Re: 面白いので、全文転載。「日本秘密結社の謎を追え!」


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投稿者 倉田佳典 日時 1999 年 2 月 25 日 20:23:32:

回答先: Re: 面白いので、全文転載。「日本秘密結社の謎を追え!」 投稿者 まむし連 日時 1999 年 2 月 25 日 19:21:33:

民族の掲示板で,関連する「まむし連」さんの考察(長文)があります。
サンカ等に関してさっそく論議が始まっています。(^_^)


民族の掲示板
http://www.tcup3.com/324/nippon.html?

「東日流外三郡誌」1、2、3 投稿者:まむし連  投稿日:02月23日(火)01時58分03秒

「東日流外三郡誌」について

1、概要

「東日流外三郡誌」とは、江戸時代に津軽藩の秋田某という侍が、
全国を旅して資料を集め、編纂したという歴史の書物である。
それによると古事記や日本書紀は嘘だらけで、本当の歴史は、以下のごとし。

『太古、津軽にアソベ族(阿曽辺族)という温和な部族が住んでいたが、海を渡ってやってきたツボケ族(津保化族)という精悍な部族によって、山奥に追いやられた。その後、アソベガモリ(岩木山)の噴火でアソベ族は半ば死に絶え、生き残りはツボケ族と混血した。
 その頃、日本は、十二の民族、百余国に分かれ争っていたが、安日彦と長髄彦の兄弟の王が現われて耶馬台国五畿七道を平和に治めた。
 一方、高砂族が南洋から九州へ稲作を伝えて入り、日向族と称していたが、神武天皇はその酋長で、一族の卑弥呼なる巫女を崇め、天の神の子孫だとの迷信を唱えて愚民をだまし、まず筑紫の猿田族を酒と美女を使って滅ぼし、次々と諸部族を攻めとりながら大和へ侵入していった。
 安日彦と長髄彦の軍勢は神武天皇に敗れ、遠く津軽に落ち延び、ちょうどその時シナから渡来してきた晋の群公子一族と協力し、ツボケ族を平定した。
 こうして津軽において、アソベ族、ツボケ族、耶馬台国一族(安日彦と長髄彦の一族)、晋群公子一族の四者が、統合混血してアラハバキ族(荒羽吐族)となり、アラハバキ族は安日彦と長髄彦を中央の王とし、さらに四方に王を置き、これを荒羽吐五王の制と称した。このアラハバキ族を、大和朝廷は「蝦夷」とよんだ。
 アラハバキ族は、たびたび大和に攻め上ぼり、二度に渡ってアラハバキ系の天皇(孝昭天皇、孝元天皇)を立てたが、逆に謀反を起こされたりしているうちに朝鮮から渡ってきたカラクニ皇なるもの(崇神天皇)に国を奪われたという。
 以下、この調子でどこまでも続き、安日彦と長髄彦の子孫は、安倍氏、安東氏となり、中世には、安東水軍の世界貿易によって繁栄した津軽十三港も、興国二年の大津波によって滅亡したという。』

この「東日流外三郡誌」は昭和五十年に初めて世に出て以来、
学界からは無視されてきたものの、東北地方を中心にベストセラーとなり、
民間の歴史愛好家には多大な影響を及ぼしたものである。

2、超古代史への影響

特にもともと学界から黙殺されていたオカルト的な超古代史のジャンルでは、
日本神話の解釈をめぐって悪影響が甚だしく、折角、
神武天皇以前の太古の天皇の存在と太古の巨石文化を認める人がいても、それらは
神武天皇に滅ぼされたのだ、などという議論が普通にまかり通っているのは、
この「東日流外三郡誌」を根拠とする説だったのである。
その先駆けとなったのは、かつてより多方面で批判の多かった
「日本のピラミッド」(大陸書房)というベストセラーで、
以来、神武天皇以前の太古の天皇と太古の巨石文化を主張する著作は、
ことごとくそれらを先住民族の天皇で、神武天皇は侵略者とするいわゆる
「原住民史観」に基づく出版物ばかりがでるようになってしまったのだった。
お陰で、本来ならば何の問題もなく皇室尊崇派になりそうな奇特な青少年こそが、
逆に反天皇左翼の思想を抱くという%2アとになってしまった。
全くもって「東日流外三郡誌」の害悪は、竹内文献の比ではないのである。
ちなみに、現在の八幡書店社主武田崇元氏(本名武田洋一)の
若き日のペンネームこそ「日本のピラミッド」の著者、武内裕その人なのだ。

3、余談

その一。武田崇元氏は、ペンネームごとに思想内容を変えるのだが、
本心は左翼そのものであったことが後ほど判明している。
その二。もう昔の事だが、かつて徳間書店から『ゴッドマガジン』という
雑誌が出ていたが、そこで、あずまの幸日子なる人物が
「神武太平記」などに基づいて原住民史観への反論記事を書いていた。
編集部が勝手につけたのか、サブタイトルに「神武東征は民族解放戦争だった」と
あったのには参ったが。

「東日流外三郡誌」4、5 投稿者:まむし連  投稿日:02月23日(火)02時02分48秒

「東日流外三郡誌」について

4、世間一般への影響

「東日流外三郡誌」は昭和五十年に出たものは絶版で入手できないが、
現在、某出版社から3分冊の復刻版がでている。
また北方新社からは増補された全六巻本が、
八幡書店からはさらに増補され全七巻本が出ている。
しかし何万円もするので、わざわざ買うのは馬鹿らしい。
二千円か三千円なら「謎の東日流外三郡誌」(佐治芳彦・徳間書店)
「津軽古代王国の謎」(佐藤有文・サンケイ出版)、
「東日流外三郡誌の秘密」(佐治芳彦著・KKベストセラーズ)
などの解説書がある。さて「東日流外三郡誌」はテレビ
(NHKの「ぐるっと海道3万キロ」「みちのく黄金街道」)や
伝奇小説にもなり、ますます有名になる一方、学界のちゃんとした学者は、
竹内文献なみのキワモノだとして黙殺していたため、返って、
いつの間にか角川書店の「地名大辞典」や各地の市町村史、
はては外国の論文にも引用され、とうとう学術論文にまで取り上げる
一部の学者まで出るようになっていたのだった。
このままでは東北の歴史はズタズタにされてしまう、たいへんなことになる
というので、津軽在住の地方史家の松田弘洲氏が、あすなろ舎より、
「東日流外三郡誌の謎v「東日流誌・裁判」「古田史学の大崩壊」などの批判本を
出し、東日流外三郡誌を完膚なきまでに叩いてそのインチキぶりを明らかにした
のである。(これらの本は現在も入手可能)が、なにぶん地方出版物だったため
なかなか広まらなかったのであった。

5、学界の反応

ところが「東日流外三郡誌『偽書』論争」なる事件がもちあがり、事態は急変。
この論争は、産業能率大学の安本美典教授と、昭和薬科大学の古田武彦教授
(及びそれぞれの支持者)との間で交わされた論争である。
安本美典氏は、批判も多く必ずしも全面的に依拠できない人だが、
数理統計学という理科系の方法により記紀のとおりに全天皇の実在を主張した
「神武東征」(中公新書)という本をかいた。神武天皇をはじめ何人もの天皇を
架空視するのが当然の歴史学界にあって、かなり奇特な人物といえる。
理科系出身を看板にしているかと思えば、大本教などにも造詣があるらしく、
何となく謎めいた人 だ。
梓書院から出ている『季刊邪馬台国』という雑誌の編集長もしている。
一方の古田武彦氏は「邪馬台国はなかった」などのベストセラーを次々に発表し、
九州王朝説を打ち出した独自の「多元史観」は古田史学といわれ、
古田ファンとよばれる熱狂的な大勢の読者に囲まれていて、
それらの人々の手によって『市民の古代』という雑誌が出されていた。
八幡書店からも一冊だけ「倭人も太平洋を渡った」という本を出している。
が、学界の中では安本氏よりさらに傍流にいる。
この二人は、かねてより「邪馬台国問題」をめぐって、
ひじょうに有名な論敵同士だった。
ところが平成二年、古田氏が東日流外三郡誌に基づいて
「真実の東北王朝」(駸々堂より現在も刊行)という本を出し、このときこそ、
東日流外三郡誌の影響力がオカルト超古代史業界のみならず、
あろうことか歴史学界にまで及ぶところだったのだが、学界の中でただ一人、
安本氏だけが「東日流外三郡誌『偽書』説」を唱えて『季刊邪馬台国』に
前掲の松田氏の著書を連載したのだった。
その後『季刊邪馬台国』と『市民の古代』の雑誌同士の応酬や
『東アジアの古代文化』誌上での討論があり、やがて、
テレビ(NHK「ナイトジャーナル」)や
週刊誌(『サンデー毎日』『週刊新潮』)での
討論や特集記事が出て、さらにパソコン通信ネット「Nifty」の中にまで、
それぞれの支持者による論争が広がったのだった。
具体的な議論の内容は、前掲の松田氏の著書の他にも
「東日流外三郡誌『偽書』の証明」(安本美典他十二人・広済堂)
「虚妄の東北王朝」(安本美典・毎日新聞社)などがある。

「東日流外三郡誌」6 投稿者:まむし連  投稿日:02月23日(火)02時05分01秒

「東日流外三郡誌」について

6、結び

東日外三郡誌が偽書であることは、すでにいわれていることであるが、
偽書とは由来来歴を偽る物であって、内容がデタラメなものという意味ではない。
だから東日外三郡誌は正確には偽書ではない。
それどころか古文書ですらない。
古文書とは、たんに古い書物という意味ではなく、
文献学(古文書学)上の厳密な条件を満たしているものをいうのである。

秀真伝やカタカムナのようなマイナーなものより、
東日流外三郡誌は、はるかに有名である。これにより、日本の歴史が
メチャクチャにされかかり、事態はただならぬところだった。

だが東日外三郡誌は、書かれた紙も現代の物。文体の癖も書いた筆跡も、
すべて同一人物のもの。用語も近代以降の言葉。

それでも「古い伝承が断片的に含まれているのではないか」という
妄想を抱く者がいる。
そんなにすごい内容なのか?
考古学的発見を、あとから「東日外三郡誌にも載っていた」と
書き足していったものはあるが、東日外三郡誌のお陰で発見されたものなどない。
近代以降の古代史学説をパクっているから、さぞかし勝手な幻想どおりの
古代史像をえがいてくれているだろう。
それが「古い伝承が断片的に含まれている」証拠だとは、
学者でなくてもふつうの人間は認めない。

松田氏や安本氏に、批判が全くないわけではないのだが、この二人のお陰で、
結局、東日流外三郡誌は和田喜八郎という地元では知られた詐欺師が
偽造した物で、戦前にすら溯り得ず、
真実は何一つもないことが確定したと言って良いだろう。

むろん、まだ屁理屈を捏ねる頑固者や狂信者はいるが、それは極めて少数で、
今では東日流外三郡誌から引用しただけでその論文の信頼度が
ガタオチになるようになった。実に健全な風潮といえよう。

縄文時代が素晴らしいのは、純粋に考古学的な発見だった。
東日外三郡誌が証明なんかしてないよ。

「出雲神話」について/その1 投稿者:まむし連  投稿日:02月23日(火)02時10分47秒

序)

以前、他のある右翼系ボードで「出雲神話」についての話題が出た。
具体的には
1)出雲風土記と記紀の記述のちがひ
2)天津神と国津神(大陸系、土着系)
3)大陸や半島との関係
4)出雲王朝とか吉備王朝とか
5)サンカとの関係
といふネタであつた。
むかうは話題豊富な板であり、長文で他の話題を妨げるのは望まないので
こちらの場所をかりることにした。

1)出雲風土記と記紀の記述のちがひ

出雲神話は、ほとんど記紀の中で語られてをり、
出雲風土記にはでてこない。
この事実から、
出雲神話は実は地元とは無関係に中央(大和朝廷?)で創作されたのではないか、とか
本来の出雲神話は抹殺、または隠蔽、封印されたのではないか、とか
の説を唱へるむきがある。かりにこれらを「出雲神話すりかへ説」と呼ばう。
が、このことは謎でもなんでもなく、
ア、すでに記紀に記されているとほりであつて、同文を風土記でくりかへす意味がない。
イ、記紀から出雲風土記までわづか13年しかなく新たな異説異伝が生じる時間的余裕がない。
ウ、風土記は初めから地誌であつて、歴史や神話の本ではないので、
  地名縁起説話など関係のあるところで断片的に神話がでてくるだけなのはむしろ自然。
などの理由から、冷静になるべきだらう。
「出雲神話すりかへ説」は
天津神とは大陸からやってきた勢力=朝廷で、国津神とは土着勢力=出雲のことであり、
その朝廷と出雲地方に政治的に対等な時代があってその頃の歴史が神話に反映してゐるとする見解
つまり神話への「歴史反映説」へのこだわりから生まれる幻想にすぎないのではあるまいか。

2)天津神と国津神(大陸系、土着系)

でははたして、天津神とは大陸や半島からやつてきた勢力であり
国津神とは土着勢力のことなのであらうか?
これには高天原が外国のどこかであるといふ前提が必要であり、
大陸や半島の歴史と明瞭に連関してゐなければならないが
そのやうな具体的事件は何ら徴すべきものがない。
そもそも天津神の神々の名からしてまつたく外国風でないのだから当然である。
まづ朝廷が外国から来たといふことを証明することができるのか、といふ問題もある。

しからば海外と無関係かといふとさうでなく、
「海外の歴史」とではなく「海外の神話」とならば大小の共通点や類似性が多く、
もし日本神話を歴史事実とするならば類似の神話が
世界的に分布してゐることの説明に困窮する。
神々を2群の体系に分かつのもゲルマン/ケルト神話やインド/イラン神話などにもみられ
世界的な神話の普遍的な構造のひとつらしく思はれる。

3)大陸や半島との関係

大昔には本州と九州がつながつてをり神功皇后が土木工 事を起こして
海峡を通じさせたという伝説もある。
古くは山陰から直接三韓へ渡る航路が主流であり、関係は当然あったらうし
経済的にも中継地点として重要だつたらうが
その政治的内実がどのやうなものかは考古学からは不明である。
どちらかといふと出雲は宗教的中心で政治的には但馬丹後の方が重要だつたと思ふ。
考古学からは、山陰地方には九州とも近畿とも特色の異なる文化があつたが
特別・C9大陸的なわけではなくこれは地方差のレヴェルともいひうる範囲だらう。
むろん何らかの勢力があつたことはうかがへるが、
出雲神話の内容との具体的関係事項は不明、といふかあまり無い。

問題は、
考古学上その存在が推測される勢力がどのやうな性質のものだつたか、であるが?

「出雲神話」について/その2 投稿者:まむし連  投稿日:02月23日(火)02時12分59秒

4)出雲王朝とか吉備王朝とか

ではいつたい出雲にあつた勢力とは何者で朝廷とはいかなる関係にあつたのだらうか?

吉備地方や各地に、王朝すなはち朝廷と対等な独立した勢力があつて
出雲もそのひとつだつたという見解もあるが、
記紀を見ると、各地の支配者は「国造」で、出雲の場合は「出雲国造」である。
ふつう「国造」とは朝廷の任命した世襲地方官といふことになつてゐて、
しからば、これは今でいふ県知事かせいぜい大名みたいなものだらう。
これで何か矛盾があらうや?
「地方王朝説」には否定的である。なぜなら
ア、さう考えなければ矛盾をきたすやうな歴史事実がない。
イ、そもそもそんな記録がない。
からである。
厳密な定義もなく安直に「王朝」などといふのはいかがなものか。
たんなる地方勢力が王朝ならば
室町時代にも江戸時代にも王朝はたくさんあつたといへるだらうが、
ふつうそれらを王朝とはいはぬはずである。

ところが
「出雲王朝は県知事や大名などではない、
大和朝廷とは人種や文化系統の異なる別の種族だ」といふ説もある。
はたして出雲は中央=朝廷と比べて、
人種的、文化的にまつたく別系統の人々だつたのか?

5)サンカとの関係

そろそろ危険水域に入る(笑)
出雲とサンカを結び付ける説もある。
サンカとは竹細工で箕を作って売りに来る人々であり、
なんでこれが出てくるのか首をひねるのがまともな反応だと思ふが、
これが意味を有つのは直接の関係といふより
サンカと出雲はともに先住民だか縄文系だか(爆)
といふつながりからである。

第1に、
サンカが原住民の子孫だなどといふのは、三角寛といふ小説家の説がでどころで、
柳田国男の初期の説に影響されてゐたやうだが、
ほとんど白昼夢と妄言でできてをり史料的価値はない。
第2に、
神話における天津神と国津神の関係を、弥生系と縄文系の関係として
みる説もあるが、そんな説が成り立つには、
まづ出雲にはことのほか縄文的な特徴が、また朝廷には同じく弥生的特徴が
著しくなければならない。が、そのやうな事実はみられない。

つまりサンカと原住民も関係なければ、出雲と縄文人も関係なし。
よつてサンカと出雲も無関係といふことになる。

結)

個々の問題については、
多少の古代史マニアなら反証をあげることはできるだらうが
知らぬわけではない。そのへんをとばしたのは長くなりすぎるから、
という以外の理由はない。
おまけ。
70年代のアカの置土産ともいふべき「原住民史観」によつて
サンカ/アイヌ/蝦夷=原住民=出雲 /国津神=縄文人
      大和朝廷=侵略者=高天原/天津神=弥生人
といふ図式が作られた際に、三角寛のサンカ本が珍重されたのはもちろんである。
こんなのは冷戦下での第三世界論(左翼のアジア解放論)のもじりで、
初期には政治的プロパガンダであることが意識されてゐたのだが、
今は古代のロマンを売る通俗本のネタになるだけ。
これで歴史がわかったなどとは思考停止も甚だしい。
たんじゅんな二項対立で世界が理解できるなら、学問はいらぬ。
階級闘争史観で十分、といふことだ。

武烈継体間王朝交替説  投稿者:まむし連  投稿日:02月23日(火)02時16分04秒

武烈天皇の崩御の後、後嗣がなかったので、
応神天皇の5世孫のヲホド王をむかえて天皇に立てたことになっている。
これが継体天皇である。
古事記では継体天皇の即位前の本拠地である近江から、
日本書紀では継体天皇の出生地(母方の実家)の越前から、
よんだことになっているので、このことから継体天皇以後数代を
「近江王朝」とか「越前王朝」とかいう場合もある。

ところが「実は継体天皇は応神天皇の5世孫などでなく、
つまり万世一系ではなく皇統は武烈天皇で滅亡し、
地方豪族だった継体天皇が自分の正統性を宣伝するため
『応神天皇の5世孫だ』と偽称して
別の新しい王朝を建てたのだという説をなす者がある。

これを仮に「王朝交替説」と略称しよう。
「王朝交替説」の根拠としては、

1)遠縁の者としか名乗れないのはもともと血縁関係がないからだろう。
2)応神天皇から継体天皇までの系図が不明である。
3)なぜ高貴な血筋が中央でなく遠い地方から出るのか。
4)継体天皇は即位してから20年も大和に入れず河内や山城にいた。

以上、4つのことが挙げられる。では逐一反論を試みてみよう。

1)遠縁の者としか名乗れないのはもともと血縁関係がないで、だから
 自分の正統性を宣伝するため偽称したのだろう。

新天皇候補には継体天皇の他にも、仲哀天皇5世孫の倭彦王がいたように、
皇族でも遠縁の者ならばこの時代に限らずいくらでもいただろう。
これに対し、先代の武烈天皇は、
「仁徳天皇の嫡子の嫡子の嫡子の嫡子」にあたるばかりか、
その上「雄略大帝の血を引く唯一の男子」でもあり、
その権威の高さは並々ならぬものであったと思われるのである。
その武烈天皇の後継者として、
一介の地方豪族が「応神天皇5世孫」というありふれた身分を名乗っても
正統性を宣伝することには全くならず、相手にされなかったであろう。

2)応神天皇から継体天皇までの系図が不明である。

現在の記紀にはない。
が、日本書紀には現在の全30巻の他に、古くは、散逸してしまった系図1巻が
ついて全31巻という構成だったことが知られており、この系図1巻の方には
応神天皇から継体天皇までの系図が載っていただろう。
なぜそういえるかというと、現在の記紀には載ってない、というだけで、
「上宮聖徳法皇帝説」には詳細な系図が伝わっているからである。
上宮聖徳法皇帝説は、昔は鎌倉時代の作かなどとその信憑性が疑われたものだが
現在では、推古朝遺文よりはやや新しいものの藤原京木簡よりも古い
文体であることが明かにされ、その史料的価値の高さは認められているのである。
ちなみにこの系図によると応神天皇と継体天皇をつなぐ4代のうち、
3人までは記紀に登場する人物である。

3)なぜ高貴な血筋が中央でなく遠い地方から出るのか。

皇族が地方には位置される例はすこぶる多く、何の不思議もないが、
継体天皇はもとから地方豪族などではない。
前述の「上宮聖徳法皇帝説」で結ばれる皇族たちを記紀で調べれば、
継体天皇の先祖は、女傑として知られた允恭天皇の皇后を出し、
次の代の安康天皇、雄略天皇の外戚となり、子孫の分散と婚姻によって
越前、近江、美濃、尾張までも勢力圏とする大勢力となっていったもので、
はじめから朝廷で重きをなしていた皇族であったと思われる。
また、隅田八幡宮人物画像鏡の銘文は、解釈に諸説あるものの、
最近の有力な説では、その銘文によると、
継体天皇が、実は武烈天皇即位前から大和にいたことが判明している。
つまり、もとから、中央の、ある程度以上の実力者だったのである。

4)継体天皇は即位してから20年も大和に入れず河内や山城にいたが、
 これは反対派の勢力がいて、
 継体天皇が大和に入るのを阻止していたのではないか。

百歩譲って「反対派の勢力」なる者があったとしても、
継体天皇が応神天皇の子孫であることを否定する根拠にはならないはずだ。
継体天皇が河内や山城に都をおいたことについては、
継体天皇以前にも河内や近江といった、大和以外に都があった前例もあり、
かつ当時は代替わりごとに都を遷していた時代だったのだから、
なんの不思議もないだろう。つまり入れなかったのでなく入らなかったのである。
また
その前にそもそも反対派がいたのか?
継体天皇即位によって失脚した旧勢力もなければ、
新しく引き上げられた成り上がり者もいないという事実は
王朝交替がそもそもなかったことを意味しているのではないだろうか。

王朝というのは、国家そのものといってもよい総合的な組織体である。
人員も制度も理念も、いずれも大幅に改まったようすがないのに
安直に「王朝交替」などというのは、いかがなものか。
天皇の系図上の線の引き方が変わっただけなら
王系交替とか王統交替というべきであろう。




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