投稿者 Effective Activist 日時 2001 年 8 月 09 日 09:29:01:
米国は80年代に製造業不振に喘いでいた。日本の製造業が猛威を振るって 米国市場に殴り込みにかかっていたので、米国は貿易不均衡を是正するた めに日本市場の開放を強く迫っていたのを思い出す。日本は「外圧」とい う近視眼的発想で米国の主張を受け止めていたが、米国からすれば閉鎖的 な市場に保護された日本の製造業がオープンな米国市場に土足で入り込み 、ダンピング商売していると映ったのもそれほど無理はなかった。実際、 あまり知られていないが、国内市場価格は海外価格よりも高かったのだ。 国内市場で少しボッたくり、海外でダンピングぎみな価格設定をしてシェ アを拡大しまくる。当初は感情的な態度が目立った米国も政治による解決 では問題を解消できないと気がついて、製造業のハードからソフト化へ活 路を見いだそうとした。もはや半導体等のハード生産では収益性、知的集 約性が低いと将来を予測し、より知的生産性の高いソフト化を進めて行っ たのだ。
その頃、日本がバブルで浮かれていたとき、機械屋がこんなことを言って いたのが懐かしい。「ソフトは日本人には馴染まない」。一般的に考えら れているような日本人が米国人よりも数学が苦手であるという客観的、歴 史的証拠はなにもない。むしろ戦争直後に戦前の知的資産(人間も含む)が 米国に流出したくらいである。バブルの頃に支払っておくべき企業努力を ただ単に日本企業は怠っていただけなのではないか。米国だって最初から ソフト産業で食っていたわけではない。日本の勢いにハードではもう食っ ていけないと危機感を感じたから、ソフト化へ活路を見出そうとしたのだ。 そして今やハードとソフトの境界はますます不透明になりつつあり、より 集約的なハード・ソフト設計が必要になりつつある。純国産計算機では閉 鎖的仕様に固執し、消費者に割高な価格をおしつけ、インテルのような競 争力のある汎用演算装置の開発もできない日本の製造業。現代の電子技術 分野においては、もはや知的資産の集約なしにはハードの設計すらままな らない。知的ソフトウェアの支援、シビアなコスト管理なしには演算装置 の設計など不可能である。電子技術立国などという戯れ言はその際、返上 すべきではないか。
そして今、日本は当時の米国と同じ立場になった。台湾、中国、韓国と言 った新興国との間の貿易不均衡が問題になりつつある。今年か来年、日本 は戦争直後の混乱期を除いて、戦後はじめて貿易赤字へ転落するだろう。 昨年末から半導体の在庫がだぶついて、メモリーの価格が暴落し、今夏、 主要製造業は軒並み経営基盤そのものを揺らがすほどの赤字決算を計上し た。日本の製造業は収益性、知的生産性で国際競争力を失ったのだ。現在、 生産している程度の製品価値は台湾、韓国でもより安価に生み出せる。そ れだけのことだ。
先日の日経に日本のコストは米国の2倍という記事があった。日本人のひ とりひとりが米国人よりも倍の労働生産性を生み出しているハズがない。 バスの一運転手が年収一千万以上稼いでいる、20代未婚女性に海外旅行 しまくって、ブランド品を買い漁れるほどの過剰賃金が支払われているの を許容するような経済はどう考えても狂っているのだ。竹中大臣が発言し たように、今のレベルの生活を続けたければ、日本人は賃金に見合う労働 生産性を発揮しなければならない。これは当たり前の道理だ。日本の労働 者が自分が生み出す労働価値以上の生活レベルを亨受しているのは経済的 に間違った状態であり、株式、債券市場はそうした不均衡の調整を迫って いるにすぎない。これが日本の景気低迷の根本的な原因であり、そうであ れば、それが構造的な問題であることは疑いない。
したがって日本の構造改革とは、一時的な痛みを伴う程度の誤魔化しでは なく、現在の生活レベルが労働価値以上のものであることを国民に自覚さ せ、ひとりひとりの実力に見合った適性な生活レベルに調整するという筋 書きになる。もともとその程度の生産性しか提供できない労働者はその程 度の生活をすればよく、高い生産性を提供できる労働者はそれに見合った 高い生活レベルを亨受できるようにする。近い将来、中産階級は崩解し、 階級格差が拡大し、その格差は耐えがたいほど明確になるだろう。すでに 米国ではそのような社会・経済構造へ質的な変化をとげており、所得上位 数パーセントが米国資産の半分を所有するという貴族社会が形成されてい る。生き残れる力のある人間が生き残れるような社会構造へ変革すること によって、米国は経済の凋落から立ち直ることができたのだ。日本がそれ と同じ道を進むべきかは分からない。しかし、現代日本が自国経済が生み 出す生産性以上の生活をしており、未だに自国経済の実力を過大評価して いるのには、呆れるばかりだ。