投稿者 栗 日時 2001 年 11 月 07 日 23:05:27:
韓国コネクション:早川紀代秀と統一協会
梗概:
霞ヶ関駅に対する神経ガス攻撃は、米ソ核交換の出来事でクラシックな秘密作戦計画を暴露する徴候を有していた。 しかし、誰がそれに関して責任があったか? KCIA、あるいは北朝鮮諜報機関、あるいは統一協会――あるいは3つとも? ジャック・アマノは、元統一協会員とオウムの武器商人早川紀代秀を通してオウムがいかに明確な韓国とのリンクを持っていたかを報告する。
東京――裁判の初公判で、グル麻原彰晃は驚異的な陳述を行なった――それは紙媒体によって取り上げられなかった(日本国内外のメディアは、いわゆるオウム問題の複雑な詳細を理解しているようには思えない)。麻原は、自分がオウム真理教に対して絶対的支配を行使していなかったと述べた。彼の陳述はもちろん、(ジャパン・タイムス・ウィークリーを除いて)この教団について出版されたすべてに逆らうものだった。もちろん、あたかも麻原が半神半人であるかのような――信者が彼の足にキスしたり、風呂の水を飲んだり――絶対主義の印象はあったが、教団の組織構造、態度、行動は違った物語を告げている。
麻原の主張は、日本のFBIこと公安調査庁と明確なつながりのある日本の犯罪分析者――専門家Aとしよう――によって10月、ウィークリーの調査レポートチームとの議論のなかでなされた分析を証拠づけるものである。専門家Aは個人的な警備のために匿名としておくが、オウム真理教は2つの勢力の中心を有していたという――ほとんどの宗教的な新人は麻原をナンバー1のリーダーとしていたが、オウム諜報の過激派――スパイ活動、武器取引、薬物流通その他の犯罪を含む――は、教団の建設大臣で武器取引者である早川紀代秀に主に忠誠を捧げていた。専門家Aによると、早川は麻原と同等、そしてある面では麻原より強力だったという。
テロリストの行程
5月、スポーツ新聞が、早川は文師に率いられた統一協会の元信者であったことを明らかにした。翌日、日本の統一協会本部はその告発を否定する手紙を東京のすべての新聞にファクスしてきた。東京の編集者の多くは、過去に統一協会から金を受け取っており、海外の統一協会物見遊山旅行に行ったことがあったので(政治家、学者、ジョージ・ブッシュ大統領さえ統一協会の金を受け取っていた)、問題はそれ以上発展しなかった。
警察の調査者が最初にオウム真理教に関心を抱いたのは、当時詐欺容疑で厳しい調査対象だった早川が統一教会をやめた後の動きを追っていたときだった――と、そのときウィークリーの調査チームは東京警視庁の情報提供者から聞いた。
専門家Aは、早川は実際にオウムに入る前に統一協会信者であり、統一教会の高位のスパイであった、と私たちに請け負った。早川は統一教会を離れたとき、数百万ドルの現金、東京と神奈川のいくつかの資産とビジネス、そして少なくとも一ダースの追従者を持ち逃げした。
「唯一の問題は、彼が議論の末に統一教会から去ったのか、それとも彼は韓国の給料支払い係からオウム内部に資産を運ぶよう命じられたのか、ということだ」と専門家Aは言った。彼の給料支払係が北朝鮮諜報機関(親ロシア派か、親中国派、あるいはその両方)、あるいは韓国CIA、 あるいは軍事諜報機関のいずれであったかはわからない。韓国で金泳三、平壌で金正日が立つと、古い政治的な忠誠は、新しい、どちらかといえば非道で便利な同盟にとって変わられたのである。
世捨て人の王
統一教会も変貌を遂げた。1980年代初期に合衆国で税金詐欺罪で逮捕・服役後、文鮮明師はそのグローバリストかつ親アメリカ的傾向を脱ぎ捨て、韓国の国家主義者として生まれ変わった(実際、彼は70歳の誕生日に、明かな統一朝鮮の冠をかぶった)。彼の国家主義に加えて、老境に達したことと郷愁のために、文は北朝鮮と中国・ロシアの朝鮮人地区に投資するようになった。彼は実は北朝鮮生まれであり、それは一種の遅ればせながらの同窓会だった。彼の古い強敵金日成も年をとり、二世の時代が熟しつつあった。金日成はキリスト教神学生であり、時間の猛威が健康を損なうに連れて、古い独裁者は来世に救いを求めるようになった。文師は彼の個人的牧師となったのである。
同じころ、 KCIA――かつては世界中で最も大胆な秘密作戦団体の一つであり、その部長は韓国大統領を暗殺さえした――の老年の冷戦時代の政治家は、民主主義が青瓦台の扉を叩くにつれて同様に破局に直面していた。金泳三が韓国大統領として選出されたことは、突然古いスパイを寒風の中に追い出し、最近ではその将官たちを法廷に引きずり出すことになった。驚くことではないが、かつての敵――ソウルの右翼とピョンヤンの親ロシア・エリート(親中国金正日の敵)――はベッドパートナーになった。この新たに見いだされた蜜月における標的は文の工作員と金正日の派閥であり、彼らは行動からじわじわと追い出されつつあることを感じていた。これが背景であり、今、早川とその犯罪コネクションに戻ることにしよう。
気候技師
早川の伝記は、明らかにオーストラリアの電磁気の実験を覆い隠すために、日本のマスメディアによって変えられた。このもみ消しの前に、ウィークリー調査チームは、その背景のについて早川の母校と連絡を取った。彼は神戸大学の学部生として研究したのち、大阪府立大学農学部において造園法を勉強した、というのが日本のマスメディアの主張である。新聞はばかげたことを報じている。彼の研究分野は、実際には、砂漠化への対抗に全力を注ぐ「緑化技術」であった。これは禅庭の植栽からはずいぶん遠い。彼の仕事は「気候工学」の下で機密に属していた可能性がある。それは環境改良(ENMOD)に反対する国連会議とリオ・サミットの間の期間には、国際的に非合法とされていた。
卒業後、彼は建設会社で働いた(神戸の建設屋は暴力団と同義語である)。彼はそれから独自の商売を始めたが、それは明らかに統一協会秘密作戦のフロント企業であった。彼の記録には大きな欠落がある。なぜなら、彼がオウムのリーダーとして設立し、事業を続けた東京に本社のあるビジネスは、世界統一通商と呼ばれたからである(警察はこの建物の中でいわゆる早川メモを差し押さえた)。
早川は1987年に出家者となり、建設大臣に任命された。彼の最初の大きな任務は、九州熊本県阿蘇山麓の波野村に、大きなヨガ訓練施設のための5.9ヘクタールの土地不動産を手に入れることであった。まるい谷の中に教団は環状に連なった大きな小屋を建てた。おそらくはヨーガ研修場としてであったが、しかし、その目的のためにあまりにも大きい。送信施設を偽装させるといったような何らかの技術的目的があったように思われる。
地元の村は、国土法違反として日本の建設省と一緒にオウムに対して苦情を起こした。その後、数ダースの反オウム支援グループが東京からやって来た(この人たちが誰であったか、一度も正確に示されたことはない)。読売新聞(1990年9月6日)によれば、1990年8月12日から13日にかけての夜、200人以上の人々が暴力的な騒動を起こし、20人がけがをして入院させられなければならなかった。早川は逮捕され、拘置所でブラジル革命のCarlos Mariguerraによる都市ゲリラ戦マニュアルを学んだと報じられている。
暗黒街の親玉、後藤組
そのラインに沿ってのどこか――統一協会、神戸建築会社で働いている間、あるいは拘置所――で、早川は後藤組として知られる犯罪組織と密接な関係を持つようになった。この関東を拠点とするギャング(神奈川県に本部がある)は伝統的に、日本最大のヤクザ組織山口組と連合していた。後藤組は、薬物生産の大阪地区にある山口組と、関東地方でアンフェタミンとエクスタシーの最大の市場で流通させている稲川会の間の仲介人として、バブル経済の時期に非常に裕福になった。
化学・製薬産業は大阪に集中しており、山口組が生産について強力な握り締めを保っている――たとえそれが、1980年代初期の連続抗争の時期のように、暴力団同士の血まみれの抗争を意味したとしても(リドリー・スコット監督、マイケル・ダグラスと高倉健主演映画「黒い雨」はそのギャング戦争に基づいている)。しかし、1990年代初期までに、ディスコとコールガールという薬物現場での作戦は、急成長する需要に供給するため、韓国、台湾、その後には中国といった海外供給元に向かい始めていた。
価格競争は、山口組の神戸本部による後藤組破門につながった。我々の情報源である専門家Aは、警告後に追放があったという。「後藤組が稲川会と合併すれば、戦争になるぞ」。
この謎のような言葉の意味はこうである。我々はお前らへの薬の供給を断つから、お前らは外国の輸入に頼らなければならないだろう。しかし、お前らとその卸売り業者が東日本で大きな薬物生産を設立しようとすれば、お前らを全滅させてやる。
拘置所からの出所後、早川は次に山梨県上九一色村でオウム施設内にアンフェタミンの主成分を作り出すための施設建設を行なった。地位の高い日本の警察官によれば、その施設は第七サティアンだった。早川のロシア、オーストラリア、東南アジア、フランスといった種々の外国任務は、薬工場を速く開発することを妨げた。そのため、オウムは台湾、韓国、中国の貨物船からアンフェタミンを他の船に積み替えるため、大分県と三浦半島に数隻のクルーザー・ボートを有していた(この取引は、台湾に供給元を持つマハーポーシャ・コンピューターの会計が見た目にも明白に不均衡であることの説明となるであろう)。
稲川会がオウムの最初の薬物出荷を「つまらぬ物」と呼び、買うことを拒否したということが、若干のアメリカのジャーナリストによって報告された。これは厳密にいえばちょっと違う。我々の警視庁の情報源の一人によれば、オウムのアンフェタミンとエクスタシーは非常に純粋であった。しかし、稲川会は、それがディスコと売春リングに供給するのに必要な、催淫的な化合物が欠けていることを発見したのである。
薬物売買を通した台湾の暗黒街への早川のコネクションは、武器取引者としての彼の役割を理解するのに必要不可欠である。早川の武器密輸の一部は、オウムの軍事的研究開発に日本の軍産複合体との契約(神経ガスサンプルを対毒素研究に提供し、宇宙戦・レーザー戦・電磁戦の分野に置ける科学者と技術を獲得する)をもたらすためであった。しかし、核ミサイル、戦車、上陸用船艇、携帯用武器を購入するという彼の計画は、明らかに台湾の超保守主義的軍と暗黒街の取り扱い範囲外であった。もしこれが本当だとわかれば、ミサイル実験と、中国人民解放軍士官によるあからさまなクーデター計画の鎮圧という中国が絡んだ最近の緊張を説明するのに大いに役立つことだろう。
統一協会コネクションが、北朝鮮での早川の活動に関して再び立ち上がる。専門家Aは、明らかに平壌に化学兵器を送るために、早川が17回(ロシアから)北朝鮮に入ったエアロフロート旅券のコピーを見たという。彼が統一協会の工場あるいは北朝鮮または韓国地域にあるロシア極東事務所を訪問したという証拠は、これまでのところ明らかになっていない (彼は明らかに平壌で元赤軍派メンバーと会っている)。
専門家Aは、グル麻原彰晃の好戦的あるいは破滅的な予言の多くが、早川の北朝鮮訪問からの帰国と一致している、と説明した。これらの予言は、それから数ヶ月間のさまざまな政治的な出来事、自然災害、テロ活動などであった――それは高度に諜報を与えられていた諜報機関がその予測を彼に与えていたことを示している。これらの平壌訪問と結びつけられる予言の中には、「(1995年)11月戦争」があり、それは早川率いるオウム工作員をおそらく巻き込む政治的大変動と反乱のときであった。
朝日テレビの報道によれば、日本の大きな化学薬品会社を持っていることを示す書類を持っていた早川は、ヴォルヴォグラードの化学兵器プラントから若いロシアの化学者を入信させたという。しかし、その化学者は一度もオウム施設で発見されたことがない(特に第七サティアンと呼ばれる汚い、充分に維持されていない施設では)。入国審査局高官はこのロシア人科学者について確かに入国ビザ記録を有しているので、彼はまだ日本のどこかで働いていることが想定される。間違いなく、上九一色村よりも近代的な施設で。
明らかに統一協会時代からオウムまで引き継がれたビジネスである世界統一通商株式会社は、1995年四月末から5月初旬の警察強制捜査で浮上した。オウムの防衛庁長官岐部哲也は銃の部品の所有容疑でその建物の外で逮捕された。興味深いことに、オーストラリアで早川と旅行に同行した岐部と、オウムの諜報省のトップであった井上嘉浩は、ともに拘置所内で麻原を非難した。
世界統一通商倉庫内で、警察の調査官はいわゆる「早川メモ」を発見したが、それは完全に正確か、完全な偽物でありえた(現時点では、我々は、介錯には注意が必要だが、それらは真実であると仮定する。かつての「ジャパン・タイムズ・ウィークリー」購読者は、メモの抜粋と並んで詳細な分析を見た)。これらは、ロシアでの次の調査の土台をなすものであり、メモに書かれた武器取引の多くが、その後、ビデオテープとロシア高官の証言で実証された。
フライデー誌によって撮られた拘置所内の麻原の最近の写真は、グルが東京拘置所内で目隠しされ、車椅子に乗せられていることを示しているが、警察からのリークでは、警備員が早川を最大限丁重に扱うよう命じられたということである。麻原を静かにさせるためにありとあらゆる公認の試みがなされた一方で、早川は読みたいものを何でも読むことができ、考えを記録するためにペンと紙を与えられている。少なくとも拘置所で誰が多くの権力を行使しているかは明確である。おそらく、それは教団内でも同じであった。
この力関係は、彼の直接の配下になかった他のオウムのリーダーたち――科学技術省大臣村井秀夫、広報とロシア部門のトップ上祐史浩、麻原の専属医師で厚生省大臣林郁夫、すなわちおそらくは早川の潜在的対抗者の中でもっとも重要だった人物たち――と早川との関係についての疑問をもたらす。おそらく、これらのライバルたちは教団に他のグループあるいは海外諜報機関が教団に浸透できるようにし、その崩壊に導いた。
あるいはおそらく、地下鉄毒ガス事件のときにロシアにいた早川は、海外諜報機関と団結しての破壊のすぐれた指導者であった。毒ガス事件後に東京に戻ったとき、早川は神秘的に「霞ヶ関は東京で最も深い地下鉄駅である」と述べている。彼が地下鉄攻撃の対象――それはまた国会議員の東京からの避難経路でもある――について述べた理由は、まだ説明がつかない。もし東京地下鉄毒ガス事件に韓国の手が伸びていたなら、東京地区の大学の有機化学試験所に容疑を当てるべきである。そこでは、ロシア製神経ガスサンプルをラッシュアワーに配達される前に精製・包装・冷凍することができた。東京地下鉄毒ガス事件後最初の一週間の出国ビザも、朝鮮半島への脱出可能ルートのために調査する必要がある。麻原とその家族は、地下鉄毒ガス事件後すぐ、韓国へ脱出する準備をしていた――おそらくは早川と統一協会のからんだ取り決め。
在日韓国人暴力団員に殺害されるまえに、オウム科学技術大臣は東京地下鉄毒ガス事件は「日本のグループと海外のグループ」によって行なわれた可能性があると述べていた。創価学会は明らかに中国軍事諜報部とつながっている。しかし、だれ――どの派閥、何の組織――のために韓国人ヒットチームは働いていたのか? 数十年かかりそうな謎、我々が真実を知る前の政治の急激な変化。
東京地下鉄毒ガス事件直後、筆者は、典型的な暴力団員とともにしばしば韓国焼き肉屋で食事をし、頭を剃った若いウェイターがオウム真理教の信者だったとわかって驚いたものである。その事実は韓国人客と主人から笑いを引き出し、日本の毒ガス事件にはそれほど心配していなかった。麻原の実践は、北朝鮮のシャーマニズムのある要素を含んでいたとも言われている。チャーチルのクレムリンについての記述と同様、南北朝鮮半島についての政治的計略は、ミステリーに包まれた謎を残している。
あとがき:
オウム問題におけるディスインフォメーションの一つとして、麻原が在日韓国人三世であるというにせの情報があった。この偽情報は「ニューヨーク・タイムズ」支局その他の海外ニュース・メディアにリークされた。韓国の新聞社である朝鮮日報(Chosen Ilbo)は、南北朝鮮の戸籍の徹底的な検索を行ない(それは日本の戸籍簿に似た家族住所登録システムを使っている)、そして麻原(本名は松本智津夫)が韓国人の先祖を持たないと結論づけた。今世紀はじめ、麻原の祖父は北朝鮮の細川農場での労働者として雇われたことがわかった。細川家は、熊本のエリート家族として、1910年韓国併合に始まった日本の植民地化の時代に、韓国で大きな土地不動産を与えられた。これは、麻原が北朝鮮に対して郷愁的な感覚を抱き、教団が平壌を扱うことについての解放性を説明するであろう。
(以下略)
オウム内部の二つの勢力
http://technotrade.50megs.com/kok_website/fireworks4/duplicate_of_web_pages_for_aum/archipelago/archipelago2.htm#oumunaibuno_futatsuno_seiryoku
Archipelago オウム関連のみ勝手に翻訳復刻版
http://www.geocities.co.jp/Athlete-Acropolis/6246/kawakami/pelago/index.html