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この間、怒りの勢いに乗って“悪魔崇拝”という言葉を多用してきました。
もちろん、こんな漫画チック(日本的精神土壌では特に)だったり、宗教的に深い意味性を包含する言葉をあまり使いたくはないのだが、現在の世界を眺めていると、つい“悪魔崇拝”という言葉が脳裏に浮かんでしまうのです。
あいつは陰謀論者だとかオカルトだとかといった誤解(別にそう思われても構わないのだが)を招かないように、自分が考えている“悪魔崇拝”と言うものがどのようなものかを書き込みします。
[私が考える“悪魔崇拝”]
あくまでも私が考えているものです。
■ ひとの不幸を喜んでしまう
もちろん、幸不幸というのは観念のものですから、「喜んでしまう」主体の基準に基づくものです。その対象となった主体(不幸だと思われている人)は、そのような状況を別段不幸とは思わず、ある場合には幸福だと思っている場合もあります。
人の不幸を見て、自分は幸福だと感じる人にも当てはまります。
これが進むと、ひとに対して意図的に不幸をもたらしたくなります。
なぜなら、ひとの不幸で喜べるのですから、より大きく喜べる状態は大歓迎という理屈ですね。
ここまでくれば、“悪魔崇拝”の顕在化ということができます。
※ 自由主義経済なんだから競争の結果困窮する人がでるのもやむを得ない、自分は人を追い落としてでもいい生活を手に入れるぞと考える人も、「ひとの不幸を喜んでしまう」人に近いものがあります。
■ 自分の力は相当なものだと思う
これはお金や権力(政治的なものに限りません)を持つに至る人に多く見られるものだと思っています。
自分の考えていることが現実化できる、自分の指図でひとが動く、自分は嫌なことを避けることができる、ひとには嫌なことを押しつけられる、ひとが自分に擦り寄ってくるなどに、喜びを感じるような人です。
これが、「ひとの不幸を喜んでしまう」という価値観と結びつくと、現実世界にとんでもない災厄をもたらすことになります。
■ 自分の知性は相当なものだと思う
近代世界では、インテリであること、知性的であることがもてはやされる傾向があります。学校教育でも、それが評価の大きな基準になっています。ですから、多くの人が知性に高い価値を感じ、知性にあこがれることも理解できます。
子供の頃からみんなに“頭がいい”と言われ続けて成長していけば、自分の知性は優れたものなんだと思いこんだとしても不思議ではありません。
それが高じると、現実世界は、自分の知性で“制御”できると妄想してもやむを得ないと言えるかも知れません。
頭がいい自分が政策を決定しているんだから間違いはない、頭がいい自分が判断した政策でおかしなことが起きたとしても他の誰(アホ)だってそれを避けることは出来ないんだから自分に責任はない、頭がいい自分が様々な角度から検討を加えて問題なしと判断したんだから遺伝子操作を行ったりクローン動物を“製造”してもいいはずだ、人間は自然を制御できてこそ知性的な存在と言えるなどと考えることは“自然”なのかもしれません。
「頭がいい自分が判断した政策でおかしなことが起きたとしても他の誰(アホ)だってそれを避けることは出来ないんだから自分に責任はない」という考えと「頭がいい自分が様々な角度から検討を加えて問題なしと判断したんだから遺伝子操作を行ったりクローン動物を“製造”してもいい」という考えは、まるで矛盾するはなはだ危険な思考なんですがね。
これが行き着くと、「神は死んだ」という精神状況に陥るわけです。
もちろん、無神論であれば、元々神はいないんですから、「神は死んだ」という発想は出てこないでしょう。
こうなると、“全能な神”に挑戦したくなる人が出現したとしても不思議ではありません。そして、それを実行に移す人も...。
「ひとの不幸を喜んでしまう」・「自分の力は相当なものだと思う人が現実に権力を持っている」・「自分の知性は相当なものだと思う人が人が現実に権力を持っている」が結合したとき、まさに巨大な“実効性”を伴った“悪魔崇拝者”の策動が現実化することになります。
現実の世界は、まさにそのような状況にあると思っています。
しかし、現実がそのようなものだとはとうてい思えないという思いもあるでしょう。
テレビではばかばかしいほど明るい笑い声が溢れているし、楽しいディナーにだって行けるし、海外旅行だってルンルン気分で出掛けられるしね。
「テレビのアホらしい番組を見ると反吐が出る」・「一日の食事をなんとかすることで精いっぱいだ」・「家族には申し訳ないけど家出して浮浪者にでもなったほうが精神的に落ち着く」・「ひょっとしたら来月で仕事を失うかも知れない、どうしよう」という思いを抱きながら生きている人が、あの“バブル崩壊”以降着実に増えているのです。
現在進行している「悪魔崇拝」的妄動が進めば、そのように思わざるを得なくなる人が急増大することになります。
それを喜ばしいことだと思うのか、やむを得ないことだと思うのか、とんでもない惨状だと思うかで、「悪魔崇拝の度合いがわかるかもしれませんね。
力だ悪だとか、知性が悪だとかを主張しているわけではありません。
人は、知性を働かせながら力を発揮して生きていくしかありません。
しかし、人がどんなに頑張ったとしても、それによって発揮できる知性と力は、あまりにも限られたものでしかありません。
ですから、遺伝子操作などに対し、「人が神の領域に踏み込んだ」などという発想はしていません。
遺伝子操作にしろ、クローン技術にしろ、自然である人間が、自然である物を対象に「自然の摂理=法則=働き」に基づき行っていることでしかありません。
ただ言えることは、その結果、神ではない自然的存在である人間に対し、どんな災厄をもたらすかを理解できていないか、理解していてもお金になるのならやるというかたちで行われているということです。神なら自分?に害が及ぶことはないでしょうけどね。
とんでもなく酷い現状の世界は、多くの人が「人間の知性や力なんて、限定的なものでひ弱なものなんだ」と自覚することによってしか脱却できないと考えています。
最後に、人間の知性や力なんて所詮限定的でひ弱なものですから、“悪魔崇拝者”たちの妄動は、必ずや“悪魔崇拝者”たちの首を自ら絞めることになると考えています。
その根拠を書き始めるときりがないので一つだけ書いておきます。
それは、「悪魔崇拝者」がお金にメチャクチャ執着する“守銭奴”だからです。かれらは、自分たちの“ボロ儲け“のために“経済を破壊する”という妄動を行っていますが、それは一時的には成功するとしても、そう遠くないうちに破綻を迎えることになります。
これは、私の貧弱な知性でも確信を持って言えます。
しかし、それが破綻したからと言っても、それで貧民(ほとんどの人がこの階層になります)が救われるわけではありません。
そこから脱却するためには、多くの人が「人間の知性や力はそれほどのものではない」と自覚し、とんでもない奴らが権力と経済を支配している状況に反旗を翻す必要があります。
それがいつ訪れるかによって、人々が災厄のなかで生きていかなければならない時間の長さが決まることになります。
人は往々にして“悪魔崇拝”にとりつかれるものだからこそ、宗教や法律が必要であり、それらを実効あるものにするために権力が必要だとも思います。
しかし、今は、“悪魔崇拝者”が権力を握り、それを精神的に抑止するための宗教や法律には唾を吐きかけ続けるという事態に陥っています。
一日でも早く世界が“正気”に戻ることを願っています。