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君が代
「わがきみは 千代にましませ さざれ石の
巌となりて 苔のむすまで」
(題しらず・よみ人しらず)。
このほか『新撰集』『和漢朗詠集』にも類似の歌がある。
もともと、この賀歌の歌い出しは、「わがきみは」「きみがよは」などさまざまで、
「きみ」は祝う相手をさし、その人の長寿を祝い祈る歌で、主君とか天皇という意味は
なかった。
江戸時代に賀歌は広く普及し、薩摩琵琶歌の「蓬莱山」にもとり入れられた。
明治二年(一八六九)、日本に軍楽隊を創設する目的で薩摩藩士らに軍楽を
教えていたイギリス軍楽隊長ジョン・フエントンが、日本に国歌がないと知って、
国家の制定と作曲をすすめた。藩士はこの提案を砲兵大隊長大山厳(いわお)に
伝えたところ、大山は、愛唱していた琵琶歌「蓬莱山」からこの歌を選んだと伝えられる。
作曲は、こういう経緯から、フエントンが手がけ、明治三年(一八七〇)九月八日、
東京越中島における天覧の海軍調練で演奏された。フエントンの作曲は、
完全な洋楽だったため評判が悪く、明治九年(一八七六)の天長節限りで廃止された。
明治一三年(一八八〇)七月、陸海軍の各軍楽隊関係者と宮内省式部寮の楽人長林広守、
ドイツ人の音楽家のフランツ・エッケルトが改訂委員に任命された。
こうして、林の作曲に、エッケルトが洋風和声を付した新曲が、
一八八〇年一〇月二〇日、初めて演奏された。
しかし実際には林の都下の楽人・奥好義が作曲した保育唱歌「君が代」を、
林の作曲として発表したものといわれる。
「君が代」は、天皇の治世とその寿命の長久を祈るとして、明治中期以降、
学枚教育を通じて普及した。近代天皇制国家の確立後、「君が代」は国歌
として定着したが、公式に国歌として制定されてはいない。学校の儀式で
「君が代斉唱」を「国歌斉唱」というようになったのは、昭和になってからといわれる。
*大山巌 天保一三−大正五年(一八四二−二九一六)。
明治時代の陸軍軍人。鹿児島出身。薩摩藩士大山彦八の次男で
西郷隆盛の徒弟。弥介、晴海などと称した。
藩命によって江川太郎左衛門に砲術を学ぶ。
戊辰戦争では砲兵隊を率い活躍、維新後明治三年渡欧、
普仏戦争を視察、四年からフランスに留学し、
帰国後は、長州の山県有朋とともに陸軍建設に腐心した。
明治一八年陸軍大臣、二四年大将、枢蜜顧問官、
三一年には元帥となる。
日清、日露戦争には軍の中枢にあって戦争指導にあたった。
参謀総長、貴族院議員、明治四〇年には公爵に叙せられたが、
政治的野心は薄く、元老となったが政界への影響は少なかった。
**保育唱歌 明治一〇年(一八七七)の英照皇太后と皇后の
東京女子師範学校への行啓を機会に、歌詞を選んで、
宮内省式部寮の楽人に作曲させて、
各学校へ下賜された唱歌のことをいう。
題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。