投稿者 付箋 日時 2001 年 8 月 22 日 20:29:12:
21世紀の日本と国際社会 浅井基文
http://www.ne.jp/asahi/nd4m-asi/jiwen/index.html
日米安全保障体制の歴史的検証
http://www.ne.jp/asahi/nd4m-asi/jiwen/japan/file48.htm
一 日本国憲法が示した日本の安全保障構想
(一)日本国憲法の制定経緯
第二次世界大戦に敗北し、ポツダム宣言を受諾して降伏した日本は、アメリカの単独占領のもとで国家の再建をはかることになった。
ポツダム宣言は、戦争の原因である軍国主義勢力の除去、戦争遂行能力の清算と軍隊の完全な武装解除、民主主義の復活強化と基本的人権の確立を日本に求めた。これらのことを実現するためには、明治憲法の改正は不可欠であり、占領軍総司令部は占領を開始するとほぼ同時に、憲法改正を指示した。
日本政府は、ポツダム宣言の趣旨をまったく理解していなかった。そのことは、当時の改正憲法の政府案(一九四六年二月)を見れば明らかだ。それは明治憲法の字句を若干修正しただけのものだった。
政府案は、軍国主義清算に関するポツダム宣言の対日要求を完全に無視していた。たとえば宣言は軍隊の完全な武装解除を要求していたが、政府案では軍隊をそのまま維持することになっており、軍国主義の除去からはほど遠かった。また基本的人権に相当する部分は、あいかわらず「臣民」の権利義務としていた。天皇制もそのままであり、日本国家の民主化については何もふれていなかった。
占領軍総司令部は政府案を全面的に拒否し、ポツダム宣言を反映した総司令部案をわたして、この案を最大限に考慮した新たな案を作成することを求めた。日本政府は抵抗したが、結局大筋において総司令部の原案に基づいた憲法案が作られ、日本国憲法として成立した。
(二)前文と第九条
前文ではまず、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」すると述べて、軍国主義の過去をくり返さない決意を表明している。また「主権が国民に存することを宣言」して、民主主義国家として生まれ変わることを明らかにした。
新生日本の安全保障のあり方について、前文は、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意した」と述べる。国際政治において支配的な勢力均衡の考え方によらず、まったく新しい安全保障のあり方をめざす基本姿勢を宣明したものだ。
この基本姿勢にもとづいて第九条は、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と定める。この目的を達成するため、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とする。ポツダム宣言が求めた軍国主義との決別および非軍事の平和国家としての再生という目的は、もっとも徹底した形で実現するはずだった。
二 アメリカの政策の変更と憲法への影響
(一)憲法第九条に関する政府の当初の立場
第九条に関して当初とくに議論されたのは、戦争放棄の意味、とくに戦争放棄と自衛権の関係についてだった。政府は、第九条は直接には自衛権を否定していない(つまり、日本は国家として自衛権をもつ)が、軍備と交戦権を認めない第九条の規定により、自衛権の行使としての戦争は放棄した(つまり、自衛権を行使することはできない)、と解釈した。
ただし政府は、多くの戦争が自衛権の名のもとにおこなわれた歴史的事実にかんがみ、自衛権を認めることは有害だ(つまり、自衛権自体が認められない)、という認識を示したこともある。日本は自衛権をもつ、という考え方で完全に統一していたわけではなかった。
当時の政府見解には注目する必要がある点がある。まず、自衛権の行使であっても戦争であることに変わりはないとしていたことだ。「自衛権の行使=戦争=憲法違反」という明快な憲法解釈だった。
後の政府の憲法解釈との関連でもう一つ注目したいのは、「戦力」に関する考え方だ。政府は、「戦争またはこれに類似した行為において使用されるいっさいの人的および物的力」と定義していた。戦争には自衛権の行使が含まれる。自衛権の行使のために使用される実力も戦力には変わりはないから保持できない、ということになる。
ただし政府は、国内の治安を維持するための実力をもつことは禁止されていないとし、どの程度までが警察権で、どの程度をこえれば戦力となるかについての問題はある、という解釈を示していた。この解釈が、警察予備隊および保安隊は違憲ではないという憲法解釈につながっていくこと、しかし、自衛権を行使する実力である自衛隊は合憲の存在、と主張するうえで困難にぶつかることは、あとで見るとおりである。
(二)アメリカの政策変更と日本政府の対応
徹底した非軍事の平和国家として日本を再建するという総司令部の方針は短命だった。米ソ対立が深まり、東西対立の影響はアジアにおよんだ。中国の内戦で共産党が勝利したため、対アジア政策の中心を中国においていたアメリカは方向転換し、日本をアジアにおける反ソ反共の砦とする政策を採用した。
対日政策を一八〇度転換したアメリカにとって、戦争放棄および戦力不保持を定めた憲法第九条は大きな障害となった。社会主義中国の建国直後に、占領軍総司令官のマッカーサーは、憲法の規定は相手側がしかけてきた攻撃に対する自己防衛の権利を否定したものではない、と述べた(一九五〇年の年頭の辞)。
朝鮮戦争(一九五〇年六月)がおこると、アメリカは日本の再軍備方針をうちだし、警察予備隊が発足した(八月)。警察予備隊は保安隊に名称を変更する(一九五二年)。非軍事平和国家をめざす憲法の理念は、はやばやと試練にさらされることになった。
マッカーサー発言および警察予備他の発足、保安隊への発展を受けて、日本政府の憲法解釈は急転回した。政府は、自衛権行使を否定したそれまでの解釈を一変し、自衛のために武力を行使すること、そして戦力にいたらない程度の実力を保持することは違憲ではないと主張した。憲法が保持することを禁止している戦力については、「近代戦争遂行に役立つ程度の装備、編成を備えるもの」という統一見解をうちだした。
三 独立回復の代償:日米安保体制と自衛隊
(一)セットだった独立回復と日米安保体制
アメリカは、アジア政策のかなめとなった日本を、アメリカに忠実に従わせる形で早期に独立させる政策を採用した。朝鮮戦争の勃発は日本の独立回復の動きを加速した。その結果、対日講和条約と日米安保条約が同じ日に署名され、同じ日に発効した。日本の独立回復が対米軍事従属という代償によって実現したことは、その後の日本の進路をゆがめた。
日米安保条約は、自衛権行使の手段をもたない日本を防衛するための暫定措置として、アメリカ軍が日本に駐留するという形をとった。条約は、アメリカ軍に日本全土における無制限の行動の自由を認めた。条約の前文は、対日講和条約および国連憲章に基づき、日本が集団的自衛権を有することを指摘している。
安保条約と憲法の関係で、アメリカ軍の日本駐留は憲法違反ではないかが争点になった。政府は、戦力を保持する主体が日本ではなくアメリカであるから、第9条の関するところではない、という乱暴な議論をおこなった。最高裁判所は、憲法が禁じている戦力は、日本が指揮・管理権を行使できる戦力すなわち日本の軍隊であり、外国の軍隊はあたらないとして、違憲論をしりぞけた(砂川事件判決)。
しかし、保持の主体が誰かあるいは指揮・管理権の有無によって、合憲か違憲かを判断するのはおかしい。日本の明確な意志にもとづいてアメリカ軍が存在する以上、憲法の禁じる戦力であることには変わりない。また、アメリカ軍は日本以外の地域で武力行使をおこなう。そのことは、国際紛争解決の手段としての武力行使を禁じた第九条の趣旨に反する。それを条約で認める政府の行為も憲法違反という批判をまぬがれない。日米安全保障関係は最初から憲法違反だったのだ。
政治的にも日米安保体制は強い批判が避けられない。日本は形のうえでは独立したが、その進路は対米全面従属という大枠でしばられた。今日まで続く戦後保守政治の対米全面従属路線の基礎は、一九五二年につくられた。
(二)自衛隊創設と憲法解釈
アメリカのアイゼンハワー政権(一九五三年就任)は、通常兵力に関して同盟国に負担させる政策をとった。日米間では、アメリカの相互安全保障(MSA)法に基づく援助交渉がおこなわれ、援助受けいれの見返りに自衛力増強が要求され、日本政府は自衛隊創設にふみきった(一九五四年七月)。
自衛隊は、直接侵略および間接侵略に対する防衛を任務にかかげた。日本政府の憲法解釈は困難に直面した。国家防衛を任務とする自衛隊は明らかに自衛権の行使すなわち戦争を目的としており、それまでの政府の憲法解釈と衝突する。近代戦を有効に遂行する能力をもたなければ防衛できないわけで、戦力に関する政府のそれまでの統一見解と矛盾する。
政府は憲法解釈をあらためることを迫られた。まず、自衛権の行使としての武力行使は、国際紛争を解決するための手段としての戦争あるいは武力行使とはちがう、と主張した。また、憲法が禁じている戦力とは「自衛のため必要な最小限度をこえるもの」という解釈をうちだした。そして、自衛のために必要最小限度の実力である自衛隊は憲法違反の戦力にはあたらないとした。
この解釈は、「自衛隊は合憲」というための理屈として強引に考えだされたものだ。結論が先にあって、あとから合憲といいぬけるための理屈を工夫する手口は、その後の憲法解釈における政府の一貫した手法となってきた。
国際紛争を解決する手段としての武力行使であるか自衛のための武力行使であるかによって違憲・合憲を分ける主張は、「自衛権行使=戦争=憲法違反」とする従来の立場を根本的にくつがえすものだ。つまり、「自衛権行使≠戦争」としたのだ。
戦力に関する新しい定義にも問題がある。「自衛のための必要最小限度」といっても、その具体的な限界をハッキリさせることは困難だ。政府もそのことを認めざるをえない。具体的な限度は、その時々の国際情勢、軍事技術の水準その他の諸条件によって変わる相対的なものというのだ。その結果政府は、この限度をこえない限り、核兵器の保有も違憲ではない、とまで述べるにいたっている。
四 六〇年安保条約と日米安全保障関係
(一)安保条約の改定交渉
岸信介首相(一九五七年就任)は、日米安保条約の改定に意欲を燃やした。岸首相は、戦後保守政治の反共反民主の反動的本質を代表していた。その彼がめざしたのは、日本がアメリカに全面的に従属する関係を根本的に変えることではなく、安保条約のあまりに不平等な内容をあらためることにすぎなかった。
アメリカは当初、条約改定には積極的ではなかった。しかし一連の基地闘争をつうじて盛りあがった日本国内の反米感情は無視できず、日米軍事同盟関係をたてなおす方向での改定交渉に応じることになった。
アメリカは、集団的自衛権に基づく双務的な条約を結ぶことを希望した。岸はもともと改憲論者であり、アメリカの要求に応じ、集団的自衛権行使を可能にする第九条改憲にも強い意欲をもった。しかし双方が憲法の改定には時間がかかることを考慮し、現在の安保条約が成立した(一九六〇年)。
(二)六〇年安保条約の内容と問題点
改定された安保条約は、岸首相が希望したように、旧条約に含まれていたいくつかの不平等な内容をあらためた。たとえば、旧条約ではアメリカの日本防衛義務が明記されていなかったが、その点は明記された。また旧条約ではアメリカ軍が日本全土を自由に使用できたが、基地の提供と使用は在日米軍地位協定によって規律されることとなった。さらにアメリカ軍が日本の基地から戦闘作戦行動をおこなう場合には、日本側と事前協議をおこなうことが約束された。
しかし六〇年安保条約には重大な問題がある。すでに旧安保における最大の問題だったアメリカ軍の日本駐留については、条約はそのままにしている。この問題は、在日アメリカ軍は憲法違反の存在であるという認識自体がうすれてきた今日の日本の状況を考えるとき、あらためてしっかり議論する必要がある。
また条約の前文では、旧条約と同じく、両国が個別的、集団的自衛権を有していることを確認している。すでに指摘したように、条約交渉の時に集団的自衛権は憲法違反であることが認識されたにもかかわらず、である。
条約は、日本が自らの意思でアメリカに基地を提供することを定めた。アメリカが日本以外の地域で軍事行動をとる場合にも、日本が事前協議で認める場合があることを定めている。これらの行為は、国際的に見れば、集団的自衛権の行使とみなされるものだ。条約は、憲法違反であることを政府自身が認めている集団的自衛権の行使に深く踏みこんだ。旧条約以上に憲法違反の性格を強めたのだ。
この点に関する認識は日本国内できわめてうすく、正面からの議論はまったくおこなわれていない。日米軍事同盟の変質強化をめざす動きが強まっている今日、六〇年安保にまで立ち返って集団的自衛権行使の本質を明らかにする必要は大きい。
安保条約の運用の過程でも、重大な問題が生まれた。アメリカは、六〇年代から七〇年代にかけて、ヴェトナムに侵略戦争をおこなった。日本のアメリカ軍基地は補給および出撃の拠点となった。これらの軍事行動は事前協議の対象であり、日本はアメリカの基地使用を拒否するべき立場にあった。
しかし日本政府は事前協議を求めず、アメリカの自由使用を認めた。政府は、事前協議制度はアメリカの勝手な行動をおさえるための改定条約における重要な成果と宣伝していたが、自らの行動でこの制度を無意味なものにしてしまった。ちなみに、事前協議制度はその後も一度も生かされたことはない。
(三)沖縄返還と安保体制
沖縄は、日本が独立を回復したあともアメリカの占領支配におかれた。日本の独立は沖縄の犠牲のうえに実現したのだ。沖縄では、とくに一九六〇年以来、本土復帰を求める運動が盛りあがった。佐藤政権(一九六四年成立)は、沖縄返還を重点政策としてかかげた。
アメリカ政府は、そのアジア戦略に日本が積極的に責任を分担することとひきかえに沖縄返還に応じる方針を固めた。しかし沖縄では、一九六八年におこなわれた一連の選挙によって、即時無条件全面返還(沖縄の本土化)が民意として示された。沖縄返還では日米安保体制そのものが最大の争点となったのだ。
佐藤政府の行動は、沖縄返還という名目だけにこだわり、実質的にはアメリカの要求を受けいれることに終始した。日本の基地から出撃するアメリカ軍の行動を妨げないと約束して、事前協議制度を空洞化し、本土の基地全体について実質的に自由使用を認めた(本土の沖縄化)。沖縄に対する核兵器の持ちこみについても密約をしていたことが明らかになっている。沖縄返還を受けた日米安保体制は、アメリカのねらいどおり、アメリカのアジア戦略に日本が全面的に協力することに力点をおくものとなった。
アメリカのヴェトナム戦争における敗北のあと、アメリカはさらに日本の防衛力増強と日米軍事協力体制の強化を求めた。その結果、日米防衛協力のための指針(ガイドライン)がまとめられた(一九七八年)。ガイドラインは、平時、対日攻撃対処、極東における日米共同対処の三つの部分からなっていた。
ただし、ガイドラインにもとづく日米軍事協力の実績は、アメリカから見ると、きわめて不満足なものだった。とくにアメリカが力をいれた極東における日米共同対処に関しては、ほとんど動きがなかった。当時の日本にはなお憲法改正を必要とする集団的自衛権行使の領域にまで踏みこむ用意はなかったことが最大の原因だった。
五 湾岸戦争と軍事的国際貢献論
(一)湾岸戦争と日本世論の動向
湾岸危機・戦争(一九九〇〜九一年)は、安全保障問題に関する日本国内の問題意識に深刻な影響をもたらした。それまでの議論では、日本が国際的な軍事紛争にかかわる可能性を議論することすら問題外だった。憲法の根幹にふれる問題は、とりあげること自体がはばかられる雰囲気があった。
湾岸危機・戦争によって、それまでタブー視されていた問題が次々にとりあげられることになった。日本のエネルギー供給の大半を占める中東産油地帯でおこった戦争に対して、日本が無関心を決めこむことが許されるか。イラクに対して国連が侵略者として烙印を押した以上、日本も旗幟鮮明な立場をとることが当然ではないか。国連決議にもとづいてアメリカを中心として組織された軍事行動に、日本が協力することは当然ではないか。協力する場合、金銭面だけではなく人的貢献もおこなうべきではないか。非軍事面だけではなく、軍事的な貢献もおこなう必要があるのではないか、等々。保守政治が提起するこれらの問題に対して、国内世論は動揺した。
(二)日本国内の政治状況の変化
このような議論が噴出するにいたった背景には、国内世論の変化、とくにいわゆる護憲勢力の力の衰えという問題があったことは否定できない。六〇年代以後の高度成長のなかで、護憲の中心的内容をなす反戦平和の意味を検証する作業が怠られてきた。護憲勢力が対外平和政策の指針としてかかげてきた国連中心主義という主張も、湾岸危機が起こったころには、中身を伴わない空疎なスローガンに化していた。なによりも大きかったのは、現実を無批判にうけいれるという意味での国民意識の保守化傾向の深まりに対して、護憲の立場からの積極的な働きかけが決定的に鈍っていたという事実だ。
保守合同(一九五五年)以来、憲法とりわけ第九条の改定を目標にかかげてきた戦後保守政治は、保守化した国民世論に対して、マスコミも動員した積極的な働きかけをおこなった。彼らの主張は、国際の平和と安全の回復・維持を旗印にした軍事的国際貢献論であり、軍事的に積極的に行動するようになった国連に着目した国連中心主義であり、とりわけ国連の軍事機能を一身に担うアメリカとの協力関係を強調する日米関係強化論だった。
こうして、安全保障問題をめぐる国内世論は保守政治に有利な方向に誘導され、数年前までは予想もできなかったことが一気に実現することになった。湾岸戦争における戦費の拠出、湾岸戦争後という時期を見計らった掃海艇の派遣、PKO法成立と自衛隊の海外派遣(カンボジア、モザンビーク、ルワンダ)など、軍事的国際貢献と称して、憲法に抵触する海外派兵が次々と実行に移された。
ただしこの時期には政府はなお、従来の憲法解釈と整合性をはかる努力をおこなっていた。たとえば政府は、自衛隊の海外派遣は、武力行使を目的としておらず、憲法が禁止する海外派兵にはあたらないと力説した。また、PKOの自衛隊が武器を携行することに関し、その武器使用は自衛のためにかぎって認められ、憲法が禁止する武力行使にあたるものは許されない、と説明していた。
(三)アメリカの軍事戦略見直しの動き
この時期の保守政治の努力に共通するのは、湾岸危機・戦争以後にアメリカが日本に突きつけた要求に対する受け身的な対応ということだ。アメリカが対日要求を強めた背景には、米ソ冷戦の終結を受けてアメリカではじまった軍事戦略見直しの動きがあった。
長いあいだ、アメリカの軍事戦略はソ連脅威論にたっていた。そのソ連が弱体化し、崩壊するという事態は、アメリカの軍事戦略の根本的見直しを迫るものだった。湾岸危機・戦争は、アメリカの脅威認識および軍事戦略に大きな影響を及ぼすことになった。
湾岸戦争は、アメリカの作戦に関する考え方にも大きな影響を及ぼした。アメリカが指揮権を確保するという前提のもとで、同盟国や友好国の軍事力および財政力を動員する方式は、アメリカの軍事負担をできる限り軽減するうえできわめて魅力があった。
カンボジア和平に関する国際的とりくみの成功も、アメリカの軍事戦略に取りこまれていった。アメリカが死活的な利害を感じていない国際問題に関しては、ほかの国々に責任を負わせ、あるいは分担させる方式である。
ただしアメリカにおいて、軍事戦略の見直しがただちに包括的な新戦略に結びついたわけではない。これらの要素を組みいれた新しい戦略を本格的にうちだしたのは、クリントン政権になってからだ。この時期のアメリカの対日アプローチは、国際紛争に軍事的にかかわることに慎重な日本を「フリー・ライダー」(ただ乗り)として批判することに力点がおかれた。日米安保体制そのものがアメリカの批判の対象となることはまだなかった。
六 北朝鮮「核疑惑」と新ガイドライン安保
(一)明らかになった日米安保体制の「欠陥」
クリントン政権の登場と時期を同じくして、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)のいわゆる「核疑惑」問題が注目を集めた。「核疑惑」とは、北朝鮮がひそかに原爆開発をおこなっているのではないかという問題だ。湾岸戦争で敗れたイラクに対する国際査察の結果、イラクが原爆開発を進めていたことが明らかになったとして、アメリカは北朝鮮の「核疑惑」に強硬な姿勢でのぞんだ。
そういう状況のなかで北朝鮮が弾道ミサイル(ノドン)の発射実験をおこなった。アメリカおよび日本では北朝鮮脅威論が急速に勢いを得た。アメリカは、北朝鮮との外交交渉をおこなう一方、北朝鮮の核施設を破壊する軍事作戦を考えるようになった。
今日明らかになっているアメリカの当時の戦争計画は、第二の朝鮮戦争の勃発を織りこんだものだった。アメリカの先制攻撃に対して、北朝鮮は韓国とくにソウルに対して全面報復作戦をおこなう。アメリカは、日本を基地とした大軍事作戦で北朝鮮を壊滅させる。その間北朝鮮は、在日米軍およびアメリカに全面協力する日本に報復する、というものだ。
アメリカは日本に全面協力を要求した。日本政府は対米協力および北朝鮮のゲリラによる対日報復作戦への対処について検討した。その結果、日本には対米全面協力をおこなう態勢も、北朝鮮のゲリラ作戦に有効に対処する能力もないことが明らかになった。
戦争の危機は、カーター元大統領と金日成主席との会談により、土壇場で回避された。米朝合意により、一触即発の事態は遠のいた。
しかしアメリカは、有事に際して日本が対米全面協力する態勢が整っていないことを深刻に受けとめた。それは、アメリカが日米安保体制の有効性を根本的に問いなおすきっかけとなった。アメリカはただちに日本に働きかけを開始した。その結果が日米首脳による安保共同宣言(一九九六年四月)だった。
(二)安保共同宣言と新ガイドライン
安保共同宣言は、米ソ冷戦後のアジア情勢の変化をふまえ、日米安全保障関係を強化することで合意した。その具体化はガイドラインを見直すことだった。
アメリカは、日米安全保障関係の見直しに先だって、欧州諸国とのあいだで北大西洋条約機構(NATO)のあり方について協議していた。その結果NATOは、対ソ軍事同盟から域外での軍事行動をとりうる同盟へと方向転換していた。アメリカは、日米軍事同盟について、NATOと同じく変質強化を求めたのだ。
こうして作成された新ガイドライン(一九七七年九月)は、日米安保体制を根本的に異質のものとすることを意図するものだった。
たしかに新ガイドラインは、旧ガイドラインと同じように、平時、対日攻撃および周辺事態(旧ガイドラインでは極東)の三つの事態に対処する構成をとっている。しかしその内容はまったく異なっている。
また新ガイドラインは、日米安保体制の枠組みは変更しない、日本のすべての行為は憲法の制約の範囲内でおこなう、としている。しかし新ガイドラインの憲法違反の本質、安保条約との異質性は明確になった。
まず、新ガイドラインは周辺事態対処を中心にすえた。周辺事態とは、「日本の平和と安全に重要な影響を与える事態」と定義されている。きわめて漠然とした内容であり、事実上、アメリカがとる軍事行動はすべて周辺事態にはいってしまう。
新ガイドラインはアメリカに軍事行動の自由を与えた。日米軍事関係は実質的に、六〇年安保から旧安保の時代に逆戻りした。日本政府がそのことを認めたことは、六〇年安保条約の枠組みを公然と無視したに等しい。また、国際紛争を解決するための武力行使を禁じた第九条の精神も完全にふみにじっている。
また、周辺事態に際してアメリカは、自らの判断によっていかなる軍事行動もとることができることになった。安保条約の事前協議は完全に意味を失わされる。
さらに、アメリカが周辺事態に際してとる軍事行動に、日本は全面的に協力することになった。たしかに新ガイドラインでは、日本は自らの判断に従う、とはなっている。しかし、アメリカが軍事行動をとったあと、日本が協力しないことは考えられない。しかも日本がアメリカに対しておこなう協力の内容は、後方支援、基地提供、捜索・救難、非戦闘員退避活動、機雷除去など、集団的自衛権の行使に踏みこむものが目白押しである。
周辺事態に対処するための法律がいわゆる周辺事態法だ。周辺事態対処が集団的自衛権へのふみこみを内容とする以上、この法律そのものが憲法違反である。
周辺事態におけるアメリカと日本の軍事行動に対抗して相手側が試みる反撃に対処するのが対日攻撃対処だ。旧ガイドラインの時は、対日先制攻撃に対処するという安保条約の考え方が残っていた。しかしいまのアメリカには、日本が攻撃されて有事がおこる事態を想定した戦争シナリオはない。ありうるのは、米日による攻撃に対する相手側の反撃に対処することのみである。これはもはや、自衛権行使として正当化できる武力行使ではない。
しかも対日攻撃対処が予定するのは、日本全土を戦争態勢におくことだ。保守政治が実現をめざす本格的有事法制は、新ガイドラインが定めた対日攻撃対処体制をつくりあげる戦争法そのものだ。平和憲法のもとで戦争法をつくることは、認められるはずがない。
新ガイドラインは、平時から緊密な日米間の軍事協力をおこなうことも定める。平時から戦時に備えるという趣旨だ。アメリカに対する日本の軍事協力体制は、平時と戦時とを分けていないのだ。このこともまた、憲法に対する真っ向からの挑戦である。
七 ブッシュ政権と日米安保体制の現段階
アメリカは、クリントン政権のもとで進められた日米軍事協力にまったく満足していない。そのことを明らかにしたのがいわゆるアーミテージ報告(二〇〇〇年一〇月)だ。報告は、ブッシュ政権において国務省副長官になったアーミテージが中心になってまとめた。
報告は、新ガイドラインにおける日本の対米約束およびその後の経緯に対してあからさまな批判を加えている。アメリカ側から見れば、日本側の約束は憲法の制約の範囲内に限られ、日本の対米軍事協力はきわめて中途半端なものにとどまっているというのだ。
たとえば日本の対米後方支援に関してみると、日本政府は、集団的自衛権の行使に踏みこまない範囲つまり憲法の範囲内であるというために、アメリカの軍事行動と一体化しているとみなされる行動はとらない、という。このような主張は、憲法違反という批判をかわすための苦しまぎれの国内向けの言い訳にすぎない。しかしアメリカから見れば、はたして日本は本気でアメリカの軍事行動を支える意思があるのか、ということになる。
報告は、クリントン政権時代の日米軍事協力の達成点は、あるべき協力の出発点にしかすぎないとする。アメリカにとって満足できる日米軍事協力体制は、日本が集団的自衛権に踏みこむことによってのみ実現できるという認識を、報告は明確に述べている。つまり、日本憲法の制約をのりこえた日米軍事同盟の実現を要求しているのだ。
ブッシュ政権(二〇〇一年就任)は、アメリカの世界戦略における日本の重要性をふまえ、アーミテージ報告を基調とする対日政策を追求する構えだ。具体的には、日本が集団的自衛権行使にふみきることを要求している。
日本の保守政治は、アメリカのこの対日要求に全面的に応じることを方針としている。第九条改憲に訴えるのか。それとも集団的自衛権の行使は憲法違反という解釈を強引に変更するのか。そのいずれにせよ保守政治は、日米安全保障体制を根本的に変質させ、日本がアメリカに対して全面的に軍事協力できる体制をつくることを目的としている。また自衛隊に関しては、本格的に海外で武力行使をおこなう軍隊という本質をむき出しにすることをめざしている。
保守政治は要するに、長年にわたって自らが維持することを装ってきた、憲法の制約のもとにおける日米安全保障体制、という構図を根本的にうち破ろうとしているのだ。アメリカの対日政策によってゆがめつづけられてきた日本の進路が、最終的かつ根本的に問われている。主権者である私たち国がは、保守政治が突きつけたこの根本問題にいかなる回答を与えるかによって、日本の進路は決まる。