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私達はナチの「グライヒシャルトゥング」とよばれた徹底した権力統制、苛烈をきわめ
た弾圧と暴行、網の目のようにはりめぐらされた秘密警察網と息がつまるような市民相
互の監視組織、さらには強制収容所におけるほとんど信じがたい残虐行為の数々につい
て、すでにうんざりするほど知らされている。だが、それらすぺてを書物や報告やフィ
ルムやで見ききしたあとで、どうしても湧きおこる疑問は、ドイツ国民は−−すくなく
も熱狂的な党員以外の、多くの一般ドイツ国民はナチの一二年の支配をどういう気持で
すごして来たのか、その下で次々とおこった度はずれた出来事をどう受けとめて来たの
か、ということである。もっとも、たとえばアウシュヴィッツやペルゼンで何が現実に
行われていたかということは全く知らかった、戦後それをわれわれの同胞がやったとい
うことを知ったときの衝撃は測り知れなかった、という言葉はすでに多くのドイツ人か
ら語られた。それは必ずしも彼等の遁辞や弁解だけではなかろう。事実、彼らに戦後は
じめて知らされたナチ治下の出来事も少くなかったにちがいない。ちょうど日本国民の
多くが「皇軍」の占領地におけるふるまいを−−すくなくもその程度と規模のあらまし
を−−戦後はじめて知らされたように。けれどもそれと同時に、ほかならぬドイツ国内
において普通のドイツ市民が街頭で目撃し、あるいは報道を通じて知っていた筈の出来
事もまたあまりに多いのである。「グライヒシャルトゥング」の途上に立ちふさがる障
害と抵抗の大きさは日本の翼賛体制の比ではなかった。政治・経済・教育・文化あらゆ
る領域におけるユダヤ人の占めていた地位と役割、マルクス主義的社会主義と労働運動
の長い伝統と広汎な社会的基礎、キリスト教会とくに「文化闘争」の経験をもつカト
リック教会勢力、根強いラントの割拠と地方的自主性の意識−−それらの一つ一つを考
えただけでも、ゲッベルスの「宣伝」組織とヒムラーやヘスの「暴力」組織が次々と直
面した課題がどんなに巨大であったかは容易に想像される。それだけにこうした「組
織」のスチーム・ローラーが全国いたるところに発するすさまじい騒音、そこから逃れ
ようとする群の悲鳴と押しつぶされる人々の坤きがなんらかの機会に一般国民の耳に届
かなかった筈はない。にもかかわらず彼等は黙ってすごした。恐怖の支配にうちひしが
れていたのか。しかしどんな人間も、一カ月やニカ月ならともかく、十年以上もおのの
き続けの生活を持続できないだろう。宣伝の効果?むろんそれは大きい。しかし全生活
を「政治化」しようというナチの要求がどんなに成功したところで、普通の仕事をもっ
た普通の市民の生活と感覚が、制服を着たSS隊員のそれと完全に同一化するというこ
とはありえない。たしかに彼等の一人一人がナチ党員と思想や性格が同じになったわけ
ではたかった。ただ彼等の住む世界がナチになったのだ。しかも、その世界の変化にた
いして彼等は、いわぱとめどなく順応したのである。
ナチ「革命」の急激性を、他の国−−たとえば日本だけでなく、「元祖」イタリーの
ファッショ化過程の漸進性と対比させることは私達の通念になっている。けれどもこの
対比を強調するのあまり、ナチの世界がヒットラーの権力掌握後に一挙に完成したかの
ように考えるならば、それはナチズムの前提条件がワイマール時代にすでに熟していた
ことを理由として、一九三三年における事態の質的転換を否定するのと逆の意味で、や
はり歴史を単純化することになろう。外側から見ておそろしくドラスティックな打撃の
連続であったものは、内側の世界の主人にとっては意外に目だたない、歩一歩の光景の
変化として受取られていたということを、たとえばミルトン・メイヤーの『彼等は自由
だと思っていた』(Milton Mayer,They thought they were free)は幾多の例証によっ
て示している。何故ドイツ人はあの狂気の支配を黙って見すごしたのか、何故あれほど
露骨に衡錯した世界の住人として「平気」でありえたのかというさきほどの疑問を解く
一つのいとぐちがここにあるように思われるので、メイヤーの面接したドイツ人のなか
から、一人の言語学者の「告白」をえらんで、一部を紹介してみよう。
彼は当時においてナチ「革命」の全過程の意味を洞察するには、通常の仕事に追われる
市民にとっては、ほとんど望みがたいほど高度の政治的自覚を必要としたということを
綿々と語るのである。−−そういう言い方自体が聴き手のメイヤーには自己弁護として
ひびくだけで、到底たやすく理解してもらえないだろうといういらだたしい感情をこめ
ながら…。「一つ一つの措置はきわめて小さく、きわめてうまく説明され、〃時折遺
憾〃の意が表明されるという次第で、全体の過程を最初から離れて見ていないかぎり
は、−−こうしたすべての〃小さな〃措置が原理的に何を意味するということを理解し
ないかぎりは、−−人々が見ているものは、ちょうど農夫が自分の畠で作物がのびて行
くのを見ているのと同じなのです。ある日気がついて見ると作物は頭より高くなってい
るのです。」
「どうか私を信じて下さい。これは本当の話なのです。何処に向って、どうして動いて
行くのか見きわめられないのです。一つ一つの行為、一つ一つの事件はたしかにその前
の行為や事件よりも悪くなっている。しかしそれはほんのちょっと悪くなっただけなの
です。そこで次の機会を待つということになる。何か大きなショッキングな出来事がお
こるだろう。そうしたら、ほかの人々も自分と一緒になって何とかして抵抗するだろう
というわけです。」
ところが−−
「戸外へ出ても、街でも、人々の集りでもみんな幸福そうに見える。何の抗議もきこえ
ないし、何も見えない。……大学で、おそらく自分と同じような感じをもっていると思
われる同僚たちに内々に話してみます。ところが彼等は何というでしょう。“それほど
ひどい世の中じやないよ”あるいは、“君はおどかし屋だ”というんです。そうです。
たしかにおどかし屋なんです。何故って、これこれのことは必ずやこれこれの結果を招
来するといったって、証明することは出来ないんです。なるほどこれらはもののはじま
りです。けれど終りが分らないのに、どうして確実に知っているといえますか。」
こうしておどかし屋だとか、トラブル.メーカーだとかいわれるのを避けるために、ま
あこの際はしばらく事態を静観しようということになる。「けれども、何十人、何百
人、何千人という人が自分と一緒に立ち上るというようなショッキングな事件は決して
来ない。まさにそこ
が難点なんです。もしナチ全体の体制の最後の最悪の行為が、一番
はじめの、一番小さな行為のすぐあとに続いたとしたならぱ−−そうだ、そのときこそ
は何百万という人が我慢のならぬほどショックを受けたにちがいない。三三年に、ユダ
ヤ人以外の店先に『ドイツの商店』という掲示がはられた直後に、四三年のユダヤ人に
たいするガス殺人が続いたとしたならぱ……。しかしもちろん、事態はこんな風な起り
方はしないのです。」
そうしてある日、あまりにも遅く、彼のいう「諸原理」が一度に自分の上に殺到する。
「気がついてみると、自分の住んでいる世界は、−−自分の国と自分の国民は−−かつ
て自分が生れた世界とは似ても似つかぬものとなっている。いろいろな形はそっくりそ
のままあるんです。家々も、店も、仕事も、食事の時間も、訪問客も、音楽会も、映画
も、休日も……。けれども、精神はすっかり変っている。にもかかわらず精神をかたち
と同視する誤りを生涯ずっと続けて来ているから、それは気付かない。いまや自分の住
んでいるのは憎悪と恐怖の世界だ。しかも憎悪し恐怖する国民は、自分では憎悪し恐怖
していることさえ知らないのです。誰も彼もが変って行く場合には誰も変っていないの
です。」
ナチの世界の内側から見た市民のイメージをこの言葉はかなり忠実に描き出しているよ
うに思われる。この言語学者の「原理的なるもの」にたいする「意識の低さ」が非難さ
るべきなのか、それとも現代政治におけるコンフォーミズムが市民のどのような実感の
上に乗って進行して行くかという典型的な例証としてこれを受取るべきなのか。「おど
かし屋」と世間から思われたくないと思って周囲に適応しているうちに、嘗てならぱ異
和感を覚えた光景にもいつしか慣れ、気がついたときは最初立っていた地点から遠く離
れてしまったというのは、ドイツだから起った事なのか、それとも問題はナチのような
ドラスティックな過程でさえ、市民の実感にこのように映じたという点にあるのか。す
くなくも聴き手のメイヤーは、この長い告白にたいして、「一言も発せず、いうぺき言
葉を思い付かなかった」ほどの衝撃を受けた。
(中略)
一口に経験から学ぷといっても、学び方はさまざまである。たとえば著名なルッター教
会牧師のマルチン・ニーメラーは同じくナチ時代に、自己の生活実感や私的内面性に依
拠した経験の反省から、さきの言語学者より一層積極的な、そうしてカール・シュミッ
トとはまさに逆の、教訓をひきだした。この場合、抵抗者としてのニーメラーと、(便
乗者ではなくとも)同伴者としてのシュミットという二人の経歴を考えれば、この対比
はあまりに当然すぎて不適切に見えるかも知れない。事実、ニーメラーがナチの強制収
容所から漸く解放された時に、カール・シュミットの獄中生活がはじまるほど両者は現
実政治の次元では両極に立っていたのだから……。しかしながら、こうした結果からの
遡及法は必ずしも事態を内側から照し出すことにはならない。すくなくもナチの初期の
精神状況においてニーメラーとシュミットとの距離は、一九四五年において両者がお互
いを見出した地点の遥けさからは想像しがたいほど意外に近かったのである(むろん職
業と専門領域からして、二人の本来の関心対象が非常に離れていたことは、ここでは度
外視している)。シュミットとニーメラーさえ然りとすれば、いわんやさきの言語学者
のような不作為の黙従者とニーメラーとの距離はほとんど一歩である。ニーメラーの次
のような告白を見よ−−
「ナチが共産主義者を襲ったとき、自分はやや不安になつた。けれども結局自分は共産
主義者でなかったので何もしなかった。それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の
不安はやや増大した。けれども依然として自分は社会主義者ではなかった。そこでやは
り何もしなかった。それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の
手が加わり、そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかった。さてそれ
からナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であった。そこで自分は
何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであった。」
こうした痛苦の体験からニーメラーは、「端切に抵抗せよ」(Principiis obsta)而し
て「結末を考えよ」(Finem respice)という二つの原則をひき出したのである。彼の述
べているようなヒットラーの攻撃順序は今日周知の事実だし、その二原則もカール・
シュミットのイロニーを帯びた「限界」説とくらべると、言葉としてはすでに何度も聞
かされたことで、いささか陳腐にひびく。けれどもここで問題なのは、あの果敢な低抗
者として知られたニーメラーさえ、直接自分の畑に火がつくまでは、やはり「内側の住
人」であったということであり、しかもあの言語学者がのぺたように、すべてが少しず
つ変っているときには誰も変っていないとするならば、抵抗すべき「端切」の決断も、
歴史的連鎖の「結末」の予想も、はじめから「外側」に身を置かないかぎり実は異常に
困難だということなのである。しかもはじめから外側にある者は、まさに外側にいるこ
とによって、内側の圧倒的多数の人間の実感とは異らざるをえないのだ。
ここで第三の問題、同じ世界のなかの異端者の問題が登場する。これまでは政治的同質
化と画一化の進行する状況を、内側の住人−−といっても指導者やその副官たちではな
く、もっぱら一般の国民の日常感覚に視点を置いて述べてきたのであるが、もちろんナ
チの世界にあって、これを全体として「原理的」に批判していた人間、あるいはユダヤ
人のようにはじめから権力によって法の保護の外におかれる蓋然性をもったグループ、
さらにまたグライヒシャルトゥングの進行過程において、内側から外側にはじき出され
て行った人間−−要するにナチの迫害の直接目標になつた人間にとっては、同じ世界は
これまで描かれて来たところとまったく異った光景として現われる。それは「みんな幸
福そうに見える」どころか、いたるところ憎悪と恐怖に満ち、猜疑と不信の嵐がふきす
さぷ荒涼とした世界である。一つ一つの「臨時措置」が大した変化でないどころか、彼
等の仲間にはまさに微細な変化がたちまち巨大な波紋となってひろがり、ひとりひとり
の全神経はある出来事、ある見聞、ある噂によって、そのたびごとに電流のような衝撃
を受ける。日々の生活は緊張と不安のたえまない連続であり、隣人はいつなんどき密告
者になり、友人は告発者となり、同志は裏切者に転ずるかも測り難い。ぎらつくような
真昼の光の申で一寸先の視界も見失われ
るかと思えば、その反面どのような密室の壁を
通してでも無気味に光る眼が自分の行動を、いや微細な心の動きまでも凝視しているか
のようである。これが自主的にであると、他動的にであるとを間わず、自らを権力から
狙われる立場においた人々に多少とも共通するイメージであり、そうして、ナチ・ドイ
ツについて私達に常識化しているのはむしろこの方のイメージに近い。ナチ・ドイツだ
けでなく、スターリニズム下のロシアないし東欧のある国々、「暗い谷間」の日本帝国
など、例はいくらでも思いうかぺられるが、いわゆる「全体主義」の支配について外側
の世界からの報告やもしくは後世の歴史の「客観的」観察が読者に与える印象はだいた
いこうしたものである。それは、そうした観察の情報源がおおむね体制の被害者−亡命
者や異端者から出ていることと無関係ではないだろう。そうした被害者もしくは抵抗者
にとってはまさに右のような光景が「真実」だったのである。さきに見たような体制の
同調者と消極的な追随者にとってこれと甚だしく異った光景が「真実」だったように。
……要するにナチ・ドイツには、このように真二つに分裂した二つの「真実」のイメー
ジがあった。だから一方の「真実」から見れば、人間や事物のたたずまいは昨日も今日
もそれなりの調和を保っているから、自分たちの社会について内外の「原理」的批判者
の語ることは、いたずらに事を好む「おどかし屋」か、悪意ある誇大な虚構としか映じ
ないし、他方の「真実」から見るならば、なぜこのような荒涼とした世界に平気で住ん
でいられるのかと、その道徳的不感症をいぷからずにはいられない。もしもこの二つの
「真実」が人々のイメージのなかで交わる機会を持つたならぱ、ニーメラーのにがい経
験を侯たずとも、「端切に抵抗」することは−−すくなくも間に合ううちに行動を起す
ことはもっと多くの人にとって可能であり、より容易でもあったであろう。事実はまさ
にその交わりが欠けていたし、ますますそれが不可能になって行ったのである。
グライヒシャルトゥングとは、正統の集中であると同時に異端の強制的集中を意味す
る。それが成功する度合いにしたがって、右のような二つのイメージの交通は困難にな
る。この場合、初かからの正統の世界と初めからの異端の世界、つまり二つの世界の中
心部ほど、それぞれのイメージの自己累積による固定化が甚だしく、逆に、二つの世界
の接触する境界地域ほど状況は流動的である。そこで支配者にとっての問題は、いかに
してこの異なったイメージの交錯に曝された辺境地帯の住人を権力の経済の原則にした
がってふりわけて行き、両者の境界に物的にも精神的にも高く厚い壁を築き上げるかと
いうことにあり、グライヒシャルトゥングの成否はここにかかっているわけである。
(中略)
シュミットが全体主義の日常生活への浸透の「限界」を見たところに、地下運動者は鉄
扉の蔭からのアピールの無力を感じた。内側の住人の多数は「上」のプロパガンダに行
動的に適応したが、それは必ずしもイデオロギー的にナチやファシストになったのでは
なくて、「おのれの安全性」のためにそうしたのであり、知識層が「私的内面性」にた
てこもったと同様に、大衆は大衆なりの日々の生活と生活感覚を保持した。それが保持
されているという実感があればこそ、異端者あるいは外部からの「イデオロギー」的批
判が彼等の耳に届いたとしても、それは平地(!)に波瀾を起し、徒らに事を好むかの
ような異和感を生んだのである。イデオロギーとイメージの関係をこのように観察する
ならば、私達はナチにおける正統と異端の集中と隔離にしても、またグライヒシャル
トゥングの徹底にしても、通念化している解釈が往々イデオロギーと宣伝の次元にあま
りに比重をかけてその世界の様相を眺めていることに気付くであろう。そのためにひと
は本当におそるべき問題を見落しながら、むしろ現実には「限界」があるものを過大視
して来たきらいなしとしない。それでは、ナチやファシズムの「全体主義」の問題性は
かえって特定の国の特殊な歴史的状況にだけ限定され、現代の人間にたいして投げかけ
ている普遍的挑戦の意味が見失われてしまう。したがって、さきに引用した『彼等は自
由だと思っていた』の著者メイヤーが、「ナチが幸福であったという事実と、反ナチが
不幸であったという事実と、この二つの真実は相矛盾したものではなかった。(中略)
敢て異議を唱えない人々、または異論者とつき合わない人々は、異論者たちにたいして
大きな社会がいだいている不信と疑惑のほかには、べつに不信も猜疑も(あたりに)見
なかったし、他方、異論者もしくは異論の権利を信じた人々は、そこに不信と猜疑のほ
かは何も見なかった。」という結論を多くの面接からひき出したとき、「ナチが」「反
ナチが」という表現をもっぱら一定のイデオロギー的信奉の分布としてとらえるなら
ぱ、むしろメイヤーの真意から離れるだろう。それにすぐ続けて「ちょうど一九五〇年
のアメリカに二つのアメリカがあったと同じように、もっとはるかに鋭く区別された二
つのドイツがあった」といっているように、このとき著者の脳裏には、あたかもマッ
カーシイ旋風がふきすさんでいた彼の祖国が二重うつしになっていたのである。右の文
のヤマはむしろ「異論者たちにたいして大きな社会がいだいている不信と猜疑のほかに
は」という限定のなかにある。ドイツとアメリカ−−それは文化的思想的背景からいっ
ても、政治的伝統から見ても、ほとんど対極的とさえ思われる社会であり、三〇−四〇
年代のドイツと、五〇年代のアメリカを比べても類似性を指摘するよりは相違性を指摘
する方がはるかに容易であろう。そんなことはいわぱ百も承知の上で、メイヤーはひと
しくそこに、同じ世の中についてのイメージが鋭く分裂し隔離する姿を見た。そうして
この場合、異端のイメージを共有するためにひとは必ずしもマルクス主義や、共産主義
のファシズム論に依拠する必要はなかった。チャップリンはこうしてアメリカを去った
し、ほかならぬナチの世界から逃れて来たトーマス・マンも戦後ふたたびスイスに移っ
たのである。そこで間もなく生涯を終えたマンの回想の一節は、さきほどからの問題の
もう一つの例証とするにはあまりに痛ましくひぴく。
「私は戻って来た。七十八歳でさらにもう一度私の生活の地盤をかえたわけである。こ
れはこの年齢では決してささいな事ではない。それについて私は認めざるをえないのだ
−−ちょうど一九三三年と相似て、この決断には政治的なものが関与していたことを。
不幸な世界情勢によって、あんなにもめぐまれた
国、巨大な強国にのし上がった国の雰
囲気にも心をしめつけ、憂慮をかき立てるような変化が来た。忠誠と称するコンフォー
ミズムヘの強制、良心にたいするスパイ、不信、悪罵への教育、立派ではあっても好ま
しくない学者にたいする旅券交付の拒否……、異端者を冷酷無残に経済的破滅につきお
とすやり方−−残念ながらこれらすぺてが日常茶飯事になってしまった。要するに自由
は擁護になやんでおり、少からぬ人が、自由の滅亡をおそれている。」
けれども世の中の雰囲気に「心をしめつけ、憂慮をかき立てるような変化」を感じとっ
たのは、ここでもやはり少数者であり、マンの警告も、チャップリンの調剤も、多数の
住人にはせいぜい「おどかし屋」の、もっと悪い場合には「アカ」の一味の中傷として
ひびいたであろう。恐慌のなかから誕生したナチズムの支配でさえ、民衆の日常的な生
活実感には昨日と今日の光景がそれほど変って見えなかったとすれぱ、繁栄の時代の
マッカーシイ旋風はなおさらである。だからといってここでの顕在的潜在的異端者に
とって、それがナチより住みよい世界だったとは一概にいえないし、彼等が憎悪と不
信、恐怖と猜疑にとりまかれている程度がヨリ少かったわけでもない。「自由だと思っ
てい」ると圧倒的多数の−−したがって同調の自覚さえない同調者のイメージの広く深
いひろがりのなかで、異端者の孤立感はむしろヨリ大きいとさえいえるのである。
『現代における人間と政治』
丸山真男『現代政治の思想と行動』所収