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回答先: スカリーの円盤物語とFBI 投稿者 SP' 日時 1999 年 6 月 04 日 20:20:44:
問題の“残骸”について、恐らく最も重要な生き証人は、事件当時ロズウェル基地の上級参謀将校で、第8空軍第509爆撃飛行大隊の情報部長だったジェシー・A・マーセル少佐だろう。届け出の直後ブレーゼルの牧場へ逸早く急行して、“残骸”の大部分を回収し、テキサス州フォートワースのレイミー准将の司令部まで送り届けた当の人物だ。(中略)
陸軍航空隊から選抜されて情報学校へ送られた、パイロットとしても情報将校としても折紙つきの優秀なエリート軍人で、当然飛ぶものなら何にでも精通していた。所属する第509爆撃大隊は、当時世界唯一の原爆攻撃隊として米軍の最精鋭部隊の1つであり、彼はその一員として、ある原爆実験の機密保持工作を助け、その功績に対して海軍から称揚章を授与されている。(中略)
「私が見たのは、大量の残骸であって、1つに纏まった機械装置ではない。正体はともかく、あれは間違いなく地上から離れた空中で爆発したものだった。地上に激突する前に、ばらばらになりながら飛んだものだ。破片が長さ約1200m、幅約100mの帯状の地域に渡って散乱していたからね。
ブレーゼルの通報で彼の牧場に駈けつけた時、私は参謀専用車の42年型ビュイック、もう1人同行したCIC(対敵情報隊)の男(テキサス出身でキャビットという名だった)は、キャリオール車(人貨両用ジープ)に乗っていったが、帰りには2台とも残骸で一杯になった程だよ。
いっておくが、あれは絶対観測気球の残骸ではなかった。私は当時空中に浮かぶものなら、米国製だろうが外国製だろうが、何でも知りぬいていた。民間・軍用を問わず、事実上あらゆるタイプの気象観測装置やレーダー追跡装置にも詳しかった。あれは絶対にそのどれでもなかったよ。
といって正体までは判らない。我々が拾ったのは破片だけだからね。あれはそれまで私の見た事もない代物だった。無論それ以後もだ。ただ1つだけ確実なのは、我々が作ったものではないという事だ。
残骸は色んなものが一所くたになっていた−太さが1/2から3/8インチ程の梁状物があり、そこには何か象形文字風の記号が記されていたが、判読は不能だった。この物質は一寸バルサ材に似ていて、同じように軽いが、木質ではあっても木材ではない点が違う。折れ曲がりはするが、非常に硬くて、火をつけても燃えなかった。また、異常な茶褐色の紙状物質が大量にあったが、紙と違って恐ろしく強靱で、引き裂く事もできなかった。一部のそれにはやはり象形文字が記入されていた。文字の色はピンクと紫で、塗られているように見えた。やはりライターで火をつけてみようとしたが、煙さえあげず、焦げも焼けもしなかった。
私は電子工学に興味があったので、そのような機械はないかと探し回ってみたが、全く見つからなかった。ただCIC隊員だったと思うが、数インチ平方の黒い金属的に見える箱を発見した。これも酷く軽く、どんな種類の観測機器にも見えなかった。開ける方法も見あたらないので、他の残骸と一緒にした。
他に錫箔みたいなホイル状金属も、沢山あった。煙草の銀紙みたいに薄いのだが、後になってこいつが吃驚するような性質の物質である事が判ったのだ。基地に持ち帰った後で、部下の1人が私の所へやってきて、こういった。
『あの中にあった例の金属のホイルですがね、あれを折り曲げようとしたんですが、どうしても折れないんですよ。スレッジハンマーでぶっ叩いてもみましたが、傷1つつかないんです…』
当の金属箔は、長さ約2フィート、幅は略1フィートあった。実質的には0に等しい程軽量で、これは回収された物質凡てに共通する特徴だった。私も色んな手を使って折り曲げようとしたが、折る事も裂く事も切る事も不可能だった。16ポンドもあるハンマーでへこませようともしてみたが、だめなのだ。この物質を上下に湾曲させたり、波打たせるのは簡単なんだが、折り曲げる−折り目や傷をつける事がどうしてもできなかった。
あの物質が何だったのか、私には今もって謎だね。まあ、プラスチックの特徴をもった金属とでもいうところかな。我々はジグソー・パズルのように、破片同士をあれこれ繋ぎ合わせようとしたが、10平方フィート分位再構成できただけで、物体それ自身の全体的形状を推測させるところまではいかなかった。ただ正体は何であるにせよ、巨大な物体だった事は確かだね。
我々は集められるだけの残骸を集めると、2台の車に積みこんだ。キャリオールの方は忽ち一杯になったので、ビュイックのトランクと後部座席にも詰めこまなければならない程、大量の残骸だった。
7日の夕方、“残骸”を運んでロズウェル基地に帰りつくと、吃驚した事にもう、我々が“墜落円盤の残骸”を回収した事が外部に洩れていた。基地の熱心な広報係士官が、わざわざAPに知らせてやった上、翌朝には例の報道発表文を出したものだから、蜂の巣をつついたような騒ぎになったのだ。後であの広報係はお偉方から(私の想像ではずっと上のワシントンから)こっ酷くどやされたそうだが、はっきりした事は知らない。
我々は翌日の午後、ブランチャード大佐の命令で、回収物を全部B29に積みこむと、フォートワースまで空輸した。予定では、更に私がライトフィールド(後のライトパターソン)まで運ぶ筈だったんだが、カーズウェル基地に到着したら、すぐにレイミー准将から取り消されたよ。この時点から、一切は准将がとりしきる事になり、私はどんな事があろうと、記者連中とは口をきいてはならぬと厳命された。飛行予定からも外され、誰かが私の代わりに、あの“残骸”をライトフィールドに運んだのだ。分析にかけるため、全部の破片をそっくりね。
あの時、准将が記者会見で公開し、写真に撮らせたのは、実は偽の“ロズウェル残骸”で、大急ぎですり替えたレーウィン観測気球の残骸にすぎなかった。記者達がそれをうのみにして、ぱちぱち撮影している間に、本物の“残骸”はもう特別機でライトフィールドヘ向かっていたのだ。
このトリックを最初に考えついたのは、多分准将自身だろう。ただの観測気球と判明したから、ライトフィールド行は取止めにした、と記者団に断言したが、勿論それは嘘だった訳だ」
この点は、当時のレイミー准将の副官だったトマス・J・デュボーズ大佐も、1979年の時点で正直に、「特別機でロズウェルから来た物品を、そのまま真直ぐライトフィールドへ運べ、という命令が上から出ていた」と認めている。
また、問題の“残骸”を直に見た1人に違いないブランチャード大佐は、既にこの世にいないが、代わって未亡人が最近確言したところでは、大佐もやはりそれがどんな気球のものでもない事を知っていたと、次のように語っている。
「あれが私達の作ったものではない事を、あの人は知っていましたわ。残骸には不思議な記号がついていたので、初めはソ連製ではないかと疑ったけれど、後になってソ連のでもないと判ったのだそうです」(『米政府は異人類の死体を隠している』p62-69)