変容

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投稿者 SP' 日時 2001 年 9 月 30 日 21:03:06:

回答先: 迫りくる宇宙戦争の危機(『ムー』96年1月号総力特集) 投稿者 SP' 日時 2001 年 9 月 15 日 08:07:30:

『CIA「超心理」諜報計画 スターゲイト』(デイヴィッド・モアハウス著、大森望訳、翔泳社)第5章。


 次のミッションが予定表に記入された。ぼくの名前の横には、大きな赤いTの字。また訓練ターゲットか、と心の中でつぶやいた。ま、いつかはTの字ともおさらばできるだろう。ぼくはキャスリーンといっしょに遠視室に入り、モニター機器の接続をはじめた。
 サン・ストリークに来てから八カ月が過ぎ、座標遠視は二、三週間前に卒業していた。つまり、遠視チェアにすわったり、与えられた座標を読み上げたり、イデオグラムを出したりする必要はなくなっていた。拡張遠視(ERV)の場合、やることといえば、特別に設計されたベッドに横たわり、数を数え、肉体を離脱してエーテルに入るだけ。もっとも、あいかわらずモニター機器は接続されているし、キャスリーンにモニターされている。
 ERV技術は、ベッドの横の小さなテーブルにタスクシートを置く。その紙に目をやり、暗号化された座標に意識を集中し、それからベッドに横たわって、光を調節し、出発する。ERVでは、座標遠視の場合よりかなり長くエーテルにとどまることができた。遠視者の中には、メルやキャスリーンのように、CRVプロトコルの規律を好む者もいるが、ぼくはERVの自由なプロセスのほうが好きだった。レヴィの監督のもとでERVに切り替えてからは、二度とCRVにもどることはなかった。
 デスクで位置についたキャスリーンは、自分の照明を調節した。彼女のデスクは、これから一時間半のあいだ、わが故郷となるベッドを見下ろしている。最後にもう一度、作業座標を一瞥した。
「座標七八五六四、九三四五二。ターゲットおよび重要な事象すべてを描写して」
 数分後、ぼくはエーテルの中をターゲットに向かっていた。ポール・ポスナーがぼくの物理的肉体に起きた変化をモニターし、離脱が完了したことを確認した。
「行った」とポスナー。
「ええ」キャスリーンは何度となくぼくのセッションをモニターしていたから、呼吸の変化だけで離脱に気づいていた。
 光のチューブを落下しつづけ、膜を通過してターゲット・エリアに出た。降下の不快感にはいつまでたっても慣れることがなかった。何度経験しても、戦闘装備で夜間パラシュート降下をやるときのような気分が消えない。漆黒の夜に向かって飛行機から足を踏み出すたびに感じる、心臓がのどもとまでせりあがってくるようなあの感覚。
 速度を落とし、冷たい石壁の一、二メートル手前で停止した。姿勢をまっすぐにして、ざらざらした感じのみかげ石とモルタルの壁を観察した。壁の手前は草がぼうぼうと生い茂り、壁は右に三十メートルほど先までつづいている。周囲は荒涼として生気に乏しく、空気は冷たく湿っていた。キャスリーンの声でわれに返った。
「どこなの?」
「わからない。寒くて湿っぽい。それにすごくさびしい感じ……ここはとても孤独な感じがする」
「いまなにを見てる?」
 ゆっくり向きを変えながら、周囲のものすべてを観察し、視界に入るものの姿をキャスリーンに向かって説明した。「大きな石壁が見える。幅は三十メートルぐらいかな。荒れほうだいだ。地面は湿っててやわらかそうに見える。大きなぬかるみもいくつかある。遠くに、小さいけどずいぶん古そうな木立ちが見える。木の幹は黒くて、葉っぱはほとんどない」
「なにか建物は見える?」
「いま立っている場所からは、さっきいったものしか見えない。移動したほうがいいかな?」
「ええ。前方の石壁を抜けて、見えるものを描写して」
「いま移動する」マジックテープをはがすような音とともに、霊体が石壁の表面を通り抜けた。壁の中心は暗かった。ぼくはこういう機会を通じて、万物にはじじつ魂があるのだということを学んだ。壁には壁の歴史があり、ぼくが通り抜けるあいだ、すすり泣いているようだった。うしろ髪を引くつらい記憶を残してきたような感覚とともに、その闇を出た。
 この訓練ののち、森羅万象に生命があることを二度と疑わなくなった。ほんの数カ月前までは、物質がしゃべるのを聞いたり感じたりするのは不可解きわまることだったけれど、いまではそう珍しくもない出来事になっている。遠視者ならだれでも、何度となくそれを経験している。ターゲットの周囲は、その場所の歴史を先入観なしに記録し、聞く耳を持つ者すべてにいつでも証言を聞かせてくれる。
 壁を離れたとき、それが追ってくるのを感じた。子供のころ、天井裏の暗い部屋を出て、大人たちがいる明るくて安全な場所へと大急ぎで階段を下りていくとき、目に見えない未知の存在がうしろから追いかけてくるような気がしたものだけれど、それとおなじ感覚だった。ぼくに向かって壁は言葉を発し、苦しみについて語った。
「なんだかへんだ」
「建物は見える?」
 感情をふりはらい、ターゲット・エリアをもう一度見わたした。どこにターゲットがあるのか見当もつかない。ふつうなら、ターゲットは物または場所だが、いまのところここでは、それらしきものがなにも見つかっていない。石と虚無だけ──そのとき、遠くに小さな建物がいくつか見えた。
「建物が見える。百メートルぐらい先に。いま、そちらへ移動している」
「よかった。その建物に焦点を合わせて。中に入って、見えるもの感じるものを教えて」
 最寄りの建物の前に佇んだ。きれいに一列に並んでいる。角はぴったりそろい、屋根の高さもぴったりおなじ。建物はぜんぶで四つ、もしかしたら五つ。背の高い柱が、それぞれの建物から灰色の空に向かって突き出している。
「最寄りの建物の角に立ってる。大部分は石造りだが、赤れんがの壁も見える。あとから補修に使ったらしいれんがもあるな。それぞれの建物からは背の高いれんがの柱がのびている。建物ひとつにつき、二、三本ずつ」
「デイヴィッド、建物にゆっくりさわってみて」
「オーケイ……ざらざらしたみかげ石だ。木材は装飾や垂木にしか使われてないらしい」数秒のうちに、ぼくは悲しみに圧倒された。建物にしっかり手を触れた霊体が身震いした。心が痛み、完全な絶望と失意の感覚に包まれる。憎しみと拒絶のとげが突き刺してくる。「もう──もう手を離さないと。これ以上さわっていられない。すまない、でも無理なんだ」
「なにを感じたか教えて。具体的に、質問をして、答えをさがすのよ。仕事に集中して──一心に」
「うう……絶望を感じる。だれからも忘れられて、すべてをあきらめた感覚。もうなにもこわくない。もっとも、ここにはこわがるものなんかたいしてない。この場所は憎しみと悪に満ちている……善も光もなく、あるのは闇と呪いだけだ。この場所の魂は、壊れて空っぽになり、消えてしまった。ここのすべてが、毒に冒されたような気持ちを抱いている。ここのすべてが、死んだように感じている。ここのすべては恐怖だ」
「建物の中に入って。いままでとおなじように、内部を探索してほしいの。ものに触れて、答えを求める。さあ、中に入って」
 アーチ型の石の戸口を抜けて、がらんとした部屋に足を踏み入れた。「からっぽの部屋しか見えない」
「もっとよく見て。床と壁に触れて。この場所の答えを見つけるのよ」
 近くの壁に手をのばし、てのひらを通り抜けさせた。「ああくそっ、この場所はさびしくてうつろだ。壁は自分が悪だと感じてるけど、そうじゃない。悪じゃないのがわかる。いや、待って。自分が悪だと感じてるんじゃない、悪を見たんだ──ああ、そうだ。この部屋は筆舌につくしがたい悪を目のあたりにして、その悪臭はけっして消えることがない。この場所の魂は汚されている。けっして浄化されることはない」
 キャスリーンはこの結果に感銘を受けたようだが、ぼくはまだ、現場のもっとも重要な側面を見逃していた。そして、キャスリーンはその理由を知っていた。「デイヴィッド、あなたはよくやってる。でもターゲットを見てはいない。無視することを自分に許してる。目を開かなきゃだめ。見たいものだけ見ることを自分に許してはいけない。目を開きなさい」
 キャスリーンがぼくに見せたがっているものを見ようと必死に努力したが、見えなかった。圧倒される感覚があまりに強かった。「やってるよ、キャスリーン。でも、ほかになにも見えない。ここにいることで精神が傷ついている。もう帰還したい。自分まで汚されたような気がする。帰って体を洗いたい。もうここにいたくないんだ、わかるかい? 帰りたい」
「オーケイ、デイヴィッド。切り上げて帰還して」
 正気にもどるまでに二十分かかった。キャスリーンはポール・ポスナーといっしょに、遠視棟の玄関口で待っていた。
「きついセッションだったかい、相棒?」とポールはいった。「なにも気の毒がることはない、あれは──」そこで唐突に口をつぐんだ。「ま、あの現場に関しては、ローンレンジャーを気どることはないさ。報告書を仕上げてしまえば、すぐにわかる」
 キャスリーンがぼくの背中をたたき、陽光の下に連れ出した。キャスリーンの顔を見たが、彼女はただほほえみ返してきただけだった。
 壁と建物、背の高いれんがの柱や、壁の反対側の木立ちまで含めて、何枚かスケッチを描いた。ぜんぶで四ページの報告書をまとめ、キャスリーンのデスクに届けた。
 キャスリーンは眉根にしわを寄せてスケッチをめくり、報告書を読み、二通ずつコピーをとった。
「すわって。それで──あなたはなんだと思う?」
 適当な言葉をさがして口ごもった。「とても奇妙で邪悪な場所だと思う。あんなふうに、場所自体が話しかけてくるような感じがしたのは今度がはじめてだ。すごく不思議な存在を感じた。まるで、あの場所が引き出しからなにかをとりだし、ぼくがそれに耳を傾けることになっていたみたいに。ぼくをつかんで、あそこにひきとめ、悲しみの物語を聞かせようとしているような気がした」
「悲しみの物語──報告書にその話は出てこなかったわね」
「いま思いついたんだ。あの場所には悲惨な歴史があるんだと思う。その歴史のイメージは、二度とあの場所を離れることがない。ぼくに考えられるのはそれだけだよ。フィードバックは?」
 キャスリーンはにっこりした。「ええ。あなたはかなり近いところまでいってる」ターゲットの封筒をとりだし、ぼくに投げてよこした。「ほら、見て」
 ためいきをつき、封筒を開けて、五枚のモノクロ写真のうち、最初の一枚をひっぱりだした。ナチの死の収容所。
「ダッハウか」とつぶやく。「完璧にまちがった」
「いったいどうしてそう思うの?」
「まちがったんだよ。おおまちがいもいいところじゃないか。自分がなにを見てるか、まるで見当もついてなかった。それにほら、このかまど──これを目にしてもいない。ナチが死体を燃やしたかまど、数千の死体を燃やしたかまどを、ぼくは見なかった」
「そうかしら。じゃあこれはなに?」キャスリーンはぼくのスケッチを指さし、それを写真の横に置いた。「このれんがの柱、わたしの目にはかまどの煙突に見えるけど。それに、あの場所の感情はどう? すべての情報を引き出すほんの一歩手前まで行ってたのよ。あなたはよくやった。自分を責めるのはやめて。これは困難なターゲットなの。気軽に出かけていって、のんきに出てこられる人なんかだれもいない。こういう場所に行くたびに、なにかを残していくことになる。そこに行くたびに、もっと邪悪な、もっと失われた、もっと見捨てられたなにかを経験することになる。この場所が悪に汚されているといったあなたの言葉は正しかった」
「ともかく、いったいどうしてこんな場所に送り出したんだ? またべつの悪夢のタネを植えつける以外、どんな利点があるっていうんだ?」
「みんなあそこに送られるのよ。訓練プログラムの一部。このオフィスの人間は全員そこに行ったことがあるし、全員、いまのあなたとおなじように影響を受けた」
「全員?」
「ジュディをのぞく全員ね。彼女はかまどの灰と骨の中を這いまわり、変わったものはなにも拾わなかった。帰還して、この場所は軍の駐屯地かなにかだといったわ」
「どうしてあんな場所に行くことが重要なんだ?」
「エーテルの中で極端なものを経験する必要があるの、もっとあいまいなターゲットのニュアンスを理解するために。二重スパイとか、テストパイロットとか、政治家とかね。近い将来、あなたはそういう男女の心に接触して、彼らがなにを考え、なにを感じているかを報告することになる。いちばん極端なもの、ダッハウの圧倒的な悪を理解できるように自分を訓練しておかないと、ソ連の最新鋭戦闘機のテストパイロットとかの、もっと微妙なニュアンスを理解することはできない。極端を学ぶことが、を獲得するプロセスの第一段階なのよ。あなたも目がほしいんでしょ?」
「もちろん」
「だったら、その代償を支払わなければならない」キャスリーンは立ち上がり、フォルダーを集めてぼくの手を握った。「よくやったわ。あなたのことは誇りに思ってるし、あなた自身もそう思うべきよ。さあ、今日はもう終わりにしましょ。タフなミッションだったし、午後のセッションは休みにしたほうがいい。あなたは帰って休んだほうがいいと思うと、レヴィにいっておくから。あなたがファイルをかたづけてるあいだに、わたしはレヴィのほうをかたづける、それでいい?」
「ぼくはべつに──」
「いいから聞いて。メルがここにいたら、おなじことをいったはずよ」
「オーケイ、おおせのままに、教授」
 キャスリーンのいうとおりだった。帰宅する必要があった。あのミッションでぼくはガタガタになっていた。レヴィはちゃんとわかってくれた。車で帰宅するあいだじゅう、あの場所のイメージが頭を離れなかった。その夜ひと晩、心につきまとった。以後もずっと、忘れてしまうことはなかった。
 翌朝は、遠視者ふたりとチャネラーふたりのあいだで衝突が起きた。遠視者のあいだでは、チャネリングの効力について、大きな議論がある。チャネリングには、その性質上、口頭もしくは文書によるデータのやりとりが含まれる。チャネラーはセッション中、いわゆる“霊の導き”に頼る。導きを通じて、チャネラーは接触した“存在”と話をする(ことになっている)。陸軍スパイ業界の文脈からすると、このアプローチには明らかに致命的な欠陥がある。ジュディの被保護者的な立場にあるキャロルが、どうやらお粗末な出来のセッション報告書を提出したらしい。この二週間ほど、キャロルはリンといっしょに、ある作戦ターゲットにかかり、五度のセッションを完了していた。リンはスケッチを添えた完全な報告書を求めたが、キャロルから上がってきたのは、「現場にはブルーがある」とか、その種のほとんど無意味な結論ばかりで、リンはその結果に満足していない。遠視者であるリンは、このナンセンスを、チャネリングと遠視をいっしょくたにする危険性を示す証拠としてレヴィに提出すると主張した。リンはベテランの遠視訓練官で、潜在的に優秀な遠視者が、効果の実証されていないチャネラーのメソッドで能力を無駄にすることを不愉快に思っている。こういうことがあるたびに(珍しいことではなかった)、リンは癇癪を起こし、持論と非難を滔々と語りはじめる。ぼくは、それに首をつっこんだり巻き添えになったりせず、こういう爆発を無視することを学んでいた。このオフィスの特定のだれかについて、こっそりうわさ話をすることなどできない──けっきょく、遠視者の集団の中では、本人に知られずにだれかのことを話題にするなんて無理な相談だ。ぼくはしっかり口を閉じ、自分の見解は胸にしまっておいた。
 それに、ぼくの見るところ、この部隊のだれひとり、他人がなにをどんなふうにやったかについて、あと知恵で批判する権利などない。ぼくらは政府から給料をもらい、政府に訓練されたサイキックであり、合衆国の敵をスパイしている。だとしたら、それに使用されるメソッドについて、どうして腹を立てる必要がある? この時点のぼくは、自分が学びつつあることに圧倒されていたから、自分で価値判断を下すどころではなかった。セッション前にカエルを食べると遠視結果が向上するといわれたら、カエル販売業者をさがしはじめただろう。部隊の団結をゆっくりと蝕む癌に巻き込まれたくはなかった。
 午前十時に、メルをモニターとして訓練ターゲットの遠視をする予定が入っていた。メルはコーヒーを注いだマグを手に、こっちにやってきた。マグカップはおよそ百五十年前の骨董品で、あちこち欠け、コーヒーが漏れないのが不思議なくらいだが、メルはこのマグを手放さない。
「今日の遠足はきっと楽しいぞ」とメルはいった。
「お楽しみは大歓迎だよ」
 セットアップと準備をすませて、カウントダウンを開始した。数分後、エーテルに入り、ターゲットに向かう。
「できるだけはやく印象を報告しろ。そこでは時間を無駄にしてほしくない」
「洞窟みたいな場所にいる。かび臭くて、地面は冷たい。風は全然なくて、真っ暗だ。なんにも見えない」信号線が導く方向に移動する。「いや、正面で小さな光がまたたいてる」
 メルは椅子の背に体を預けて、ビデオモニターを見つめた。「よし。光がなんなのか確認しろ」
 できるかぎりの速度で光に向かって進んだが、夢の中でなにかを追いかけているときみたいに、近づけば近づくほど遠ざかるような気がした。十分ほど光を追いかけたが、まっすぐ進んでいるつもりなのに全然距離が縮まらない。いらいらして、停止した。
「光源への移動を中止したよ、メル。いつまでたっても近づけない。ほんとはこっちが動いてないのか、それとも向こうが動いてるのか、どっちだかわからない。いまは真っ暗な場所に立ってる」
「暗闇の中になにか感じるか? なにか、あるいはだれかを?」
 やった! これこそやりたかったことだ、闇の中でなにかを捕まえるんだ。「このターゲットが『オデュッセイア』のページから抜け出したもんじゃなきゃいいけど。もしまっすぐ突き当たった相手が──」
「いいから口を閉じて、周囲を見わたしてみろ。起きなかったことの遠視はできないんだぞ、まったく」
 とつぜん、洞窟の中にまばゆい光が満ちた。周囲の石の内側から光が放たれている。が、それはあっというまに消えた。「いったいなんだったんだ?」と思わず叫んだ。
「なにを見たか説明しろ」
「洞窟の石壁から光が出ていた。ところで、ここはたしかに洞窟だった。いまの光で確認できたよ。でもまた真っ暗になって、なにも見えない」
 何度も何度も、光がついたり消えたりした。まるでストロボのようだった。点滅する光が目と耳と、肉までも刺し貫くような気がした。洞窟の温度が急速に上昇し、やがて息をするのも困難になってきた。メルにそれを告げた。
「そこを出る必要がある」とメルが答えた。「ほかに通路がないか調べてみろ」
 メルのいうとおり、背後に幅の広いアーチ路があり、べつの部屋へとつづいていた。それに背を向けて例の光を追いかけていたから、いままで気づかなかったらしい。あらためて考えてみると、あの光はぼくをその石室から引き離そうとしていたような気もする。
 石室は外の洞窟よりずっと小さく、およそ三メートル×六メートルの長方形で、天井の高さは五メートル弱。さっきの洞窟と同様、周囲の石壁に照らされているが、なにかが違う。外で感じた脈動するエネルギーの発生源はここだったのかもしれない。
「せまい部屋にいる。いま通ってきた通路以外、出口はないようだ。ある種のエネルギーを感じる。石室の中央に目の焦点を合わせるのがむずかしい。ここにはなにかある。目には見えないが──でもなにかあるのはまちがいない」
「物体か、人格か、それとも明確なエネルギー源か?」
 目を凝らした。「部屋の中央に、低い台がある。石を彫って造ったものらしい」
「大きさは?」
「縦一メートル半、横一メートルぐらい。高さは二十五センチ。よく見えない……部屋の中央は蜃気楼みたいだ」
「目の焦点を合わせられない?」
「そのとおり。高速で振動している。その振動が一種のカモフラージュになってるみたいだ。なにかある、でも目に見えないことになっている。なにかとてつもない、強力なもの」
「オーケイ、じゃあこうしてくれ。振動が少なくて、それを見ることができるかもしれない時間へ移動するんだ」
 なるほど。こういう移動練習は前にもやったことがある。時間の中で移動を開始すれば、ターゲットをはっきり見ることのできる場所へと信号線が導いてくれる。小さな訓練ターゲットではそのやりかたでうまくいったけれど、こういうものを相手には試したことがなかった。
 時間の流れを移動することに意識を集中し、目を閉じた。眩暈がしてきた。これは移動速度のはやさを意味している。吐き気を抑えるには、ずっと目を閉じているのがいちばんいいようだ。やがて、しだいに速度が落ち、停止した。目を開くと、じつに奇怪な光景が目の前にあった。
 部屋の中央に農夫たちの一団がいて、石を削り、さっき見た台座を彫っている。そのとき、時間が早送りにされ、一瞬停止してから、また早送りになった。信号線がぼくを意のままに動かし、さまざまな時点におけるこの部屋を見せている。ようやくそれが完全にストップした。このミッションにとって決定的に重要なポイントらしい。
 古式ゆかしい装束に身を包んだ四人の男が金色の箱を部屋に運び込んでくるのを、ぼくは驚きの目で見守った。箱の四隅をひとりずつ支え、石の台座の中央にうやうやしく載せると、こうべを垂れて部屋を退出した。男たちは巨大な石を押して石室の入口をふさぎ、やがて外の光が完全にさえぎられた。奇妙なことに、金色の箱が部屋を明るく保っていた。そして、真っ暗な洞窟の中で感じたのとおなじ奇妙なエネルギーが石室を満たした。脅されているような感覚が心に忍び寄る。箱に近づくなと警告されるのを感じた。
「どうなってる、デイヴィッド?」
「箱の前にいる。すごく妙な感じだ。とても強力な神の前にいるような感じ。金色の箱がその力のシンボルで、それ以上近づくなと警告している」
「警告は無視して、近づけるだけ近づいてくれ。可能ならそれにさわって、どんな感覚がしたかを報告しろ」
 そちらに向かって移動した。「金色の箱の上に、動物が載ってる」
「本物の動物?」
「いや、小さな像だ。背中に翼が生えてて、それがうしろ向きに上のほうまでのびてる。箱自体、すごく強力だ。もしかしたら、箱を守っているものが強力なのかもしれない。なんだか知らないけど、これ以上は近づけない。傷つく危険がある気がする。どうも気に入らない」
「いいか、おまえは物理的にそこにいるわけじゃない。しかし、もし生身の体でそこにいたらどうなると思うか、それを聞かせてくれ。その感覚を報告しろ」
「命あるものはなにひとつ、この箱の前にいられないと思う。おなじ部屋にいることさえできない。もし生身の体でこの部屋に入ったら、たちまち消えてしまう」
「死ぬ?」
「いや、“死ぬ”っていうのとは違うと思う。むしろ蒸発するっていうのに近い。でもそれは、べつの場所への移動を意味してるんじゃないかという気がしなくもない。ただ、その移動は自分でコントロールできない。つまり、だれもここに入ってはならない定めだってこと。ぼくらだって、ここにいちゃいけないんだ。なにか強力で神聖なものに対する侵害になる」
「おっと、いまいったその言葉、“神聖な”ってやつについてもうちょっと検討してみよう──その箱の本質をのぞいてみろ。どんな神聖なものが見える?」
 箱から目を離さず、出口を視界から逃がさないようにしながら、箱のまわりを用心深くまわってみた。「ええっと、このシンボルは道具だと思う。あるいは、道具として使われていた」
「どういう道具だ?」
「はっきりとはわからない。きわめて高尚な目的があり、長い年月にわたって大勢の人々に仕えた。それから、また必要になるときまで、ここに安置されることになった。これを使いこなそうとして大勢が死んだ。ここにやってこようとして死んだ人間はもっと大勢いる」
「どうしてこんな人里離れた場所に置かれていると思う?」
「ふたたび呼び出されるときまで隠されたんだ。いまのところは間に合ってるけど、永遠にじゃない。守られている。秘密を暴こうとした人間は途方に暮れ、混乱する──それも箱の防御のひとつ。うっかりつまずいたら、殺されるか、秘密を明かすことがないようにべつの場所へと連れ去られる」
「ようし。おまえがそっちに行ってもう一時間四十分になる。切り上げて帰還しろ」
 聞きたかった言葉だった。この洞窟にいると、ひどく不安で無防備な感じがする。「了解。帰途につく」
 一時間後、レヴィ、メルのふたりといっしょに、ガーデン室でセッションについて話し合っていた。ふたりはいつもの質問からはじめた。「それがなんだと思った?」「このスケッチはなに?」「そのときどう感じた?」などなど。ふたりは、箱と、それを飾る翼の生えた生き物のスケッチに感心してくれた。ふたりは、目に見えない強力な存在と、保護エネルギーらしきものについて質問した。話は一時間以上に及んだが、ターゲットについて具体的なことはなにも教えてくれなかった。しかしとうとう、そろそろフィードバックを見せてやってもいいだろうとメルが口にした。骨を待つ犬のように、ぼくはターゲットの封筒を待っていた。レヴィがまず封筒を開けて中をのぞき、にやっと笑った。彼はもちろん、ターゲットがなんなのかをあらかじめ知っている。フィードバックをもう一度見て、楽しみたかっただけのことだろう。首を振りながら、封筒からとりだしたスケッチをぼくの前に投げ出し、それから部屋を出ていった。
「さあ、見ないのか?」とメルがいった。
 紙をひっくりかえすと、契約の聖櫃を描いた絵があった。「ああ、神様」とぼくはゆっくりいった。
「『ああ、神様』ってのは、まさに期待してたとおりの言葉だな」とメルが笑い出した。「いつかぜったいそういうと思ったよ。しかし、こいつはとにかく強力すぎるんだ。あっさり正体を言い当てたのは、ポスナーひとりだけだよ。石頭すぎて近づくなって警告が聞こえなかったか、それともあらかじめどんなふうに見えるか知っていたのか──ほら、あいつは信心深いたちだからな。おまえ、いままで絵で見たことがなかったか?」
「まさか。聞いたことはあるけど──ま、だれだってそうだろ。でもこんな外見だとは全然知らなかった。それに、こんな感じがするものだとは」
「その箱は、きわめて重要な宗教的文献を納めて、砂漠のあちこちを運ばれた。モーゼとともに荒野をわたった」
「ああ、その話は聞いたような気がする。ブリガム・ヤング大では、学期ごとに宗教の授業をとらなきゃいけなかったから」
「聖櫃が次元の門の一部だって知ってたか?」
「どういう意味だ、“次元の門”って?」
「ある次元からべつの次元へ移動するためのゲートだよ。神は四次元世界にいるんだとおれは思うね。だから全知全能なんだ。エホバの神殿の至聖所に入った神官たちは、足首に縄を結んで、仲間にひっぱりだしてもらえるようにした。この連中はどこかを旅してたんだ。その行き先はべつの次元だったとおれは信じてる。そこで造物主と親しく交わったのさ。足首の縄は帰りのチケットがわり。よく考えたもんじゃないか」
 ぼくはメルの顔をまじまじと見つめた。「まったく、いつまでたってもあんたには驚かされるよ」

 次のミッションは、キャスリーンがモニターだった。レヴィの意向にしたがって彼女がターゲットを選び、モニター室でぼくを待っていた。
「向こうに行って準備をして。これがタスクシートと座標。今日のミッションはかなりシンプル。ひっかけもびっくりもなし。いい?」
「もちろん。五分か十分で準備ができるよ。そしたらインターカム越しに叫ぶから」
 第二ERV室に行って位置につき、接続をすませた。
「オーケイ、いつでもカウントダウンをはじめられる」
「了解」とキャスリーン。「視界がクリアになってターゲットエリアに到着したら、すぐに話しはじめて」
 キャスリーンの声がしだいに遠ざかり、離脱がはじまった。今回、光のトンネルの降下にはいつもより時間がかかる感じで、膜にぶつかることもなかった。とてつもない距離を旅したか、ひょっとしたら座標を見失ったんじゃないかという気がした。
「なんだかのどが締めつけられるようだ。それに化学薬品のきつい臭いがする。腐食溶剤みたいな」
 キャスリーンはモニター上でぼくの発汗をチェックしている。「呼吸に意識を集中して、デイヴィッド。意識して呼吸するのよ。それと、じっさいに体が傷つく心配がないのを忘れないように」
「息がしづらい。のどがひりひりする。体が内側から燃やされてるみたいな感じ。荒涼とした風景しか見えない。月面みたいだ。地面は琥珀色で、大気がない──いや、酸素がないというべきかな。ここはどこなんだ?」
「あなたが教えて。地平線を見て──なにか見慣れたものがない? 太陽かなにか、光源をさがして。見慣れた感じがしない? 居場所を判断する手がかりになるような、特徴のあるものが見えない?さあ……自分でそういう手がかりをさがすことを覚えなきゃいけないのよ」
 山々のぎざぎざの稜線と露岩がどこまでも広がる圧倒的な光景を見つめた。空の色は青ではなく黒。月は見えない。星々の光には、ニューメキシコやワイオミングの夜空とちがって、奇妙なちらつきがあった。そして太陽は、まったく違っていた。小さくて冷たい。
「ここは地球じゃない、それだけはわかる。遠くに山脈が見える。かたちも大きさもさまざまの岩があちこちに散らばってる。細かい塵がありとあらゆるものの上に積もっている。きびしい風が遠くのほうから吹いてきて、塵を広げてるみたいだ。巨大な赤い雲が風にあおられて上昇しつつある」
「そこにいるのはあなたひとりだけ?」
 その言葉にぎくっとした。「もちろんひとりに決まってるだろ。どうして? そうじゃないはずなのか?」
「ターゲットの印象をたずねてるだけ。誘導尋問みたいに思えたとしても、質問の先回りはしないこと。ひと目でそれとわからないかもしれないものをさがすことを提案したいだけよ」
「どうかな。建物とか、ちょっとでもそれらしいものはなにも見えない。洞窟さえ見当たらない。時を遡って調べてみる」
 信号線に導かれるまま、過去に向かった。現在時はほとんど情報を与えてくれない。目を閉じ、動きに身をまかせ、そして目を開いたが、風景にはまるっきり変化がなかった。
「理解できない。時間の中でかなり大きな移動を試みたのに、やっぱりなにも見当たらない。地平線の風景も、大気も、まったく変化がない。しばらく歩きまわってみる。呼吸のほうはもうだいじょうぶみたいだから」
「そうみたいね。モニターにもとくに不都合な反応は出てない。でも、あまり遠くまで行かないように。そんなに長いあいだそこにいてほしくないから」
「五百メートルほど離れた大きな露岩に向かって歩いてる。大気は刺激性があって焼けるようだ。肌がぴりぴりする。いま、地表の小さなくぼみを降りてる。さしわたし十メートル、深さは一メートル半ぐらい。いま、そのくぼみを横断した。まだ例の露岩に向かってる。とくに興味を引くものは見えないし、生命の徴候もない。もうちょっとこの方向に進んでみる──」そのとき、土の上のなにかに気づいて口をつぐんだ。「妙だな」
「なに?」
「目の前に、二本の直線状のくぼみがのびてる。くぼみとくぼみは平行で、間隔は三メートルぐらい、二、三カ所切れ目があるけど、二十メートルほど先までつづいている。それぞれのくぼみは、深さ二センチ、幅五十センチぐらい。なぜここからはじまってるのか、どこに向かってるのか、全然理由がわからない。山脈のほうに向いてるわけでもないな、むしろそれと平行になってる感じがする」
「片方にさわって、なにを感じるかたしかめて」
「いまさわってみた。これは……これは自然のものじゃない。つまり、空からなにかが落ちてきて、こういう跡をつけたんじゃなくて、なにか、もしくはだれかがつくったものだ」
「つくったのは、そこに住んでいるもの?」
「ああ、だと思う。ここは彼らの故郷だと思う。でも彼らは、現在時にはいなかった。なにがあったんだろう?」
「その質問に自分で答えられると思う?」
 ぼくはなおもそのくぼみに手を触れていた。「いや、無理だと思う。ここでなにがあったにしろ、それは何千年も前のことみたいだ。なにがあったのかはわからない。ほかのセッションか、ほかの遠視者だったらつきとめられるかもしれないけど、ぼくひとりでいまそれを解明するのはぜったいに無理だね」
「オーケイ、じゃあこのミッションはおしまいにしましょう。接触を断って帰還して」
 オフィスにもどって報告書を書いているとき、メルが近づいてきた。
「今朝はどうだった?」
 メルにスケッチを見せた。「地面に引かれた二本の線以外では、見えたのはこれだけだよ。なんだかだんだん自分の腕が落ちてってるような気がするときがある。腕が上がるんじゃなくて。自分が見るはずのものにロックできないみたいなんだ。ただそのへんをうろうろして、なにかに出くわす。それでもそれがなんなのかわからない」
「おまえはうまくやってる──いや、それ以上だよ。なあ、博物館とか教会とか、そういう固定したターゲットはもう卒業したんだぜ。感情的にも知的にも極端にインパクトのあるもっと困難なターゲットへとはしごを登ってる。そいつが才能のあるサイキックと遠視者とを分ける違いなんだ。おまえは余興じゃなくて戦力になることを学びつつある。ここじゃだれも成功の鍵なんか持ってないし、だれにだって、出来のいいセッションと悪いセッションがある。おまえもおなじだ。しかし、おれの見たとこ、今度のは出来の悪いセッションじゃない。いままでおれが見ただれよりも、おまえはターゲットに到達するのがはやい。複数の対象からひとつをとりだして拾い上げる技術はまだないかもしれんが、ターゲット・エリアに到達することにかけてはまるで苦労してない。だからくさるのはやめて、とっとと報告書を仕上げちまえ。ターゲットの封筒が見たいんだ」
 キャスリーンがやってきて、ぼくのスケッチにちらっと目をやった。メルの顔を見てから、ぼくが報告書を仕上げないうちに、封筒を投げてよこした。
「でも──」とぼく。
「いいから見なさい。先に見せたこと、レヴィには黙っててね。正解だと思わなかったら、報告書が完成するまで見せなかったはずだから」
 ターゲットの封筒には、火星軌道上と地表の着陸船から撮影された一連の写真が入っていた。大気の化学分析結果と、高高度から地表を撮った写真には、数人の科学者が火星にかつて生命が棲んでいたと考える根拠となった地点が記されていた。
「おやおや」とぼく。
「メル、うちの子は旅行に飽きてきちゃったみたいよ。火星の地表を見て、『おやおや』しかいえないんだから」キャスリーンはむっとしたような口調だった。
「ああ、こいつはもうちょっと手を広げたがってるだけさ」
「手を広げる? 火星からさらに手を広げるって? ま、考えてはみるけど」キャスリーンはフォルダーをひったくり、戸口に向かった。「報告書は十分以内に仕上げて」
「すっかり怒らせちまったぞ」とメルがいった。煙草を一本とりだして、「せいぜいひとりでみじめな気分に浸ってろ、そのあいだにおれはこれを吸っちまうから」
 暗い気分で報告書を書き上げ、それをキャスリーンに提出した。「ねえ、最低なやつって印象を与えたんなら謝るよ。答えをさがしてたつもりだったのに、見つかったのは新しい質問ばかりだって気がして」
「気持ちはわかるわ。癇癪を起こしてごめんなさい。あなたのためのプランは頭の中にできてるから、自分がやってることの重要性を理解してもらえないとむしゃくしゃするのよ。火星の地表に行って、ほんの数分で帰還するっていうのは重要なこと。あなたの質問すべてに答えが与えられなかったからといってぶつぶついうんじゃないの。今回の場合、あなたにとって答えを得るべき最大の問いは、地球外に旅して生き延びられるかどうかだった。それともうひとつ、この宇宙でわたしたちは孤独じゃないってこと。それが今回あなたに学んでもらいたかったこと。ほかのことはすべて、おいおいわかってくる。いい?」
 ぼくはにっこりした。「ハイスクールの一年のとき、きみが数学の先生だったら、いまこんなに数学で苦労することもなかったと思うよ」キャスリーンの肩をぽんとたたいて、「忍耐心にお礼をいっとく。こんな出来の悪い生徒の面倒をみてくれて」
「あなたは歩兵でしょ。それ以上のことは期待しないわ。なんていったっけ? 『歩兵と議論するのは豚とレスリングするのとおなじ。みんな汚れるだけだけど、豚はそれが大好き』」

 夏の暑い日、デビーに説き伏せられて、家族そろってピクニックに出かけることになった。部隊本部から道路をへだてたすぐ向かいにあるバーバ湖が、理想的な場所だった。弁当を食べ、湖のまわりの草地でキックボールをした。それから、子供たちはそのへんで勝手に遊ばせておいて、デビーといっしょに太陽の下に寝そべり、しあわせだったころの思い出話に花を咲かせた。
「ブリガムヤング大にもどって、また学生をやりなおしたくなることがあるわ。一カ月の生活費はたっった二百五十ドルだったけど、でもしあわせだった。でしょ?」とデビーはたずねた。
「ああそうだね。ほんとにしあわせだった。マイクルが生まれたあとの夜のことを思い出すよ。覚えてるか?」
「スノウホワイト・ドライヴインに四個一ドルのハンバーガーを買いにいったこと?」
「それそれ──あの勢いで食べてたら、スノウホワイトがバーガーキングに勝ってたかもしれないな」
 ふたりとも笑い出した。メリーランドの陽光を浴び、くつろいだ気分だった。アヒルの群れが目の前を泳いでいく。マイクルとマライアはアヒルに向かって松かさをぶつけ、水面を騒がせている。
「映画鑑賞会めあてでBYUの映画クラブに通ったもんよね」とデビーが回想する。「一本二十五セントで映画が見られた」
「映画というか、映画の断片だな。泣き出したうちの子を外に連れ出したり、よその親が子供を連れ出せるように席を空けたりするのの合間合間に。ポップコーンも買えなかったの覚えてるか? 家から持ってって、こっそり中に持ち込んだ。見つかったらどうなってたことやら」
 デビーはくすっと笑った。「BYUで? 冗談じゃない、大学新聞の見出しになってたわよ。『ポップコーン密輸犯、上映中に逮捕』って。ポップコーン法違反であなたもわたしも退学。学歴なし、仕事なし、未来なし」デビーはしばし口ごもった。「陸軍なし、銃弾なし、悪夢なし」
「おいおいデビー、そんな悲惨なことにはなってないだろ。つまり、ブーイに家があるし、子供たちはみんなうちにいるし、ぼくはほとんど毎晩帰宅する。レインジャー隊にいたころとは違う」
「レインジャー大隊は楽しかった。兵隊や家族の役に立てるのがうれしかった。自分が必要とされてるって気がしたもの。いまはそれがない。あのころはチームの一員だったわ、わたしたちのチームの。テイラー大佐も、キース・ナイチンゲールも、その奥さんや子供たちも好きだった。あのころはいまよりよかった、それだけ。なつかしいわ」
「気持ちはわかるよ。心の奥底では、ぼくだってなつかしんでる。ただ、それをなつかしむぜいたくを自分に許してるゆとりがないんだ。ここがぼくの居場所なんだし、だからぼくは変わりつつある。きみがそれを気に入ってないことも、ぼくのせいでたいへんな面倒をしょいこませてることはわかってる。でも、長い目で見ればうまくいくと思う。人生に起きることにはすべて理由があるんだ。きみもぼくも、陸軍についてずっとそう感じてただろ。いちばん役に立てる場所、ものごとにいい影響を与えられる場所におちつくはずだと思ってた。それを信じつづけなきゃいけないんだ」デビーの肩に身を寄せた。「抱きしめて、愛してるといってくれよ、昼寝してるから」
「愛してるわ、旦那様。いままでもこれからも、ずっと」デビーは悩める女の吐息を漏らし、「おやすみなさい」といって、ぼくが眠りに落ちるまで髪の毛を撫でてくれた。
 目を開くと、まばゆい日光が降り注いでいた。「しまった。デビー、適当なところで起こしてくれればいいじゃないか」腕時計と靴を置いた場所に手をのばしたが、どちらも消えていた。ひとりぼっちだった。パニックにかられて立ち上がり、デビーや子供たちをさがしてそのへんを走りまわった。「くそっ、信じられない。おれひとり置いて行っちまうなんて。くそ、くそっ。いったい靴はどこなんだ?」
 部隊本部のほうを向いたとき、見慣れた人影が目に入った。ヨルダンで見たビジョンに出てきた天使。なにもいわず、こちらを見ている。
「またおまえか! いいか、おまえが何者で、なにしにやってきたのかは知らないが、おれの質問に答えるまでそこを動くんじゃないぞ。まず第一に、女房と子供はどこに行った?」
「まだここにいますよ」彼の口調は、慈愛とやさしさに満ち、それを聞いているうちに全身があたたかさと光に満たされた。「さっきとおなじ場所に」
 もう一度あたりを見まわしたが、家族の姿はなかった。
 ぼくが口を開く前に、天使はいった。「姿が見えないのは、あなたが、平行して存在するべつの次元にいるからです。彼らにもあなたの姿は見えず、声も聞こえません。ご家族が安全であること、あなたの不在に気づいていないことは保証します」
 視線は動かさないまま、短くうなずいた。「いいだろう。でもどうしてここにやってきた? ぼくはなぜここにいる? ぼくになにが起きてるんだ?」
 天使はわかっていますというようにほほえんだ。「あなたはわたしと話をするためにここにいます。わたしはあなたと話をするためにここにいます。あなたの身に起きることは、すべてあなたの考えしだいです」
「どうしてぼくなんだ? どうしてメルやポールやキャスリーンじゃないんだ?」
「それは、あなたが選ばれたからです。あなたの父親も、はるかむかし、それを知っていました。いつか近い将来、ふさわしいときが訪れ、彼があなたに話す勇気を持ったとき、あなたはそのいきさつを聞くことになるでしょう。あなたのビジョンによく似たものの中で、彼も情報を与えられたのです」
「どんな情報を?」
「それは、あなたの父親が、ふさわしいと考えたときに話すでしょう。いまわたしが告げたいのは、苦しみのときがあなたを待っているということです。あなたが大切に思うものすべてが危機に瀕し、あなたは孤独と絶望に直面するでしょう。あなたは意気をくじかれ、見捨てられるでしょう。いまそれを告げるのは、あなたがそれにそなえて精神的に準備できるようにするためです。それ以上のことはなにもいいません。ただ、あなたを深く愛しているきわめて特別な人物によって、わたしがあなたのもとに遣わされたとだけ伝えておきます。わたしはつねにあなたとともにあります、あなたのもっともつらいときにも。忘れないでください。わたしはつねにあなたとともにあります、あなたのもっともつらいときにも」
 陽光の中で彼の姿が薄くなり、やがてなにも見えなくなった。ぼくはデビーの腕の中でおだやかに目を覚ました。彼女の頬にキスして、いつもより一瞬だけ長くその体を抱きしめた。
「ぼちぼち仕事にいかなきゃ。いっしょに過ごしてくれてありがとう」駆け寄ってきて足もとにまとわりつく子供たちを抱きしめてから、家族をあとにして、自分の世界にもどった。

 一九八九年の夏が、秋へと移り変わっていった。ある朝、勤務時間前に、メル・ライリーが本部のそばを流れる小川の岸辺に佇み、川面に石を投げているのを見つけた。
「今日ははやいな。家でなんかあったのかい?」とたずねながら、小石をメルの足もとに投げた。
「おいおい、気をつけろよ。いや、ちょっと考えごとがあってな。それにはここがいちばんだから」
「へえ。そんなに重要な問題なのか?」
「退役だよ」最後の小石を投げ、水面に広がる波紋を見つめた。「なあ、この古い小川が、もう八年もおれの正気を保ってくれてるんだぜ。いなくなると思うと残念だよ」
「どうしていなくなる必要があるんだ? 入隊してまだたった二十年だろ。あと十年つとめて、受けとる金額を大きくすりゃいいじゃないか。メル、退役を考えてるなんて一言もいってくれなかったくせに。あんたなしでいったいぼくはここでどうすりゃいいんだ?」
「三十年だと?」メルは声をあげて笑った。「陸軍なんぞに一日二十四時間かける三十年も捧げるつもりはないぜ。おまえもそれはよしたほうがいい」メルはまた新しい小石を拾った。「いや、人生の二十年間でじゅうぶん以上だ。とくに、おれが見てきたようなものを見てきたんじゃな。デイヴ、おまえは本物の陸軍の出身だ──“誇り”とか“情熱”とか“名誉”とか“戦友”とか、そういう言葉が使われる陸軍のな。おれの場合は、まだ若い軍曹だった時分に、そういう言葉が人生から消えちまった。おれの望みはイーディスと暮らすこと、ウィスコンシンかどこかで、静かにふたりでいっしょに年をとることさ」
「でもやっぱりフェアじゃない。あんたがいなくなったら、ぼくはどうしたらいいのかわからない。まだここに来てちょっとしかたってないけど、そのあいだに学んだのは、信頼できる友人が必要だってことだよ。その友人があんただ。いなくなるとほんとにさびしい」
 メルは、いつもの皮肉な表情とは似合わない、真摯な目でぼくを見た。「ありがとうよ。おれも、おまえのことは友人だと思ってる。それに、おまえになら安心して背中を見せられることもわかってる。この世界じゃ、めったにないことだぜ。いつか友人と自称するやつがあらわれる。ところが次には、おまえの背中にナイフを突き立てようとする。おまえより自分のほうがりこうだと思ってるやつがな」さっき拾った石の最後のひとつを投げてしまうと、メルはジャケットの内ポケットから小さな革の袋をとりだし、口を開いて手を入れた。「おまえのためにこれをつくった。お守りだよ」
 メルの手の中に、平らな真円の石があった。きつく縫い上げたしなやかな革製のケースにおさまり、上の三分の一だけがむきだしになっている。ケースはビーズの複雑な模様で飾られ、首にかけられるように長い革ひもがついている。美しい細工だった。
「その模様はどういう意味?」
「石のまじないだ──ほら、おれのとおなじだよ」メルはシャツの内側から自分のお守りをひっぱりだして見せてくれた。「いつも心臓のとなりに吊しておくんだ。おまえのは、おまえが熊の氏族、戦士の階級に属していることを意味している。表のそのシンボルは、洞窟の熊を表してる。こっちの色と模様は熊を狙う敵の銃弾、こっちの波線は、魂と力が銃弾を防いで、地面に落とすことを示している。熊はその力で守られ、その力は熊の勇猛さから、勇猛さはその魂から来ている」
「これはほんとに……なんといったらいいかわからない。こんな大切なものをもらったのははじめてだよ。ありがとう、メル」
「いいんだよ、兄弟。しかし、まだある。ひっくりかえしてみろ。こっち側のシンボルは、万物の均衡を意味している。インディアンの陰陽みたいなもんだな。この石は均衡がとれている。まじないのこちら側の色とシンボルもおんなじだ。赤は逆境、混乱、挑戦を、青は深淵と約束と善をあらわす。中央の黄色は、ふたつの力を分かち均衡を生み出す太陽の、東から西への旅を象徴したものだ」メルはぼくの肩に片手を置いて、人好きのする笑みを浮かべた。「おまえの人生には均衡が必要だと思う。これをつねに身につけて、信じていれば、その信念にしたがって、この呪物が必要なものを与えてくれるだろう」その視線がまっすぐぼくの魂に触れたような気がした。「さあ、まずいコーヒーでも飲むか」
「ああ、悪くないね。それとメル、ほんとにありがとう。肌身離さず持ち歩くよ」
「なあ、その石を拾ったのは二十年前、陸軍に入隊する直前だった。以来ずっと持ち歩いて、正しい使い方を待っていた。だいじにしたほうがいいぜ、そいつはベトナム帰りなんだからな」
 なにかだいじなことをいいたかったけれど、のどにこみあげてくる熱いかたまりと闘うのに必死だったから、唇をぎゅっと閉じて、オフィスにもどるまでのあいだ、ずっとメルの話を聞いていた。その夜、家に帰る車の中で、お守りを手に持ち、指先でビーズをこすってあたためた。その力がつねにぼくの身を安全に保ってくれることを信じたかった。これが悪夢の答えになってくれることを胸の中で祈った。

 二週間後、メルにモニターされて、自由探査と呼ばれるミッションを担当した。オープンサーチでは、手がかりとなる座標は与えられない。信号線に導かれるままに、なにか学ぶべきが情報ある場所へ赴く。遠視者が折にふれてオープンサーチをおこなうのは、向こうにはわれわれのもの以上にたくさん、彼らのもの──惑星、生物、文明──があることを思い出すためだ……と思う。オープンサーチはこのときがはじめてだった。この二日間、メルからみっちり仕込まれていたものの、いざはじめてみると、思い出せるのは、それがいつも、遠視者の高慢の鼻をへし折るような、驚きに満ちた経験であるということだけだった。
「どこにいるか教えてくれ」とメルがいった。
「大草原の真ん中だ。五十メートルほど先の地面から、ぎざぎざの岩山がいくつも突き出しているのが見える。高さは三十メートルぐらい、地面に対して四十五度の角度で置いた黒い水晶みたいに見える。すごくきれいだ。
 いま、水晶群のすぐ前まで来た。表面に映っている自分の姿が見える。妙だな──サーチ中に自分の鏡像を見たことなんか一度もなかったのに。それにこの鏡像は、まるで水晶の内側、二メートルぐらい奥にあるように見える」
「それはつまり──」
「わっ。水晶の中にはほかにも鏡像が見える」なにかが自分の横かうしろにいるにちがいないと思って、ぱっとうしろをふりかえったが、なにもなかった。鏡像ではない。「メル! 黒い水晶の壁の中で動きが見える。人間みたいな姿だけど、はっきり見分けられない」
「壁の中に入って、それが何者なのか調べろ」
 片手を水晶に押しつけてみる。「ここは入り口みたいだ。下りの階段がある。幅は六メートルぐらい、地表から六十メートルほど下まで下ってる。これからその階段を降りてみる」
「さっきの人間のような姿について報告しろ。彼らがなにを考えているか、どんな外見か、なにをしているか」
 階段を降りていった。周囲は通路と無数の巨大なアーチ門が織りなす迷宮だった。目に映るものすべてが黒水晶でできている。どこに目を向けても、歩いている人々がいた。
「外見はぼくらによく似てると思う──じっさい、これといったちがいは見当たらない。服装は、古代エジプト人が着ていたような、とてもゆったりしたやつで、金色の刺繍と金属の飾りがアクセントになっている。色は白で、この場所の黒い背景とはきわだったコントラストをなしている。
 透明のアーチ路に近づいてる。アーチは、いま歩いている歩道の上を二百メートルほどにわたってカバーしてる。大きな部屋の中に入った。このアーチ路は、部屋の端から端までつづいてる。こいつはでかい」
「全員が集まるような場所はあるか?」
「さあ。ちょっと待って」歩道のひとつが、ほかの道より人通りが多そうに見えたので、そちらに移動した。「いま、人々の大きな集団のあとをついて進んでいる。すごく妙な感じだ、こういう人たちといっしょに歩くのは。彼らはぼくがここにいるのを知ってるような気がする──じっさい、何人かはまっすぐこっちを見て、にっこりした。でも、ぼくに興味は持っていない。ただ、ぼくの存在を知っているだけらしい」
「だれかがおまえと話をするかどうかたしかめろ」
「オーケイ、おおせのままに」馬鹿みたいな気分がしたが、彼らに向かって両手を振りまわし、話しかけ、行く手をふさぐことさえした。彼らの反応は、こちらを見ることだけ。行く手に立つぼくを、彼らはまっすぐ通り抜けた。「だれも話をしないよ、メル。おあいにくさま」
「よし、ではその場所の中心にあたるようなところがないか、さがしてくれ」
「まださっきの大集団のあとについていってる。どうやら歩道をはずれるらしい……ああ、いま大きな部屋に入った。ぎゅうぎゅう詰めだ。円形劇場みたいに見える。すり鉢状になって、下へ行くほどせまい。やっぱり黒水晶でできてる」
「そこでなにがおこなわれてるんだ?」
「すり鉢の最下層の一段高いところに大きな椅子があって、だれかすわってる。全員、その生き物がいうことに注意深く耳を傾けている」
「どうして『その生き物』と呼ぶ?」
「ああ、それはいい質問だね。その彼または彼女は、ほかの連中より体が大きくて、服装も違ってる。ほかはみんな白を着てるのに、こいつだけは黒。頭に大きなフードをかぶってて、両手はゆったりした長い袖にほとんど隠れている。わずかにのぞく手も、ほかの連中とは違う。肌がもっとざらざらした感じて、色も浅黒い。あえていうなら、こいつはひどく邪悪な感じがする」
「邪悪?」
「いや、邪悪じゃないな。こいつは立法者かなにかだと思う。ああしろこうしろと指示して、人々はいっさい疑問をさしはさむことなくその指示に従う。もっとも、そんなにはっきりしてるわけじゃない。彼が人々を指さし、なにか身振りをする。そうすると人々は部屋を出ていく。命じられた仕事をしにいってるらしい」
「その立法者に話しかけることはできるか?」
「まさか。ためしてみる気もないよ。ぼくがここにいるのを知ってるのに、毛ほどにも気にしてない。ここにいるって事実をぼくがひけらかそうとしたら、すごく腹を立てるんじゃないかって印象がある」
「よし。もうじゅうぶん見たか?」
「ああ。いまのところはもうじゅうぶんだと思う」
「接続を切って帰還しろ」
 ぼくの臆病さにメルが失望するかもしれないと思った。メルは、ぼくが自分の存在を声高に主張して、あの生き物とコミュニケートすることを望んだ。が、ぼくはとにかく、そうすることがふさわしくないと感じたのだ。異世界の探訪にはある種の魅惑を感じているけれど、同時に、敬意をもって接することの重要性も理解していた。ぼくは招かれた客ではなく、侵入者だった。彼らはぼくを見たし、ぼくの存在に気づいていたが、それでもぼくに話しかけないことを選んだ。だから、ぼくの存在が受け入れられたのではなく、容認されたにすぎない。そしてぼくは、二度と異世界に干渉しないことを誓った。彼らにはぼくを認める権利があるが、こちらから自分の存在を押しつけることはぜったいにすまい。
 メルはぼくの手から報告書をひったくった。「さあ、今日は早じまいにしてビールをひっかけようぜ。話がある」
「いまのセッションのことで頭に来てるんじゃなきゃいいけど」
「頭に来てる? ああ、またそいつか、うまくやれなかったと思ってるんだろ。デイヴ、オープンサーチからなにを得るかはおまえしだいだ。部隊はなにも期待していない。オープンサーチは無料サービスだよ。どこへ行きたいと告げるんじゃなくて、信号線に導かれるままにどこかへたどりつく。遊園地みたいなもんだな、チケットがRV訓練というだけで。最高だろ?」
「ああ、だと思う」
「で、なにか学んだか?」
「他の世界、他の文明があること、それぞれがこの宇宙の中で自分たちの計画にしたがっていること。おかげでいろんなことが自分の中で整理できたような気がする。むかしは、人類は神に選ばれた人々だと考えていたけど、明らかにまちがいだった」
「どうしてそう思う?」
「神の支配がどこからはじまってどこで終わるかなんて、だれにわかる? つまり、神は、さっきぼくが訪れた場所のお目付役かもしれないじゃないか。あの世界の住人よりぼくらのほうがすぐれてるなんてどうしていえる?」
「わかってきたようだな、相棒。人類は、この宇宙に存在する一億の銀河系のひとつに含まれる一億の星系のひとつに含まれる、ちっぽけな青い点に縛られた存在でしかない。おれたちは、どこで宇宙が終わるのか、そもそも終わりがあるのかどうかも知らない。それにほかの次元のことは、まだ話をはじめてさえいないんだぜ。頭痛がしてきただろ?」
 ぼくは笑い出した。「ああ、たしかに。さあ、ビールを飲みにいこう」

 基地のすぐ外にある小さなパブに車で乗りつけ、カウンターにすわった。基地の町にあるバーの典型で、あちらこちらの特務班や分遣隊メンバーの推薦状だの部隊ステッカーだのがべたべた壁に貼ってあった。カウンターのうしろの壁には、世界じゅうの国の紙幣やコインを飾った額がかけてあり、国防省の世界漫遊家たちがこのバーの常連であることを示している。メルはドイツの黒ビールをふたつ注文した。
「ウィスコンシンの物件を当たってるんだが、おまえの意見が聞きたくてね」メルはよれよれになった新聞の切り抜きと不動産屋のチラシを何枚かとりだし、カウンターの上に広げてみせた。
 写真に写っているのは、ウィスコンシン州スカンディナヴィアにある古い二階建ての家だった。家のあちこちにオリジナルの木工品と飾りがあり、すべて硬材造り。湖のほとりにあり、玄関は閑静なメインストリートに面している。大きなオークの林が家を囲み、緑を与えていた。「すごいな、メル。いくらだい?」
「三万八千ドル。寝室は五つ、独立したガレージがひとつ、湖に面し、由緒正しい歴史つき」メルはごくごくビールを飲み、げっぷを洩らしてグラスをカウンターに置いた。
「たったそれだけ? その条件でたった三万八千ドル?」
「それだけさ。故郷に帰って暮らしたいと思うわけがこれでわかるだろ。このへんで似たような家を買おうと思ったら、十倍の値段になる。しかも、こんなとこに住みたがるやつがいるもんか。少なくともおれは違うね。イーディスにまともな暮らしをさせてやりたいのさ。ああ、もちろんおれだってまともな暮らしがしたいよ。釣りもしたいし」ビールの残りを飲み干し、もう一杯注文した。「残りの人生を送るには最高の場所になるだろう。それに、いちいち許可をとらずになんでも好きなものを遠視できる。その日が待ち遠しいよ」
 ビール瓶のラベルをはがしながら、親友が未来の計画を語るのを聞いていた。自分の未来がどんなものになるのか、見当もつかなかった。最近では、それを考えることさえしていない。「なんでも好きなものが遠視できるとしたら、なにを見る?」
「決まってるさ。ネイティヴ・アメリカンの過去を覗いて、彼らの未来に対する答えを見つける。彼らがよりよい生活を確立できる助けになることならなんでもやるよ。おれたちは彼らに大きな借りがある。おれの力ですこしでもその借りを返せれば本望だね。そのために遠視を使うことはできると思うし、その方法を見つけるつもりだ」
「地球外知的生命をさがして、宇宙の遠視に時間を注ぎ込むのかと思った」
「それがおまえの望みなのか?」
「まさか。ぼくの気持ちは知ってるだろう──彼らが存在すること、ぼくらの存在を彼らが知ってることがわかったのは、たいへんなことだと思う。でも、それだけのことだよ。それについて、自分でなにかしたいわけじゃない」
「ま、この部隊にもそれをしたがってるやつはいるからな。おまえも流行に乗るのかと思ったんだ」
「ぼくはちがう。ぼくにはぼくの問題があるし、人類には人類の問題がある。解決策は、銀河の辺境じゃなくて、この場所にあると思う。いままでにぼくが訪問した外世界の住人たちは、みんな自分たちの計画で忙しくしていた。ぼくらに対しておだやかな好奇心は持っているけれど、それだけだよ。あんたは?」
「おれもそんなに夢中になってるわけじゃないな。なんていうか、彼らは退屈をもてあました隣人みたいなもんだと思う。どうなってるかようすを見にうちの裏庭に立ち寄ることはあるが、人類なりなんなりを変革しようとか、そんなことのために来てるわけじゃない。つまり、おまえが向こうで見たほかの種族のことを考えてみろよ。おれたちはちっとも特別じゃない、そうだろ? 人類よりはるかに進歩した、はるかに長い歴史を誇る種族がたくさんいる──おれもおまえも、部隊のほかの連中も、みんなそれを見てるんだ」
「うん。地球外知的生命のことを誇大に考えたがる風潮があるからね。そいつを宣伝して、人類の未来はどこかの気まぐれな恒星間航行種族の手に握られているという考えをみんなに売りつけたがってる。この地球で答えをさがさなきゃいけないのに。遠視は科学や医学や教育のために使うべきだ。まったく、もしその気になれば──」
 メルがさえぎった。「ちょっと待った。ヘンリー! おれの相棒にビールをもう一本。こいつ哲学者気分なのに、ビールが切れてるんだ。よし、つづけろ」
 ひと口ビールをすすって、中断したところから話を再開した。「遠視を使って、AIDSや癌やアルツハイマーの治療法を見つけることだって不可能じゃないだろ。専従の遠視者グループとデータを分析する専門家チームを編成して、うまく管理すれば、遠視を利用してどんなことでもできる。なのにいま、ぼくらはなにをしてる? 悪者を追跡し、敵をスパイしてるんだ。向こうは向こうで、こっちをスパイしてる。遠視を戦争の道具としてだけ使いつづけるのは犯罪にひとしい。まったく気に入らないよ」
「おやおや相棒、自分の居場所を忘れるなよ。ここはフォート・ミード、諜報活動のメッカだぜ。もういまごろは、国家安全保障局の変態野郎が、おまえの発言を録音したテープを対敵諜報活動将校に聞かせてるぞ。今晩家に帰るころには、電話には盗聴器が仕掛けられ、近所のだれかは金をもらっておまえを監視するアルバイトをはじめてる」
 ぼくらは声を合わせて笑った。
「いやはや。ま、とにかくおれはそんな気でいるってこと。おっと、ぼちぼち帰らなきゃいかん。犬小屋はもうたくさんだからな。ビール臭い息で帰ると、犬といっしょに寝かされるんだが、うちの犬はおれのタイプじゃなくてね」
 ぼくらはバーを出たところで別れた。遠視の潜在的可能性についての考えがどうしても頭から離れなかった。遠視が救えるかもしれない人命、遠視が明るく塗り替えられるかもしれない未来。が、忘れることにした。ぼくができることはなにもない。

 訓練はほぼ終わりかけていた。レヴィがそういったし、メルはぼくの進級を求めることさえした。それが通っていれば、もう一カ月はやく作戦メンバーの地位を得ていただろう。しかし、レヴィはぼくの進歩に満足していたものの、通常より六カ月もはやく訓練を打ち切る決定を下したら、それを正当化するのがほねだと考えて、まだひと月かそこらは時間をおくことを望んだ。
 冬が訪れていた。フォート・ミードの陸軍は、落ち葉の清掃に業者を呼ばず──経費節減のためだろう──地面はオークの枯れ葉におおわれた。このあたりでは、道路に落ち葉がびっしりつもり、現実に事故のもととなる。氷の上と同様、落ち葉の上ではブレーキが利かないのだ。南カリフォルニア生まれのぼくには、はじめての経験だった。部隊はスタッフ総出で落ち葉をかたづけた。建物のまわりの落ち葉を熊手でかきあつめるあいだ、ペットの猫たちがそのへんを逃げまどい、ジェニーは大嫌いなリスに一発お見舞いした。みんながこんなに笑ったりしゃべったりするのを見たのはこのときがはじめてだった。そして、最後にもなった。翌年は、清掃業者が巨大な落ち葉吸い込みトラックで乗りつけて、あっという間に処理してしまった。ジェニーは、リスが吸い込まれませんようにと祈りながら、窓辺で作業を見守っていた。
 ぼくは、日を追うごとにますます部隊に愛着を持つようになった。逆にいうと、デビーや子供たちとの距離がどんどん大きくなっていった。配偶者があなたのしていることに興味を持っているなら、希望はある。もしそうでなければ、たとえその無関心が胸の奥にしまいこまれていたとしても、希望はない。仕事がすべてを呑み込むものでなければ──家庭にいっさい持ち込む必要のない仕事をしていたのなら──ぼくもだいじょうぶだったかもしれない。だが、そうではなかった。家に帰ると、職場で経験したことのなにがしかを家族と共有しようと努力した。しかしぼくは、子供たちの生活にとって異分子だった。友だちに披露する話のタネになる余興、舞台の手品みたいなものでしかなかった。その役割を果たしつづけているかぎり、ぼくにも居場所はあった。しかし、ぼくの悪夢のせいで家族はおびえ、もっと安全な生活を願っていた。子供たちはおびえ、デビーはおびえ、そしてなお悪いことに、不安定な心はぼく自身をおびえさせた。
 両親に手紙を書くのもやめていた。考えつく言葉は、愛しているということだけ。それ以外はなにひとつ、手紙に書くほど重要とは思えなかった。ときおり向こうから電話がかかってきたけれど、両親は傷ついていた。ぼくは両親を見捨てたも同然だった。デビーは、彼女が見るかぎり、ぼくはいまも助けを必要としていると両親に説明した。しかし、ぼくがどれほど遠い存在になっているかを両親が理解していたとは思えない。そしてデビーに関しては、もう一年以上、デートに連れ出したことがなかった。おたがいに、そんなことはとっくに期待もしなくなっていた。デビーは新しい友だちを見つけ、ぼくはエーテル世界に没入していた。このテーマに関係する書物を読みあさり、すべての体験と悪夢について詳細な日誌をつけた。未知の探求に夢中になるあまり、それを認めることのできない人間のために割く時間はなくなっていた。
 レインジャー大隊時代のいちばんの親友だったキャシーとアシュリーのジョイナー夫妻、実の兄弟姉妹同然に愛していた彼らは、もはや思い出程度の存在になっていた。レインジャー大隊を離れたとき──何世紀もむかしのことに思える──アシュリーはカスタムメイドのナイフをあつらえて、プレゼントしてくれた。ぼくの宝物になったそのナイフは、握りの部分に、永遠の友情を誓う握手の絵が刻まれていた。オークでつくった手づくりの鞘には、シオドア・ローズヴェルトの有名な言葉が引用されていた。「重要なのは批評家ではない。強い男はいかにつまずいたか、なにかをなしとげた者がどうすればもっとうまくやれたかを指摘する男ではない。賞賛は、じっさいに闘技場にいる男に属する。その顔は、土と汗と血に汚れている。雄々しく闘う者、何度も何度も誤ちをおかし、目的を果たせない者である」ぼくはそのナイフをしまいこんだ。かつての自分を思い出すのはつらすぎた。
 デビーは、ぼくが信仰を失わず、せめて子供たちに模範を示すためにだけでも教会の集会に出てくれたら、あとはほとんどどんなことでも耐えられるといいつづけていた。しかしぼくは教会を捨て、まもなく教会もぼくを見捨てた。教会との最後の接触は、一九八九年の夏に開かれた、サクラメントの集会だった。モルモン教会では、監督が用意したテーマについて、メンバーが会衆の前で定期的に話をする慣習がある。テーマは、伝統的な信仰に即したおおむねシンプルなもので、スピーチは聞き手に励ましを与える啓蒙的なものが期待されている。その日、デビーとぼくがスピーチを乞われていた。
 デビーはすばらしいスピーチを披露した。一方、ぼくはといえば、会衆は宗教的な栄養を長年にわたって摂取しすぎていると判断し、与えられたテーマを無視して、自分が選んだ題目、「神殿──儀式を超えて」について話をはじめた。次元、天文学、地球外の惑星と生物について、神とはなにか、神がわれわれにかかわる理由はなにかについて話した。書物や教会の教えを離れて精神を拡張し、いままで想像したこともないものになるべしと会衆をたきつけた。
 頭がおかしいと思われたことだろう。結語の「アーメン」を口にしたとき、それに唱和してくれたのは、二百人の会衆のうち五人かそこらだった。そのとき、ぼくは怒り狂っていた。この反応こそ、組織宗教の典型的な例だと思った。異議を申し立てるな、質問を発するな、信徒席にじっとすわっていろ。神がそれに報いてくださる。『ハムレット』第三幕第二場を思い出した。「眠れぬやつにはお気の毒、こちとらのんきに高いびき。とかく浮世はままならぬ」逃げ去るがいい、子羊たちよ、そしてそのちっぽけな世界でぬくぬくとしていればいい。もうあんたたたちのために使う時間はないよ。ぼくは二度と教会にもどらなかった。予想どおり、子供たちも教会から離れてしまった。教会は、若いメンバーを両親の支えなしにひきつけていられるほど強力ではない。デビーひとりでは子供たちをひきとめられなかったし、ぼくは──べつの場所にいた。

 一九九〇年の秋、メルは二カ月後に迫った退役の準備に忙しく、ぼくはなにか記念になるものをプレゼントしようと思い立った。デビーを説き伏せて、貯金の一部を引き出し、カヌーを買うことにした。メルには釣りのための舟が、すべてを忘れて打ち込めるなにかが必要だった。アレクサンドリアにカヌーを売っている店を見つけた。その店に置いてあるカヌーについて知るべきことすべてを知り、たずねるべきことをすべてたずね終えたとき、店の正面には十一艘のカヌーが並べられていた。ぼくはそのそれぞれに、最低でも五回ずつ乗ってみた。パドリングの真似までしてみせたが、これは主に、担当の店員と、そこでヨットに値段表を貼っている人たちに見せるためだった。一艘ずつ小脇に抱えてそのへんを歩いてみることも辞さなかった。こいつは頭がおかしいにちがいないと店員が思いはじめたころ、ぼくはカヌーの一艘を指さし、魔法の言葉をつぶやいた。「これをください」事務手続きと梱包はあっという間に終わり、まるでビッグマックを一個買ったような気分になった。
 車からカヌーをおろしたときのメルの顔を見るだけでも、苦労しただけの甲斐はあった。まるで十二歳のクリスマスみたいだった。当然のことながら、イーディスは、引越業者が荷造りに来るまでのあいだ、このやくたいもないボートをどこにしまっておくのかと気に病んだが、メルはといえば、もちろん、女房に話したくてしょうがないアイデアを山ほど持っていた。縁石のところで議論に夢中になっている夫婦を残し、ぼくはにやにやしながら車に乗って家路についた。

 その日は金曜日で、定例のスタッフ会議が開かれた。全員が三々五々、奥の部屋に入り、席についてレヴィの登場を待つ。ぼくの席はいつもメルのとなりだった。会議が退屈になっても、メルがノートにスケッチやいたずら書きをするのを見ていればすむ。退屈したメルがひまつぶしに描くものは、まったくみごとというしかなかった。会議中のビーズ細工をレヴィが許可しないのが残念だった。
 会議中、キャロルとジュディはいつもと同様、皮肉屋で通している。ブラッドとポールはぐっすり眠りこけているのかもしれないが、その目はいつもぱっちり開いて、発言者のほうを向いている。しかし、会議が終わった二分後に、議題についてなにか質問してみれば、ふたりとも、いったいなにを聞かれているのかもわからないだろう。特筆すべき才能だと思う。
 キャスリーンはいつも時間に正確で、注意深く耳を傾けていた。メモまでとっていたくらいだ。むかしからぼくが大嫌いだった、小学校時代の優等生の少女たち──かわいくて知的な、先生のお気に入りみたいに。リンもキャスリーンとおなじタイプだが、ただし彼は男性だから、ぼくとしてはもっとむかついた。
 ダイエット・ソーダを手に、ようやくレヴィが姿をあらわした。「全員そろってるな?」と毎度のようにたずねるのだが、だれかが答えたためしは一度もない。「よし。いくつか事務連絡がある。まず、冷蔵庫のソーダを飲んで代金を払っていない者がいる。心当たりのある者は、ソーダ積み立て箱に十二ドルを入れておくこと。これが実行されさえすれば、この件についてはこれ以上なにもいわない」
 ぼくはメルの脇腹をひじでつつき、「払えよ、ケチ」とささやいた。
 メルはにやにやしただけだった。もっとも、メルがソーダを手にしているところなど、一度も見た覚えがない。
 レヴィは話をつづけた。「第二に、部隊の車を使ってDIAの講習に出た場合は」といって、キャスリーンとブラッドのほうに目を向けた。国防情報局の講習に参加しているメンバーは、このふたりだけだった。「車を返す前にガソリンを満タンにしておいてくれるとありがたい。なにも知らない人間が本部までの足に使おうとしたとき、不注意なだれかがガソリンタンクをからっぽにしていることに気づいて、最寄りのガソリンスタンドに寄り道せざるを得ないという不幸な事態が生じている。第三に、デイヴィッドが作戦メンバーに昇格した。第四に、われわれは来週、ドクター・コンプトンの隠れ家に行くことになっている。もし──」
「ちょっと待ってください」と、ぼくはあわてて声をあげた。「もうしわけありませんが、第四項をもう一度。ぼくは作戦メンバーになったんですか?」
 メルはぼくをいびるチャンスを見逃さなかった。「そういっただろう──メモをとってなかったのか? デイヴにはもう一、二カ月、訓練をつづけさせたほうがいいと思いますね、ミスター・レヴィ。作戦遠視者がメモもとらないなんてのは、とても信じられない。きみはメモをとってるよな、キャスリーン?」キャスリーンはノートをかざし、すました笑みを浮かべた。「ほらね。キャスリーンはちゃんとメモをとってる」
「よしよし、もういい。議題にもどる」レヴィはさらに一時間、だらだらと事務連絡をつづけたが、ちっとも気にならなかった。とうとう作戦遠視者になったのだ。もう訓練ターゲットはなし。これからは本物のターゲットだけ。

 レヴィの発表のおよそ二時間後から、ぼくは作戦ターゲットを担当しはじめたが、メルが作戦任務のモニターにつくことは一度もなかった。彼はその日、黙って去った。もっとも、有給休暇を消化して引越の荷造りをするあいだ、何度かオフィスに顔を出した。六週間後、メルはウィスコンシンに発った。最後の別れを告げに彼がオフィスにやってきたとき、折悪しくぼくは所用で留守にしていた。それを聞いて大急ぎで家に電話をかけたが、もう電話がとりはらわれたあとだった。引越のトラックが出発する前につかまえられるかもしれないと思って家のほうに行ってみたが、すでにもぬけのからだった。十七時間後には、メルは新生活をはじめているだろう。
 メルのしあわせを祈ろうと努力した。だが、彼の不在に慣れるには長い時間がかかった。キャスリーンもリンもいい人間だし、親しい友人だったけれど、メルほど親しくなることはついぞなかった。
 その数週間後、レヴィが自分も退役すると発表し、この知らせは衝撃をもって受けとめられた。後任はだれだろう? レヴィの監督抜きでサン・ストリークはどうなるんだろう?
 ちょうどそのころ、DIAのとある大佐がオフィスを訪ねてきた。その日の午後、ぼくはレヴィの部屋に呼ばれた。
「デイヴィッド、こちらはDIAのウェルシュ大佐だ。きみに話があるそうだ」
 どっと冷や汗が噴き出した。
 ウェルシュは、壊れかけた客用椅子にすわって身じろぎした。「DIAにおけるきみの将来について、話をすべきことが生じてね」
 例の悪夢のせいでサン・ストリークを離れろといわれるにちがいないと確信していた。こんなふうにレヴィがぼくを見捨てるなんて信じられなかった。サン・ストリークのためにこれだけの経験をくぐりぬけてきたいまになって。
「きみは少佐に昇進し、カンザス州フォート・レヴェンワースの陸軍指揮幕僚大学(CGSC)に入ることになった」大佐は握手の手をさしだした。「おめでとう」
 ぼくはショックを受けた。つまりどういうことだろう。「ありがとうございます、大佐殿。しかし、喜んでいいのかどうかわかりません。つまり、フォート・レヴェンワースの件ですが。昇進し、ここにとどまることはできないのでしょうか?」
 ウェルシュはあっけにとられた顔になった。「いったいどういう意味だ?」
 レヴィがあわててぼくの救出に乗り出した。「モアハウス大尉は、とつぜんの昇進に驚いているんでしょう。それだけです」
「いえ、そうじゃありません」とぼくは反論した。「ここを離れてフォート・レヴェンワースのCGSCに行きたくないんです。そのポストはだれかほかの人間に与えてください、ぼくは非居住者コースをとります」
「おまえはバカか、それともまったくの能なしか? 陸軍はこのポストを用意することで、おまえになにかを教えようとしているんだぞ。CGSCの在住ポストを手に入れるためなら死んでもいいと思っている若者が大勢いる。なのにおまえは、くそフリークスの集団にしがみついてそれを投げ捨てるつもりか?」
 レヴィが眉を上げた。「失礼ながら、大佐──」
 ウェルシュがそれをさえぎり、「すまんが口をはさまんでくれ、ビル。わしはこの坊やに話をしてるんだ──こいつはまず第一に、自分がなにに首をつっこんでいるのかわかっとらん。なお悪いことに、銀の皿に載せて自分の目の前にさしだされているものがなんなのかも理解していない。いいか、よく聞け、モアハウス! おまえがこのチャンスを投げ出すことはありえない、とりわけこの部隊の任務のためにはな。泣こうがわめこうが好きにしろ。だが、CGSCに行かずここにとどまるとあくまでいいはるなら、おまえがかならず異動するようにおれがはからってやる。ここはクソみたいなオペレーションだし、資金の補充も欠員の補充もいっさいない。おまえは情報将校の地位についた歩兵科将校だ。赤ん坊のケツのイボみたいに目立つんだよ。おまえがここにいることはみんなが知っている──かつておまえがその下で働いた将官たちみんながだ。彼らはおまえがその意に反してここに島流しになっていると考えて、歩兵科に復帰させたがっている。かわいい坊やがここに残りたがっているなどという悲劇的な話を、彼らの耳に入れるつもりはない。おまえはなにがあろうとここを出る。陸軍がおまえをもっとも必要とする場所に行くんだ。いいな!」
「はい、閣下!」ウェルシュがまた一斉射撃をはじめる前に部屋を出たが、レヴィはさらに十分間、この男の猛攻に耐えなければならなかった。ウェルシュに会ったのはその日がはじめてだったし、その後も二度と顔を合わせていない。しかし、ぼくが部隊を離れるべく、歯車がまわりはじめていた。いくらか時間の余裕はあるだろうが──もしかしたら一年──サン・ストリークを離れることは決定したのだった。

 もっとも興味深い作戦ターゲットのひとつに、レバノンで捕虜となった国連オブザーバーのヒギンズ海兵隊大佐の捜索があった。DIAの依頼にもとづき、ヒギンズ大佐の所在地と状況を探ることは、ぼくらが経験した中でもっとも複雑な任務だった。遠視者全員が、それぞれ八回から十回のセッションをおこなった。ヒギンズはひんぱんに身柄を移されたが、そのたびに新しい場所をつきとめ、DIAに情報をわたした。しかし、それが実を結ぶことはついになかった──つまり、だれも救出作戦を実行しなかったのだ。サン・ストリークのスタッフにとって、解放の見込みもないまま、ヒギンズの心に聞き耳をたて、その苦しみをともに味わい、肉体と精神の健康が日に日に悪化していくのを見守るのはつらい任務だった。実りのない情報をひきだすためにヒギンズの苦痛を共有することに深刻な苦しみを感じたメンバーも何人かいた。彼らの苦悩は理解できたから、ぼくは陸軍の考えかたを説明しようとした。遠視者からの情報以外なんの根拠もなく救出作戦を実行して人命を危険にさらそうとする人間などいないだろう。そんなことをいいだせば、頭がおかしいと思われるにちがいない。遠視者からの機密情報をもとに奇跡の電撃作戦を実行するというわけにはいかないのだ。ぼくらがもたらす情報は、伝統的な方法で入手した信頼性の高い確固たるデータを補強し、バランスをとるために使われていた。他のふたつ以上の情報源からの情報がぼくらの発見を裏付けていれば、救出作戦が実施されていただろう。
 せめてものなぐさめになるかどうか知らないが、ぼくらがヒギンズの死を確信したのは、その死体がビデオに映される何時間も前のことだった。ヒギンズは首を吊られて殺されたのではなく、精神と心臓を病んだ結果、死にいたった。捕虜の急死に腹を立てた野蛮なテロリストたちは、挑戦のしるしとしてその死体を吊し、自分たちの失敗を最大限に活用しようとしたのだ。彼らにとって、死んだヒギンズにはなんの価値もなかった。生きていてこそ、取引の材料となったのに、心ならずも死なせてしまったのである。これもまた、なぐさめになるかどうかわからないが、ヒギンズはいま、この世界よりもはるかにいい場所にいる。しあわせで忙しい日々を過ごす、永遠の存在となった。七人の遠視者がそれを確認している。
 スコットランドのロッカビー上空で爆発したパンナム103便の事故直後から九日間にわたって、またべつの作戦ミッションが実行された。凍りつくように寒いある朝、ぼくらは作戦命令を受けた。なにが起きたのかを捜索隊と調査委員会がのろのろと解明しているあいだ、ただちにフィードバックを提供できるのはわれわれだけだった。
 サン・ストリークのために、事故を自分の体験として生き直すあいだ、ぼくは古い知り合い(ぼくらがタイニーと呼んでいた男)が死ぬのを見守った。ぼくらは一日に二度セッションをおこない、二個の爆破装置と二種類の爆破方法について、詳細なスケッチを描いた。ジュディとリンとぼくは、調査委員会の発表の数カ月前に、主爆破装置のスケッチを仕上げていた。電子装置や、爆薬のケースに使われたラジカセの図面を描いた。発表の何日も前に、爆弾がセットされていた位置が機体の左前方の貨物室だとつきとめていた。爆破装置の製造者を追跡し、引き渡しの現場から、組立場所まで特定した。テロリストの外見や名前、アジトや集会場所のスケッチを提供した。
 副爆破装置は、自決覚悟のイラン人女性によって機内に持ち込まれた。ペルシャ湾で合衆国が撃墜した旅客機に恋人が乗っており、復讐のためなら死もいとわなかった。彼女の持ち込んだ高性能爆薬は、市販のチョコレートバーそっくりの偽装がほどこされていて、自動爆破装置が働かなかった場合、それを起爆させることになっていた。彼女は、機体の左側、爆発地点のすぐそばの席にすわっていた。
 あらゆるセッションの中でもっとも苦痛が大きかったのは、爆発直前の旅客機の内部をリンが描写したときだった。彼の霊体は、もちろんほかの乗客からは見えない。しかし、狂気の爆弾が爆発したとき、彼のまわりには、いったいなにが起きたんだろうと不思議がっている数十の魂たちがいた。エーテルの中でひとりの幼い子供が近づいてきて、ママはどこなの、みんなどうしちゃったのとたずねたとき、リンは嗚咽した。リンには帰還するすべがあった。彼らにはなかった。

 ドラッグ戦争のさなか、サン・ストリークには、ある特定の船が非合法の麻薬を積んでいるかどうかを確認する任務が与えられた。エーテルの中で、遠視者たちは船に乗り、隔壁を通り抜けて貨物室に入り、マリファナやコカインのパッケージを見つけ出し、非合法の積み荷の位置を正確に特定した。予定されている海上の麻薬取引地点をつきとめ、カリブ海の島々に隠された原料基地を発見した。エーテルの中で、パブロ・エスコバルをはじめとする麻薬王たちを追跡し、その心に接触して、他の方法では知るべくもない秘密情報を引き出した。やがてサン・ストリークのメンバー数名は、フロリダにある対麻薬合同タスクフォース本部に移り、一年近く働いた。CNJTFの長官は、麻薬捜索・押収任務に対する遠視者たちの貢献は、タスクフォースにとって数百万ドルの値打ちがあったとの文書をDIAに送った。遠視者はすばらしい成功をおさめ、法執行の強力な新兵器となった。しかし、この栄光も長くはつづかなかった。湾岸地域が一触即発の状況となっていたのである。
 アメリカ中央統合軍(ペルシャ湾を作戦戦域に含む陸海空三軍の統合コマンド)は、湾岸地域の緊張の高まりについてかなりの時間をかけて検討し、ワシントンとペンタゴンにブリーフィングをおこなった。数週間後、サダム・フセインの軍隊がクウェートに侵攻し、即時撤兵を求める国際世論にもかかわらず、その国土を占領した。比較的短期間のうちに、資金、兵器、ヘリコプターや偵察機などすべてが、急速に状況がエスカレートしつつあるクウェートにふりむけられることとなった。国防総省とホワイトハウスは、当然のことながら、それまでドラッグ戦争に注いでいた精力を東へと移した。
 作戦遠視者となってから一年近くが過ぎ、イラクがクウェートに侵攻したその日、ぼくはサン・ストリークを離れた。戦略偽騙部隊で一年を過ごしたのち、指揮幕僚大学に行くことになっていた。レヴィは、その数週間前に退役していた。
 サン・ストリークには二度ともどらなかったが、ドラッグ戦争における成功によって部隊に新しい活力が吹き込まれたと聞いた。レヴィの後任の新しいプログラム監督官の着任とともに、ふたりの新しい遠視訓練生が加わった。なにもかもうまくいきはじめたように見えたし、いつかまたサン・ストリークにもどれることを願っていた。もしかしたら、DIAがこのプログラムの潜在的可能性に目覚め、全人類のために役立てようと決意するかもしれない。

 サン・ストリークを離れて三カ月ほどたつと、ふたたび悪夢に悩まされるようになった。エーテルの中で時間を過ごしていないからだと思った。どんなことにも集中できなかった。切り離され、からっぽになったような気がした。頭の中では、サン・ストリークにいたころに見たイメージが渦を巻いていた。感情の波に呑み込まれて、人前でもひんぱんに涙を流した。感情的、肉体的、精神的に、ゆっくりと崩壊しかけていた。ぼくが経験したことを理解しようとも、気にかけようともしない世界で道に迷い、ぼくは自分自身と対話しながら、心からあふれてくるイメージをスケッチした。経験者の助けが、エーテルを知るだれかの介入を必要としていた。しかしキャスリーンが去り、メルが去り、レヴィが去り──エーテルの言葉をしゃべる人間はみんな去っていた。ぼくは世捨て人も同様、日中はオフィスの建物から一歩も出ずに過ごした。週末はめったに家を出ず、ひげも剃らなかった。眠るのがこわくて長時間目を覚ましつづけ、毎晩テレビとラジオを同時につけたまま、騒音と映像に心を埋没させようとした。サン・ストリークの管理下にもどる必要があった。エーテルが必要だった。ぼくの身になにが起きているかを理解してくれる友人が必要だった。
 ある晩のこと、眠りのない昏迷の中、カウチの上で体をまるめ、両手で耳をふさいで暗闇のノイズを閉め出そうとしていた。咳き込み、鼻をすすりながら、ロッカビーとダッハウのイメージ、この世界につきまとうあらゆる恐怖に満ちた苦しい眠りに引き込まれていった。半睡状態の中で、過去の顔がいくつもあらわれた。レインジャー大隊時代の同僚で、恋人といっしょに飛行機事故で死んだ若い少尉を見た。何年も前のマイク・フォーリーの死を感じたように、彼の死を感じた。つかのま目を覚まして、居間の影が命を吹き込まれて動き出すのを見た。部屋の中のものすべてが生きている影を落とし、それが立ち上がって威嚇する。悲鳴をあげ、涙を流し、壁にぶつかりながら転がるようにして逃げ出した。十月の冷たい夜気の中に走り出て、安全な芝生の上にくずおれた。体の下に、生命あるものを抱きしめ、夜明けまでそこに横たわっていた。
「だいじょうぶか、デイヴ?」上から声がした。友人のデイヴィッド・グールドだった。息子のホッケーチームの監督をしてくれている。あとで聞いた話では、マイクルを迎えにきて、そのついでに、ぼくがいっしょの車で試合見物にくる気があるかどうかたしかめるつもりだったのだという。「デイヴ? おれだよ、デイヴィッド・グールドだ。起きられるように手を貸そうか?」
 立ち上がろうとひざに力を入れた。ひと晩芝生の上で過ごしたせいで、体が冷え、筋肉がこわばっている。周囲を見まわし、最低の気分を味わった。そして息子は、監督が自分の父親に肩を貸して家に運び込むのを見守っている。マイクルの瞳に涙が光っているのが見えた。ナイトガウン姿のデビーが階段を降りてきた。
「どうしたの? 夫はだいじょうぶかしら」デビーはまるでぼくがここにいないような口調で──もはやぼくが夫ではないような口ぶりで──グールドにたずねた。
「どうかな」とグールドがいった。「ひと晩芝生の上にいたみたいだから」
「まあ、なんてこと。デイヴィ、いったいどうしたの? 自分で自分をだめにしてるのがわからないの?」
 ぼくは充血した目でデビーを見つめた。「それが問題なんだよ。もう自分がなにをしてるのかわからない」

 午前九時ごろ出勤して、自分のキーコードを打ち込み、オフィスに入る。陸軍に入隊してはじめて、クソ野郎の上司にぶちあたった。上司の上司もクソ野郎だった。しかし、勤務時間にかなり融通がきく小さな部隊だった。自分たちの欺騙プロジェクトの遂行にそれが必要なのだという了解のもと、みんな好きな時間に出てきて、好きな時間に帰っていた。それぞれが独立営業の詐欺師であり、きわめて有能な者もいれば、本物の陸軍、機密プログラムの外側にいる陸軍から身を隠している者もいた。
 十八人前後の騙し屋たちからなるこの小チームは、本拠地となるビルに月額四万ドルの家賃を払っていた。セイクリッド・ケイプと同様、だれもがファーストネームで呼び合うことになっていた。階級、制服、陸軍の規律を思わせるものすべては、着任したその日に消え失せる。ビルのオーナーが用意する無料のコーヒーと並んで、それはこの部隊の大きな自慢のひとつらしかった。
 このころにはもう、諜報員のプリマドンナたちには飽き飽きしていた。彼らは部隊に加わると同時に自動的に昇進する。ただの下級准尉でも、中佐か大佐の階級が与えられる。それに、その私生活ときたら! スタッフの中には、ろくに不倫を隠そうともしない男が二、三人いた。ヨーロッパへの出張で同行した同僚など、妻との電話を切った二十分後には、ホテルのロビーで引っかけた五十二歳の女の部屋にしけこんでいたぐらいだ。まさにペイトン・プレイスの現実版で、吐き気がするほど不愉快だった。この部隊は金と時間の無駄だという事実をまだ納得できない人のために、最後にもうひとつ、ある大佐の逸話を紹介しょう。彼は、オフィスの駐車場で、車のトランクに積み込んだアフガン敷物を売りさばいていたのだ。ああ、それと、部隊にはリースの車がガレージいっぱい用意してあって、他人の目をあざむき、偽の身元を維持できるようにしてあった。
 ぼくらは全員、公務として合衆国政府の諜報任務に従事していることを示す信用証明書を携行していた。これは機密書類扱いで、任務以外では自宅に持ち帰ることも許されず、部隊本部の金庫に保管することになっていた。しかし、部隊のメンバーたちがそれをちかつかせて、飛行機の座席のアップグレードを求めたり、スピード違反の切符を免れようとしたりするところを百回は目撃している。そういうことを見るにつけ、ぼくはますますシニカルになっていった。
 公平を期していえば、誠実な人間たちがいなかったわけではない。その多くを、職業軍人として尊敬していた。たとえば、セキュリティチェック担当の下士官。神経を静めるために煙突のように煙草を吸っている痩せた男で、小さな蛍光灯のデスクライトひとつを置いたきりのオフィスにひとりですわっていた。通りかかって中を覗くと、いつもなにか書類に記入していた。ぼくが出勤するときも、帰宅するときも、いつも彼はそこにいた。チケット・エージェントや交通警官に信用証明書をひらめかせる連中たちにセキュリティ感覚を植えつけるという、労多くして実りの少ない仕事が彼の担当だった。一年のあいだに彼と交わした言葉は、たぶん二十語にも満たないが、それでも彼のことが好きだった。毎日こつこつ働いて、その代償に得る楽しみといえば、偽善者や職業スパイたちに命じて、両手を頭のうしろで組ませることだけ。彼は善良で、良心的で、誠実で、プロフェッショナルで、こういう場所にいなければならないことがかわいそうでならなかった。
 部隊のナンバー2にあたる副隊長は、どこへ行くにも葉巻を手放さない男だった。無限のエネルギーを持ち、いつも無数の名案にあふれ、奇妙なことに、彼らの多くが軍服を着る資格さえないにもかかわらず、自分の指揮下に入った兵士全員の幸福を気にかけていた。彼は献身的で、部下を保護した。ぼくがこの部隊を嫌っていることを知ったうえで、狂信者や首狩り族からぼくを守るためにできるだけのことをしてくれた。
 それがチーム・ファイヴ、もしくは、諜報サークルにおける呼び名にしたがえば、アライド・テレコミュニケーションズだった。

 この時点では、ぼくの生活はすでに最低を通り越していた。デビーとは当然不仲で、子供たちに会うこともめったになく、仕事を終えてオフィスの駐車場に歩いていくときも、これから自分が家に帰るのか、それともエーテルにすべりこんでメリーランド州イーストンまでドライヴするのか、まるで予測がつかなかった。隠者のように、夜は車の中で眠った。持っている服はいっさいがっさい、車のトランクと後部座席に置いてあった。生活が完璧に崩壊してにっちもさっちも行かなくなってしまえば、そこに一種の自由が生まれる、これ以上悪くなることはありえないのだから、という話をむかしだれかに聞いたことがある。その言葉を書き留めた紙を、肌身離さず持ち歩いていた。いまが最低だと思っていた。だが、一九九〇年十一月、ぼくはデビーと正式に別居することになった。これをコピーすれば弁護士費用が節約できるからといって、例の副隊長が役所に提出する別居書類を貸してくれた。コピーにサインして家の郵便受けに放り込み、バーに直行して、自分がいまやったことを忘れようとした。
 ここしばらくつづいている、エーテルと現実のランダムで予測不可能なシフトのせいで、すっかり体調を崩していた。前に触れたとおり、頭の中のノイズで発狂しないためには、ラジオとテレビをがんがん鳴らして寝るしかなかった。どうして口に銃をつっこまずにすんだのか、自分でもわからない。このときにはもう記憶の中でおぼろにかすんでいたけれど、あの天使のメッセージのおかげかもしれない。あるいは、家族の愛、遠視者以上に軽々と時間と空間を超越する愛のおかげだったかもしれない。エーテルへの永遠の跳躍を妨げてくれる親切心と慈悲を神が持っていたからかもしれない。このころのぼくは、二年間のハイから醒めた麻薬中毒者のような状態だった。心と体は変成状態の恍惚に、バイロケーションの感覚に、サン・ストリーク時代の自分に恋い焦がれていた。チーム・ファイヴのぼくは、いつでもとりかえのきくプロの嘘つき、納税者の金を吸い上げて舌先三寸で世渡りする男でしかなかった。「お仕事は?」とたずねられるたびにびくっとした。上司に期待されているとおりの嘘をべらべらしゃべる馬のクソになったような気分だった。土曜の夜にポン引きで稼ぎ、日曜の朝は早起きして教会に出かけ、道徳について説教するようなものだった。

 火曜日、デザート・シールドはデザート・ストームとなり、つづく百時間で戦争に決着がついた。われわれは明白な勝利を勝ちとり、英雄にはことかかなかった。この戦争をテレビで見るしかなかったすべての兵士と同様、ぼくもだまされた気分だった。十六年間毎日毎日フットボールの練習に明け暮れたあげく、十年に一度しかない試合の直前、終了後の打ち上げパーティ用にいまからソーダを買いにいって、氷で冷やしておいてくれといわれたようなもの。もっとも、デザート・ストーム後の数カ月間、軍の上層部は、ベンチウォーマーのぼくらをくつろがせ、チームの一員だという気分を味わわせるべく最善をつくしたことは認めるべきだろう。それでもやはり、ぼくらの大多数は、パーティにせっせとソーダを運んでいる気分だった。
 その火曜日、オフィスの席にすわって、細長い窓から外をながめながら、前夜頭に浮かんだイメージをおざなりにスケッチしていた。そのとき電話が鳴り、はっと現実にひきもどされた。
「デイヴィッド? ロバート・クロッカーだ。覚えてるか?」
「ああ、もちろん覚えてるとも」クロッカーは、ぼくが部隊を離れる直前、サン・ストリークに着任してきた男だった。
「あれからどうしてる? 頭痛はどうだい?」
「頭痛じゃなくて悪夢だ。頭痛ならアスピリンをのんでる」
「すまん、悪気はなかったんだ。ただ──」
「なあ」と、それをさえぎり、「電話してくれたのはうれしいし、ああ、たしかにサン・ストリークがなつかしいよ。それに、土下座してでももどりたいと思ってる。で、そういうことが起きるんじゃないとして、いったいなんの用だい?」
「いや、電話したのはまさにその件なんだよ。ミスター・ノフィがきみにもどってほしいといってる」
「ミスター・ノフィがなんだって?」
 ジェイムズ・ノフィはレヴィの後任として部隊司令官の地位を引き継ぎ、新たにスターゲイトと名づけた自分のプログラムを発足させていた。ドラッグ戦争における部隊の活躍はたしかに彼の功績だが、ノフィはチャネリングやタロットカードなど、効力の実証されていないメソッドを過度に重視しているというのがぼくの見解だった。
「湾岸関連のプロジェクトを動かすために──つまり、一時的にだが──きみにもどってほしいといってる」
「犬の鎖をひっぱってるつもりか? だったらいますぐそっちに行って──」
「なあモアハウス、おれはノフィから電話をかけろといわれて電話してるだけなんだ。ケツをまくりたいなら、だれかほかの相手を見つけてくれ。こっちは忙しいんだ」
 一瞬の間を置いて、ぼくのヒューズがふっとんだ。「電話一本で、ただちにいまの仕事を中止してしてそっちに駆けつけ、ノフィの仕事を手伝えと、そういうことか? くたばりやがれとノフィに伝えろ。復帰させてほしいとおれが五カ月前に頼んだときは、新鮮な血が必要だからとはねつけたくせに。あいつがいいたかったたのは、頭に問題を抱えてない人間が必要だってことだ。ああ、くたばれと伝えてくれ」
「わかった。伝えるよ」ガチャン。
 電話が切れたあと、大きく深呼吸してから、ダイヤルを回した。「クロッカーか、モアハウスだ。くたばれと伝えるのは中止だ。いつそっちに行けばいい?」
「伝えるつもりはなかったよ。気が変わると思った」
「ああ。ありがとう」
「あしたの朝はどうだ? 九時とか」
「うーん、最近のおれにはちょっとはやいな。でも、たぶんだいじょうぶだろう」
「ああ、そっちの勤務時間はずいぶん不規則だってな……では、オフィス棟のほうに来てくれ。ミスター・ノフィから、きみら全員にブリーフィングがある。いいか?」
「ああ。ところで、ほかにだれを呼んだんだ? つまり、もう部隊を離れてる連中で?」
「メル・ライリーはまちがいない。それともうひとり、こっちは女性だ。キャスリーン・ミラーを覚えてるか?」
「キャスリーンか? 彼女は優秀だ、また会えるのはうれしい」
「ま、同窓会みたいなもんだ。では明朝」
「了解」受話器を置いて、ごくりと唾を飲んだ。叫ぶべきか泣くべきか、判断がつかなかった。またミッションだ。エーテルに入る本物の任務が待っている。
 翌朝、三十分前に着いた。戸口で出迎えたジェニーが思い切りぼくを抱きしめ、頬にキスしてくれた。「あなたのケツが見られなくてさびしかったわ」
「ジェニー、どこかでだれかがさびしがっててくれたかと思うとうれしいよ」
「デビーとはどうなの? 別居したって聞いたけど──離婚するわけじゃないんでしょ?」
「どうかな。なにもかもめちゃくちゃでね。離婚したくないのはわかってるんだけど、どうもまともにものを考えてられないみたいなんだ」
「うまくいくといいけど。あなたたちふたりは最高のカップルだから、きっとだいじょうぶ。あきらめないで」ジェニーはにっこりして、「コーヒー入ってるわ」
「メルはいつ着く予定?」
「もう着いてるぞ。いったいどうしてこんなに時間がかかったんだ?」メルはぼくのうしろに立ってにやにやしていた。その手には、当然のことながら例の欠けたマグカップ。メルはコーヒーをひと口すすって、「クローゼットでノートをさがしてたら、こいつが見つかったんだ。なくしちまったと思ってたのに」
「あんたも遠視者のはしくれなら、ウィスコンシンからマグのありかを遠視して、ジェニーに郵送してもらえばよかったじゃないか」
 メルは真顔になって、「家族はどうしてる?」
「よくはない──いまジェニーに話してたとおり、どうなるのかまだわからないんだ。いまはとにかく最善の結果を祈るしかない」
 玄関のドアが開き、ロバート・クロッカーが入ってきた。そのうしろには、あいかわらず美しいキャスリーン・ミラーがつづいている。キャスリーンは満面に笑みを浮かべ、両手を思い切り大きく広げて、ぼくとメルを同時に抱きしめた。最後に会ってから一年近くたつのに、キャスリーンはちっとも変わっていなかった──そのおなかが、バスケットボールをすっぽり収納できるほど大きくなっていたのをべつにすれば。
 メルが目をまるくして、「こりゃ驚いた。あのかわいそうなご亭主がまさかほんとにあんたを孕ませたとは。いやはやまったく、この姿は」といって、キャスリーンの手をとり、くるっとひとまわりさせた。
「こっちに来て、よく見せて」といって、ぼくはもう一度キャスリーンの体を抱きしめた。「こりゃ最高だね。おめでとう」
「ありがとう。もうあきらめかけてたのに、いまごろやっと」
「さてと、たずねる役はわたしがやるしかないみたいね」とジェニーがいった。「予定日はいつ?」
「二カ月後。それよりは一分だって遅くならないわ。いまでも象になった気分なのに」
「ううん、すごくきれいよ」とジェニーがにっこりした。「ここの野暮天コンビだって、ちょっとでも審美眼があれば賛成するはず」
 もうしばらく旧交をあたためていると、ノフィが登場した。その顔にはいっさい感情がなかった。薄いブルーの瞳がワイアフレームの眼鏡のぶあついレンズ越しにこちらを見つめる。しばらく見ないうちに髪の毛を伸ばしていて、六〇年代のカリフォルニア大学バークリー校の教授みたいに見えた。一言のあいさつも口にせず、ぼくらの前を通ってまっすぐ自分のオフィスに入ると、「ジェニー、ちょっと来てもらえるかな」と呼んだ。
 ジェニーはノートとペンを引っつかんでオフィスに向かいながら、「彼が着任してからずっとこうよ。将軍気どりね」とささやいた。
 ジェニーはオフィスに姿を消し、わずか三十秒後にまた出てきた。「陛下は今から五分後に会議室でブリーフィングをはじめたいとおおせです。紳士淑女のみなさん、陛下のご入場にそなえてご準備いただけますか?」
 キャロルとジュディが会議テーブルについて待っていた。このふたりに関しては、同窓会気分は露ほどもなかった。このふたりはむかしから、ぼくらほかのメンバーがおたがいに親しすぎることを快く思っていなかったんじゃないかという気がする。当然のことながら、キャロルとジュディの視点からすると、彼女たちふたりは仕事に対して真剣で、残りのぼくらは遊び半分というわけだ。
 リン・ブキャナンも、いつもの靴下姿でそこにいた。彼は気のいい男で、優秀な遠視者だった。ただ、あいにく訓練官としてはさらに優秀だったから、プログラム監督官は彼の訓練技術を頼りにするあまり、作戦任務につける機会が少なかった──ぼくの意見では、これは大きなまちがいだと思う。それに、ぼくの強い反対にもかかわらず、リンは上からの求めに応じて、遠隔精神操作のための研究と手順を体系化することで、遠視のきわめて危険な支流を生み出した。勲章を与えられてしかるべきだと思うが、上層部は遠視者をそういうやりかたでは遇しない。この遠隔精神操作に関しては、サン・ストリークと無縁の人間までがその技術に対する権利を主張しはじめ、自分の手柄だと吹きまくっている。そのほとんどは駄法螺もいいところだ。その栄誉にあずかってしかるべきなのは、いまこの建物の中にいる人間だけだ。
 リンのことは尊敬に値する。とくに、いまの状況を考えると、見上げた克己心というしかない。オフィスの方針は、いまや窒息しそうなほど締めつけが厳しくなっているが、それでも彼はユーモアのセンスを失っていなかった。なによりも彼は、ぼくらほかのスタッフが方針のまちがいに愛想をつかしてサン・ストリークを見捨てたときにも、部隊とその可能性を信じつづけた男だった。人命を救い、世界を揺るがすこの技術を、部隊はどうして秘匿しようとするのか──ぼくは上層部の方針に怒り狂い、口に出して罵った。リンもやはり内心では怒り狂っていたのかもしれないが、それを口に出すことはなかった。愛国心と忠誠の誓いをかたときも忘れず、目的に向かって邁進する男。リンがやりとげたことは、ぼくにはできないし、ある意味でそれを恥ずかしく思っていた。リンは心ひそかに苦しみながら、システムがみずから方向を修整し、技術の進歩への道をひらくのをじっと待ちつづけた。ぼくは誓いを捨てて上層部を非難し、システムに異議を申し立てた。兵士なら、リンの道を歩んでいただろう。この当時もいまも、ぼくが考えあぐねている疑問──ぼくはいったいいつ、兵士であることをやめてしまったのだろう?

 ノフィがテーブルの上にノートを投げ出し、ぼくははっとわれに返った。ノフィはリストでもつくるような目で、テーブルのまわりを見わたした。「この作戦について、ひとつだけはっきりさせておきたい。すでにこのプログラムを離れている諸君を呼びもどすことは、わたしの本意ではなかった。しかし、DIAからの、とりわけドクター・アルバート・クローンからの強い要請があった。ドクターは、われわれがすでに得ているデータを補強するために、諸君の専門技術が必要だと考えている。さてこれで、ダッグアウトの監督がどう感じているかはわかってもらえたと思う。では、試合の話に移る。諸君全員の配置は前もって決定する。ターゲットに慣れるためにセッションをくりかえす時間的余裕はない。これが割り当て表だ」ノフィはテーブルのまわりを歩き、それぞれに紙一枚のタスクシートを配った。「割り当てターゲットの交換は認められない。見てのとおり、単独で作業することが求められる。もしどうしてもモニターが必要だという者がいれば」といって言葉を切り、出もどりチームの顔を睨めつけた。「この会議終了後、わたしのオフィスに出頭したまえ。そこで個人的に話し合おう」
 とりすました笑みを浮かべているジュディとキャロルのほうに目をやった。チャネラーはモニターを使わない。ノフィは明らかに、チャネラーに通用する理屈は遠視者にも通用すると判断したらしい。
「時間と部屋の割り当ては、十分後にボード上で発表する。スケッチ及び報告書は、セッション完了後一時間以内に、わたしに提出すること。いつものように──そして、ここを離れていた諸君が忘れないように念を押しておくが──発見した事実については、わたし以外の人間に口外しないように。いいかね?」
 全員が水飲み鳥さながら、いっせいにうなずいた。
「よろしい。なにか質問は?」
 だれも一言も口にしなかった。
「では、会議を終わる。諸君それぞれの幸運を祈る」ノフィはファイルを抱えて会議室を出ていった。メルとぼくはテーブルについたまま、おたがいの割り当てをながめていた。
「単独じゃやりたくない」とぼくはいった。「いますぐあのクソ野郎のところへ行ってくるよ。モニターしてくれるかい、メル?」
「もちろん」
 ノフィの部屋の半分開いたドアをノックしたが、答えはなかった。デスクの前でメモをとっているのが見えたので、またノックした。今度も返答なし。部屋に入っていって、デスクの正面に立ち、ノフィが顔を上げるのを待った。いつまで立っても顔を上げないので、話を切り出した。「モニターにメルを──」
 ノフィが片手を上げ、それからゆっくりと顔を上げてぼくを見た。「きみとの会話に時間を割く用意ができた場合、そのしるしにきみと視線を合わせ、口を開く許可を与える。ここはきみにとっておなじみの、無秩序が幅をきかせる大隊本部とはちがうのだよ。ここではそれぞれ、自分の順番を守る礼儀を重んじている。順番を守らない者は叱責される」
 全身の血が沸騰し、顔が紅潮するのを感じた。おちつけ、と自分にいい聞かせた。でなければ、このゲス野郎をデスクのうしろからひきずりだし、さんざんにぶちのめしていただろう。ノフィはメモを書きつづけている。わざと時間をかけているのは明らかだった。こっちが怒り狂っているのは当然知っていて、しかしぼくが彼のケツを蹴り飛ばすことはないと思っている。それはもちろん、ぼくがノフィほどのくそバカではないからだ。ノフィのような人間は正しい──たいていの場合には。
 ノフィのデスクにこぶしをたたきつけた。ノフィの手からペンがぽとりと落ちる。これで、彼の注意を喚起することには成功したわけだ。デスクに身を乗り出し、まっすぐノフィの目を見て口を開いた。「さあ、いま叱責されるのはそっちだ。あんたがどういう人間なのかは知らないが、おれを含めた数人について、あんたが問題を抱えているのはわかってる。それは単純に、あんたの問題だ。ひとつだけはっきりさせておこう。あんたはおれの上司じゃないし、おれは同僚からこんな扱いをされるのは趣味じゃない。おれのポケットに入ってるカードによれば、おれの階級である少佐と、あんたの階級の民間人とはおなじ地位にある。だから、部下扱いするのはやめてもらおう。じっさい、あんたの哀れなケツを拭くためにわざわざもどってきたおれたちのだれに対しても、部下扱いはやめてほしいね。あんたがこの仕事にふさわしくない人間だと上から思われていることは明らかだ、でなきゃわざわざあんたに命じておれたちをさがしださせ、パーティに招待させたりしなかったはずだからな。さあ、いまからひとつ教えてやろう。おれのセッションはメル・ライリーがモニターする。それに問題があるというなら、機密回線を使って、だれだか知らないがあんたの尻をたたいた人間に電話して、おれがモニターつきで任務を遂行すべきじゃないと考える理由を説明するがいい。その人物がなぜモニターが必要じゃないかおれに説明したいというなら、耳を貸してもいい。が、そんなことにはならない。そうだろ?」
 そう言い捨ててオフィスを出ると、コーヒーのカップをつかみ、大声で宣言した。「おい、みんな。ミスター・ノフィは、ボードの予定発表がすこし遅れるそうだ。ぼくのせいだよ──くだらない話でずいぶん時間をとらせちゃったからね」ジェニーにウインクしてから、コーヒーをひと口すすった。
 メルがにやにやしながら、自分のマグにもう一杯コーヒーを注いだ。「今度ボスと相談するときは、ドアが閉まってるかどうかたしかめろよ」
「あいつはボスじゃないよ、ありがたいことに。それと、あんたがぼくのモニターだ」
 十五分後、ボードに予定が発表され、オフィス棟に興奮が広がった。CNNで見るニュースをべつにすれば、ぼくらのだれひとり、いま湾岸でなにが起きているのか知らなかった。デザート・ストーム作戦の立案と実行に際して遠視者を活用する機会はいくらでもあったはずなのに、なぜすべてが終わったいまになって遠視者を使おうとするのか、ぼくにはわからなかった。が、そんな疑問はいまはどうでもよかった。
 ぼくのターゲットは作戦エリアの東の海岸沿いにあった。与えられた地図は、じっさいには、イラクの東側の国境、クウェート全土、サウジアラビアの北東の国境が描かれたおおまかなスケッチ程度のものでしかなかった。ぼくの任務は、暗号化された座標に赴き、周囲の地形を調べること──つまり、現地に飛んで、なにか注意を必要とするものがあるかどうかを確認することだった。さがしているのは、イラク軍の残留部隊にちがいないと思った。影に潜んで、無警戒な多国籍軍のパトロールを待ち伏せする少人数のイラク軍部隊。ひょっとしたら、いままで探知を免れているスカッド・ミサイル部隊に遭遇する可能性さえある。砂漠のどこかに身を潜めて、戦闘がおちつくのを待ち、それから地上に出て、クウェート・シティかダーランめがけてミサイルを発射する……。ともすれば先走りそうになる気持ちを抑えて、ぼくはボードを確認した。準備をはじめるまでに少なくともまだ三十分の余裕がある。外の空気を吸いにいくことにした。
 メルが玄関ポーチに腰を下ろしていた。「十時半に第二だ」と声をかける。
「知ってる」そう答えて、メルは煙草の火を消した。「どうもよくない感じがするな」立ち上がって、ついてこいとこちらに合図した。
「こうやって散歩するのもひさしぶりだな」とぼくはいった。
「ああ、たしかに」
「なつかしいよ。だろ?」
 メルは鼻を鳴らした。「まさか! まず第一に、おれはこんなクソにつきあう必要なんかもうないんだ。第二に、うちの裏口を出れば、カヌーに乗って湖の向こう岸まで漕いでいける。カヌーに乗る前になにか悩みごとがあったとしても、向こうに着くころには消えてるよ。とにかくきれいなとこだぜ、スカンディナヴィアは。イーディスもおれも心から気に入ってる。おまえもデビーや子供たちを連れてきて、スカンディナヴィアに家を買うべきだな。そうすりゃご近所同士になれる」
 ぼくらはそろって笑い出したが、やがてぼくにはもう家族がないことを思い出した。
「おっと、悪かったな」とメルがいった。「傷口に触れるつもりはなかった」
「いいさ、いつまでも避けて通るわけにはいかないんだから」のどがぎゅっと締めつけられるような気がして、涙を流すまいとこらえた。「これだけ長いあいだ家族と暮らしたあと、またひとりになるのはむずかしい。ああメル、デビーと子供たちがいなくてほんとにさびしいんだ」
 メルはつかのま、ぼくの肩をぎゅっと抱き、それからいった。「いいか、おれたちは水みたいなもんだ──いろんな状況のもと、いろんな場所へ行く。だが最後には自分たちのところにもどってくる。その途中には岩や石が待ちかまえて、そこで渦を巻いたり、淀んだりするだろうが、おれたちは帰還する定めなんだ。それが永遠の法則だよ。何年も前、デビーと出会ったときに、神がおまえのための計画を立ててくれていると知ったはずだ。そのプランに身を任せろ。おまえはそれを信じるだけでいい。デビーはおまえから去ったりしないし、おまえもデビーから去りはしない。おまえが愛していることを彼女に忘れさせないかぎりは。水みたいにちょっと勢いをつければ、すべてを切り抜けてまたいっしょになれる。約束するよ」
「あんたはいい友だちだな、メル・ライリー」ぼくはもう一度メルを抱きしめた。「それにすごく頭がいい」
「おーい」ポスナーがポーチのところから叫んだ。「おふたりさん、旧交をあたためるのが終わったら、五分後にミッション開始だぞ」
「ほんとにやる気か?」とメルがぼくにたずねた。
「もちろん。最近じゃ、これが唯一の心の平和だよ。やっつけよう」
 遠視室はほとんど変わっていなかった。新しいマイクが入ったのと、だれかがカメラの赤い〈オン〉のランプに黒いテープを貼りつけたのが目につく程度。テープは自分たちが監視されているかどうかわからないようにするためだろうというのがメルの説だったが、ノフィが着任する前から、すべてのセッションのあいだじゅうぼくらは監視されていたのだから、それ以上の変化があったとも思えない。
 接続をすませて椅子に身を横たえ、ベートーベンのソナタ「月光」をくりかえし聞きながら心の準備をした。自分のいる世界に自分が属していないことを理解した男の苦悩の産物を五回聞いたところでカウントダウンをはじめ、やがて光のトンネルを下って、別世界へと入った。
 しゃがんだ姿勢で到着し、平衡感覚をとりもどすまでにちょっと時間がかかった。ようやく立ち上がると、上方に、霧に包まれた黒い惑星と、うつろな太陽が見えた。
「おかしい。ターゲットに着いてないぞ、メル」と叫んだ。「メル! どこか地球の外にいる」
 メルはあわてて対策を考えようとしている。「おちつけ、デイヴィッド。冷静になって、見えるものを報告しろ」
「宇宙空間にいる。そして──待て、なにか聞こえる」
「なんだ?」
「静かに。待ってくれ」そのとき、黒い靄の中から出てきたブラッドリー歩兵戦闘車が轟音とともに目の前を通過していった。すぐあとにもう一台、さらにもう一台、そしてあと三台がつづいた。やってきたときとおなじように、たちまち煙の中に姿を消してしまう。「悪い、さっきの警報はまちがいだった。ぼくはいるべき場所にいるよ」エーテルの中でにやにやしたのはこのときがはじめてだったと思う。メルはきっと、心の中でぼくを罵倒していることだろう。
「周囲を描写しろ、デイヴ。おまえの位置を確定したい」
「うーん、ここからじゃほとんどなにも見えないな……いたるところ黒い煙に包まれている。炎上している車両の煙の真上にいるらしい。ちょっと移動してみる」が、どこに動いても、周囲はまっ黒な煙に埋まっていた。
「どうやってもこいつを振り切れないみたいだ。どこにでもある。煙から出ようとすると、相当離れなきゃいけない」
「オーケイ」とメルがいった。「準備ができたら、百メートルばかり上昇して、北に三十キロ移動しろ。いつでもいいぞ」
 霊体は急速に上昇し、眼下の地面がぼやけるほどの速度で北へ向かった。やがて、新たなターゲット・エリアに到着する。だがここも黒い煙におおわれ、大地には戦争の残骸が散乱している。「やっぱりなにも見えないよ、メル。エリア全体がこの黒いものに包まれているみたいだ」
「それはなんでできてる?」
「味もにおいもガソリンみたいで、ねっとりしてる。あらゆるものがそれにコーティングされてる。きっとオイルだ。そのへんをぐるっと見てくる──聞いててくれ、いいな?」
「了解」メルはいらだちを抑えようとしているようだった。もっと楽なミッションだと考えていたのだろう。それはぼくもおなじだった。
 大きな円を描くようにして旋回しながら、眼下の地面を偵察した。目を凝らしても、煙の中で見通せるのはせいぜい十五メートルほど先まで。ときおり、車両の残骸に出くわした。軍用車両より民間の車のほうが多い。数百台の車が砂漠に轍のあとを残している。ほとんどすべてが、北もしくは北西のほうに向かっていた。ぼくはそのあとを追った。イラク軍は撤退しつつある。したがって、破壊された兵器が向いている方角とは反対のほうに向かったはずだ。イラク軍兵士多数の死体が散乱する上空を通過した。砂漠の暑さで肉が腐敗していくにおいは、おなじように刺激性の強い黒い煙のにおいに隠されている。
「遠くでなにか轟きが聞こえる。いま、その方角に向かってるが、気温が急速に上昇しつつある」
「ああ、モニター画面でもおまえの体温が上がってきてる。距離を保って、知覚したものを報告しろ」
「心配ないよ。バカな真似をするにはもう年をとりすぎてるから」
 比較的はっきり見える地表にそって移動した。轟きはどんどん大きくなり、熱は耐えがたいほど高くなった。左右に動いてみて、熱がそれほど高くない場所を見つけ出し、そこから近寄って、轟きの発生源を確認した。
「油井だ。狂ったように燃えてる。炎は空中に二十メートル近く噴き上がってる。地面は原油におおわれてるが、大半はもう燃えてしまったみたいだ。メル、こんなそばからこういう光景を見たのは生まれてはじめてだよ──まっすぐ立てたブローランプみたいだ。こっちに煙の薄くなってる場所があるから、まっすぐ上がってちょっと見てくる」
 霊体は、炎上する油井の三十メートルほど上空に出た。空中でゆっくり回転し、周囲を観察する。見わたすかぎりどこまでも、燃えさかるたいまつの群れが炎と煙を吐き出している。煙と煙が混じり合い、ひとつになって、巨大な黒い毛布をつくりだしていた。下方の熱で、ぼくはなすべき仕事があることを思い出し、もとの場所にもどった。
「まずいぞ、メル。見わたすかぎり、すべての油井が燃えてる。ほんとにまずい。ここからじゃ、どうしたらいいのかわからない。もちろん、DIAはこうなってることを知ってたわけだろ──こんなの見逃しっこないもんな。もう帰還したほうがいいと思うか?」
 メルはしばし考えてから答えた。「いや、もうちょっと巡回してくれ。たしかにこの油井火事のことはわかってたはずだから、ほかになにかあるにちがいない。おまえがターゲット・エリアについてから五十分になる。あと二、三十分やれるか?」
「問題ないよ。現実にもどるより、ここのほうがまだましなくらいだ。そのへんを覗いてみる」
 油井に背を向けたとき、砂の中に小さな銀色の物体が見えた。「メル、なにかへんなものが見えた──小さな罐だ、ステンレス製らしい。火事の風下の砂に埋まってる」
「なんだ?」
「わからん。しかし、からっぽだな──少なくとも、そう見える。なにか出てきてるようすはない」ピサの斜塔のように傾いて立っているその罐を見つめた。高さ五十センチ、直径十センチほどの金属製の円筒で、底のほう十五センチぐらいが砂に埋めてある。首のところが細くなっていて、そこにバルブがついていた。プラスティックのシールをはがしたあとがあり、その切れ端が円筒の横の地面に落ちていた。この円筒がなんなのかつきとめる手がかりがないかとまわりを一周してみたが、なにも見つからない。「どうも妙なところがある。ここにあるはずのものじゃないって感じだ。べつの油井に移動して、なにかマークとか模様とかのついてる円筒がないかさがしてみる」
「オーケイ、しかしまず、そいつを見つけた位置を確認できないか?」
「もう遅いよ、移動してしまった。でも、どのみち位置確認は無理だな。地形がほとんど見えないから」
「わかった。次の油井でなにか見つかったら教えろ」
 それからの二十分で調べたどの油井でも、さっきのとおなじような円筒が見つかった。サイズとかたちには多少の違いがあったものの、すべて炎の風下に置かれていた。この罐のなにかがひどく気にかかったが、なんなのかわからなかった。「接触を断って帰還する、メル」
 報告書とスケッチを仕上げ、ノフィのオフィスへ提出にいこうとしたとき、キャスリーンがセッションからもどってきた。その顔は紙のように白かった。
「だいじょうぶ、キャスリーン?」ジェニーが声をかけ、メルがキャスリーンのもとに駆けつけた。
「だいじょうぶ、しばらくすわってればよくなる。部屋がすごく暑くて──」キャスリーンはメルの腕の中に倒れ込んだ。セッション関連の書類が手から落ちて床に散らばった。メルといっしょにキャスリーンをカウチに運び、そこに寝かせた。ジェニーが救急車を呼ぶあいだも、キャスリーンはうめき声をあげていた。ポール・ポスナーが冷たい水で濡らした洗面タオルを持ってきてキャスリーンの顔を拭いた。騒動を聞きつけたらしく、ノフィがオフィスからとびだしてきた。その顔には、神経質な表情が浮かんでいた。またトラブルが起きたかと、わが身の不幸を嘆いているのだろう。
 さいわい、病院はすぐそばだった。救急車が到着したときには、キャスリーンは意識を回復しかけていた。ぼくは床の上に書類が散らばったままなのに気づき、救急隊員がやってくる前にあわててそれを拾い上げた。
 キャスリーンは脱水症状だと判明した。遠視室の暑さとセッションの過労がいけなかったのだろう。すぐによくなるし、赤ん坊にも問題はないとのことだった。ただし、無事に出産するまで、もう遠視を担当することはない。
 救急車が去ってから、新しくコーヒーを入れたカップを手に、自分のデスクにもどった。キャスリーンの書類はそこに置いたままだった。報告書の順番をそろえはじめたとき、心臓が止まりそうになった。五ページめに、砂に埋もれた円筒のスケッチがあった。ぼくが描いたのとそっくりおなじスケッチ。
「ああ、なんてこった」と声に出して叫んだ。
 メルがぼくのデスクの前にやってきた。
 ぱっと立ち上がり、キュービクルの戸口から左右を見わたして、近くにだれもいないことを確認した。敵影なし。そこで、メルをデスクの横の椅子にすわらせて、自分のスケッチとキャスリーンのスケッチをさしだした。
「見てみろよ」
「で?」
「で? 冗談のつもりか? 見ろよ、そっくりおなじだ」
「なにいってるんだ、デイヴ。当然そうだろう。ふたりとも、ほとんどおなじミッションを担当してたんだから」
「いや、ちがう。キャスリーンのタスクシートを見てみろ。その束のいちばん下の紙だ。彼女は生化学兵器に関係のありそうな証拠をさがす任務を与えられていた。ぼくのほうは、軍事的重要性を有するなにか、戦闘部隊とか兵器とかをさがすのが目的で、生化学は関係ない。DIAはいったいなにを企んでる?」
 メルはとまどった顔でぼくを見た。「なにを怒ってるのかわからんな、デイヴ」
 そのとき、すべてのからくりがわかった。DIAは、アメリカの兵士に対して生化学兵器が使用されたことを確認したがっている。しかし、そのことをだれにも知られたくない。だから、ぼくら遠視者には、それぞれべつのターゲット・エリアを調査していると思わせるようにした。だがじっさいには、ぼくら全員がおなじエリアをターゲットにしている。それに彼らは、ぼくらがたがいに話をすることも禁じた。
 遠視者全員がおなじ結果を得れば、DIAは生化学兵器が使用された事実を知ることができる。しかし、おたがいの報告書をくらべられない以上、ぼくらにはそれがわからない。こうした非人道的兵器の使用が確認されれば、DIAはアメリカの大衆からその事実を隠すための工作をはじめる魂胆だろう。
 大きく深呼吸して、気持ちをおちつけようとした。「オーケイ。いいか。ぼくら全員が、この任務のために呼び集められた。ノフィはぼくらの協力を望まなかったにもかかわらず、ぼくらは全国各地から召集されて、無理やりノフィのひざの上に押しつけられたんだ。第二に、ぼくら全員がおなじターゲット・エリアを与えられた──座標にわずかな違いがあるだけで。だがそれは、規則に違反しておたがいのメモをくらべてみないかぎり、ぼくらにはわからない。第三に、それぞれのタスクシートにミッションの目的として書いてあることは、それぞれ内容が違う。だが連中は、ぼくら全員がおなじものにぶちあたることを知っていた──信号線が、現場のもっとも重要なものへと導くのはわかりきってるからな。だから、セッション終了後、ぼくらはそれぞれ生化学兵器の使用を確認するが、なおかつ自分たちがなにをしたのか知ることは永遠にない。なぜならすべての情報を総合する立場にある人間は、ノフィひとりだけだから」
「それと、DIAの一部の情報将校」とメルが暗い声でいった。
「煙で隠すためにイラク軍が炎上する油井のそばに罐を置いたのは明らかだ。多国籍軍に対して遅効性の毒物を使用し、それを油井の火事で隠蔽したんだと思う。火事の風下にいた兵士たちは全員、その病原菌だかなんだかを吸い込んだにちがいない。あわれな犠牲者たちは体の中に時限爆弾を抱えて、いまもそのへんを歩きまわってる。一方、世界は環境破壊のほうにばかり目を奪われて、それに気づかないってわけだ。じつに狡猾だな。まったく信じられないぜ、くそっ」両手に力が入らず、マスクでもかぶっているみたいに顔がちくちくした。「そして、DIAはそれを知ってる。政府のクソ野郎どもはそれを知ってて、隠し通すつもりなんだ」
「ああ、そうだろうな。このことが明るみに出たらどうなると思う? ろくでもない戦争がやっと終わって、和平条約を締結する作業が進んでる。こんな事実が暴露されたら、とんでもない騒ぎになるぞ」
「ぼくはもっと皮肉な見方をしてる。ペンタゴンの弁護士が長官の耳に、政府に対して五万件の訴訟なり医療費請求なりが起こされたらどうなるかと吹き込んだのさ。国防総省のお偉方が、こいつの影響を受けた数万人の兵士の面倒を見るために気前よく政府予算を注ぎ込むとは思えない。身体にどの程度の影響が出るのかさっぱりわからないんだから、なおさらだろう。いかなる関係も否定するか、関係者全員が棺桶か在郷軍人病院に入るのを待って、いまから七十年後にでっちあげの調査結果を発表するつもりなんだ」
 メルはぼくの腕をつかんで揺さぶった。「ちょっと待てよ。こうやってデスクの前で考えてるとなにもかも筋が通ってるように思えるかもしれんが、とにかく自分がいってることをよく考えてみろ。頭を使え」腕を離し、また腰を下ろすと、メルは両手で頭を抱えた。「もしそれが真実なら、問題が大きすぎてとてもおれたちふたりの手には負えない。もっと証拠が必要だ。もっとセッションを実行する必要がある」
「セッションなら好きなのを選べばいい。ここにいる全員がおなじ砂と煙の中に赴くんだ。あんたのセッションはいつだい?」
 メルは首を振った。「おれのセッションは役に立たない。おまえとキャスリーンの結果を見てしまったからな。だれだって、おれがおまえたちの結果を写して、騒ぎを起こそうとしてるんだというだろう。くそっ、デイヴ、これじゃだめだ。この件に関しては、おれたちに耳を貸してくれる人間はいないよ」
「マスコミに流せばいい」
「ふん。『わたしは訓練された陸軍の超能力者で、フォート・ミードの極秘プログラムに参加しています』なんて説明につきあってくれるやつがいると思うか? しかもじっさいには、おまえはもうここで働いてるわけでさえない。この特別プロジェクトのために臨時で呼ばれただけなんだぞ」メルは口をつぐみ、ぼくの肩に手を置いた。「まだよくわかってないようだな、相棒。そもそもおれたちはこんなことを知るはずじゃなかった。そして、もし万が一そうなったときのために、連中は足跡をきれいに消してある。だれも信じないさ。だれも」
 信じられない思いで首を振りながら窓の外を見つめた。「じゃあどうすればいいんだ、メル? ぼくらはもう知ってしまった。どうするんだ、見なかったことにするのか? そんなことをしたら、向こうで戦っている相手とおなじじゃないか」
「わからんよ」とメルが静かにいった。
「ノフィにいってやる。あんたの名前は出さない。だが、あのろくでなしに一言いってやらなきゃ気がすまない」デスクの紙をひっつかんで立ち上がったが、メルが行く手に立ちはだかった。「どいてくれ、メル。じゃまするな」
「行くならおれを殴り倒していけ。ノフィになにもかもぶちまけたあと、今夜は無事にここを出ていけるかもしれん。しかし、家まで帰り着けると思うか? 頭を使えよ、このバカ野郎。だれを相手にしてるかわかってるのか。やつらがこの一件を隠し通すつもりでいるとしたら、おまえみたいなはねっかえりが好き勝手に秘密を吹聴してまわるのを黙って見過ごすと思うか? おまえの命か、そこまでいかなくても社会的信用を奪うことなんか、やつらにとっては屁でもない。ああ──ところで、例の悪夢は最近どうだ?」
「くそったれ」
「くそったれはおまえだよ。これだけいってもまだわからないのか? モアハウス少佐、あなたの奥さんや子供たちはどこにいますか? どうして別居することに? それはあなたが夜中にありもしないものを見るからですか? 眠ったまま歩き出して、幽霊に殴りかかるからですか? あなたは毎晩、仕事から帰ったあと、奥さんや子供たちにどんな話をしましたか? 時間を遡り、時間的にも空間的にも遠く離れたところにあるものを見ることができるといいませんでしたか? 違いますか、モアハウス少佐? あなたがたんに妄想を抱いてる、もしかしたら精神を病んでいるというのが真実ではありませんか?
 おまえは、巨大な諜報システムを敵にまわそうとしている。ろくでもないヒーローみたいに立ち上がって、若者たちが狂人の毒物に冒されるのを見たと世界に向かって告げようとしている。しかも、合衆国政府が隠蔽工作を指揮していることまでつけ加えて。ええそうです、軍法会議陪審の紳士淑女のみなさん、ここにいるのは第一級の狂人であります。この男に反逆罪をいいわたし、フォート・レヴェンワースに終生監禁することを、みなさんに強く求めるしだいです。いえいえ──むしろ、精神の健康を回復する薬物を投与したうえでどこかの病院に収容し、両親の看護のもと、ストローでベビーフードを食べさせるほうがいいかもしれません」メルは怒りといらだちに身をふるわせた。「だめだ。ノフィにかけあったところでクソの役にも立たんし、おまえはまちがいなく命を落とすことになる。賭けてもいい。おまえには家族があるだろう。またさっきの水の寓話をくりかえすつもりはない。とにかくいまは忘れろ。忘れるといってくれ。なにごとにも潮時というものがある。この一件だってそうだ。しかし、それはいまじゃない。約束してくれ」
 怒りに唇を噛みしめたが、しかしメルの言葉は正しかった。彼のいうことはいちいちもっともで、ぼくがいま声をあげたところでなにも解決しない。湾岸戦争の英雄たちは毒物に冒され、なのにぼくは黙っているしかない。だれも信じてくれないだろう。
「約束する」目の涙を拭った。「約束する」
 ぼくは、なにが起きたかをこの目で見た──そしていま、英雄の子供たちが死にはじめている。

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