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1950年代末在日米軍が核攻撃計画
台湾海峡で米国と中国が一触即発の状態に陥るなど、東アジア
が世界戦争の瀬戸際に立たされていた一九五九(昭和三十四)
年、東京都府中市に司令部を置く第五空軍は、極東ソ連、中国、
北朝鮮の三十二カ所以上の軍事施設を目標とした独自の核先制攻
撃を計画していたことが、東奥日報社が入手した米軍機密文書か
ら分かった。「クイック・ストライク(即時攻撃)」と呼ばれる
計画で、三沢など日本国内の基地に展開する戦闘機、爆撃機が核
弾頭の出し入れが自由な韓国に移動してアラート態勢を取り、出
撃することになっていた。日本最北の拠点として重要視されてい
た三沢の第二一戦術戦闘航空団には目標が二カ所与えられ、その
数は最大十七カ所まで増える予定だった。
当時、米空軍がEWP(緊急戦争計画)と呼ばれる世界規模の
核戦争計画を用意していたことは、すでに明らかになっている
が、第二の核戦争計画ともいうべき「クイック・ストライク」の
存在が確認されたのは初めて。また、核攻撃に伴う具体的な出撃
基地名と基地別の目標数が特定されたのも世界的に初めて。
米国の情報公開制度によって、米空軍戦史調査局(アラバマ
州)から入手した沖縄・嘉手納基地の第一八戦術戦闘航空団のコ
マンド・ヒストリー(部隊史)に記載されていた。
それによると、クイック・ストライク計画は太平洋空軍司令部
(ハワイ)の指示によるもので、五九年四月に攻撃態勢を完了し
た。第五空軍は北東アジアを作戦範囲とし、ソ連、中国、北朝鮮
と直接対峙(たいじ)する前線部隊と位置付けられていた。
攻撃目標数は指揮下にある部隊ごとに割り当てられ、三沢基地の第二一戦術戦闘航空団が二、埼玉県入間基地の第三爆撃
航空団八、嘉手納基地の第一八戦術戦闘航空団十四、韓国・烏山(オサン)基地の第八戦術戦闘航空団八−の計三十二カ
所。
三沢と入間の攻撃機はソウル南方にある群山(クンサン)基地に進出し、そこから出撃することになっていた。米軍は日
本国内に核弾頭を置いていなかったためで、保管・貯蔵が可能な嘉手納(当時は米軍政下)、烏山基地の部隊は、それぞれ
の基地から出撃する予定だった。
その後、攻撃目標数は六〇年十月まで五回にわたり、計八十三カ所(うち三沢の第二一戦術戦闘航空団は十七カ所)まで
増やす予定だったが、実際に目標割り当てが文書で確認されたのは五九年七月の三沢五、入間八、嘉手納十六、烏山十一−
の計四十カ所。
六〇年代前半に、SIOP(単一統合作戦計画)と呼ばれる米空・海・陸三軍合同の新しい核戦争計画が策定されたた
め、クイック・ストライク計画は途中の段階でSIOPに統合、吸収されたとみられる。
使用する機体は当時の最新鋭で、三沢、嘉手納、烏山の部隊はF100戦闘爆撃機スーパーセーバー、入間はB57軽爆撃
機キャンベラ。核爆弾は戦術用のMK7(爆発力は広島型原爆の十四倍に当たる七十キロトン)とMK28(同七十倍の一メ
ガトン)を想定、一機が一発ずつ搭載する予定だった。
また、当時の第五空軍が嘉手納に二百四十個の核弾頭を貯蔵していたことも文書から分かった。計画に伴い、群山、烏
山、嘉手納の各出撃基地では、常時二機が実際に核爆弾を搭載し、十五分以内にいつでも飛び立てる二十四時間警戒態勢を
取っていたという。
◇
核の臨戦態勢知る貴重な資料
核問題研究の第一人者、新原昭治氏(東京都東村山市)の話 ここまで具体的に在日米軍の核攻撃計画をつかんだのは初
めて。非常に貴重な資料だ。日本人の認識は低いが、(クイック・ストライク計画が策定される前後の)一九五八−五九年
はアジアが最も核戦争に近かった時期で、資料を見ると、米軍が真剣に核を使うことを考えていたことがよく分かる。現在
の感覚では信じられないほどの核の臨戦態勢だ。出撃基地を日本国内に置かなかったのは、無理を押し通した場合の日本国
民の反動を気にしたためだろう。
◇
台湾危機
一九五八年七月、台湾海峡で台湾(国民党)の戦闘機二機が中国側に撃墜されたことから緊張が高まり、八月には中国軍
が大陸から八キロ沖にある金門島の国民党軍を砲撃。米軍の介入によって全面戦争への拡大が懸念された。第五空軍は核弾
頭が保管されていた嘉手納基地に対して、特別輸送機への核弾頭の搭載と三沢を含む指揮下全部隊に警戒態勢を指示、核ミ
サイル巡洋艦が台湾に急行した。事態は十月に沈静化したが、台湾海峡での米中の緊張はその後も続いた。
◇
【解説】
「次の戦いは核戦争でしかあり得ない」と、世界中のだれもが思っていた東西冷戦時代。米国は国家の生存を懸け、あら
ゆる事態を想定した核戦争計画の立案に迫られていた。その一つが今回、米空軍機密文書から明らかになった「クイック・
ストライク」計画だ。
当時、米空軍はすでにEWP(緊急戦争計画)と呼ばれる全面核戦争計画を用意していた。核による全世界規模の大量報
復戦略で、この中で三沢と入間(埼玉県)基地は出撃拠点の一つに位置付けられ、有事には沖縄の嘉手納基地から両基地へ
輸送機で運び込まれる核弾頭を搭載し、ソ連沿海州や中国東北部、北朝鮮などへ核攻撃を加えることになっていた。
しかし、EWPは米空軍全体での運用を想定した「大計画」のため小回りが利かず、使いづらい面があった。これに対し
て、実用性に富み、しかも先制攻撃を可能にしたのが、在日米空軍(第五空軍)レベルでのクイック・ストライクだった。
クイック・ストライク計画のコンセプトは、ソ連・中国などの共産圏諸国が侵攻の兆候を見せた場合、すかさず保有核兵
力の三分の一で先制攻撃を加え出はなをくじく−というもの。このため、出撃基地は核弾頭を備蓄・保管し、いつでも使え
る状態にある韓国と沖縄の基地に限定。核弾頭を輸送機で運ぶ必要があり、出撃まで時間のかかる三沢や入間など日本国内
の基地は除外した。
核出撃基地を日本国内に置かなかった背景には、日米安保条約の改定をめぐり、騒然としていた当時の日本の世論をこと
さら刺激したくない−との米国側の思惑もあったとみられる。
これまで、EWPについては研究者や本紙報道などで知られていたが、複数の核戦争計画の存在が明らかにされたのは初
めて。クイック・ストライク態勢はその後、数年間にわたって維持されたが、一九六〇年代前半に米三軍(空・海・陸)が
「合理的な全面核戦争の遂行」を目的に実用化したSIOP(単一統合作戦計画)へと吸収される。
朝鮮戦争(五〇−五三年)、台湾危機(五八年)と第三次世界大戦の火種が常にくすぶり続けた東アジアの政治的不安定
さを象徴するものが、まさにクイック・ストライク計画といえる。(社会部・斉藤光政)
http://www.toonippo.co.jp/news_too/nto2002/0127/nto0127_7.html