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映画『シンドラーのリスト』が訴えた“ホロコースト神話”への大疑惑
木村愛二
噂の真相1994年8月号
▼「美談」のメッセージにも疑問符
スピルバーグ監督の映画『シンドラーのリスト』は、ハリウッド伝統のア
カデミー賞に輝き、日本でもかなりの話題を呼んだ。筋書きを簡単にいう
と、ヒトラーの支配下でナチ党員のシンドラーが、一部のユダヤ人を「計
画的民族虐殺」(ホロコースト)から救ったという「美談」仕立てだ。
スピルバーグ自身、製作の動機として、自分がユダヤ系アメリカ人だから
とか、教育が目的だとか語っているようだ。子供向きの娯楽映画で名を
売った芸達者の監督の仕事だけに、若者への今後の影響は大きい。
ラストシーンは、現在のイスラエルの首都エルサレムの郊外にあるシンド
ラーの墓標の前に、イスラエル人が行列をなして、敬意を表わす意味の小
石を並べる情景である。つまり、スピルバーグは無言の映像で、イスラエ
ル建国支持のメッセージを世界中に送っていることになる。
ところがその一方、この映画の中でも当然の歴史的事実として扱われ、イ
スラエル建国の最大の理由とされた「ホロコースト」が、実は存在しな
かったのだという主張がある。この方はまだ日本ではほとんど知られてい
ない。
「ホロコースト」は本来、獣を丸焼きにして神前にささげるユダヤ教の儀
式の呼び名で、それがヒトラーによる「ユダヤ人大虐殺」の意味に転用さ
れたものだ。犯行現場は強制収容所の「ガス室」ということになってい
る。「ガス」といえば、奇しくもこの原稿を準備している最中に、「サリ
ン」が日本の長野県松本市で七名の死者を出した惨事の原因物質、いわば
「凶器」として報道された。
サリンは、ナチス・ドイツが開発した毒ガスの一つだが、「ホロコース
ト」の「ガス室」で使われたのは「チクロンB」だとされている。野坂昭
如がいちはやく『週刊文書』(94・7・14)の連載コラム「もういく
つねると」で、「サリン」、「チクロンB」、「ガス室」に関する大手メ
ディア報道を取り上げ、「ホロコースト」そのものへの疑問をも提出して
いる。情報源は私の場合(後述)と同じだ。
▼ドイツ議会と裁判所で連続の逆転劇
火元のドイツでは議会と裁判所で「ホロコースト」問題の連続逆転劇が起
きている。
日本では、「アウシュヴィッツの嘘」などの「発言」を最高三年の禁固で
処罰する刑法改正案が、さる五月二〇日、ドイツの下院で賛成多数を得て
可決され、上院でも可決されれば「九月から発効」(毎日94・5・21
夕)などと、ほぼ確定的なニュアンスで報道されていた。実際には上院で
否決されたのだが、この方の報道はまるで目立たなかった。私自身は『週
刊金曜日』(94・6・24)の「海外版」欄で初めて上院の「否決」を
知った。「発言」しただけで処罰する法律とは何か。民主主義後進国の日
本でさえ不敬罪を廃止した現在、まことに異例である。だからこそニュー
スになっている。発言内容のいかんにかかわらず言論の自由にふれるはず
だが、日本の大手新聞報道だけでは、その裏側どころか経過さえほとんど
分らない。
表面的な大手紙報道だけを追うと、同改正案の上程に先立って四月にドイ
ツ連邦基本法裁判所が、「ユダヤ人虐殺はなかった」などと主張するのは
「基本法(日本の憲法に相当)が保障する言論の自由には当たらず公共の
場では禁止できる」との判断を下している。「ネオナチ」と呼ばれるウル
トラ民族派の極右政党、ドイツ国家民主党が起こした訴訟への最終判決
だ。同党は、一九九一年に開こうとした集会の許可に当たってミュンヘン
市当局が付けた「ユダヤ人を侮辱しない」という条件を、「言論の自由に
反する」として訴えていた。
ただし連邦基本法裁判所の判断は、同じ事件について連邦通常裁判所が三
月に「虐殺の否定自体は犯罪とはならない」として下した判決を、さらに
くつがえしたものである。ドイツ国内でも、「発言の禁止」は、法律家の
一致した見解ではなかったのだ。
しかも、「ホロコースト」または「ユダヤ人抹殺計画」、特にアウシュ
ヴィッツなどの収容所の「ガス室」における「大虐殺」説に対して疑いの
意見を提出しはじめたのは、むしろ「左翼」だった。いわゆるユダヤ系の
学者までが何人も加わっている。もともと不勉強な狂信的ウルトラ右翼な
どは、それらの研究に便乗しているだけなのだ。
▼イスラエル建国の基礎を揺るがす!?
ところが日本国内では、ネオナチの宣伝に対する規制としてしか、この問
題は報道されていない。常日頃と同じく大手紙の報道は、何も事実を調べ
直していないのだ。
私の手元には、十分に一冊の単行本の材料になるほどの量の資料がある。
拙著『湾岸報道に偽りあり』(汐支社)でイスラエル建国の矛盾に若干ふ
れたのが縁で、読者からユダヤ人問題、またはその裏側のパレスチナ間題
の資料を提供される機会が増えた。「ホロコースト」関係のほとんどは日
本人医師、西岡昌紀から提供されたものである。
ドイツだけでなく欧米諸国では、かなり前から「ホロコースト」の真偽を
めぐる詳しい研究が発表されている。裁判記録も沢山ある。
日本語でまとまった記事は、たった一つ。『ニューズウィーク』日本版
(89・6・15)の「ホロコーストに新解釈/『ユダヤ人は自然死だっ
た』で揺れる歴史学界」だけである。つまり、日本の研究者やジャーナリ
スト自身の文章は、まだ発表されていないようだ。
映像作品としては、NHKが昨年夏の「海外ドキュメンタリー」(93・
6・4)で、デンマーク・ラジオ制作の『ユダヤ人虐殺を否定する人々』
を放映した。私の手元には収録ビデオがあるので細部を確認できる。
(中略)
「ホロコーストはなかった」と主張する歴史家、たとえばフランスの
フォーリソンは、決してナチズムの共鳴者などではない。本人も「私に対
しての、ナチズムだとする攻撃、ほのめかしのすべてを中傷と見なす」と
宣言しており、つぎのような「結論」を下す。
「この欺瞞の基本的な犠牲者はドイツ人(ただしドイツの支配者ではな
い)、およびすべてのパレスチナ人だ」
▼左翼、ユダヤ系学者による研究
さて、ナチのユダヤ人迫害の中心的犯罪は、「ガス室での計画的大量虐
殺」である。
先に紹介した西岡の説明および英文資料によると、ナチス・ドイツの収容
所での「ガス室」の存在を否定した最初の人物は、ポール・ラッシニエ
(一九六七年没)である。ネオナチどころか、フランス人の元レジスタン
ス
闘士で、ゲシュタポに逮捕されてナチの収容所に入れられていた経験さ
えある。まぎれもない「左翼」の歴史家(大学教授)だ。
第二次世界大戦の直後には、「ホロコースト・タブー」と呼ばれる状況が
あった。ナチの犯罪追及が熱心に行われている時代のことだから、その最
悪の犯罪として話題の中心になっていた「ホロコースト」に疑問を投げか
けるのは、「タブー」だったのだ。だがラッシニエは、自分の収容所での
経験から、「ホロコースト・タブー」に疑問を覚え、いくつかの著作で
「ガス室について決定的判断を下すのは早すぎる」という趣旨の主張を発
表した。今では、「ホロコースト・リヴィジョニズム(ホロコースト見直
し論)の父」と呼ばれている。
前出の『ニューズウィーク』で紹介されていたプリンストン大学のメー
ヤー教授も、やはりまぎれもない「左翼」の歴史家であり、しかもいわゆ
るユダヤ系である。
「左翼をもって任じるこの著名な教授は、自らもヒトラー支配下のヨー
ロッパからの亡命者だ。一九四〇年、家族とともにルクセンブルクから逃
れてきたが、祖父の一人は強制収容所で亡くなっている」(同記事)
▼殺虫剤チクロンBで人を殺せるのか
短い文章では詳しい論争史の紹介はできない。論争点を簡単に紹介するこ
とにする。
まず第一は、「大量虐殺」の決定的な物的証拠、「凶器」そのものへの疑
問である。「ガス室」で使用された「毒ガス」は「チクロンB」だとさ
れ、そのラペル入りのカンはあらゆる映像作品にも登場する。
NHKが昨年放映した前述の『ユダヤ人虐殺を否定する人々』にも、古び
たカンのラペルの文字「チクロンB」にフォーカスインする無言のイン
サート画面があった。
ところが、ホロコースト否定論者の主張によると、「チクロンB」は一九
二三年に開発された「殺虫剤」で「第二次大戦当時に大流行した発疹チフ
スの病原体のリケッチャーを媒介するシラミ退治に使われたものなのだ。
私の手元には、カナダの裁判で提出された「チクロンB」の取扱い説明書
がある。
それによると「チクロンB」は、木片などに青酸ガスを吸着させ、カンに
密閉したものである。カンから出して加熱すると、沸騰点の二五・六度以
上で青酸ガスが遊離するが、指定の使用方法では蛾を殺すのに二四時間か
かる。人体実験の報告はないが、ニュールンベルク裁判で証拠とされた収
容所長の自白などのように、数分とか数十分で人間を死に至らせるのは、
とうてい不可能である。
「チクロンB」に関する日本語の文献は発見できない。各種専門機関に問
い合わせたが、その種の戦前の文献を知る人の所在さえ、まだ分からな
い。分かる人がいたら、ぜひ教えてほしい。とりあえずのところ、平凡社
発行『世界大百科事典』を見ると、「殺虫剤」の項目で「燻蒸剤」の分類
の中に「青酸」と記されている。「チクロンB」のことかもしれない。
「科学兵器」の項目では「毒ガスの種類」の中に、「皮膚剤」の分類で
「青酸」はあるが、「チクロンB」という製品名はない。
また、次のような興味深い説明もある。
「第二次大戦中、ドイツはタブン、サリン(ともに青酸ではなく「神経
剤」の分類)を開発したが使用しなかった。その理由は敵側による報復使
用や国際世論の非難を恐れたことのほかに、ヒトラー自身が第一次大戦で
毒ガス被害を受けたことによるという説もあるし「サリン」について松本
市の事件の記事では、「無風状態で使用すれば核爆弾の威力」と解説して
いる。「ヒトラー自身が云々」の真相は確かめようもないが、これだけ強
力な「殺人用」毒ガスを開発していたドイツがなぜ、ユダヤ人を「大量に
抹殺」するために「殺虫剤」を使ったのか。この点はまったく理屈に合わ
ない。
▼発疹チフス予防のための各種措置
『世界大百科事典』によると、「発疹チフス」の項目では、「シラミが寄
生するような衛生状態の不良なところに流行が発生し、『戦争熱』『飢饅
熱』『刑務所熱』『船舶熱』などの別名でも呼ばれた」とし、「第二次世
界大戦でも発疹チフスは将兵をおそい、多くの日本軍兵士の命を奪った。
さらにアウシュヴィッツなどのナチスの捕虜収容所でも大流行」したと説
明している。ユダヤ人の強制収容それ自体も残虐行為である。私にはいさ
さかもナチスを免罪する気はない。だが私にも、戦後の中国からの引き揚
げ家族の一員としての、さきやかな収容所経験がある。当時の収容所の衛
生環境で、発疹チフスが発生したら大変な騒ぎになっただろうと思う。日
本に帰国して上陸した途端、大男のアメリカ兵に頭から袋をかぶせられ、
DDTの噴射で全身真白にされたものだ。
となると大量の死体だとか、裸の人の群れだとか、衣服や髪の毛の山だと
か、これまでに何度も見た写真などの各種の資料についても、次のような
説明が自然に思えてくる。
「発疹チフスの流行下、ユダヤ人を大量に強制移送したドイツ軍は、彼ら
を収容所に入れる前に、それまで着ていた衣服を全部脱がせ、シラミの卵
が植え付けられている可能性の高い髪を刈り、シャワーを浴びさせた。衣
服は別室にまとめ、殺虫剤チクロンBで燻蒸することによってシラミを殺
した」
さらに決定的な証言もある。アメリカ軍とともにドイツのダッハウなど約
二〇箇所の収容所に入り、発見した死者約百体の解剖検査をした「唯一の
法医学者」、チャールス・テーソンは、「毒ガスによる死亡例は一つも見
つからなかった」と報告している。
チクロンBおよびガス室に関しては、カナダでの裁判で、専門業者による
鑑定が行われている。アメリカには、ガス室での死刑を実行している州が
あり、実際にガス室を建造した業者がいるのだ。その専門業者のロイヒ
ターは、アウシュヴィッツの現地でのサンブル採集などの調査を行い、詳
細な鑑定署を作成し、法廷に提出している。私の手元にも鑑定者のコピー
がある。鑑定を要約すると、「ガス室」とされてきた建物の構造は青酸ガ
スに不向き、チクロンBによる大量虐殺は不可能だとして、完全に否定的
である。
死体の焼却炉があったことも、欧米では虐殺の証拠とされている。日本で
は火葬が義務づけられているが、欧米では土葬が普通である。ところがこ
れも発疹チフスの流行を防止するための措置だと考えることができる。
(中略)
しかも、すでに一九六〇年までには、西側占領地域にあった収容所には
「ガス室はなかった」というのが、定説になってしまった。残ったのは旧
ソ連占領地域の収容所であり、その中心がアウシュヴィッツの収
容所だっ
た。ホロコースト否定論者はこういう。
「ソ連のいうことをすべて否定してきた西側諸国の支配者が、なぜアウ
シュヴィッツに関してのソ連の報告をそのまま認めるのか」
すくなくとも再調査は必要だろう。
▼シオニストとナチの共生関係
最後に提出する問題こそが、「発言の禁止」という異例の立法案への最大
の疑問となる。
ヒトラーの腹心、ヒムラーが使った「アウスロッテン」という単語が、一
番はっきりと「抹殺計画」を示すものとされているらしい。この単語は英
語で「皆殺し」を意味する「エクスターミネーション」と訳されている。
ところが、同じゲルマン系言語同士の語源からいうと「アウスロッテン」
は「アップルート」と訳すべきであり、こちらには、「(人を)住みなれ
た土地・環境などから追い立てる」という意味があるのだ。
ヒトラーは確かに「ユダヤ人の最終的解決策」という表現をしている。し
かしそれは、文書という物的証拠によるかぎり「民族的抹殺計画」ではな
くて、「東方移送計画」だったのである。
しかも、この「東方移送計画」に関しては、イスラエル建国を意図するシ
オニスト指導部とナチ党幹部との間に、奇妙な共生関係があった。日本語
の資料としては、『ユダヤ人とは何か/ユダヤ人1』(三友社)がある。
ナチ党が政権を獲得した直後の一九三二年、世界シオニスト機構の議長代
理だったヨアヒム・プリンツはこう書いていた。
「強力な勢力(ナチズム)がわれわれの支援に訪れてくれ、われわれを改
善してくれた。同化論は敗れた」
当時のユダヤ人社会の中には、西欧文化に「同化」しようとする人々と、
「異化」してイスラエル建国を目指すシオニストとの対立があった。狂信
的なシオニストにとっては、ユダヤ人の排斥を政策とするナチズムは「敵
の敵」の論理で味方だった。ナチ党の側でも、理論的指導者のアルフレッ
ド・ローゼンハーグが一九三七年に「シオニズムを積極的に支援すべきで
ある」とし、「相当数のドイツのユダヤ人を毎年パレスチナに向けて送り
出すべきだ」(以上、同書)と論じていた。
シオニストとナチ党は、ウルトラ民族主義と、暴力的手段の行使の二つの
主要な柱で一致し、奇妙な共生関係を保っていたのだ。
もしも、「ホロコーストはなかった」という趣旨の「発言そのものの禁
止」という立法案の真の目的が、このようなシオニズムの歴史的事実の隠
蔽にあるとしたら、それはそれでまた、もうひとつの怖い話ではないか。
〈了〉
『噂の真相』1994年8月号76〜82ページ