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朝日新聞1988年11月29日社説
言論人の自戒
リクルート報道で、新聞社の幹部や政治評論家、経済誌の編集長など、言論
にかかわる人びとが株の譲渡を受けていたことが、つぎつぎと明らかになっ
ている。極めて残念なことだ。言論に携わるものとして、厳しい自戒の材料
としたい。
今回の事件は、名指しされた政治家や官僚らの多くが口にした「法律に違反
していないからいい」といった性格のものではない。法とは、最低限のモラ
ルでしかないのだ。われわれは、繰り返しそう述べてきた。では、何が問わ
れているのか。
ぬれ手でアワ、という言葉が、この事件に関してよく使われている。普通の
人では近づけない情報、機会に接し、労せずして巨額の金を手にした、ある
いは手にできることになった事実を指す。その「不公正さ」、直接的に表現
すれば、かかわった人たちの「ずるさ」に対して、批判が集まっている。
けれども、それだけではあるまい。問われているのはもっと根源的な、職業
とか立場に必然的に伴う「倫理」の部分だろう。
問題の株は、政、財、官界、言論界、教育界などかなり広い分野にばらまか
れたように見える。しかし、整理してみると、「ちょうだいした側」(国会
での竹下首相の答弁)のほとんどが、「制作」と「情報」に関係している人
たちであるのがわかる。
政治家や官僚だけではない。財界人や学者らも、大半が政府の審議会などの
メンバーだったり、政府を支援する財界団体の幹部だったりした。
重要な情報を早く知り、それを客観的な立場で伝えたり、論評するのが、評
論家の任務である。不正、腐敗を追及する役割も、当然負う。政府の政策を
批判することが求められる場合もある。そうでありながら、株の譲渡を受け
て、普通の人が得られない利益を得ることは、本来の仕事の公正さをゆがめ
る恐れも多分にある。
であればなおのこと、一般の人以上に、自らを厳しく律しなければならな
い。有利な立場を使って私利私欲のままにふるまうことになったなら、国民
の誰から信頼してもらえよう。
こうした立場にいれば、不自由さがつきまとう。うまい話が合っても乗るわ
けにはいかない。しかし、当然そうあるべきなのだ。でなければ、腐敗が急
ぎ足でやってくる。
まさにその点を、名前の上がった人たち、そして言論に携わる者全体が、問
われている。事件に関連した新聞社の幹部が辞表を提出、同社が「事件の真
相を究明する新聞社の幹部として遺憾」と辞任を認めたのは、当然のことと
いえる。法には触れなかったにせよ、多くの人々が大切なものと考えている
倫理に反し、信頼を裏切ったからだ。
リクルート疑惑を取り上げた英誌「エコノミスト」最新号は、政財界の腐敗
が底なしに深まり、政治がわいろで覆われている現在の日本は「自由経済の
民主主義国とは認められない危険がある」と指摘。渦中の首相や閣僚が、な
お地位にとどまっていることに驚いている。そして「日本人は信用できな
い、との声が高くなるのではないか」と書く。海の外からはそう見える、と
いうことである。
日本がこれから、この指摘どうりに進むようなことがあってはなるまい。そ
のために、言論に携わるものには、情報化社会がもたらす複雑な関係の中
で、言論の機能をゆがめるような誘惑に屈することなく、しかも社会が期待
する本来の任務を積極的に果たしていく責任が負わされている。あらため
て、みずからを戒めたい。