投稿者 転載 日時 2001 年 8 月 09 日 01:26:10:
回答先: 歴史教科書、「自虐」と「自尊」(再投稿) 投稿者 転載 日時 2001 年 8 月 09 日 01:19:42:
Re.<主観の入らない歴史教科書なんてできない>#1 投稿者:種口 光 投稿日: 8月 3日(金)03時11分45秒
> そもそも教育という「情報」の受け渡しが行われる時必ず渡し手の
>「主観」が混じります.混じらずに教育をやれと言ったらできません。あなた
>の様に「マインドコントロール」ということばをつかえば教育そのものが
>マインドコントロールと言えます。
義務的教育の品質指標とは、
学校教員の主観や手法のバラツキ要素をどこまで低減して公平で良質な教育を子ともたちに提供できるのか、そのために一定基準の品質を有する教科書が子供達に提供されるべきというのが、教科書制度の本来の趣旨でないんでしょうか。
よって教育における「多様性」「言論の自由」「主観」等に許されるべき自由度は、専ら教育効果の向上を目的として然るべきです。それらの概念を無分別に神聖不可侵視するあまり教育を破壊、堕落させてしまっては、本末転倒です。
物事の大小や、強弱といった比較概念だけではなく、質的認識こそが必要です。
カルトの洗脳というのは、非合理、非科学、反自然的な架空の論理でさえも感情としてまず肯定的に確信させてしまい、あとからそれを正当化するためのリクツが付いてくるという認識過程を重視するでしょう。それでは催眠術による暗示も同然です。
刷り込まれた感情イメージが行動の上位に君臨するのみでは、動物の生存本能の次元そのものですし、そういう生存本能を架空の抽象理念を洗脳するための手段とするのでは、それは本能の意図された誤用です。
また、教育は感情的な単純記憶だけではありません。既存の学習情報から、新規の課題に最適な論理解を構築するという深く「考える」能力、すなわち生理学的な脳の発達を総体的に促すという重要な機能が教育にはあります。それは動物的受動認識に重きを置く「洗脳」ではむしろふさわしくない、抑圧すべき能力ですから、当方は「マイコン=教育」であるという考え方には賛同できません。
つくる会の教科書内容は、遺憾ながら考える能力を逆にいびつに剥奪し、国の基本政策理念と正反対かつ過度に政治化されたイメージ植え付けによって子供の人格形成を拘束する効果が大きいものと当方は判断しました。義務的教育課程の教科書としての妥当性を欠いてしまっています。
(以下略)
http://www60.tcup.com/6012/kogi.html