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(回答先: 天皇陛下の「韓国とゆかり」発言、韓国各紙が一面掲載〔朝日新聞〕 投稿者 FP親衛隊国家保安本部 日時 2001 年 12 月 23 日 22:18:58)
私が歴史家としてはまったく評価しない司馬遼太郎は西東京
のある地域を訪ね、「百済の騎兵と現地人の混血がもっとも典
型的な現代日本人であることは古代東アジアの国際性を考えさ
せる」と語った。私も以前から日本人のかなりの割合が夫余(
百済を建国した集団)の人々と現地の諸民族・諸部族の混血で
あるというイメージがしていたのでこの点に関しては彼と意見
が一致する。
古事記や万葉集など古代の日本語は今に残されており、ある
学者によれば驚くほど現代日本語と連続性がありそのまま現代
人にも意味がわかるような詩もあるという。普通に推理すれば
古代朝鮮の支配者達は日本語に近い言葉を話していたことにな
るがなにしろ古代朝鮮は記録が少ないようだ。
>確か記憶によると、日本に元来居た馬というのはとても人が
>乗れる骨格を成していなかったハズで実戦に使われ出したの
>はつい最近の戦国時代ちょい前だったかと思いましたが。
日本古来からの木曽馬はモンゴル馬です。だから大陸から人
と一緒に来たのです。博物館で馬具の遺物を見たり平家物語な
どを読んでも分かるように日本では古墳時代以降は馬は戦争で
使われております。
>ところで、古代朝鮮史を調べていて、よく気に掛かるのです
>が、「満民族」と「朝鮮民族」が、殆ど区別されていません
>。どうなっているのでしょうか。
あの当時は今の「日本」・「朝鮮」という社会は国家として
も文明単位としても存在していなかったのです。民族としての
「日本人」・「朝鮮人」もいなかったのです。当時の東アジア
では色々な民族や部族が連携・戦争、支配・従属、移動・征服
を繰り返し、様々な国家が興っては滅亡していきました。日本
も例外ではなかったのです。
4世紀より前の日本の状況については私はあまり詳しいこと
は知りません。ただ今まで南方系と思われてきた縄文人のほと
んどがブリヤート人に近い北方系モンゴロイドであったことが
遺伝子調査でわかったようです。マンモスを追ってきたらしい
そうです。
しかし秋田県の一部の地域では白人の遺伝子が検出されるこ
とやアイヌ人の容貌などから私は縄文人のリーダーは白人系で
はなかったかと疑っています。偶然かもしれませんが東北の環
状列石群も古代ヨーロッパのストーンサークルに似ていると思
います。
>我が国の様な争わずに生活できて、外敵がせめて来にくい様
>な地理を持つ地域に、何故大陸の混乱した社会と結びつけて
>考えるのかがよく分かりません。
日本列島が大陸の過酷な歴史に比べればはるかに安全で平和
な空間であったとは言えると思います。中国やヨーロッパの戦
乱は非戦闘員に対する大虐殺・略奪が常識であり一国の人口が
3分の1になってしまうようなことがあります。
しかし古代における民族や部族の大移動や征服にはたとえ穏
やかな形であれ戦争がつきものであることは必然であり、古事
記や日本書紀に天皇家の穏やかな日本征服物語の一面があるこ
とは否定できません。そこでは天皇家に従わない民族や部族と
の戦いがごく普通に語られています。
平安時代に入ってからも大規模な東国に対するエミシ征伐が
行われていますし、戦国時代は日本中で大小の戦争が絶えませ
んでした。
>縄文人が農業してたらどうするの?>書記長さん
縄文人は農業をしていたようです。野菜栽培をしていたし、
弥生人とは違うやりかたで稲作もしていたようです。でもその
ことは私の意見に影響はありません。私は朝鮮から鉄器や馬具
を持って日本に侵入してきた人々(いわゆる大和民族)と大陸
からの稲作を伝播を結びつける発想が基本的に誤りであると言
いたかったのです。
>「当時」にもよるが、白村江の戦を唐側から検証してみるコ
>トを薦めるよ。
私も古代の日本を国際的視点を重視して考えることに賛成で
す。まるで古代の日本が当時の東アジアの動乱とは間接的な関
わりしかなかったような発想は基本的に間違っています。とい
うよりもそれは日本列島における民族や文化の形成に直接的に
関わっています。
>この間も其の事についてお話致しましたが、不肖には何故貴
>方が上代に遡っても日本列島の民族情勢は大陸の動乱と直接
>関わっていたと断言されるのか良く解りません。大陸からこ
>の列島へ来るのは、容易なことではありませんから。
まず、歴史学的常識からそう言えるのです。墓や副葬品、屋
根瓦などの考古学的遺物や記紀などの神話、中国の当時の東ア
ジアについての記録などを総合して考えます。するとどうして
も、4世紀ごろに朝鮮半島からそれ以前に日本列島に住んでい
たと人々とは異質の文明を持った集団が侵入して来たと考える
他はないのです。
前方後円墳は韓国にも出てきますし、古代北方アジアでよく
作られた積石塚は内部の装飾まで同じもの(たとえばライオン
の側面図・正面図)が日本でも大量に作られています。古墳時
代のアクセサリーは明らかに夫余・高句麗系統のものです。
天孫降臨神話は典型的な北方アジアからの侵入を表すもので
す。記紀に少し目を通せばわかります。太陽神から「葦の生い
茂る水穂の国は永遠に君の一族が治める国である」との命を受
けクシフル岳という朝鮮的な名前の場所に初代天皇は降臨します。これは外部から日本を見ないと出てこない表現です。実際
に「スサノオの尊は日本に降臨する前に新羅によった」という
話も(記紀に?)あります。
そもそも記紀には日本列島での天皇軍団の異民族との戦い・
駆け引きの話はいくらでも出てきます。尻尾の生えた人とか、
手足の長い人とか、穴居人とかそういう人たちも出てきます。
鏡を見せると驚いたりします。
昔の中国の魏史辰韓伝、弁韓・馬韓伝、夫余・高句麗伝など
にも注意すべきです。私も詳しく読んだわけではありませんが
、当時の朝鮮がかなり諸民族の移動の激しい地域であったこと
はわかります。中国の戦争や賦役を嫌っていろいろな地域から
いろいろな民族がやってきたのをもともと朝鮮に住んでいた人
たちが気持ち悪がって、広大な領土を彼らに割譲したという話
もあります。
古代における天皇家と百済王室の関係は(大和朝廷と百済の
関係は)兄弟のようなものです。蘇我氏が百済系であることか
らもわかるように血縁関係もあたりまえですが、百済は夫余系
の国家です。両王室の起源は辰韓の辰王家である可能性が高い
のですが、その辰王にしても「辰王は流移の人、地元の人では
ない」と中国側は記録しています。
また、これは左翼あたりのデッチアゲかもしれませんが、渤
海が日本との国交を求める書簡の中で「我々は夫余・高句麗の
伝統を引き継ぐ兄弟である」という記述があるという話も聞い
たことがあります。
>ユーラシア大陸のどこからか渡ってきた可能性はありますが
>、むしろ、彼らが半島定住の原住民に文化的な影響を与え、
>最終的に日本にも似たような文化をもたらしたと考えたほう
>が自然のような気がします。
私もそれに近い感覚を持っています。私の書き込みの内容も
それに近いと思いますが…。私はオーストラリアに行ったとき
たくさんの朝鮮人を見ましたが、全体としては日本人とずいぶ
ん見ためがちがうなと思いました。しかし境界線はあいまいな
ようですし、戦前から日本にたくさん入ってきて何十年も何世
代も日本に住んでいるようです。
私と同じような角度から日本古代史を語る人の中には、日本
は明治維新まで階層間・地域間の交流はそれほど強くなくて、
今でも渡来系の士族とかの人たちと民衆は別の種族として存在
していると言う人がいますが、私はそれにも疑問をもちます。
それはたぶんそれを言っている人の個人的な体験であって、日
本全体ではかなり混血が進んでいると思います。
江上波夫氏は古代に弥生人と古墳人の急速な「同化」があっ
たことが、当時の西日本での頭蓋骨形態の急速な変形から確認
できるというようなことを言っていたと思います。平安時代に
中央から貴族が日本各地に国司とかとして派遣されたころ、彼
らが地元の有力な一族と婚姻関係を結ぶことがあり、そのとき
にも広く渡来系と現地人が混血したという話も聞いたことがあ
ります。これはいわば、上からの融合とでも言えばいいのでし
ょうか。
しかし、明治維新直後の日本の武士の中には朝鮮と日本を同
祖だとする感覚の持ち主も多く、それが朝鮮併合の下地になり
、併合時に朝鮮の王侯貴族がすぐに日本の王侯貴族となれた理
由でもあると渡部昇一は言っています。伊藤博文がそうした意
見の持ち主の代表例だそうです。
私個人としては今の朝鮮人と日本人はやはり民族としては全
体としてはだいぶ違うと思います。しかし今の朝鮮のことは何
も知らないし経験もあまりないので日朝の比較については多く
を語れないし断言もしづらいのです。
なぜ現在の日本ではイスラエル人(ユダヤ人)をたまに街で
見かけることがあるのでしょうか。歴史はこのことにきちんと
答えられなければなりません。私は彼らはサムエル記とかに出
てくる人々と見た目や雰囲気、精神において明らかな連続性が
あると思います。
そういう立場から判断すれば、ほとんどの日本人はやはりイ
スラエル人とは言えないのかも知れません。また朝鮮からきた
らしき人々の中には、かなり純粋なイスラエル人がいるようで
もあります。また同じ基準で判断すれば、いまの中東の「イス
ラエル」人のうちどれだけのひとがイスラエル人と呼べるので
しょうか。
私は最近よく言われるユダヤ人ツングース系モンゴロイド説
にもすぐには賛成しづらい気もします。確かに目つきがそうい
う気がある人が多いようですが、皮膚の感じとか精神性とか顔
つきにおいてチベット人やモンゴル人とそんなに近いのでしょ
うか?雰囲気なども含めて、比較で言ったらどこかある種の白
人に近いところも多いように思います。同じ理由でもともとユ
ダヤ人はアラブ人とそんなに違わなかったという説にも違和感
を覚えます。
昔の中近東での民族の構成・移動はそうとうバラエティと流
動性に富んでいたのでしょう。ちなみにエゼキエル書では「父
はアモリ人、母はヘテ人」となっているようですから、父はア
ムール人で母がヒッタイト人という意味だと思います。よく読
んでいませんが、それはイスラエル12部族中のユダ族だけに
関する私的意見だと思います。
古代イスラエルの遺物・遺跡というのはどうも少ないようで
ありますが、ハツォールの遺物などを見るとずいぶん古墳時代
の日本の遺物に造形や雰囲気が似ています。人の顔つきなども
似ているものがあります。また、記紀と旧約聖書の前半を読み
比べてみると、やはり雰囲気や内容に類似性があると思います
。全く同じ形式の話やきれいに逆転させた話などがたくさんあ
ります。もっともギリシャ神話との関係でも同じことが言える
らしいのですが・・・。
>私は新羅だと考えています。大月氏辺りを考察してみて下さ
>い。日本との接点は弓月君に焦点を当ててみれば興味深いモ
>ノが出てくると思います。しかし、現在の日本人の大半は新
>羅系であるとも同時に考えてもいるのですよ、私は。
秦氏は新羅から来たらしいですし、源氏の武田氏の祖先は新
羅三郎(しんらさぶろう)なにがしと言う名前だったらしいで
すね。しかし古代の関東地方の豪族は高句麗系が多く、名前が
日本的なものになったのがだいぶ遅れて平安時代に天皇に申請
した時だったケースも多いそうです。詳しいことは知りません
が、『新選姓氏録』に彼らの系譜などが載っているはずです。
だから私は源氏系をはじめとする関東武士のルーツは基本的
に高句麗だったと思います。源氏の神様は八幡大明神ですね。
源氏の伝説の英雄は八幡太郎義家で、征夷大将軍はできれば彼
の子孫が好ましいという思想があったようです。八幡神は記紀
にはほとんど出てこないが皇室にも絶大な影響力をもつ明らか
に外来の神様です。秦氏の神様でもありますね。武田信玄は血
統に関してをやたら諏訪にこだわっていたようです。