投稿者 転載(い) 日時 2001 年 11 月 12 日 02:43:40:
最近、NHKで聖徳太子にかかわるドラマや特集をやるようになった。筆者は、軍国
主義復活の進む日本の政治情勢とは裏腹に、「とうとうパンドラの箱を開けたか!」
と感無量の思いだ。これまで、このモチーフが遠ざけられていたのは、決して時代が
分かりにくいという理由だけでなく、触れれば切れずにおかない深刻な理由があった
からである。
それは、現天皇家の直系先祖と言われる聖徳太子と、その一族が、実は、朝鮮や中
国の歴史書に、朝鮮半島の住民であった証拠がいくつも記されているからなのである。
それは天皇一族が朝鮮人であった事実を浮き彫りにしてしまうという、中曽根康弘の
ような差別主義者、単一民族論者にとってはアタマをかち割られるほどに衝撃的な認
識をもたらすのだ。今、手元に資料が出てこないが、実母の推古(額田)に朝鮮名が
存在したこと。旧唐書に、日本という国は新羅の南、つまり百済にあったことも示さ
れている。
テレビに出る飛鳥王権の人々は、みなズボンをはき、独特の髪型をしている。こう
した習俗は、3世紀、後期古墳時代とともに突然現れた習俗で、卑弥呼、弥生時代か
らの継続性はない。これは江上波男が指摘したように騎馬習慣をもつ民族に独特の習
俗で、一般に弥生人に見られる、鳥居や餅・納豆・蒟蒻などに代表される照葉樹林帯
文化圏のものとは明らかに異なる。米作農耕を核心とする文化圏では、決してズボン
は流行らない。田植えなどの農耕は、呉服のような裾をまくれる和服文化を必要とす
るのである。また使用する刃物の形にも特徴があり、水田では鎌形刃物のような曲刀、
騎馬では戦争や狩猟のため直刀型を必要とする。
聖徳太子、すぐれて天皇家の人々は、スキタイ系の騎馬民族文化を携えて日本にや
ってきた。それも、ある日突然というべき唐突さで、唐・新羅連合軍によって百済と
いう国を追われて、日本列島に逃げてきたのである。そこで、それまで使っていた日
本という地名も持ち込んだ。(同時に、道教の習俗も持ち込み、後に修験道・神道と
なる)
よく文化の融合といわれるが、古代史はそんなに甘いものではない。例えば、臥薪
嘗胆の故事で知られた呉越戦争の結末は、越による呉の住民皆殺しであり、国家の消
滅であった。だから太公望の子孫の国である呉は、集団で日本列島に逃げ込み、それ
が弥生人になった。そして先住者のクマソと激しく争い、それを滅ぼして自らの王権
を確立した。
聖徳太子達は3〜7世紀にかけて、いくつかの集団に別れて日本列島にやって来て、
複数の弥生人国家を攻め滅ぼし、統一騎馬民族王権を築き、それが大和朝廷となった。
その流れは明治維新まで武家階級として続き、現代に至っても特権階級の大部分を占
めている。
継体王権の時代には、日本海航路を拓くために、泰澄が白山山頂に灯台を築いた。
漢奴山1800m、対馬矢立600m、隠岐大峯600m、そして白山2700mの
灯台が安全を保障した海路を頼って聖徳大使達は日本にたどり着くことができた。彼
らは源平籐橘に代表される武家特権階級の先祖となり、弥生人は庶民の先祖となった。
そうした民族が融合した例は少ない。こうした異なる文化圏の民族が本当に融合を始
めたのは、明治維新以降、わずかに百年余、近代交通文化成立以降のことなのである。
異なる民族は、食うか食われるか、一方が他方を奴隷化するか、皆殺しにするのが人
類の歴史であった。テレビドラマは、こうした殺伐とした歴史の本質に触れず、キレ
イゴトにすり替えていることに気づくべきである。仏教の祖といわれる太子だが、こ
の当時の仏教は、すでに道教・仏教の神仏融合型(修験道)であったことを知る必要
もある。