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回答先: 「紅卍字会」関連 投稿者 倉田佳典 日時 1999 年 1 月 08 日 17:01:10:
> 「紅卍字会」関連
雑誌の性格からいって誇張してあるところもあると思いますが、
比較的資料が少ないのでアップします。
ボーダーランド 1997.AUGUST(既に廃刊)
文・福本博文、編集部
取材・編集部、カズー、グループ
撮影・向井勝治
写真協力・小学館、川瀬健一
中国・崑崙(こんろん)山の秘境で衝撃体験 500歳の仙人に会った男が日本にいた!
中国・湖南省、武陵源の天子山峰群。その山水画的の奇景はまさに仙人のすむ神仙境だ。崑崙山
もまた、このような場所だったのであろう。険しい山の岩肌では、不老不死の薬草が採れるとい
う。(写真説明文)
不老不死で神通自在の仙人。そのその存在は伝説で語られていても、実際にいるのかどうかは定
かではない。しかし、現代の日本になんとその仙人に出会い、自らの使命を知り、修行の生涯を
送った男がいた。彼が見た仙人の姿と生活とは。
中国には空を飛び、不死身の修行者がいると伝えられている。”不老不死”の仙人である。今
年一月に94歳で亡くなった笹目秀和氏は、中国で2人の仙人と出会ったと多くの著作の中で記
している。
1924年(大正13)年8月、中央大学の学生であった笹目氏は、夏休みを利用して中国大
陸を旅していた。彼の祖父は茨城県でも有数の資産家だったので、海外旅行をする余裕があった
のだ。当時、中国には満州国建設のため、数多くの日本人が移住していた。旅の目的は、見聞を
広めるといった程度のもので、仙人との出会いなど思いもつかなかった。
きっかけは、大連発の列車に乗ったときのことである。笹目氏が座席に腰掛けると、真向かい
に座った中年の男がいきなり日本語で話しかけてきた。
「私は、白頭山に住む呂霊 來來 (りょりんらい)深仙の使いのものです。あなたを迎えにき
ました」
男は仙人の弟子であった。彼によれば、呂深仙は北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)との国境
にある白頭山の洞窟に住み、年は207歳になるという。
「一緒に白頭山へ来ていただけますか」と弟子は言った。
呂神仙は日本からいとりの青年が満州を訪れることを予見していた。その青年に将来のことを
指導するため、弟子に大連行を命じたのだという。
「日本人青年の名は、”熊○(木二つに下が土)御堂”(くまんみたん)だと言われました。」
「私の名前は笹目恒雄(本名)ですが。」
笹目氏がそう答えても、弟子は少しも動じなかった。
「それは3000年前の前世でのお名前だと思います。」
笹目氏の眉と眉の間に、はっきりと”熊○御堂”と記されていたという。笹目氏は、不思議に
思いながらも、呂神仙に会うことになった。
仙人といえば白髪の老人といったイメージがある。しかし、意外にも呂神仙は童顔で、闇の中、
彼の周囲だけが光っていた。
呂神仙は笹目氏に向かってこう告げた。
「あなたは、ふつうの人のような生涯は送れない。日本という国のカルマを背負い、常人には
とうてい耐えることのできない苦労をしなければならない。その苦境から脱出する鍵は、12年
後に会うことになる崑崙山の疏勒(しゅろ)神仙から授けられることになる」
笹目氏の使命はモンゴルの遊牧民を救うことだと教えられた。
帰国後、彼は、神仙の教えどおりにモンゴル再建のために私塾を開き、モンゴルの青年たちを
招きいれることになった。やがて、笹目氏は彼らとともに内モンゴルを中心に独立運動へ参加し
ていく。蒙彊(もうきょう)自治政府徳王私設顧問として、力を尽くしたのである。そして、呂
神仙に会ってから12年たった1936(昭和11)年6月、予告されたとおり幻のチベット民
族が住む、青海の山奥で500歳の○勒神仙に会うことになったのだ。やはり子供のように小柄
で、童児のような顔立ちをしていた。
太陽光線を食事に変える神仙直伝の秘法とは
疏勒神仙は、この12年間にわたる苦労をねぎらうと、笹目氏に、
「では太陽の精気を食(は)む方法を授けることにしよう」
と言った。が、すぐに教えてもらえるわけではなかった。その方法を伝授されるため、疏勒神
仙とともに崑崙山の頂上に向かうことになったのである。疏勒神仙の腰につかまり、天の鳥船・
鶴船(仙)とよばれる天帝のつかわす鶴に乗ると、一瞬のうちに標高7000メートル以上の頂
上まで空中を飛んでしまったのだ。
その後、笹目氏はソ連の捕虜になり、神仙の予言どおり11年間にわたってシベリアで苛酷な
抑留生活を送ることになった。が、”太陽の精気を食む方法”を伝授されたので、ふつうの人な
ら3日で根をあげる水牢に、1ヶ月以上も閉じ込められても耐えることができたという。例の方
法を使えば、1日のうちに3分間、太陽光線を受けるだけで、まったく食物をとらなくても生き
ていけることができたからであった。
笹目氏は帰国後、地球の危機を救うべく中国発祥の新宗教「道院」の日本統しょう(代表)と
なり、仙人の修行を重ねていった。その内容は、「内修」と「外慈」である。前者は静座と誦経
(ずきょう)で、一種の瞑想法、精神修養といってよい。後者は慈善的な行為で、ボランティア
活動などを指す。したがって、道院の入門者は、必ずしも超人的な存在を目指しているというわ
けではなかった。
笹目氏が出会い、教えを受けた仙人については、現状、検証のしようがない。が、笹目氏の人
生を振り返った場合、モンゴル民族再興運動はの参加といい、シベリアの水牢を切り抜けたこと
といい、確かに仙人に教わらなければ、できないことである。
また、笹目氏はその風貌からも生前、”日本の仙人”として知られる人物であった。誦経によ
って富士山大爆発を止めたとか、龍神とコンタクトして天候を自在にコントロールしたとか、8
0歳を超えてふもとの駅から多摩道院のある1200メートルの大岳山まで、普通のひとが2時
間かかる山道を40分で飛ぶように歩いたなど、超人的なエピソードに事欠かなかった。こうい
った能力も、笹目氏が本物の仙人に出会ったからこそ身につけられたのだという、リアリティは
感じられる。
(中略)
中国で2人の仙人と邂逅した笹目氏も、道院の弟子たちに向かっては、
「修行中の神秘体験」に惑わされるな」
と常識に立脚するよう求めていたという。
笹目氏の道院設立以来の高弟、福生道院事務局の川合康夫氏はこう述懐している。
「笹目先生は、最後まで”太陽の精気を食む方法”を誰にも教えてくれませんでした。神仙か
らうかつに話してはならないと釘を刺されていましたし、話す必要もないと考えていたからでし
ょうね。晩年は、いつでも死ねると言
っていました。この世に執着があるようでは、まだまだ修
行が足りないということです。中国で神仙に出会って以来、生涯にわたって修行を続けた笹目先
生は、あくまで霊的な意味で不老不死を追求していました。修行を重ねていくと、死や老を超越
して、死の恐怖から解放されていくからです。」
笹目氏は、1月25日午後3時にこの世を去った。が、その遺体は、この世への執着はまった
くなく、まるで「もぬけの殻」のような状態だったという。道院が神意を聞くフ−チという行事
を行ったところ、道教でいう最高の位”真人”になられたというお筆先(自動書記)が下った。
その意味で精神の不死は達成されたと、道院の人たちは信じている。
川瀬健一氏は気功法の源流である仙術や東洋医学の研究が高じて、台湾に渡り、仙術の達人を訪
ね歩いた。もう20回以上も訪台している。独自の修行法で健康維持に務める一方、東洋思想の
著書多数。
参考文献
モンゴル神仙邂逅記 笹目秀和著 徳間書店
抱札子 列仙伝・神仙伝 山海記 本田済・沢田瑞穂・高馬三良訳 平凡社
以下写真・図の説明文
太陽と月の精気を食べる秘術を仙人に授けられた男、笹目秀和
今年1月、惜しくも去った笹目秀和(1902〜97)はその秀でた行動力から”神仙の寵児”
とまでいわれた求道者だった。笹目は大学生のとき夏休みに訪れた中国であった、白頭山の呂霊
來來 (りょりんらい)神仙の命に従い、モンゴルの遊牧民を救う使命のためバルチョン親王家
の養子となる。帰国後モンゴルの青年を教育する戴天義塾を解説。モンゴル民族(蒙彊、もうき
ょう=中国西北部)独立運動にも参加する。12年後、呂神仙の予言どおり、疏勒神仙に出会い、
伝説的な乗り物・鶴船(仙)に乗って800キロを聖山・崑崙山まで一瞬のうちに移動したとい
う。戦後は中国発祥の超宗教の教え、道院の普及に力を尽くし、富士山の大爆発を読経で止めた
ともいわれた。(本人の写真の説明文)
笹目氏は中国に渡り、モンゴル復興にも尽くした
壮大なスケールの冒険はまさに仙人級だった。
1924年の中国旅行ルート
大連→奉天→白頭山 呂霊來來神仙207歳に出会う・月の精気を食べる秘術を授けられる
→モンゴル東部 バルチョン親王家の養子となる →奉天→大連
1936年の中国旅行ルート
大連→奉天→北京→蘭州・青海 疏勒山神仙洞・疏勒神仙(500歳)に出会う
→鶴船で飛んだ約800km→崑崙山 太陽の精気を食べる秘術を授けられる
大弾圧を受けた大本教(道院の姉妹宗教)の神体を隠す
イスラム教徒に捕らえられて3ヶ月の監禁後、護送される
→蘭州→西安→北京→奉天→大連
(旅行ルートの図の説明文)