Tweet |
以下は『創世の守護神 上』より抜粋。
伝承は、ギザの建造物についてこう伝えている。これらの建造物は太古に存在した偉大な文明の、最後の巨大な記念碑であり、その文明は「大洪水」で破壊されたのだと。また、大スフィンクスの下、もしくは大ピラミッドの内部に、失われた文明の知識と知恵を保存した「記録の宝庫」が隠されているのだと。
この考えは古代から語り継がれ、歴史を通じ、ギザに取りつかれた人々を突き動かしてきた。たとえば四世紀、ローマ人のアミアヌス・マルケリヌスは冒険家に命じて、「ピラミッドの地下にある部屋」を探させている。そこは「古代の知恵が洪水に呑まれてしまうのを防ぐため」、過去の文明の書物や巻物を保存するために造られたという。
九世紀以降のアラブの年代記を見ても、同じような伝承をもとに書かれた様子が見られる。そのためか、大ピラミッドは科学的知識の宝庫として「洪水の前に建造された」という見解で一致している。八二〇年、アル・マムーン首長は大ピラミッドの北面に強引にトンネルを掘ったが、それも大洪水前の遺跡と確信してのことだった。そこに、建造者によって「すべての深遠な科学」の秘密や「歴史と天文学の知識」が隠され、「秘密の部屋には地図と地球儀」が保存されている、と信じていたのだ。
多くの古代エジプトの碑文やパピルス文書にも、同様の記述がある。隠された部屋一一「古文書の部屋」あるいは「記録の宝庫」一一といった、何とも関心をそそるような文章が残っている。おそらく、スフィンクスの下、もしくはその近辺にある地下室のことだろう。コプト人の伝説によると、「スフィンクスの下には地下室があり、三つのピラミッドへの入り口がある……それぞれの入り口は、驚異的な能力を持つ彫像によって守られている」
現代でも、この考えは脈々と受け継がれている。たとえば、フリーメーソンの教義や、カリフォルニアのAMORC薔薇十字会員、ロンドンとマドラスの神智学協会などの秘教的な団体の教えに。
さらに一九二〇年代から四〇年代にかけて、アメリカの霊能者エドガー・ケイシー(一部では「眠れる予言者」として知られる)が奇妙なことに熱心にこの説を唱えている。(p105-106)
ピラミッドの謎を探究した研究者の中でも、もっとも風変わりだったのは十九世紀のスコットランド天文台長チャールズ・ピアジ・スミスだろう。エドガー・ケイシーと同様、ピアジ・スミスは大ピラミッドが聖書の予言にある「キリストの再来」と関係があると信じていた。(p127-128)
一八六〇年代にこの仮説を立てているとき、スミスはウィリアム・ピートリーという技術者と親しくなった。その息子がW・M・フリンダーズ・ピートリーで、後にエジプト学を確立した功績で世界的に称賛されている人物だ。
ウィリアム・ピートリーは、ピアジ・スミスの仮説を強く支持したヴィクトリア朝時代の「ピラミッド研究者」の一人だった。ピアジ・スミスの仮説によると、「大ピラミッドは人類に残された予言の記念碑であり、『キリストの再来』を予告するために、未来の救世主の姿が暗号化されている」という。ハーマン・ブルック教授とメアリー・ブルック博士が書いた、信頼性ある王立天文台の伝記によると、「フリンダーズ・ピートリーとその父親は、心からピアジ・スミスの説に同意していた時期がある」という。若きフリンダーズ・ピートリーが一八八〇年、エジプトで大ピラミッドの研究を始めたのは、「ピアジ・スミスの仕事を継続」したいとの思いからだった。
話を女王の間のシャフトに戻そう。興味深いことに、ウェインマンとジョンのディクソン兄弟によるシャフトの発見も、ピアジ・スミスと深く関係している。ディクソンが一八七二年に大ピラミッドを調査し、女王の間に隠されていた南シャフトや北シャフトを発見できたのも、王立天文台の直接的な影響のおかげだった。(p142-143)
次の事柄の間には、いくつかの奇妙な結び付きが見られる。
● 女王の間のシャフトと内部にあった遺品の発見
● エジプト探検協会(EES:英国におけるエジプト学の権威ある組織)の創立
● ロンドンのユニバーシティ・カレッジにおける権威あるエジプト学講座の開始
● 英国フリーメーソン
一八七二年、ディクソン兄弟が大ピラミッドを探索していた頃のことである。フリーメーソン会員としてよく知られた国会議員のジェームズ・アレキサンダー卿が、「クレオパトラの針」と間違って名付けられた二〇〇トンのオベリスクを英国に運ぶよう議案を提出した。このオベリスクは、三千五百年前のファラオであったトトメス三世が、聖なる都ヘリオポリスに建立したものだ。このプロジェクトの資金は、やはりフリーメーソン会員であり、高名な皮膚病学者だったエラスムス・ウィルソン卿の個人資産でまかなわれた。このときジェームズ・アレキサンダー卿は、エジプトからオベリスクを運搬するのに、フリーメーソンの土木技術者ジョン・ディクソンを推薦している。ウィルソン卿はこの推薦を受け、急遽、ジョン・ディクソンとその兄弟で当時エジプトに住んでいたウェインマンを雇った。
数年後、ウィルソン卿はエジプト探検協会(EES)を創立し、初代会長に就任。一八八三年には、ヴィクトリア時代の文学者アメリア・エドワーズと共同で、エジプト学の講座をユニバーシティ・カレッジ・ロンドンで開講した。その最初の担当者には、ウィルソン卿の個人的推薦で、まだ若かったフリンダーズ・ピートリーが抜擢された。
このような結び付きは、すべて奇異な偶然にすぎないのかもしれない。だとすると、十七世紀のオックスフォードにアシュモーリアン博物館(現代のエジプト学調査センターとしては最高権威の一つで、「ピートリー講座」を持つ)を創立したのが考古学者エリアス・アシュモールだったのも、単なる偶然だったのだろうか。フリーメーソン研究家によれば、エリアス・アシュモールは、イギリス初のフリーメーソン会員だという。
この秘密結社が、今日のエジプト学に大きな影響力を持つという証拠は何もない。だが、この偏狭な結社の系図に立ち入って調べてみると、紆余曲折の後、失われた三つの遺品のうち二つを再発見できたのだ。
大ピラミッド内部でこれまで発見された唯一の遺品が、先に述べた三つの品だ。発見場所である女王の間のスター・シャフトは、われわれの調査でも重要な鍵を握っている。そこで一九九三年の夏、発見から百二十一年も経過していたが、遺品に何が起こったかを調査することにした。
新聞記事や関係者の日記を読み返したところ、ジョンとウェインマンのディクソン兄第は遺品をシガーボックスに入れてイングランドに戻っていた。前にも述べたが、ディクソン兄弟はこのとき、「クレオパトラの針」も運んでいる。このオベリスクは、テムズ河畔通りに建てられ、現在もそこにある。ジョン・ディクソンは落成式に列席し、記録によると「中味は不明だが、大きなシガーボックス」を、オベリスクの台座の下に埋め込んだという。
これは論理的に見ても
、説得力がある。つまり、ジョン・ディクソンは遺品をシガーボックスに入れてイングランドに持ち込んだ。それと一緒に、「クレオパトラの針」もイングランドに運んでいる。さらに、シガーボックスを「クレオパトラの針」の下に埋めた。そのときから遺品は消失したわけである。そのすべてに、フリーメーソンの人々が密接に関係しているのだ。彼らのしきたりを思い出してみれば、よくわかる。フリーメーソンは、記念碑や建築物の礎石を据えるとき、必ず奉納の儀式を行う。だから、大ピラミッドの遺品がほかの記念品や身の回り品と一緒に、「クレオパトラの針」の下に奉納されてもおかしくないのである。
それはともかく、遺品は間違いなく消え去った。大英博物館の専門家に聞いても、どこに行ったのか、まったくわからないという。大英博物館の元古代エジプト室長(一九五四〜七四年)であり、EESの元副会長I・E・S・エドワーズ博士にも尋ねてみた。英国随一のギザの権威者で、もっとも信頼できる本『エジプトのピラミッド(The Pyramids of Egypt)』の著者である。一九四六年に出版されて以来、この本は毎年のように版を重ねている。どの版を見ても、ウェインマン・ディクソンが登場し、女王の間のシャフトがどのように発見されたかが描かれている。だが、遺品についてはまったく言及していない。エドワーズ博士によると、まったく記憶になく、遺品の運命がどうなったかについても、心当たりがないという。
だが、われわれ同様、エドワーズ博士はフリンダーズ・ピートリー、ピアジ・スミス、ディクソン兄弟の結び付きに気づき、ピートリーが大ピラミッドの調査をしたのは、ディクソン兄弟の直後であることも知っていた。
奇妙なことに、ピートリーも、代表作『ピラミッドとギザの神殿(Pyramids and Temples of Gizeh)』の中でディクソン兄弟とシャフトについては書いているが、遺品についてはまったく触れていない。膨大な著作を探せば、どこかで言及しているのが見つかるのだろうか? エドワーズ博士は、ピートリーの伝記を著したエジプト学者マーガレット・ハックフォード・ジョーンズに聞いてみたらどうかと助言してくれた。もし遺品について一言でも触れているなら、ピートリーの日記や手紙の中にあるかもしれないというのだ。ハックフォード・ジョーンズ女史は徹底的に調べてくれたが、結局、何も出てこなかった。
もはや、ほかに選択肢はなかった。「クレオパトラの針」の下に収められたシガーボックスを掘り出して確認するしかないと思い始めた、その頃である。
英国の日刊紙『インディペンデント』が、この経緯を記事にした。一九九三年十二月六日のことである。『インディペンデント』のインタビューに、エドワーズ博士は、「そのような遺品については、私も友人たちも聞いたこともない」と答えていた。ところが、一九九三年十二月十三日、大英博物館古代エジプト室のヴィヴィアン・デイヴィス博士から、『インディペンデント』紙に手紙が届いた。驚いたことに、遺品がシガーボックスに入れられた状態で、デイヴィス博士のところに保管されているというのだ。
なぜ古代エジプト室は、これまで遺品の所持を認めなかったのか?
数日後、博物館のPR担当は、こうコメントした。「このことに関してはいろいろと誤解があったようだ。所持していないとは言わなかった。所持していることについては知らない、と言ったのだ」
さらに突っ込んで調査をすると、すべてが判明した。最初の憶測とは異なり、遺品は(二つしかない。年代を判定できる木片は失われていた)「クレオパトラの針」の下に埋められたのではなかった。百年間、ディクソン家に保管されていたのだ。そして一九七二年に、ディクソンの曾孫が、大英博物館の古代エジプト室に寄贈したのだという。その証拠に、遺品を受け取った記録も、当時の古代エジプト室長による署名も残っていた一一「I・E・S・エドワーズ博士」と。つまり遺品は、ただ単に忘れ去られていただけなのだ。そして、一九九三年十二月、ピーター・ショア博士というエジプト学者が、たまたま『インディペンデント』紙に掲載されたわれわれの記事を読んで、思い出してくれたのだった。現在はリバプールに隠居しているショア博士は、一九七二年当時、エドワーズ博士の助手を勤めていた。それで大英博物館に遺品が届けられたのを思い出し、関係各位にその誤りを伝えたのだった。
しかし、何とも不思議である。大ピラミッドではじめて開けられたシャフト内部から出てきた謎の遺品に対し、なぜエジプト学者たちは、これほど無関心でいられるのだろうか。正直なところ、大英博物館の古代エジプト室が二十一年間もただ単に忘れ去っていたなどとは、どうしても納得がいかない。一九九三年に南シャフトをロボットが探索し、「閉ざされた扉」の発見が大きく報道されたときも、遺品のことはまったく思い出されなかったのである。『インディペンデント』紙の記事が出る二週間前には、「扉」を発見したルドルフ・ガンテンブリンクがロンドンを訪問し、大英博物館のエジプト学者たちに詳細な調査結果を講義していた。その席には、I・E・S・エドワーズ博士をはじめ、ヴィヴィアン・デイヴィス博士、そのほかにもわれわれが遺品を探しているのを知っている人々がたくさん集まっていたはずだ。ガンテンブリンクは、ロボットが撮影した女王の間のシャフト内部の詳細なフィルムを見せて説明している。ディクソンが遺品を見つけたのは、このシャフト内部なのだ。フィルムは南シャフトの「扉」だけでなく、北シャフトの床の、ディクソンが到達したより遥かに高い位置に、少なくとも二つの遺品があることを鮮明に映し出している。一つは金属製のフックであり、もう一つは明らかに木片だ。(p144-150)