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医療発祥の国ドイツで発明されたホメオパシーは英国王室御用達にもなっており、ヨーロッパ各国の王室の主治医も殆どがホメオパシーの医師が担当しています。
ヨーロッパ各国では約 40% の人々がこのホメオパシーを利用しています。
日本ではあまり知られていないだけであって他の先進国では有名です。
あのドイツでは健康保険の適用にもなっておりヨーロッパでは高い支持を得ています。
UKの女王はホメオパシー医学を使っていながら、御用学者にはホメオパシー医学をインチキだと攻撃させているようです。民衆は虫ケラだとしか思ってないんでしょうね。一掃したいんでしょうね。
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自然療法と、対症療法の戦いの歴史
そもそも中央銀行(FRB)には紙幣を印刷する権限が政府から与えられているため、ロックフェラー家はこのペーパーマネーを使って一九一四年までに米国全土の医者たちを完全に掌握した。
彼らは米国の医療をナチュラロパシー(自然療法)やホメオパシー(同種療法)から無理矢理にアロパシー(対症療法)へと変更した。アロパシーとはロスチャイルド家が発達させたドイツの医療制度である。
アロパシーは、ナチュラロパシーとホメオパシーに対し敵対関係にある。なぜなら、アロパシーはからだにとって自然な治療法のすべてを禁じ、その代わりに化学薬品や危険な外科手術、長期間の人院などを強制するからである。
こうして一世紀にも満たないあいだに、ロックフェラー医療独占体制の下で、米国民は、健康でエネルギッシュかつ生定性の高い国民から、慢性病に犯され、覇気に欠け、弱々しくいつも健康を気にかけ、いわゆる「特効薬」という名の化学薬品を毎日大量に飲む国民へと変わってしまった。
医師が指摘するように、これらの薬剤が「特効薬」WANDER DRUGと呼ばれたのは、愚者がそれを飲むと、自分の体にいったい何が起こるのかとはらはらWONDER「させられたからである。何が起こるのか、誰にもわからなかった。これらの化学薬品には多くの副作用があり、肝臓や心臓、腎臓その他の臓器を痛める可能性があったからである。
現在でも、これらの薬のために毎年何千人もの人々が犠牲になって殺されているが、医療独占体制のおかげで、われわれはあくまで薬を飲み続けなければならなくなっている、なぜなら「利益がリスクを上回っている」からである。
これらの危険な医薬品は「政府公認」である。つまり、米国では食品医薬品局FDAが医薬品の認可を任されており、製薬会社の新製品を「安全である」と承認するからである。
実は、新薬はたいてい刑務所の囚人を使って実験される。囚人たちに新薬の効き目がどうだったか聞くまでもない。もし、囚人が新薬の実験台になっても生き残っていれば、政府がこの医薬品は「臨床実験で安全性が認められ、認可された」と発表して、どこからも抗議の声は挙がらないからである。
アロパシー医学 VS ホメオパシー医学
設立当初から米国医師会は、アロパシー医学{逆症(対症)療法、病気の症状を押さえることを主眼においた医学で、日本を含め現代医学の中心的な治療法}を治療の基本とした。
アロパシーは公認の医科大学で訓練を受けた医師が行う治療で、外科手術と投薬に極端に依存するちりょうほうであった。アロパシー医学の指導者たちは、ドイツで教育を受けた。彼らは、何かといえば血を流し、多量の薬を投与することにもっぱら精力を費やした。そしで、医学会が指定する治療法、あるいは標準的で正統な治療法に従わない医学は、どのような医学に対しても、敵意をあらわにした。
一九世紀の医学校では、「ホメオパシー」 [同種(同毒)療法、健廣な人に疾患を起こさせる薬物をごく少量投与する治療法]医学の方が広く普及していたが、アロバシー学派はホメオパシーに対して強力な敵対活動を開始した。
ホメオパシー医学はサミユエル・クリスチャン・F・ハーネマン (一七五五〜一八四三)という医師が提唱したもので、彼の同種療法に基礎を置いている。ホメオパシーの方が、むしろ今のわれわれの時代にとってはより重要であるといえよう。なぜならホメオパシーは、病気を引き起こした
のと同種の毒性のない物質を処方することで、体の免疫機能を活性化させて治療する方法だからである。
今日でも英国のエリザベス女王をバッキンガム宮殿で治療しているのは、ホメオパシー医学の医師である。しかし米国では医学団体がホメオパシー医学の信用を傷つけ、撲滅する運動を猛烈に展開しつづけている。
皮肉なことに、一八九九年から一九二四年まで米国医師会を支配し、全国規模の権力に仕立て上げたジョージ・H・シモンズ博士は、自分でネプラスカ州リンカーンで開業していたころには、みずから「ホメオパシー医師」であると何年間も宣伝していた。
ホメオパシーの治療は種々の臨床試験の結果、関節炎の治療で一般によく処方されている薬と同様の効果があり、しかも有害な副作用を引さ起こさないという点でそれよりもはるかに勝っていることが明らかになっている。しかしホメオパシー治療の業績は、歴史からは黙殺され続けてきた。
また、たとえそれについて述べられることがあっても、事実を歪曲されて語られたのである。
ホメオバシーの有効性を示す典型的な事件は、英国で一八五四年にコレラが大流行したときに起こつた。記録によると、この大流行の期間中、ホメオパシーの病院では死亡率がわずか一六・四%だつたのに村し、正統派医学の病院では五〇%であった。しかしこの記録はロンドン市の衛生局によって故意に隠蔽された。
一九世紀のあいだに、ホメオパシー医学は米国とヨーロッパで急速に広まった。 ハーネマン博士の著わした教科書「ホメオパティカ・マテリア・メデイカ」を読んで多くの開業医が彼の治療方法を取り入れるようになったのである。
一八四七年米国医師会が設立された当時、ホメオパシーの医者の人数は米国医師会の構成メンバーであるアロバシーの医者の二倍以上いた。しかしホメオパシーの医者たちは各自が独立しており、実際、個人開業医が多かったため、アロバシー医学からの一斉攻撃に対して十分な準備ができなかった。
米国医師会は初めからアロバシー学派という単なる同業者の集まった圧力同体であり、競合相手のホメオパシー派の医師たちを妨害し、廃業に追い込むという目的のために組織されたことは明らかであった。
米国医師会は」一九〇〇年の初めにはこの目的を達成し、おかげで米国の医療は暗黒時代に突入した。そして今ようやく、この何十年間もの暗黒から抜けだすきざしが見えてきている。病気の患部を集中的に治療する方法にかわって、「ホリスティック医学」という、病気を身体の組織全体でとらえる新しい動きが起こってきたからである。
米国医師会のアロバシー医学の特徴は、自分たちの治療方法のみが唯一効果のある治療法であるという神話をでっち上げ、絶えず大衆に宣伝して売り込む点にある。悪質な神話はみるみる成長して新たな怪物を作りあげた。
それは「医師は絶対に間違うことのない完全な人間であり、医師の判断を決して疑っては行けない」
という神話である。ましてや、医師の過失についてとやかくいうなど、もってのほかである。
「医療殺戮」より抜粋
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4、ホメオパシーとは
ホメオパシーは、サムエル・クリスチャン・ハーネマンの著作『医学概論』が出版された1810年に公式に成立したとされている。ハーネマンは1755年に生まれ、1843年に没したドイツ人医師である。ライプチヒやウィーンで医学を修め、1779年に医師になった。巡回医師として働いた彼は自分が学んだ治療法に疑問を抱くようになった。特に投薬の方法について疑問だらけで、自分の患者に薬を使わず、運動、正しい食事、新鮮な空気の必要性を説いた。
○当時の正統的医学について
1780年頃から1850年にかけての約70年間は、無謀で荒々しい治療が盛んだったために「英雄医学の時代」として知られている。英雄治療の得意技は瀉血であった。瀉血は様々な方法で行われたが、最も一般的で効果をあげたのは刺絡(ランセットで静脈を切る方法)であった。一度の施術で約500mlも出血させるのは普通のことで、ときにはもっと大量に、しかも繰り返し出血させることもあった。☆
1700年代後半の正統的医学は女人禁制の大学で教えられ、極端な男性優位主義、エリート主義が横行する世界だった。エディンバラ大学には当時有数の医学校があったが、そこの物理学教授、ウイリアム・カレンは英雄医学の理論的指導者のひとりだった。カレンは疾病一元論者だった。あらゆる症状は一つの原因、つまり、悪い血液から生じている。したがって、治療法はその血液を取り除けばいいという考え方である。 アメリカにおけるカレンの後継者は、独立宣言の署名者のひとりで英雄医学の花形、ベンジャミン・ラッシュだった。彼は口癖のようにこのように言っていたという「息があり手が動くかぎりはやるぞ。瀉血をやめるぐらいならランセットを握ったまま死んだほうがましだ」
瀉血は、からだから不純物や毒物を排出させることを狙いとした瀉下法(甘汞、塩化第一水銀)や催吐法(吐酒石、毒性のアンチモン塩)や發汗法や摩擦、やけどを利用して皮膚刺激を与え水疱をつくらせたり、吸角療法(熱した吸い玉コップを利用)と併用された。
◎ホメオパシーの三つの法則
○類似の法則
ウイリアム・カレンはキナの木の皮が苦くて収斂性があるから健胃剤として効果があるのだと考えた。 ハーネマンはそれを確かめるために、キナの木の皮よりも苦くて収斂性の強い薬を調合し、その薬がマラリアの間歇熱に対して無効であることを証明した。次に健康状態のいいときに自分でキナの木の皮を服用し、熱が出ることを確認した。 この経験は、後に行われた様々な物質による多くの実験に裏打ちされ、そこから『類似の法則』という、新しい理論の最初の部分が生まれることになった。要するに「類は類を治す」という考え方だ。
「健常者に特定の症状を起こす物質には、それと類似した症状を呈する病者を治す効果がある」。ハーネマンはこの『類似の法則』に基づいた治療法を、「その病気に似たもの」を意味するギリシャ語から造語して「ホメオパシー」と名付けた。症状の対立物を使って治療する似て非なる治療法を、ハーネマンは「アンティパシー」と呼んだ。熱にアスピリン、高血圧の治療に降圧剤を用いるなどはアンティパシー医学の好例である。ハーネマンは同時代の医師が一般に行っていた英雄医学に対しても別の造語で呼んだ。「その病気とは別のもの」を意味するギリシャ語から「アロパシー」と名付けた。英雄医学は症状に対する一貫した理論性を欠く薬を処方していると考えたからだ。
☆アロパシーの意味
ギリシャ語でハーネマンが定義した「その病気とは別のもの」を意味する もう一つはドイツ語を語源とするもので「全治療」を意味するこれはつまり疾病の治療において、効果が証明されたあらゆる方法を包括する治療法としてアロパシーを定義つけた。この修正主義的な定義はその名称では不利とみたアロパシー医が、より好感を与える意味付けをしようとして1800年代に案出したものである。
○無限小の法則
「類似の法則」に従って治療にあたりはじめたハーネマンは薬理効果に二相性があることに気づいた。一連の初期症状の後にその反対の症状があらわれる事が多いのだ。たとえば、アヘンは初期症状として多幸感や興奮を呈するが、やがて抑鬱状態を引き起こす。ハーネマンはその二相性を作用と反作用のひとつだと解釈した。初期症状は薬の直接的作用、遅延症状は均衡を回復しようとして身体側が起こす反作用だと考えたわけである。おそらくホメオパシー療法は、病気に抵抗する身体の反応を引き出すことによって効果をあげているのかもしれない。というのは類似薬を与えるとその直後に症状が悪化し、次に好転する事がしばしばあるからだ。(瞑眩?)ハーネマンはその初期効果を弱めることを考え、投与量を減らしてみた。ところが意外なことに効果は以前にもまして強くなった。その宗教的信念のゆえに、物質的な現実感よりも宗教的な現実感を重視していたハーネマンは、その考え方を治療にも応用し、薬のもつ物質的な実体よりもその超自然的な本質を重視するようになった。そのような考え方は、自ら行った実験結果と相俟って『無限小の法則』として知られているホメオパシーの第二法則を生み出すに至った。この法則は、正しく希釈されれば投与量は少なければ少ないほど、病気に抵抗する身体の生命力をそれだけ効果的に引き出すことになるとするものである。 *4この希釈剤で治療するにあたってハーネマンは一つの法則を定めた。単味の法則である。医師はホメオパシーの調剤を一度に一種類しか使ってはならない、患者がどうなるかを見届けてから次の行動を起こせ、決して同時に二つ以上を用いてはならない、と定めた法則だ。
○慢性病の法則
開業してから20年近くたって、彼は自分の治療法の理論的な枠組みに第三の法則をつけ加えた。それは『慢性病の法則』とよばれ、最初の二大法則が必ずしも常に有効ではないことの理由を説明するためのものだった。ホメオパシーの治療で急性症状がよくなっても、いずれ同じ症状が再発するか、あるいは別の愁訴となってあらわれるケースが多いことに気づいていた。
「慢性病の法則」とは、治療しても治らないのは、以前に受けたアロパシー医学の治療によって身体の奥に生じた何らかの障害が原因になっているからだとするものである。その障害(ハーネマンは「毒」と呼んだ)には乾癬、梅毒、淋病などが挙げられる。ハーネマンは皮膚のあらゆる掻痒・炎症症状を乾癬と称していた。それらの症状が体表に留まっている限り、不快であることを除けば別に問題はないが、アロパシー医学がそれを抑えつけて身体の奥に追いつめると、それが何年かたって糖尿病・がん・リウマチ・精神分裂病といった多様な病気となってあらわれる。したがって、ホメオパシーでその障害を治療するには、まず、背景となっている慢性病の治療を先にしなければならないということになる。
「慢性病の法則」
は、ハーネマンの後継者たちのあいだに大きな論争を呼び起こし、三大法則の中では最も問題の多いものだった。今日のホメオパシー医は「慢性病の法則」を認めて治療に応用しているが、淋病や梅毒のような特異的な感染症との因果関係は認めていない。
ハーネマンが新しい治療法を世間に発表した当時、ホメオパシーの成功率はおおむね失敗率をはるかに凌ぐものであった。アロパシー医学を捨てる医師がヨーロッパ中に増え始めた。1843年に88才でこの世を去ったとき、ハーネマンは押しも押されぬ名医で、一代で築き上げた異端医学は、西洋世界に確固たる地位を占めるかと思われるほどの勢いであった。
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次に簡単にホメオパシーの盛衰をまとめてみた
今からたった150年前のアメリカにこれほどのホメオパシーの全盛時代があり、またあっという間に消えてしまったことに驚きを感じてしまう。
○アメリカにおけるホメオパシーの盛衰の歴史
1828年 ホメオパシー医が初めてアメリカに渡る
1836年 ハーネマン医科大学がフィラデルフィアに創設
1840年 ハーネマンの著作が英語に翻訳
1842年 ホメオパシー治療非難の宣伝活動
1844年 アメリカ・ホメオパシー協会設立
1840年代末コレラがアメリカ中西部に流行。アロパシーよりホメオパシーの治療で助かった事も特質される
1846年 アメリカ医師会(AMA)設立(アロパシー医の政治圧力団体)
1850年 ホメオパシー医学校 クリーブランドに建設
順調にホメオパシー医学がアメリカにおいて発展した理由はその当時「ポピュラー・ヘルス運動」が大きな政治運動を形成しつつあり、それらの人たちの英雄医学に対する批判がホメオパシー医学と結びついたところによるもであるといえる。
一般の医学史では、「ポピュラー・ヘルス運動」をアメリカ医学の暗黒時代として描いているが、実は、健康ということに関して大きな実験が行われていた時代で、「誰もが自分の主治医だ」というスローガンに要約されているように、自己管理を求める民衆の声であった。
1855年 AMA 全州の医師会にホメオパシー医の除名要求
1860年代 ホメオパシー医との共同診察をしたアロパシー医を告訴
ホメオパシー医の施術を認めた病院をボイコット
南北戦争時の軍隊の衛生班にホメオパシー医の入隊妨害
1868年 女性医師の入会拒否
1870年 有色人種を会員にもつ医師会からの代表権拒否
マサチューセッツ医師会の入会拒否(ホメオパシー医を除名しなかったため)
1871年 ホメオパシー医が働いている保健局で診療にあたった医師の入会を拒否
1878年 ホメオパシー医の妻と診療にあたったコネチカットの医師が郡の医師会除名
団結したアロパシー医学界の功利的なふるまいは瞬く間に目的を達成し、ホメオパシー医たちは制度の締め付けによってその地位と重要性を失った。その原因として考えられる要因の一つは、ポピュラー・ヘルス運動を支えていた政治連合体が分解したこと、もう一つはアロパシー医たちが、そもそもの混乱のもとであった英雄的療法を捨て始めたことであった。
1860年代から瀉血と甘汞をやめ麻酔薬とアルコールを使うようになった。
1880年 ホメオパシー医学会が二つに分裂(ハーネマン派と多数派)
1890年代 多数派はアロパシー医学に転向 AMAに吸収
1900年 全米に15000人以上のホメオパシー医 医学校22校
1923年 医学校わずかに2校
1950年頃 殆どのホメオパシー医が姿を消す
1828年にアメリカに渡ったハーネマンのホメオパシーは僅か1世紀の間、英雄治療に警鐘ををならしただけでアメリカから姿を消してしまった。しかしホメオパシーは西ヨーロッパ諸国の大半でも科学的医学に駆逐されたが第三世界諸国に生き残った。インドは現代のホメオパシーの中心地で、医師の数も世界最大をほこり、ハーネマンの著作の大部分を英語版で出しているのはインドの出版社だけである。現在イギリス、フランス、ドイツ、ギリシャ、東ヨーロッパの数カ国スリランカ等でホメオパシーが行われている。
○何故ホメオパシーは効果があるのか?
ホメオパシー薬が治療家たちの信じているような効き方をするとすれば、そこにはどのような可能性が考えられるだろうか。類似の法則を認めるのは困難なことではない。他の治療理論に劣らないほどの根拠はあるし、限定つきだが、正統的医学でも使われている。たとえば、ワクチンは一種の同種療法だし、アレルギーの減感作療法もそうだ。現在、一般の医師が使っている特効薬で、もともとホメオパシー医によって持ち込まれたものもいくつかある。狭心症の疼痛緩和に対する標準的な治療薬としてのニトログリセリンは、アメリカン・ホメオパシーの父として知られるフィラデルフィアのコンスタンタイン・ヘイリング博士(1800〜1880年)によって伝えられた。アロパシー医学でニトログリセリンを使ったという記録がはじめてあらわれるのは1882年のことである。
アロパシー医学はまた、1935年からRAの治療に金属の金を使いはじめたが、ホメオパシーではそれよりはるか以前から関節痛に金を処方していた。
一般の医師たちの喉元に引っかかり、効果の有無とはかかわりなく、科学派の批評家たちにナンセンスだとしてホメオパシーを一蹴させてきたのは無限小の法則だ。ハーネマンと同時代を生きたイタリア人化学・物理学者、アボォガドロ伯爵(1776〜1856年)の計算によれば、一モル濃度の溶液にはその分子が6.0225*1023 になる。ホメオパシー医が希釈する薬は、モル濃度液そのものか、あるいは希釈を重ねていくと軽くアボォガドロの限界を超えてしまう。ホメオパシーに対する科学派の攻撃はここで嘲笑に変わる。がしかし、ホメオパシー派は反論する。第一に多くのホメオパシー薬はアボォガドロの限界内の濃度で使われている。第二に希釈度の高い物質に強い効力があるかも知れないという可能性を否定するだけの証拠を、正統的化学が出していない。
最近、植物・動物・人間の生理と行動に影響する特定の物質はきわめて低濃度でも強力に作用するという、有力な証拠がたくさん出てきた。甲状腺ホルモンは血漿の百億分の一(10−10)(10のマイナス10乗)という濃度で血中に存在し、LSD(リゼルギン酸ジエチルアミド)はわずか数百分の一gで意識に衝撃的に変化を起こすが、このときの体液中の分子濃度はきわめて低いものである。10ー9のペニシリン希釈液でも、ある種のバクテリアの成長を阻止することが出来る。もっとも驚くべきはフェロモンである。空気中にいかに僅かな分子があればよいかを考えると、フェロモンはこれまで知られている最も強力な生物学的活性成分だといえるかもしれない。 しかし「高希釈液」と「超希釈液」は別物で10−9希釈と10−10希釈、ホメオパシーでいう30Xと300Xでは大幅な差がある。前者には原成分の分子が相当数ふくまれ、その薬効はそれらの分子によるものと考えられる。後者はおそらく原成分の分子は残っていない。したがってそれが動物や人間の患者に効くとなれば、何らかの別の方法で効いているということになる。 第三の反論としてアボォガドロの限界を超えた希釈液で生理学的な効果を認めた科学的研究がいくつもある、ということだ。酵素反応に対する様々な希釈液の影響を10−120という低濃度までしらべ、塩化第二水銀が澱粉から糖への転換率に影響していることを1933年にレニングラードのペルッソンという研究者が発表した。また1946〜1952年にかけてエディンバラのウィリアム・ボイドがペルッソンの研究の徹底的な追試を行い10−61まで確認した。残念なのはそれらの研究発表が、物理学者・化学者・アロパシーの医学者たちが読みそうもない専門誌になされたことであった。
現代のホメオパシー研究家は、アボォガドロの限界を超えて希釈された物質の生化学的・生理学的作用はいかなるメカニズムによるものかを、次のような見解で説明している。ハーネマン方式*5 によって希釈した溶液中にかつて存在していた物質の分子が何らかの方法で溶媒の分子構造に永久的な変化を与え、その結果、試薬の分子がなくなったあとも、その液体は未処理の液体とは別のものになるのではないか。ふたつの液体のうち一方にはかつてそこを通過した物質による「刷り込み」があるというのである。その刷り込みの本体はその提唱者も説明できないのであるが。 そこにアロパシーとホメオパシーの氷炭相容れない思想的本質がある。現代の普通の医師はその薬の成分に固有の効力があると評価するからそれを使う。ホメオパシー医は薬理物質を含まない薬を使う。物質的側面とその薬の別の側面の存在と治療的能力の見解の相違なのであろうか。その別な面とはアロパシー医に言わせれば宗教的信仰と捉えるのであろうか。
ホメオパシー療法が何故効果があるのかを説明する3つの仮説を紹介する。
1,大概の患者はいずれ治るものだから効いたように見えるだけで、治療のせいではない。
2,プラシーボ反応を誘発させることによってホメオパシー薬が効く
3,振盪に確実な根拠があるというホメオパシー側の説明に対して、それを認めるには物理学と化学の基礎理論に大幅な修正が必要になる。
大いにホメオパシー側の反発を受けるであろう仮説ではある。
最初にMRAによって脚光をあびると思われるホメオパシーについてと説明をつけたが、ホメオパシー薬の波動測定という方法で謎の一部は解決するであろう。また物理・化学の基礎理論の修正も一緒に行われるであろうと思われるが?