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!!!野球で言えば読売ジャイアンツのような巨大な存在!!!!
!! 巨大な帝国だった !!!
!!!新たなメディアに果敢に挑戦。強力な営業力と、人材開発!!!
『日本広告社と日本電報通信社が1907年に合併して、電通は、通信と広
告の兼営会社となった。36年、通信統制で通信部門が旧同盟通信社に移さ
れ、広告専門会社として再スタートを切った。戦時体制が強化されるなか
で、地方紙がほぼ1県1紙体制に統合されたことが、戦後の発展の基盤に
なったと同様に、電通の歴史にも戦争がかげを落としている。戦後の高度成
長期、テレビの登場で急成長を果たし、74年には広告取扱高は世界1位に
躍り出た。』
『情報産業の一角を担うようになった広告会社の歴史は、必ずしも華々し
いものではなかった。広告会社が発生したのは、1884年(明治17年)
である。それ以前にも広告取り次ぎを副業とする会社は存在したが、広告取
り次ぎを専業として創業した最初は広報堂である。 その後有力新聞の相次
ぐ創刊で、新聞広告は増加の一途をたどり、広告取次業も急増した。現在1
7位の萬年社は1890年(明治23年)、2位の博報堂は1885年、
トップの電通は1901年に創業した。1944年に企業合同があって多く
の広告会社が合併、廃業し、創立当時の名称をそのまま呼称している会社
は、以上の3社の他には、1888年に創業した廣告社くらいで、現在4位
の大広は1895年創業の京華社、1893年創業の金水堂等が企業合同で
近畿広告となり、1960年現社名に改名したものである。 このほか企業
合同では社名が残ったが、敗戦後に解散した1891年創業の正路喜社、1
910年創業の旭広告社などがある。』
『―ラジオ広告に積極的だった電通、博報堂― 広告会社の歴史は100年
を突破した。しかし戦前の60年と戦後の6年は、広告会社はほとんど広告
会社としての機能を保持していなかったのである。もっとも個別にはかなり
の差が生じていて、戦前からある程度の機能を保持していた会社、戦後アメ
リカの実態がわかり、アメリカ的広告会社を目指し機能を整備し始めた会社
があったが、それを活用するまでには至っていなかった。 日本の広告会社
が機能を保持し活用をはじめたのは、1951年末に発足した商業ラジオの
開局からと言ってよい。商業ラジオの開局は1948年頃から準備が始まっ
た。これに最も深い関心を示したのは電通、博報堂などの広告会社だった。
電通は自らラジオ局を申請するほどの熱の入れようで、1949年からラジ
オ広告の準備に入り、ラジオ広告要員を選出し、アメリカのラジオ広告の研
究をはじめた。 電通がラジオ広告に熱心だったのは、広告会社の将来性に
着目した故吉田英雄第4代社長が、海外からの引揚者や国内の転職者のなか
から有能な人材を大量に採用したが、新聞と雑誌広告だけでは増大した社員
を維持することができなかったため、広告媒体の増大によってカバーしよう
と図ったためである。 博報堂もラジオ広告に積極的に対処した。博報堂は
戦前から出版広告主のウェイトがきわめて高い会社であった。このため何回
か出版広告主以外の広告主に拡大する営業政策をとったが成功しなかった。
博報堂のラジオ広告積極策は、ラジオ広告で出版広告主以外の広告主拡大を
図るためのものであった。 このように電通と博報堂のラジオ広告積極策
は、ラジオ広告で出版広告主以外の広告主拡大を図るためのものであった。
このように電通と博報堂のラジオ広告積極策は、直接的な意図は違った
が、ラジオ広告に積極的に対処したことが、結果的に今日、電通、博報堂の
時代といわれるようになる契機となったのである。このほかラジオ広告に関
心を示した広告会社は、新聞広告主力では協同広告、屋外・交通広告主力で
はオリコミ、宣弘社、雑誌広告主力では三幸社などがあるが、大半の既存広
告会社はラジオ広告に消極的だったのである。 しかしラジオ広告を契機に
広告業界に参入した会社も少なくなかった。その代表は第一企画、日放、協
和広告などである。これらの広告会社はラジオ広告要員を擁して、ラジオ広
告の開始に備えていた。 ラジオ広告は未知な分野だったため、広告主の大
半はラジオ広告に消極的でなりゆきを見もる姿勢を採った。このためラジオ
広告に対する研究も十分ではなく、ラジオ広告の担当者を置くこともなかっ
た。この広告主のラジオ広告に対する消極的な態度と、一部のラジオ広告に
積極的な広告会社が存在していたことが、その後の広告会社の方向を決定的
なものにしたのである。 それはラジオ広告が予想外の反響を呼び、広告主
がラジオ広告に殺到したことによる。スタッフもいない、ラジオ広告に知識
もない広告主がラジオ広告をはじめるには、ラジオ広告に積極的に対処した
広告会社に依存しなければならなくなったのである。広告会社の存在が機能
によって認識された最初がラジオ広告だったといっても過言ではない。 ―
ラジオ広告開始で変動した勢力分野― 戦後の広告会社は、戦前の歴史を持
つ電通、博報堂、大広、萬年社、日本広告社、大東広告、新生社、(194
8年解散)、正路喜社(1961年解散)、旭広告社(1967年解散)の
9社と、新聞社専属の読売広告社、朝日広告社、西広、屋外広告のオリコ
ミ、宣弘社、TOMOEなどが主導権を持っていた。その後幾多の広告会社
が創立されたが、ラジオ広告が開始されるまでと、それ以降では広告会社の
勢力分野は大きく変動した。 ラジオ広告に積極的に取り組んだ電通、博報
堂はラジオ広告の成功で、以降一、二位を独占する基盤を築いた。大広、萬
年社もラジオ広告にとり組んだが、本社が大阪だったため、電通、博報堂と
比較すると、ラジオ広告での成功率は低かった。このことだけではないが、
大広、萬年社の2社は、以降電通、博報堂との差を拡大する結果となった。
新聞全盛時代には4社に次ぐ力を保持しいていた日本広告社は、ラジオ広
告の対応が遅れたことが、その後の同社の業績を低迷させることになり、今
日では大きく後退している。またラジオ広告に積極的に取り組んだ正路喜社
は、ラジオ広告では成功したが、労使関係が悪化したことが原因で解散に追
い込まれた。』
『 ―テレビ広告開始後に拡大された広告会社の機能― ラジオ広告は19
53年にスタートしたテレビ広告に、あっという間にぬかれたのであるが、
ラジオ広告で成功した広告会社は、ラジオ広告の延長線上にあったテレビ広
告にも、ラジオ広告に対処した以上に積極
的にとり組んだ。ただテレビ広告
はラジオ広告と異なり、苦難のスタートとなった。このため関心はもったも
のの、手控えた会社が多かった。新聞広告とラジオ広告で潤っていた広告会
社のなかにあって、テレビに積極的に取り組んだ広告会社が、今日の成功を
収めたのである。現在総売上高上位10社のうち9社は、テレビ売上上1〜
9位を占めており、テレビ売上が10位以下で総売上が10位以内にあるの
は朝日広告社1社だけである。 このようにテレビ広告に積極的に取り組ん
だ広告会社が売上規模を拡大したのは、テレビ広告が最大の媒体に成長した
ためであるが、同時にクリエイティブ・マーケティング機能が広告主に評価
されたことによる。つまりテレビ広告にウェイトをかけた大手広告主から、
広告会社としての機能を評価された会社がテレビ売上高を高め、総売上高で
上位10社のうち9社を占める結果になったのである。 テレビ広告の急速
かつ飛躍的な発展で、上位広告会社の売上規模は拡大された。この売上規模
の拡大が多くの有能な人材導入を促した。広告会社の機能は、全て人によっ
て左右される。有能な人材の導入は広告会社の機能を高めたのである。 テ
レビ広告で成長した広告会社はクリエーティブ・マーケティングに加え、
セールス・プロモーション機能を保持、さらに広告主の企業広告にも参画す
ることによってPR機能をもった。そして最近では、欧米の広告会社がほと
んど手を着けていないスポーツ・イベントにまで業務領域を拡大した。テレ
ビ広告が活発になってから約20年間に、広告会社の機能は飛躍的に向上
し、いまや一部の広告会社の機能は欧米の広告会社のレベルを上回るに至っ
たのである。』
!!!巨大な売上げ。!!!
『グループを含めた連結ベースでは、現在も世界で4番目の規模を誇る。今
年3月期の売り上げは前期比5.8%増の1兆3500億円。』
『広告業界は、極端な二重構造が特徴で、業界2位の博報堂の二倍以上の売
上げを誇る電通を中心に、大手10社が続いている。別の側面から言えば、
業界2位の博報堂は、電通の売上規模の約46%程度であり、業界3位の東
急エージェンシーでは、約16%。6位以下になると1ケタの%であり、電
通1社の売上げ規模が他の上位5社の合計よりも大きいというのがわかる。
巨大企業の電通を中心に大手10社が続き、さらにその周辺に零細企業が広
がる構図になっている。収入源としては、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌の他
に、スポーツなどの各種イベントの企画、運営やCIが主となっている。
ちなみに上位10社の総合売上高は2兆7504億を超える規模で、電通は
そのうち1兆1983億円を占めている。』
!!!莫大な資本力、金!!!
『その巨大広告代理店が2001年をめどに株式を東京証券取引所第一部に
上場する。成田は「多チャンネル化を見通して、メディア側はデジタル時代
への備えを充実させる。メディアと協力するためにも、こちらも準備して、
さまざまな事業に投資できるだけの体力をつけなければならない」と話す。』
『1997年2月
2月3日 国鉄清算事業団は、汐留貨物駅跡地三街区五・三ヘクタールの入
札を行い、日本テレビ放送網や電通などが総額三千七百二十三億円で落札し
た 』
『97.02.12
汐留貨物駅跡地を落札 電通・成田豊社長採算性は計算ズミ 旧国鉄の汐留
貨物駅跡地を落札した電通の成田豊社長は「広告会社の経営は、社員のやる
気をどう引き出すかが勝負。今回、新しい本社の建設用地として汐留を落札
したのはそのためだ」と意義を強調する。 落札額を含めた新社屋建設費は
約二千億円。巨額の投資に見合う効果については「赤や青のネオン街(銀座)
に近くなれば、士気も上がるからね」とはぐらかすが、冷静な経営判断の裏
打ちがある。 現在、本社が五カ所に分散しているため、年間の家賃が約五
十億円。分散による時間的なロスや会議のための交通費などは二十億円にも
達しており、投資の採算性は十分に計算済みというわけだ。』
!!!マスコミへの支配、影響力。!!!
『かつて電通の社員が大麻所持で逮捕されたことがあったが、マスコミは会
社名を隠して報道したり、小さな記事で扱ったりしていた。この時は、電通
に支配されていないミニコミ誌が会社名を明らかにし、広告代理店による言
論介入を批判した。 「言論の自由」は崇高な理念である。 だがそれは、
綺麗ごとの建前だけでは圧力の前に簡単に封殺されてしまうということを、
この時に露呈してしまった。弱者に強く、強者に弱いのがマスコミの本質で
ある。マスコミが「言論の自由」を唱えるのは、自らが窮地に陥った時だけ
に過ぎない。』
!!!デジタルなアニメ、CG、新たなメディアの登場
(電通とは直接的関係はないが)日本の作品の海外進出!!!
『 がん具メーカーのバンダイの子会社であるバンダイビジュアル(東京都
台東区、渡辺繁社長)は昨年10月、「AKIRA」の大友克洋ら国内の著
名なアニメ監督と共に、世界的に評価の高い日本のアニメの技術やノウハウ
を、CGや実写などの技術と融合させた新しい映像作品を制作する「デジタ
ルエンジン構想」を打ち上げた。 制作費24億円をかけ、2000年に劇
場公開予定のアニメ監督押井守(46)の「G・R・M・/ガルム戦記」
(仮題)は、バンダイビジュアルが取り組む映像作品だ。押井は「だれも目
にしたことのない、見る人を驚かせる映像を目指す」という。押井は劇場用
アニメ「うる星やつら1・2」や、米国でビデオ売り上げが首位になった
「攻殻機動隊」などの監督を手がけ、斬新(ざんしん)な作風で知られる。
押井は、大学在学中から自主映画を制作してきた。すでに日本映画にかつ
ての輝きはなく、「たまたまアニメという特殊な映画をやってきただけ」と
語る。「もともとアニメの制作そのものが、デジタルな考え方に近い。現実
の素材を使わずにつくるわけだから」という。デジタル技術が、映画の世界
で手の届くものになってきた今を「かつて映画がサイレントからトーキーに
なったり、カラーになったりしたのと同じような大きな事件」と受け止める。』
『電通社員に配る手帳を開くと、電通の企業理念が掲げられている。その冒
頭はこんな言葉で始まる。 「コミュニケーション・ニーズのあるところに
は必ず、電通の活動領域がある」。デジタル空間の新しいメディアの興隆と
ともに、広告界の巨人は生まれ変わろうとしている。』
http://www.asahi.com/tech
/special/9802special/medianeo980314.html
http://www.asahi.com/tech/special/9802special/medianeo980722.html#top
http://www.pressnet.or.jp/ENIKKI/e41nissi_g9702.html
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/9702/html/0212side26.html
http://www.tiu.ac.jp/old/hagimotozemi/hm.html
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2434/mas-i0301.htm
http://www.jca.ax.apc.org/~sei-u/hitotsubo_kanto/Misc/Kinyobi244-2.html
http://www.dentsu.co.jp/DHP/