れ、古代人と交わった偉大な空の神々の所在地として記録されている。
スコットランドの天文学者、チャールズ・ピアッツィ・スミスはギザの大ピラミッドの調査をしているうちに、プレアデス星団が、子午線上を通るのを、直接天頂に見ることのできる通路を見つけた。彼は、古代人が、プレアデス星団が直接、天頂で秋分点と交わるハロウィン祭の日を、新年の初めとしていることに気づいた。(中略)カリフォルニア大学の人類学者、マリオン・ポプノー・ハッチ博士によれば、プレアデス星団の子午線通過は、エジプト文明やマヤ文明などにとっても重要な現象だったのだ。このことは、現存するマヤの文章やプレアデス星団を向いている構築物からも明らかである。マヤ・キチュー族の創造した神話「ポプル・ヴフ」は、四〇〇人の天上の青年が地球で人間と争い、地上で堕落したのちプレアデス星団へ帰ったと語り伝えている。
メキシコ近くのテオチチワカンの巨石遺跡も、プレアデス星団に向いていることがわかった。テオチチワカンは、その最盛期には六・四キロ四方に及ぶ大都市だった。市内の大通りのひとつは、西を指し、プレアデスの沈む方向に向いていた。丘の南東面と大通りに面した家の床には、測量マークに似たシンボルが彫られていた。大通りは、シリウス星とプレアデスを結ぶ軸線と平行で、通りに平行して、さらに水路が開かれていた。
このような天体現象が、古代人の暦の採用にいかに重要だったかは、アンの“リーディング”(霊診)からもわかる。この“通り道”(ビミニ島におけるプレアデス星団の子午線通過)は、季節が規則正しく移り変わっていることを意味していた。多くの人々は、地球上の大変動のためにプレアデス星団が消滅してしまうのではないかと心配した。プレアデス星団の季節ごとの動きは、宇宙の秩序を示しているように思われ、神話や口承伝説に残っている恐ろしい地球の大変動がくり返されることはあるまいと思われた。この考えは、プレアデス星団と関係のある古代アステカ族の儀式を知るに及んで、いっそう確実なものになった。
アステカ族も、二つの暦を同時に用いていた。第一の暦は、季節が決められていて、地球をめぐる太陽の運動にもとづいて三六五日となっていた。第二の暦は、宗教と祭礼のためだけに使われ、一年が二六〇日だった。一年の一日一日は、二つの独立した暦の周期で考えられた。太陽年と祭礼年は長さが違うので、二つの暦で年の初めが一致するのは、五二年にたった一度きりだった。この五二年という周期は、重要な意味をもっている。この両者が一致する日に、いずれ宇宙は地震で破壊されるものとされていた。最後の時期がいつになるかは誰も予言はできなかった。
この五二年ごとの周期の最後の一致日は、危機と恐怖のときだった。太陽は再び出てくるのだろうか? その日の夕方、プレアデス星団を見まもるために、神官たちはテノチチトラン近くの山頂に登った。プレアデスが天頂に達したとき、神官らが囚人の一人を祭壇にすばやく寝かせて、胸を切り開き、その生贄の胸に火を放った。使者たちがこの火を松明に移して、その新しい火をメキシコ渓谷の神殿という神殿、家という家に、走って運んだ。こうしてアステカ族の生命は、少なくとも次の五二年間、維持し続けられるも
のと信じられた。
ダニエル・G・ブリトンは、『新世界の神話』のなかで、新世界に昔住んでいた多くの人々が、プレアデス星団に対して深い畏敬の念をいだいていた事実を明らかにしている。アラウカノ・インディアンの神話によると、アカカネットは、神官によって慈悲深い権力者として崇められ、プレアデス星団のなかで王位に就き、地球に果物や花を送り、創始者と呼ばれていた。カリフォルニアに住むインディアンの一部族は、プレアデス星団を「いいかげんな気持で眺めると災難がふりかかる」といって、崇めていた。またペルーでは、プレアデスは星空の主として崇拝された。
プレアデス星団の影響は、ブラジルの奥深いジャングルにも残っている。クロード・レヴィ=ストロースの神話研究の労作『ナマものと料理されたもの』によれば、シェレンテ族は、月相によって暦を数え、太陽がオウシ座を離れると同時にプレアデス星団が現われる六月を一年の初めとしているという。シェレンテ族は、一年を二三カ月としており、六月は、四カ月続く乾期の始まりとなっている。
南アフリカのホッテントット族は、プレアデス星団が現われると、彼らの至上神ツィゴアブ崇拝の儀式を行なう。ツィゴアブは、嵐をつかさどり、豊作をもたらすため雨を降らせ、雷の声で話す。南太平洋のサモア諸島には、マヌリーと呼ばれる聖なる小鳥が生息しているが、ハリバートンは、これをプレアデスの鳥と紹介している。一八五七年に、サモア諸島の北東のデインジャー島で、プレアデス星団を見ると宗教的法悦境に達し、祝宴を開いてこれを賛美する住民の存在が確認された。
イースター島では、太平洋でただひとつの巨石文明と考えられている、九〇トンにも及ぶ巨大な石像が見つかっている。ポリネシアでは、この巨石文明に続いて、鳥人豊作の儀式が確認されているが、これは農耕期の始まりと時を同じくし、プレアデス星団の昇る時期と、マルケサス諸島とその西にある島々から黒アジサシがやってくる時期とが一致している。
さて、ここで疑問になるのは、古代人が、彼らの生活で最も重要な行事に、なぜ、そんなに明るくもない星座を選んで結びつけているのかということだ。私が思うに、神話、伝説、暦、そしてプレアデス星団の昇る方位に向いている構築物に見られるように、プレアデスとの神聖なふれあいが何世紀も前にあったという民族の思い出が、広く深い宗教的感情として表現されているのではないだろうか。
この主題について私が研究を始めた頃、大学院生のディビット・カマックが、キャプテン・クックがハワイ諸島を訪れたときに島民が歌ってきかせたというクンプリポと呼ばれる地球生誕の歌の英訳を、もってきてくれた。それはこんな歌詞だった。
地球が熱くなったとき
天空がグルグルまわったとき
太陽が暗くなったとき
月が輝き
プレアデス星団が昇ったとき
ネバネバした土、これが地球の源だった (M・ベックウィズ訳)(p173-181)