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神代康隆著「魔術師ヒトラー」P64〜84
●ドイツ国民が熱狂した理想国家・ナチ第三帝国
「私はあらゆる理論を、その真の核心に還元する才能をもってい
る。私は、必要なときに断固 としてそれを行う。幻想とはなんのか
かわりもない。 世間の人は、物事を単純に考えることができない。
なんでも複雑にせずにはいられない。私 は、単純化の才能をもって
いる。そうすれば、すべては一気に解決する。困難はただ、想像力
の中にあるだけなのだ!」
(ヒトラー/1932)
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国民の信頼と支持を受けた初期のヒトラー
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ナチ第三帝国が崩壊してから現在まで、アカデミックな歴史は、ヒ
トラーとナチスがドイツ を支配した12年間(ヒトラーがドイツ帝国
首相に任命された1933年1月30日から1945年5 月まで)を、「恐怖政
治の時代」と定義しつづけてきた。ヒトラー自身はいうまでもなく〈
非 人間的な独裁者〉だ。
だが、これはヒトラーとその第三帝国の一側面でしかない。
アカデミックな歴史があえて無視しようとしているもうひとつのヒ
トラー像・・・彼が生きて いた当時の実像にもしっかりと目を据え
なければ、この巨大な歴史的存在を真に理解すること は不可能だ。
ヒトラーとヒトラーの政権下のドイツを全否定するのは決して正しい
態度ではな いのである。
たとえば、当時の世界各国の指導者の中で、政権獲得当初のヒト
ラーほど国民の信頼と支持 を受けていた人物はいなかった。
ドイツ各地をめぐり歩くとき、彼はオープンカーで平気で民衆の中
へ入っていったし、その 彼に老若男女が握手を求めて群がった。国
民だれもが、車から降りたヒトラーと自由に話す ことができたし、
彼の頭上に無数の花が投げかけられるのを、護衛たちは制止しようと
はしな かった。
だが、ヒトラーの同盟国、当時の日本では、国民が天皇に接するこ
となどまったく不可能だ った。たとえば、天皇のお召列車が通過す
るとき、対抗軌道の一般列車はすべて停車し、全部 の窓のシャッ
ターを下ろして待たなければならなかった。しかも、乗客金員が起立
し、頭を下 げたままで!
1939年12月にドイツに留学し、第三帝国が崩壊するまでをつぶさに
実見した哲学者。篠 原正瑛は、ドイツの若い学徒に、そんな天皇の
厳重な警備態勢を次のように批判された、と いう(『ドイツにヒト
ラーがいたとき』誠文堂新光社)。
「あれでは国民をまるで危険人物か犯罪者とみなしているような
やり方ではないか。ドイツ では総統(ヒトラー)はどこへでも国民
の中に安心して入っていくし、国民はだれでも自由に 親しく彼と話
したり、握手することができる。これこそ、総統がほんとうに国民大
衆の中から 出て、国民大衆に支持されて総統(フューラー指導者)
となった証拠である。
ほんとうは、日本の天皇は〈国民の父〉などではなくて、力で国民
をおさえつけてきた〈支 配者〉にすぎないのではないか」
もちろん、こうした天皇の神格化は軍部の指示によるものだが、第
2次世界大戦中、同じフ ァシズム国家だった日本とドイツで、指導者
のあり方にこれだけの遠いがあったのである。
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4年でトップにのぽりつめたヒトラーの奇跡
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1889年4月にオーストリアのいなか町ブラウナウで生まれたヒト
ラーが、世界史の表舞 台に登場したのは1930年の秋のことである。
この年9月14日の国会選挙で、国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP
=ナチス)が、投 要者の18.2パーセント、107議席を獲得、一躍、ド
イツ国会の第二党に進出した。その2 年前の1928年5月、ナチスがは
じめて国会選挙に参加したときの得票率はわずか2.8 パーセント、獲
得議席数12。たった2年間で、得票数81万票の泡沫政党を637万票の支
持者 を集める大衆政党にのしあげさせた指導者として、ヒトラーは
世界の注目を集めたのだ。
しかし、そのときはまだ、彼がさらに〈奇跡〉を積みあげていくだ
ろうとは想像だにされな かった。が、ヒトラーの躍進は続く。
1932年7月31日、ナチスは国会選挙で得票率37パーセント、608議席
中230議席を 獲得、第一党となる。そして、翌33年1月30日、ヒト
ラーはドイツ(ワイマール共和国)の首 相に就任するのだ。このヒ
トラー内閣でのナチ党員は彼と内相の2人だけだったが、ヒトラ ーは
3月の国会放火事件をきっかけに「全権委任法」を制定し、6月にはナ
チスの一党独裁を 法的に確立する。
そして、翌1934年8月2日、ヒンデンブルク大統領の死去を受けて首
相と大統領職を兼 ねて、ヒトラーは<総統(フューラー)およびド
イツ国首相>の地位にのぼる。これは同時に 軍の最高司令官である
ことを意味する。つまりヒトラーはすべて〈合法的〉な手段に基づい
て、絶対権力をもつ独裁者としての地位を獲得したのだ。
ここにドイツ第三帝国が始まるのだが、この事実だけでも、ヒト
ラーが〈ただならぬ人物〉 であったことがわかるだろう。
建築家アルバート・シュペールはヒトラーに同道したニュルンベル
クヘの1935年の秋 の旅について書いている。
いつものようにヒトラーは、7000CCの濃いブルーのメルセデスの
オープンカーの助手 席に、シュペールはその後ろの補助席に座っ
た。他の同乗者は副官と新聞長官に使用人。護衛 の5入は同じ色と大
きさの随行車であとに従う。一行は途中、いなかの宿屋で簡単な昼食
をと った。
「その間に、外には数千人の人が集まって、シュプレヒコールで
ヒトラーの名を呼んだ。 『通り抜けられればいいんだが』と彼はい
った。ゆっくり、花の雨を浴びながら、我々は町の 出口の中世風の
市門に着いた。
若者たちは我々の目の前で市門を閉め、子供たちが車の踏み段によ
じ登った。ヒトラーがサ インをしてやると、やっと彼らは門をあけ
た。彼らは笑った。ヒトラー
も一緒に笑った。
いたるところで、農民たちは鍬を捨て、女たちが手を振った。それ
は勝利の行進だった。車 が走っていく途中、ヒトラーは私のほうに
体を向けて叫んだ。 『今までこんなに歓迎されたドイツ人はたった
ひとりしかいない。ルターだ。彼が国中を行く と遠くから人々が潮
のように集まって彼を祝福した。今日の私のように!』」 (『ナチ
ス狂気の内幕』品田豊治訳/読売新聞社)
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どん底にあった経済を短期間で立て直す
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ヒトラーのこのやり方を、独裁者特有のパフォーマンスと見ること
もできよう。独裁者には 過剰すぎる自信がつきものだからだ。が、
ヒトラーは国民の信頼と支持を確信できるだけの 現実的な基盤をも
っていたのである。
まず、ヒトラーはドイツ国民の暮らしを安定させた。
彼が政権を手にした当時、ドイツは1929年に始まった世界経済恐慌
に痛めつけられ、 工業生産は30年前の水準にまで落ち、失業率も30
パーセントを越えていた。ヒトラーは、まっ たくのマヒ状態にあっ
たドイツ経済と600万人の失業者をかかえて、その政治をスタートさ
せなければならなかったのだ。
だが、ヒトラーは就任わずか4年で、夢も希望もない不況下にあっ
たドイツ経済を、活気に 満ちあふれた景況に一変させてしまった。
他のヨーロッパ諸国では数多くの失業者が一片の パンを求めてうめ
いていたとき、全国民にパンと仕事と生き甲斐を提供したのだ。
失業者は影をひそめ、1940年にはその総生産力は世界の総生産力の
11パーセントに相当 するまでに至った。ドイツ第三帝国はアメリカ
に次いで世界第2位の経済大国にのしあがった
ヒトラーの他の〈業績〉と比べたとき、これは一見地味だが、絶対
に見逃すことのできな い〈奇跡〉のひとつだ。このヒトラーの経済
復興は、当時のあらゆる経済学の理論に反したや り方で成し遂げら
れたものだからだ。
彼がその柱としたのは、専門の経済学者のアドバイスを無視しての
〈社会保障と福祉〉を中 心にした、生産力の拡大と完全雇用をめざ
した失業抑制策だった。当時、専門家たちがあまり にも無謀すぎる
と非難したこのヒトラーの経済政策は、しかし、40年後、世界の先端
をいく経 済学者J・K・ガルブレイスによって、「現代の経済政策を
予見していた」と評価されている。
「経済的不安に脅かされた国民が、アメリカ国民がF・D・R(ルー
ズベルト)に対して反応 したように、ヒトラーに対して反応したこ
とは、別に驚くべきことではない」
ヒトラーの経済政策は、米元大統領F・D・ルーズベルトが数多くの
ブレーンを動員して推 し進め、アメリカを大恐慌から救いだしたニ
ューディール政策と、基本的に同じものだったの である。が、その
ガルブレイスにしても、
「おそらくヒトラーは自分のやっていることがわかるほどの経済
学の知識はなかっただろう」
と、いうのだ。
経済学の知識のないものが〈奇跡の経済復興〉を成し遂げるという
のも奇妙な話だが、確か にヒトラーの発言を見るかぎり、彼は経済
学には素人のように思われる。新しい経済政策の実 行に乗りだすと
き、彼は宣言しているのだ。専門家の口をピシャリと押さえている。
「財政学も経済学も、その他もろもろの学説も、すべて国民の自
己主張の戦いに奉仕するため に存在する」
そしてヒトラーはいう。
「起爆することが肝要なのだ。いかなる過程で目標に達するか
は、さほどの関心事ではない。 われわれが制御することになる過程
は、簡単なものであって、決して複雑ではないのだ。二、 三の不可
避的な困難に際して、たじろがぬだけの意志さえもてばよいのだか
ら。
経済とは、決して教授たちが考えているような神秘学なのではな
く、健全な理性および意志 の問題なのである」
ヒトラーによれば、学者の考える経済理論は〈神秘学〉にすぎない
のであって、彼の才能に よって〈真の核心に還元〉して〈単純化〉
してみれば、それはたんに意志の問題なのである。 とすれば、その
〈ヒトラーの意志〉を裏打ちしていたものは、なんだったのだろう
か。
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労働者に夢と希望を与えた驚くべき政策
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いずれにせよ、ヒトラーの最初の4年間が過ぎたとき、ドイツはか
つての不況がうそのよう な繁栄を謳歌していた。とくに、ひどい目
にあいつづけてきた労働者階級にとって、新しいナ チ第三帝国は、
まさに〈理想の国家〉だった。
飢えと失業の心配がなくなっただけでなく、劣悪だった労働条件が
著しく改善された。
たとえば、ヒトラーは高速道路網=アウトバーンによって国土を一
変しつつあったが、その 建設に働く労働者の宿舎の設計をシュペー
ルに命じた。
「ヒトラーの建築家」と呼ばれ、のちに軍需大臣として腕をふる
ったこの優れた技術者は書い ている。
「ヒトラーは従来のような施設に反対し、あらゆる用途の宿舎に
適用できる一つの基本タイプ を開発することを望んだ。
適当な台所、洗濯室、シャワー室、居室、およびベッドニつずつの
寝室を持つもので、彼は それを従来のものとはっきり区別した。彼
はこのモデル宿舎について細部まで配慮を加え、さ らに労働者たち
への効果について私に報告を求めた。
ヒトラーの態度は、国家社会主義の指導者とはかくあるべきだ、と
私が考えていた通りだっ た」(『ナチス狂気の内幕』)
それから半世紀、経済大国日本の建設労働者が寝泊まりする施設の
多くは、ヒトラーのこの 仮設宿舎とは比較にならぬほどお粗末なも
のだ。そして、その改善を求めるような為政者は、 いまだに現れて
はこない。
工場の労働条件を改善するプロジェクトも推進された。
シュぺールの引き受けた〈労働の美〉部局は、経営者たちに工場や
事業所、事務所の環境 改善を進めさせた。
工場の窓が多くなり、作業スペー
スが広がり、洗面所も清潔になっ
た。あちこちの汚い場所 が休憩時間のたまり場に生まれ変わり、ア
スファルトが芝生や花壇に変わった。簡素だが形 のよい食器が食堂
の標準用品と定められ、簡単な飲食ができるコーナーが設けられた。
作業場の人工照明や空調の問題で、企業が専門家のアドバイスを受
けられるシステムもつ くられた。〈あらゆる環境の美化〉の合言葉
のもとに、オフィスや工場が整備されていったの である。
総統命令は、労働者の〈休暇と保養〉についても配慮を求め、ナチ
スは1933年11月〈K dF〉(歓びを通じて力を)と呼ばれるレジャー組
織を設立した。
KdFの余暇局は安い入場料での音楽会、演劇公演、映画会、展覧
会、社交の夕ベなどを催 した。1937年だけでも、11万7000の催し物
に3800万人の客を迎えている。
また旅行。観光局は補助金つきの週末旅行や国内休暇を主催し、こ
れにも戦争開始までに1 000万人が参加した。2万トンの白い豪華船が
2隻建造され、国内だけではなく、北欧や地 中海へと人々を運んだの
だ。
1935年当時、労働者の平均月収は120マルクだったが、ベルリンか
ら北海への8日間 の旅は32マルク、イタリア旅行が155マルクだっ
た。
高度成長後の日本しか知らない若い人たちにとっては、格別めずら
しいことではないかもし れないが、半世紀以上も前の日本人にとっ
ては、いや、欧米先進国の一般民衆にとっても、 1週間の休暇旅行な
ど、まさに〈夢〉そのものでしかなかったのだ。
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ヒトラーの《異能》が生み出した大衆車
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時代を超えていたといえば、フォルクスワーゲンもそうだ。
第2次世界大戦後の数十年間、世界を風塵したこの〈かぶと虫〉は
ヒトラーが創案したもの であり、彼はそのプロトタイプのデッサン
までした。
ヒトラーは、フォルクスワーゲンの原案を立てるにあたって、ドイ
ツの労働者階級の標準的 な家族構成を、夫婦と子供3人と想定し、5
人の家族全員が乗ってドライブに行ける車を想定 した。さらに値段
も、第三帝国の主人公である労働者階級(ヒトラーの党の名称は国家
社会主義 ドイツ労働者党だ)のためのフォルクスワーゲン、つまり
文字どおりの〈大衆車〉なのだから、 普通の労働者が分割払いで買
える価格、1000マルク以下を考えた。当時のドイツのいちば ん安い
車でも2500マルク以上したのだから、これは画期的なアイデアだっ
た。あの時代、 彼以外のだれがそんなことを考えだろう。
この〈かぶと虫〉の量産第1号がべルトコンベアから送りだされた1
939年、第三帝国 はすでに戦時体制に入っていたため、結局一般には
売りだされなかったが、その着想がどれ だけ時代に先んじて的を射
ていたかは戦後、フォルクスワーゲンが世界の〈大衆車〉となっ た
ことからもわかるだろう。
さらに、あの独特なデザインも、ヒトラーの〈異能〉が生みだした
ものだ。
彼は、ガロン当たり40マイルの燃費、冬期でも凍らない空冷エンジ
ン搭載の車として、フォ ルクスワーゲンの設計をフェルディナン
ト・ポルシェに委託した。が、ポルシェの提出した案 に満足せず、
この一流エンジニアを諭したのである。
「かぶと虫のような格好にしなければだめだ。自然が流線型とい
うものをどうこなしている かを知るには、自然を・・・観察すれば
いいのだ」
そして、そのかぶと虫に学んだ車のアウトラインを描いてみせたの
である。
このフォルクスワーゲンとそれが走るアウトバーンは、いまだに
「ヒトラーの2つだけのよ き遺産」と、皮肉まじりに評されている。
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時代を先取リしていた公害・健康対策
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ヒトラーが時代を先取りしていたのは労働問題だけではなかった。
ヒトラーの政権獲得後、7回もドイツを訪問したイギリスの国会議
員アーノルド・ウィルソ ン卿は書いている。
「幼児死亡率は大幅に低下し、イギリスのそれよりかなり低い。
結核その他の疾病は目に見え て減少した。刑事裁判所はかつてない
ほど暇で、刑務所も閑散としている。
ドイツ青少年の肉体的能力は見た目にも快い。もっとも貧しい人々
でも。以前に比べたらはる かにましな服装をしているし、彼らの陽
気な表情は心の中の精神的向上を示している」
国民の健康と環境衛生の向上にかけるヒトラーの情熱には、異常な
ものさえ感じられる。時 代をはるかに超えた政策を実施しているの
だ。
たとえば、彼は公害の防止に非常に熱心だった。大気汚染を防止す
るために有害ガスの完全 除去を産業界に奨励し、実際、多くの工場
に汚染防止装置が設置された。新設工場は水質汚 染防止のための装
置を取りつけることを義務づけられた。
新たに進められる都市計画では、自動化された地下駐車場や、車両
通行禁止の広場、無数の 公園、緑地などを設けて、大気汚染を厳重
に規制することにした。
「もし、私がすべての美というものが欠如したスラム街に追放さ
れたとしたら、祖国から追放 されたのと同じくらいの傷心と不幸の
どん底におちいるだろう。
だから私は、ドイツのどんな小さな町にも、ある程度、文化と美を
浸透させ、すべての町の 住み心地を高い水準に引きあげなければな
らない、と決心したのだ」
と、ヒトラーは側近に語っている。
こうしたヒトラーの言動は〈彼自身の病的なまでの潔癖さ〉や、〈
かつて画家を志した男の 安手のロマンティシズム〉に帰せられるこ
とが多い。
だが、最近のナチス医学の研究者は、こう書いているのである。
「ナチス政府は、人間の遺伝質に害をおよぼす環境因子に関する
研究資金の枠を拡大した。科 学者は放射線の害を記載し、アスベス
トや亜鉛・カドミウム・水銀などの重金属に、人間がさ らされた場
合に引き起こされる症例の詳細な分類を作成した。
1930年代、40年代の
ドイツの医学雑誌は、食物や飲み物の中の人工
着色剤や防腐剤の 悪影響について警告し、薬品、化粧品、肥料、食
物についても、有機的で自然な素材のものに 戻るように力説した。
ヒトラーの侍医であったT・モレルは、殺虫剤のDDTは無効であるば
かりか危険である と断言し、健康に対する脅威であるという理由
で、43年まで配布を延ばさせた」 (R・N・プロクター『ナチス時代
の医学』)
ヒトラーの環境衛生政策は、きちんとした科学的なデータに基づい
たものだったのだ。
このナチス医学が正しく評価されていれば、戦後、日本やカナダで
多くの人を死に追いや り、いまだに苦しめている、水銀による水俣
病や、カドミウムによるイタイイタイ病などの 悲惨な公害病は防げ
たはずである。アスベスト(石綿)による肺ガンなどの公害病は、つ
い近 年、その危険が叫びはじめられたばかりだ。
人工着色料や防腐剤、化学肥料、そしてDDTなどの殺虫剤や農
薬・・・その健康に対する汚 染は、〈もはや手遅れ〉とさえいわれ
るほど進んでいる。どういう理由からであれ、いまから 半世紀も前
にヒトラーの科学者たちは、そうした事態の発生を警告し、対策を講
じようとして いたのである。
こうした国家的な健康管理は、想像以上の効果をあげていた。
たとえば、1937年のドイツ人の主要死因は、第1位が心臓血管病、
第2位がガン、第3 位が結核である。同じころの日本では、第1位が結
核、第2位が肺炎および気管支炎、第3位 が胃腸病だ。特効薬の抗生
物質がまだ見つかっていないあの時代、日本人の多くは当然のよう
に結核や感染症で死んでいたのだが、ナチス・ドイツは保健事業によ
る公衆衛生の向上です でに感染症を克服していた。
日本で上下水道やゴミ処理の設備が整って、不潔な環境が原因する
ことの多い感染症や、栄 養不足が大きく関与する結核が追放され、
成人病の心臓病やガンが死因の1、2位にのぽって くるのは、戦後30
年もたってからなのである。
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壮大なスケールをもつスーパートレイン計画
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こう見てくると、なぜヒトラーが第三帝国の国民から圧倒的な支持
を受けたか、わかってく る。
第1次世界大戦敗戦の屈辱にうちひしがれ、大恐慌にあえいでいた
ドイツの一般庶民のま さに「救世主」として 彼は歴史の表舞台に
登場してきたのである
総統(フューラー=指導者)の名にふさわしい存在だったのだ。
が、彼はあらゆる意味でたんなる指導者ではなかった。その考える
ところ、めざすところの スケールが並はずれて壮大だった。
たとえば、すでに第2次世界大戦が始まっていた1941年、彼が具体
化を命じたスーパー トレイン計画がある。ミュンヘンを起点に首都
ベルリンを経由して、シベリアの太平洋岸の都 市ウラジオストクま
で、ほぽ直線コースを時速250キロで突っ走る欧亜両大陸横断鉄道を
建 設しよう、という構想だ。
独ソ戦の最中、こうしたプランを考えるヒトラーの自信には驚かさ
れるが、さらに驚異的な のは、その鉄道の軌間を3メートルにしよう
という構想(標準軌道は1435ミリ)だ。実はヒ トラーは最初、軌間4
メートルという途方もないスケールを考えていたのだが、技術陣の反
対 で折れたのだという。
その上を走る列車も当然、巨大なものになる。
いまはそのマンモス蒸気機関車、ディーゼル機関車、マンモス客車
の設計図とカラーイラス トしか残っていないが、たとえば蒸気機関
車の全長は70メートルで、15両連結される客車は2 階建て、全長は50
メートルもあった。もちろん内装も豪華をきわめ、計1728人の乗客が
べ ルリンからアジアのはずれまで、5日間の旅をゆったり楽しめるよ
うに設計されていた。
そんな列車が、時速250キロで走るのだ。
最新枝術の粋を集め、世界の最高水準をいく日本の新幹線をはるか
にしのぐ、まさに夢物語 だ。実際、第三帝国の崩壊によって、この
構想はミュンヘン中央駅の一部などを残しただけで 夢と終わった。
が、私たちはいま、ヒトラーの構想の一部が違ったかたちで実現して
いるのを 見ることができる。全世界を結ぶ交通網の主力となってい
るジャンボ・ジェット旅客機だ。
このスーパートレイン計画にかぎらず、私たちは現在の人類の営み
に、かつてのヒトラーの 構想の影を数多く見ることができる。その
いくつかはいずれ指摘するが、それは偶然の一致と はとても思えな
いほど、奇妙で無気味な内容をはらんでいるのである。
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ヒトラーがが企てた驚異の地下都市構想
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ヒトラーの壮大な構想といえば、なんといっても建造物にとどめを
さす。
画家への夢が破れ、ウィーンで放浪性循を送った青年時代、彼はひ
そかに建築家を志した。 そして多数の建造物のスケッチや水彩画を
残しているが、無気味なことにそのほとんどが廃 墟の風景だった。
が、ナチ党に参加してその指導者になり、一時捕らわれて獄中にあ
った1924年ごろ、 彼は一転して巨大な建築物のスケッチをしたため
るようになる。政権を取ったあと彼はそのス ケッチの実現に熱中す
るのだが、これは非常に重要な意味をもっているので、次章でくわし
く検討したい。
ただ〈民衆の指導者〉ヒトラー総統を語るうえで、ブンカーについ
てだけはここで触れてお く必要があるだろう。
ブンカーとば〈巨大トーチカ〉のことで、第2次世界大戦もドイツ
の敗色が濃くなった 1944年ころ、400万のベルリン市民を運合軍の爆
撃から守るために建設されたものであ る。
ブンカーの規模は収容人員2万人。地上6階、地下5階で、地上部分
は厚さ10メートルの鉄 筋コンクリートの壁で守られていた。出入り
口には厚さ80センチのクルップ鋼製の大扉が二 重についており、電
動モーターによって開閉された。万一、爆弾によって第一の扉が破壊
され ても、内部に損傷が届かないようにするためであ
る。
地上部分はおもに防空戦闘に利用された。屋上には四方に4門ず
つ、計16門の高射砲が装備 され、敵機が近づくといっせいに火を吹
いて猛烈に撃ちまくった。非戦闘員の多くは地下に収 容されたが、
この地下部分の設備がすごかった。
たとえば、内科、外科、産婦人科、眼科から歯科にいたるまで、あ
らゆる病室がそろってい た。2万人ものベルリン市民が、空襲のあい
だ何時間にもわたって閉じ込められている場合、 どんな急病人が出
るかわからないので、むしろ〈病院〉というべき設備が備わっていた
のであ る。実際、空襲警報が発せられて人々がブンカーにこもる
と、出産だけでも一晩に2、3件あ ったという。
当時ベルリンにいて、米英空軍の「規模からいっても、激しさの点
でも、想像を絶するほど すさまじい空襲」を経験した篠原正瑛は書
いている。
「私たちには、とにかくブンカーに入ることさえできれば絶対に
大丈夫、という安心感があ ったが、遠く離れた東京では、空襲から
市民の生命を守るために一体どんな措置がとられてい るのだろう
か、と思った。中立国経由で送られてくる日本の新聞に“防空壕”の
記事は載って いた。しかし、庭先や空き地に塹壕まがいの穴を掘っ
て、その上に畳を載せ、そのまた上に土 をかぶせただけの防空壕
で、はたして市民の安全が保障されるのだろうか」(『ドイツにヒト
ラ ーがいたとき』)
もちろん、そんな防空壕で米空軍のB29の猛爆を防げるわけはな
い。東京大空襲では、防空 壕に避難したためにかえって命を失った
人々が、それこそ無数にいた。ヒトラーと日本の軍部 とでは、非戦
闘員の生命の安全についての考え方が決定的に遠っていたのだ。
ヒトラーは、一発で10トンもある超大型爆弾の直撃を受けても、び
くともしないような堅 固で巨大なブンカーをつくり、絶対安全な退
避の場所をべルリン市民のために用意した。
「2万人を収容できるブンカーをべルリン全市に200つくり、400万
ベルリン市民を完全 に保護してみせる」
結局時間切れで間に合わなかったのだが、当時、宣伝相兼大ベルリ
ン市知事をつとめていた ゲッベルスは、豪語していたのである。
しかも、この数多くのブンカーを地下トンネルで連結する構想まで
あった。全市民を地下に 収容してしまう。これは史上空前の〈地下
都市〉構想でもあった。
これが「狂気の独裁者」ヒトラーの企てたことなのである。