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日経。
※金融再編の中、金融の歴史的考察も前面見直しへ
「貨幣の始まりだけでなく、古代社会観の見直しも迫る発掘」――。奈良県明日香村の飛鳥池遺跡で見つかった「富本銭」は、だれでも知っている「日本最古の貨幣は和同開ちん」という定説を覆すものとして、古代史の専門家だけでなく、一般にも広く注目を集めそうだ。これまで、おまじない用、縁起物として使われる厭勝(ようしょう)銭、いわばおもちゃのコインだと思われていた富本銭を、奈良国立文化財研究所が日本最古の貨幣と判断した決め手はどこにあったのか――。
同研究所が富本銭を、和同開ちんをさかのぼる最古の貨幣と位置づけた決め手の一つは、出土した地層にある。富本銭は飛鳥池遺跡にたい積した炭層と呼ぶ10層の廃棄物層のうち4つの層から見つかった。この層には唐からの留学僧、道昭(700年死亡)が創建した禅院の瓦(かわら)窯から捨てられた瓦がたい積している。
道昭が禅院を創建したことは続日本紀にも記されており、661-700年ごろに建てられたとみられている。富本銭の鋳造時期を、和同開ちんより古い7世紀後半とする有力な理由だ。
また銅銭の鋳造時に生じるバリ(未完成の銭の周囲にはみ出した溶けた銅)や、鋳棹(いざお)という鋳型の湯道にあたる鋳造道具の部品を確認。るつぼ、ふいごの羽口などとともに出土したことが、この場が官営の貨幣鋳造工房だったことをうかがわせ、富本銭を厭勝銭としてでなく、流通を前提にして大規模に作っていたと判断する根拠の一つになった。
こうした“物証”に加えて、富本銭の銭文について検討した結果、続日本紀にある霊亀元年(715年)の元正天皇の詔の「国家隆泰 要在富民 富民之本 務従貨食」(国家の隆泰はまず民を富ましむるにあり、民を富ましむる本は務めて貨食に従う)という文言に由来する可能性が高まった。
国民を豊かにする基本は貨幣にあるという文言は中国の故事にもある。元正天皇の詔はこの故事を元にしたもので、これを参考に「富本銭」を銭文に採用したらしいことも判明した。こうした来歴がある銭文をただの厭勝銭に使うのは不自然だというのが、同研究所の見方だ。
これら一連の考察から、天武12年(683年)4月に「今より以後必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」との布告が出された、との日本書紀の記述は、銅銭が富本銭、銀銭は無文銀銭を指していると、同研究所は結論づけている。この時期に和同開ちんをあてることには年代的に無理があり、富本銭だとすっきりと文章が通じると、同研究所では話している。
奈良国立文化財研究所は出土した富本銭などの展示会を25日から2月10日まで、奈良県橿原市木之本町の飛鳥藤原宮跡発掘調査部の展示室で開く。午前9時から午後4時半まで。土曜・日曜は休み。