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君が代
「新版」平成皇室事典 ISBN4-07-225242-5
平成十一年二月二十日 第一刷発行
編者/主婦の友社 発行者/石川康彦 発行所/株式会社 主婦の友社
P388【君が代】
古来、主に長寿を祝って歌われる賀歌が起源。
『古今和歌集巻七』の「賀歌」冒頭に原歌がある。
「わがきみは 千代にましませ さざれ石の
巌となりて 苔のむすまで」
(題しらず・よみ人しらず)。
このほか『新撰集』『和漢朗詠集』にも類似の歌がある。
もともと、この賀歌の歌い出しは、「わがきみは」「きみがよは」などさまざまで、
「きみ」は祝う相手をさし、その人の長寿を祝い祈る歌で、主君とか天皇という意味は
なかった。
江戸時代に賀歌は広く普及し、薩摩琵琶歌の「蓬莱山」にもとり入れられた。
明治二年(一八六九)、日本に軍楽隊を創設する目的で薩摩藩士らに軍楽を
教えていたイギリス軍楽隊長ジョン・フエントンが、日本に国歌がないと知って、
国家の制定と作曲をすすめた。藩士はこの提案を砲兵大隊長大山厳(いわお)に
伝えたところ、大山は、愛唱していた琵琶歌「蓬莱山」からこの歌を選んだと伝えられる。
作曲は、こういう経緯から、フエントンが手がけ、明治三年(一八七〇)九月八日、
東京越中島における天覧の海軍調練で演奏された。フエントンの作曲は、
完全な洋楽だったため評判が悪く、明治九年(一八七六)の天長節限りで廃止された。
明治一三年(一八八〇)七月、陸海軍の各軍楽隊関係者と宮内省式部寮の楽人長林広守、
ドイツ人の音楽家のフランツ・エッケルトが改訂委員に任命された。
こうして、林の作曲に、エッケルトが洋風和声を付した新曲が、
一八八〇年一〇月二〇日、初めて演奏された。
しかし実際には林の都下の楽人・奥好義が作曲した保育唱歌「君が代」を、
林の作曲として発表したものといわれる。
「君が代」は、天皇の治世とその寿命の長久を祈るとして、明治中期以降、
学枚教育を通じて普及した。近代天皇制国家の確立後、「君が代」は国歌
として定着したが、公式に国歌として制定されてはいない。学校の儀式で
「君が代斉唱」を「国歌斉唱」というようになったのは、昭和になってからといわれる。
*大山巌 天保一三−大正五年(一八四二−二九一六)。
明治時代の陸軍軍人。鹿児島出身。薩摩藩士大山彦八の次男で
西郷隆盛の徒弟。弥介、晴海などと称した。
藩命によって江川太郎左衛門に砲術を学ぶ。
戊辰戦争では砲兵隊を率い活躍、維新後明治三年渡欧、
普仏戦争を視察、四年からフランスに留学し、
帰国後は、長州の山県有朋とともに陸軍建設に腐心した。
明治一八年陸軍大臣、二四年大将、枢蜜顧問官、
三一年には元帥となる。
日清、日露戦争には軍の中枢にあって戦争指導にあたった。
参謀総長、貴族院議員、明治四〇年には公爵に叙せられたが、
政治的野心は薄く、元老となったが政界への影響は少なかった。
**保育唱歌 明治一〇年(一八七七)の英照皇太后と皇后の
東京女子師範学校への行啓を機会に、歌詞を選んで、
宮内省式部寮の楽人に作曲させて、
各学校へ下賜された唱歌のことをいう。