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武田了円著『死に行く日本 眠ったままの日本人』第一企画出版1998
第5章『村井秀夫を殺したのは右翼青年ではない』より
村井秀夫殺害は口封じ
同じくニャントロ人とはいえ、麻原彰晃は二度にもわたり本部の命令に違反するという
「重罪」を犯したのに生かしてもらえたが、村井秀夫は柔順だったのに抹殺された。こ
の際立って大差ある扱いは、偏えに秘密を守る能力の大小から生じたものである。
生物として本質的に大きく劣っている魔物が、自分より格段上の人類を操り、搾取し続
けていくためには、自己の存在を絶対に見抜かれてはならないという至上命題を完全に
満たし続けなくてはならない。一旦見抜かれれば、当然のことながら戦いになる。戦い
となれば知能低く、勇気乏しく、数少ない──世界全体で五、六パーセントと見られる
──魔物に勝ち目はない。彼等の運命は、だから常に〈秘密を守り抜く〉という一点に
掛かっている。言い換えれば、〈正体を隠し続ける〉という点に掛かっているのだ。他
の点はともかく、この点さえしっかり守っていれば、あとはどんなにチャランポランで
も、いついつまでも甘い汁を吸い続けられるのである。三K一Y(キツイ、キタナイ、
キケソ、ヤスイ)の仕事はすべて地球人に押付け、自分達は四福(ラク、キレイ、アソ
ゼソ、タカイ)のポストを独占し、地球人の苦労する様を眺めて楽しみながら自分は左
団扇で暮して生ける。地球人は背後に巨大な陰謀があるのだとは気も付かぬまま、貧乏
も不幸も、すべては自分に才能がなく運も悪い所為なのだ諦め、大人しく下積みの生活
に甘んじて反抗もしない。だから「秘密」こそ、掛値なしに魔物の生命線なのである。
麻原はこの生命線を犯さなかったが故に、または、犯す惧れがないと判断されたが故に
赦され、村井は、その生命線を危うくしたがために抹殺された。
村井は口が軽く、嘘を吐くのも下手だった。尤も、ここで謂う「口の軽さ」とはぺらぺ
ら喋るという意味ではない。喋ってはならない秘密を喋るという意味である。ぺらぺら
喋るのは多くのニャントロ人に見られる性癖であって、麻原も上裕も青山も皆ぺらぺら
屋である。道理も論理も全然分らないのだから矛盾していようが食違っていようが気に
もならず、機嫌よくぺらぺらとぶっ飛ばせるのだ。しかし村井は、なまじっか道理がい
くらか解る所為であろう、嘘が下手であった。
三月二二日の強制捜査後、上裕外報部長とともにテレビ出演しては、オウムではサリ
ン.銃火器は製造してないことを主張したが、その発言内容はかえって教団に対する疑
惑を濃くした。例えば、サリン製造の場所についてクシティガルバ棟と呼ばれるプレハ
ブ小屋が疑われていた時には、「あそこでは危なくて作れません」と発言したが、これ
では作っていましたと言うのと変りがたい。事実、後にジーヴァカ棟と呼ばれる別の小
屋で製造していたことが分った。またオウムが製造していた疑いが抱かれている時、ロ
シア製の銃AK74について、「アーガー」とロシア語読みをして疑惑を深めるなどし
た(註六五)。秘密を漏らす点では例の、「教団の総資産は1000億円にのぼる」と
いう、例の目を剥くような暴露があった。こういうヘマをやらかすとオウムだけに止ま
らずニャントロ勢力全体の運命が危うくなるのだ。
上裕史治外報部長(三二)は事件後、テレビのインタビューで、「大きな力が働いてい
る。村井は、そのことを言おうとしている矢先だった」と話した。(『週刊朝日』緊急
増刊号七・五・三〇・二七頁括弧原文)
その村井が近く、サリン事件解明の鍵を握る人物として、殺人予備容疑で警視庁などの
合同捜査本部に取調べられる予定になっていた。
彼が逮捕されていれば、早い時期に自供するとみられていただけに、彼の死亡で捜査陣
は、様々な犯罪に関して麻原教祖の指示があったことを立証することに苦労することに
なった。(駆出『…追跡…』一二一頁)
自供などされたらそれこそ体制そのものまで破滅し兼ねない。しかも、わるいことに村
井は三下ではない。名実共の教団ナンバー・2の大幹部である。毒ガス製造工場の第七
サティアンを設計したのも村井、毒ガスの原材料を購入したのも彼、東京サリン事件で
指揮を執ったのも彼、その他、松本サリン事件計画、假谷拉致・殺人等、主要犯罪に深
く、ないし決定的に、関わっている。疑いもなく、ニャントロ勢力の極秘事項も、麻原
に次いで多く知らされていた人物であろう。こんな人物に自供などされたら、本当に、
只では済まない。もう、抹殺の一手である。
口封じ、これが中心の理由であったこと勿論であるが、村井暗殺には、しかし、理由は
他に、もう二つあったと考えられる。一つは他の者に対する警告である。逮捕された者
にもされなかった者にも、大物にも小物にも、秘密を漏らせば、このように抹殺される
のだぞという警告を与えること、これである。だからこそ衆人環視の中、あんな派手な
殺し方をしたのだ。刑法の対象となる犯罪に関することくらいなら、場合によっては洗
いざらいぶちまけても構わないけれども、組織に関する秘密だけは絶対に漏らすなよ、
という実物警告でもあったのである。
いま一つは、麻原を無罪、または量刑を減ずるための予備工作としての証拠漬しであ
る。村井はナンバー・2としてサリン事件等に関わって来たのだから、それらの犯罪を
村井一存でしたものとする。死人に口なしの警えを悪用してすべての責任を村井におっ
かぶせてしまう。麻原は裁判で「知らぬ存せぬ」で通す。麻原の責任を立証しようとし
ても村井のところで糸がぷっつり切れており、命令が麻原から出たものであることが証
明出来ない。少なくとも、十分には証明出来ない。そこで、麻原は証拠不十分で無罪、
または、減刑となる。こうすることも出来る。従って、その狙いも含まれていたと推察
される。麻原は平成七年五月一六日に初逮捕されてから実に十数回も再逮捕されるとい
う事態になり、事ここに至っては無罪だと有り得ようはずもなくなったが、それは後日
の話であって、まだ逮捕もされていなかった当時としては、一旦麻原を逮捕させて後、
証拠不十分で無罪にするというシナリオも十分成立し得たのである。
殺人犯は都立広尾病院医師団
村井秀夫は平成七年四月二三日午後八時三二〜三三分(武田推定)に掛けて、あるい
は、三三分に、韓国籍を有する韓国人、徐裕行(二九歳=当時)に襲われて重傷を負
い、翌二四日未明の午前二時三三分、絶命した。警察とマスコミは徐を殺人者と断定
し、それは余りにも明白な真実のように見えたので世間でも無条件に受入れられ、今日
に至るまで「徐殺人犯人説」に疑問
を呈する論考は只の一人も現れなかった。だが筆者
は、この説にだだ単に疑問を表明するに止まらず、その説を真っ向から否定せんとする
者である。と言っても、徐が殺意を持って村井に近付いたこと、襲撃したこと、村井の
左腕に重傷を負わせ、左脇腹を写真1の牛刀で深々と刺したこと等を否定するつもりは
毛頭ない。それらはすべて厳然たる事実として受入れる。しかし、にも拘らず、徐が村
井を殺したという主張は受入れない。筆者は、徐は村井に重傷は与えたが、それは致命
傷ではなかったと論ずる者である。村井を殺した真実の殺人者は別に居たのだ。
それは誰か。
〈都立広尾病院の医師団〉である。
村井秀夫暗殺問題を研究していて、筆者の達した結論はこれであった。左腕の傷は筋肉
組織にまで達していたとはいうもの、いずれにしろ致命傷ではないから死因を論ずるこ
の際は除外していい。考察の対象とたるのは左脇腹を刺した一突きの傷である。皮肉と
言おうか偶然と言おうか、村井が刺された箇所は國松が[マグナム弾+ダムダム弾]とい
う凄い殺傷力を有する獰猛な弾丸に貫通された箇所とほとんど同じと思える場所であ
る。村井が刺された刃物は牛刀。「牛刀」と言えば牛から連想してこれまた凄い刃物か
とうっかり思ってしまいそうになるが、写真でも分る通り、果物ナイフを少し長くした
ような薄刃の、あまり破壊力の無さそうな刃物である。これが何故「牛刀」と呼ばれる
のか、その理由は知らぬが、これは名と実が相反しているものの一例であろう。ひょっ
とすると牛肉を、店頭陳列用に薄く切取るための包丁かも知れない。勘くれば、人々
が、村井はこの刃物で殺されたのだという確固たるイメージを持ち、病院を疑ったりせ
ぬよう、普通の刃物にわざとこんな凄い名を与えたのかも知れない。
この刃物による一刺しと、マグナム弾+ダムダム弾による貫通と、その破壊力を比較考量
してみるがよい。比較にならないことが簡単に分るはずである。後者は前者の、少なく
とも二〇倍──衝撃波効果も計算に入れれば五〇〜一〇〇倍と評価すべきかも──の破
壊力を有しているだろう。弾丸による傷のダメージというものは余り知られていない
が、弾丸が体内を貫通するだけのものではない。先ず、着弾に先立つ衝撃波と着弾後の
真空状態がある。この真空は布の切れっ端であれ、雨であれ、泥であれ、何でも彼も吸
込む。衝撃波は着弾時だけでなく、弾が躯を駆け抜けていろんな器官を破壊している間
にも、その進路沿いに生じ、広範囲にわたる生体組織を破壊する。刃物の場合はこうし
たダメージは一切ない。
これだけの差があるのに、國松は助かって、村井は死ぬ。これは肯けぬところである。
しかも、擦猛な弾丸に射貫かれて助かったのは五七歳の男、薄刃の刃物に刺されて死ん
だのは三六歳の男。ここでも引っ掛かりを感じるのだ。五七歳といえば人生の黄昏時、
三六歳なら男の真っ盛り。その黄昏氏が擦猛弾丸を躯幹に三発食らったのに悠々と退院
→現役復帰。真っ盛り氏は果物ナイフのアネさんに躯幹を一制しされただけであっさり
とあの世行き。なんとも割切れぬ話だと思った。貫通したダムダム弾でズタズタに引き
裂かれた内蔵を見事に治療出来るだけの腕を持った医学が、単純な刺傷を治療出来ぬと
は、本当に、なんとも納得しかねる話ではないか。
さて、ここまでが研究初期の段階。以上のように割切れぬ気持を抱き、不審を抱いては
いたが、しかし、こうした一般論だけでは決定的なことまでは言えないので沈黙してい
た。生体というものは個人差が非常に大きく、また活力や傷の様態、運の善し悪し等さ
まざまだ要素が絡んで来るので、とてもではないが大まかな一般論だけでどうこう極め
付けるわけには行かぬものである。しかし、とは言え、一般論を無視しても真相に達せ
られないこと、これもまた真理である。一般論には八分程度の重みがあり、故に、つね
に考察の出発点にするだけの価値はある。真相という頂上征服は、論理と直感の両腕を
賢く使い分け、一般論と特殊論の両脚を精力的に使って手堅く、且、力強く登る登山家
によって果されるものだ。故に、以上のような認識を腹に収め、研究は中盤へと進んで
行く。
村井秀夫氏が収容され、死亡した東京都渋谷区の都立広尾病院では二四日午前九時か
ら、豊田忠之副院長らが記者会見した。
豊田副院長によると、村井氏への輸血量は一万五六〇〇ミリ・リットル。うち四〇〇〇
ミリ・リットルがオウム真理教の信者から採血したもの。
致命傷となった右わき腹の傷は長さ一三センチの三日月状で「手のひらが入るぐらいの
深さ。内蔵に達していて腸が出ていた」という。(『産経」七・四・二四・タ)
こういう重要情報が社会面のベタ記事というのも勘くれば疑惑のタネになる。関心を引
かぬよう、目立たぬよう、研究されぬよう、配慮したためとも解し得るからだ。だが、
それは小事。大事は「右わき腹」の「右」唯一字である。これが病院側の言い間違いで
もなく、マスコミ側の書き誤りでもないことを確認するためもう一例引用しておく。
村井氏は、二三日午後、車で山梨県上九一色村の教団施設を出て、八時三〇分ごろ、東
京総本部に戻ったところを、報道陣にまじって近付いた徐容疑者に襲われた。初め左腕
を、さらに右わき腹を刺された。(『読売』七・四・二四・朝)
写真2をみて頂きたい。徐が村井を刺した瞬間を写した歴史的写真である。これほど鮮
明に、これほど決定的瞬間を捉えた劇的写真は史上稀である。この上もなく鮮明に写っ
ているが故に、我々は幸いにして徐が刺した箇所を、幾分かは村井の姿勢・着衣に妨げ
られているとはいえ、かなり正確に知ることが出来る。上下で言えば、それは心臓の下
辺りと見え、左右で言えば中心線か、それよりやや「左」寄りと見える。
今度は写真3を見よう。刺された直後、一〇〜二〇秒くらい後かと推定される。そう推
定する根拠は徐、並びに、人々の位置である。徐の位置は一メートルくらい移動してお
り、周りの人々にも変動がある。そうした変動を考えると、その程度の時間が経ったも
のと推定される。
写真3での最重要ポイントは村井の左手、それも特に掌の位置である。そこがどうして
特別重要たのかと言うと、その掌の中心にこそ刺された箇所があると考えられるからで
ある。諸賢も自分の身に当てはめて考えてみられるといい。如何であろう、あなたな
ら、右脇腹を大きく切られた時、左手で左脇腹を押えなさるか。絶対に、そんなことは
なさらぬはずだ。切られたのが右脇腹なら、ちゃんと右手で右脇腹を押えなさるはず
だ。それは本能的行動である、反射神経の指令により生体なら確実に
そう動く。好みが
介入する余地はないし、選択の余地もない。傷口を可能な限り有効適切に防護すること
は生体が生き延びるためには絶対に必要な手段である。そこで、傷を受けた場合は傷の
「有る」方を保護するため、その部分を手で押える。傷の「無い」方を押えることは絶
対にない。これは議論の余地なき絶対的真理である。さて、写真3をもう一度見よう。
村井は左脇腹を押えている。ならば、生体の絶対的真理から演繹して、そこに損傷を受
けたと判定して誤りは絶対に有り得ないのである。
別のポイントも考察しておこう。右脇腹に損傷──それも特に一三センチもある大きな
損傷を受げた場合、左右どちらの手が防護に動くかということである。簡単に言えば、
どちらの手で傷を押えるかということだ。これも考えるまでもない。右脇腹なら右手で
押える。これも実験してみれば簡単に納得出来よう。右脇腹を切られた傷を左手で防護
しようとしても、それは意外とやり辛く、傷口を押える力もグンと落ちる。人体の構
造、関節の具合でそうなるのだが、故に、右脇腹に損傷を受ければ右手を動員し、左脇
腹なら左手を動員するものである。特に、どちらの手も自由に動かせる場合、この公式
は不変である。さて、村井は左手を用いている。故に、村井の受けた損傷は左脇腹であ
る。村井は右手を使えなかったか。そうではないことを写真2が証明している。この写
真を見ると、村井の両手はどちらも空いており、左右どちらでも使えたことを示してい
る。その状況で左手を動員したということは傷口が左側にあることを証明している。
次は、掌の中心に傷口があると推論する根拠を説明しよう。小さな傷を受けると我々は
その箇所を指先で押える。傷口を保護するため、出血を防ぐため、そうするわけであ
る。しかし、大きな傷の場合、指では力も面積も足りないので掌を用いる。そうした場
合、相当強く、ないし力一杯に、傷口を押さえるが、それだけの力を掛けるには指では
役不足である。お負けに指だと指間に隙間がある。その隙間は力の空白となるので、そ
の公傷口防護に隙が出来る。それは好ましくない。そこで「一枚板」の掌の出番となる
次第である。掌のなかでも最も有効な部分は中央である。故に、生体の反射神経は瞬時
に計算して傷口に掌の中心が来るよう腕を動かす。故に、掌の中心に傷があると推論す
ることは的を射ている。さて、以上のような考察の下に写真3の村井の掌の中央を観察
すると、写真2で受けた印象をかなり訂正しなければならないことが分る。今度は姿勢
は直立だし、着衣にシワはないし、掌左手の指先の位置は明瞭でないが、手は椀型に
なっていて、指先は中央線付近にあるもののようである──と左腕の位置もはっきりし
ているし、するので申し分なく傷口の位置をはっきり特定出来る。
それは「左」脇腹である。「右」ではない。
病院発表とマスコミの言う「右」脇腹に村井は損傷を受けていないのだ。村井の受けた
傷の順番ははっきりしている。最初に左腕、次に腹、この順序で受けた二太刀であり、
唯この二太刀のみである。左腕傷を受ける前に空振りの一太刀があったという報道(許
六六)例はあるが、左腕、腹部と二撃を受けて後に損傷を与えられたという報道は絶無
である。また、写真3も、徐は去って、もうこれ以上の襲撃がなかったことを証してい
る。従って、この点には疑間の余地がない。
念を入れて再考しよう。「右」脇腹を一三センチの長さにわたり、手のひらがすっぽり
入るくらいまで深く切り裂かれた男が「左」脇腹を押さえるということは有り得るか。
どう考えても、それは無い。絶対に無い。
ではこの傷はどうして出来たのか。〈医師団が作った〉のだ。医師団が、手術台に横た
わった村井を、よく切れる鋭いメスで、ザックリ切り裂いたのだ。生かすためではな
く、殺すために。その傷のため、村井は死んだのだ。だから、殺人者は都立広尾病院の
医師団である。徐裕行は、故に、殺人未遂罪で裁かれるべきであった。
もう一点、付け加えておきたいことがある。発表されたが如き凄い傷を受ければ、受け
ると同時に倒れただろうというものである。とてもではないが写真3のように直立して
はいられなかったはずである。長さ一三センチ、深さは背に達するほど。こんな傷を脇
腹に受けて後なら、写真のようにすんなりした姿勢で立っていられるものではない。諸
賢も物指しの一三センチのところに指を置き、右脇腹にその物指しを宛てがってみなさ
るがよい。それだけの長さで、手のひらがすぽっと入るほど深く斬られたと想像してみ
なさるがよい。どれほど凄い疵か、実感出来るはずである。従って、村井のこの姿勢か
らもそんなに大きな傷は受けていないということが推測されるのである。村井が徐から
受けた傷は単純刺傷で、一応重傷には違いないが、致命傷とは次元の異なるものであっ
たのだ。
医師団の発表は犯行声明だ
写真23は、医師団の言う右脇腹の長さ一三センチ、深さ、手のひらが入るくらいで腸
が出ていたという傷が存在しなかったことを称する一般証拠である。つまり,その傷は
広尾病院救急救命センターの医師団により,手術台の上で,切り裂きジャックがしたよ
うに,深く大きくえぐり,切ったものだったのである。
それら写真の証拠のほかに魔術証拠も意図的にはっきり残されている。村井の死亡推定
日時は<平成七年四月二十四日午前二時三三分>である。
……(以下しばらく魔の数字についての考察が続く)
実況中継型暗殺は真犯人隠しが目的
テレビ番組は無数にあり,扱うテーマは無限にあるとはいえ,人が殺される瞬間ほど衝
撃的なテーマはない。そうした劇的瞬間はテレビでも数度しか捉えてこなかった。
……(以下,ケネディ暗殺犯オズワルド殺害,豊田商事会長殺害,村井暗殺についての
比較考察)
徐に関する警察の異常な無警戒振り、無関心振り──國松警護班の作為・不作為も想起
される──も、それに匹敵する。徐はオウム真理教の総本部前へ村井を殺すため出掛
け、村井が現れるのを待った。注目すべきはその待時間の長さである。午前一一時から
午後八時半まで、なんと九時間半も張付いていたのだ。現場には約一〇名の警察官が警
備していた。何度か交替もしたろうし、パトロールの警察官、彼等警察官を管理した
り、指揮したりするための幹部警察官も現れだろう。村井を尾行していた捜査警察官も
いた。そう考えると数十名の警察官が現れ、異常がないかどうかを訓練を積んだ職業的
鑑識眼で監視・注視し続けた勘定になる。ところが、どうしたことか、彼等のうち、誰
一人として徐に不審尋問しなかったのである。では徐に不
審な点はなかったか。なかっ
たどころの話ではない。写真4をもう一度見て頂きたい。少し訓練を受けた者なら、あ
るいは、訓練は受けてなくても観察力のある者なら、この男を要注意人物だと一目で識
別し警戒する。何故なら、「不審な点」の塊みたいな男だからである。骨太の大柄な身
体、虚無的な表情、よく引締まった分厚い筋肉──これは格闘技の鍛練をよく積んだこ
とを示している──、モジャモジャの頭髪、ラフなセーター、ヨレヨレの汚いGバンを
履いているのに、何故か、不釣合なアタッシェ・ケースなどぶら下げている。頭の天辺
から足の爪先まで不審点の塊ではないか。この男が、世界一の危険組織、毒ガス・テロ
の総本家の玄関前でなんと九時間半もとぐろを巻いていたのだ。なのに、延べ数十人の
警察官のうちの只の一人として不審尋問しなかった。もし只の一人でも不審を抱き、
「ケースを開けて中を見せて下さい」と言っていれば、村井暗殺は防止出来ていたので
ある。正に、そのケースの中に新品の包丁が入れられていたのだから。警察の、この放
任振りは不自然を通り越して異常そのものと言わねばならぬ。ダラス市警察と東京警視
庁の、暗殺者に対するこの甘さ、容易には甲乙を付けられない。
なお、村井が最後に現れた時、報道陣や群衆は村井を取り囲み、付近にいる警察官は視
野を遮られたので見えず、襲撃を防げなかったと論じられている(許六八)。それも計
算されたことのうちだったと思われる。つまり、当夜、村井を取巻いた報道関係者、群
衆の(事実上)全員は、ニャントロ人工作員だったろうと我等は推定しているのであ
る。彼等の役目は、徐が警察官に妨げられることなく村井を刺せるようにすること、こ
れであった。警察の本音も村井暗殺を成功させことにあったとはいえ、警察には疑われ
てはならぬという至上命題がある以上、目の前で行われている犯罪を見逃すわけには行
かない。勢い、防止せざるを得ない。それでは徐が刺せなくなる倶れも出て来る。そこ
で、徐の襲撃に邪魔が入らぬようにするため、ニャントロ人報道関係者とニャントロ大
群衆を配置しておき、村井が現れるとサッと取巻いて警察官の視線を遮り、徐が動き易
いよう、徐の襲撃が成功するよう、組織的に動いた、そう我々は見ている。確実に暗殺
しようとすれば、そこまで手を回しておかなければならないものである。本物の暗殺と
は、斯の如く大変に難しいものたのである。
(写真番号は同書のもの)
いやあ,詳しく調べてますねえ,武田了円(^^;
あっ広尾病院の方,文句は武田氏にいってね(^^;;
村井暗殺の写真持ってる方います?この通りなんでしょうか。