投稿者 ウエポン 日時 2001 年 6 月 14 日 12:52:27:
読売アメリカで「大統領選の結果より優先された事件」
2000年12月16日の読売アメリカに記載された(1面と3面)邦人男性の死!
Los Angelesでルームメイトの、日本人邦人男性が、2000年8月6日に亡くなりました。亡くなる一週間前ぐらいから何かに怯えていました。亡くなった原因は殺人で、この殺人事件の背後には、巨大な圧力が関わっているので、真相究明を妨げられ、また解決することが難しいのです。
2000年12月16日に発行されたYomiuri America(1面と3面に日本人邦人男性謎の投身自殺、警視庁、米に再捜査依頼 、通信特許を巡るトラブルか)という見出しで記載されました。 私達は、友人が亡くなる前から身の危険を、日本領事館に相談に行っていましたが友人は亡くなってしまいました。友人が死んでからも真相究明するために、もちろん日本領事館に何度も足を運びましたが、いまだに解決できない状況です。それどころか隠そうとします。
このままでは第2の友人がでます。 それは何故か?その後、友人が1名行方不明になり、1人がギャングに襲われ死にかけました。
犯罪は隠そうとする力が働き、新たな犯罪が生れるのです。
どうしても真相を明らかにしたいので、ご協力お願い致します。
アメリカの事例
アメリカ人の女子学生が某国で、バスに乗っていて、某国人の自殺特攻に巻き込まれ死にました。乗用車に爆弾を積んで突っ込んだのです。親は、自殺した某国人を訴えたところで求償できない。それでアメリカの連邦政府は彼女の両親に同情し、通称フラトー法という法律をつくった。アメリカ人が海外で生命・財産をおかされる被害に遭った時、テロ行為の背景にあるテロ国家をアメリカの法廷で訴えることができるという法律です。
法律ができたところで、彼女の親がこの法律にもとづく第一号として訴えたのです。
法律まで変えろとは言いませんが、外務省と日本領事館が協力してくれれば、友人の殺人事件は証拠が揃っているから、必ず解決すると思います。他国の人間だったら必ず解決しています。
外国で事件に巻き込まれ日本人が亡くなっても、日本は何もしないと思われています。
私達は、今4人でこの事件を解明しようと色々な行動をしています。
この事件を皆さんに広めていただけたら幸いです。
一人より二人、二人より三人、・・・・・・・
もしこれが貴方の友人だったらどうしますか?
この事件の始まりから説明します。(ただ今作成中のホームページの文章です。「貴方もこのホームページをご覧になれば疑問、疑念を抱くでしょう。」)
2000年8月6日この日が、ヒデとの最後の日に成るとは、僕らは思いもしなかった。
僕らはロス郊外の住宅地の一軒屋で、ヒデも含めルームメイト6人で同居していた。
ヒデが失踪する6時間前に、ヒデとルームメイトの一人アキヒロは、ドライブに行っていた。ヒデは、ロス市内に有るリトル東京という町の中のレストランでいつもは、アルバイトをしていたが、この日は、休みを取っていた。
ドライブから夜中12時過ぎに、帰宅した二人は、ヒデと同じアルバイト先に勤めるユウジとタカヒロがアルバイト先から帰って来ていたので、みんなでテレビゲームをし始めた。ヒデが失踪する、ほぼ2時間半前の出来事だ。
ここで、ルームメイトの4人は登場したが、この日、残りのルームメイト2人は帰って来なかった。その内の一人N・Iは、ヒデと同じアルバイト先に勤めていたが、彼は後に、行方を暗ましてしまう。
ヒデは、夜中3時前ぐらいから、またドライブに行こうと言い出し、僕らを誘った。アキヒロと二人でドライブに行って帰って来たばかりだったので僕らは、「今日は辞めよう」と言って玄関で出て行こうとするヒデを止めた。
その数分後、突然、若者が二人徒歩で現れた。「え!」と思い僕らがその二人に気をそらしたその瞬間、ヒデは車に飛び乗り出て行ってしまった。
突然現れた二人の若者に、アキヒロは「明日、出直して来い」と怒鳴り付けた。
この時はヒデのことが心配で、二人に構っている余裕などなかった。
ヒデの失踪は、これが初めてでは無かった。
この日の一週間前ぐらいからヒデはアルバイト先から2度失踪していた。ヒデは、何かに怯えていたのは確かだが、失踪をしても時間が経つと、居場所を僕らに連絡して来て、迎えに行っていたので今回もすぐ連絡してくるだろうと僕らは思っていた。
「ヒデが亡くなった」と、知らせが入った時(何故か、僕らへの連絡は2日後だった)までは、海外で日本人が困ったことがあれば、相談に乗り助けてくれる所が領事館だと僕らは思い、ヒデが亡くなる3週間前に、ロス領事館の邦人保護課に「身の危険を感じる」のでと相談しに行ったが、ヒデは事件に巻き込まれてしまった。
ロス領事館の邦人保護課の人は、ヒデが亡くなった後にヒデの家族が1週間ロスに滞在していた間ですら会うことは無かった。僕らから見たら、それを避けているようにしか見えなかった。
なぜならば、ヒデが亡くなった知らせを保安官から8月8日に受けた時、直ぐロス領事館の法人保護課に連絡したところ、「身内では無いので、お話し出来ない」と言ったからだ。
海外で経験しないと解らない現実ではあるが、ロス領事館の邦人保護課は、法人保護課に成っているのだろう。
ヒデの2度の失踪でも解るように、3度目の失踪の時は連絡して来なかった。というよりして来れなかった。ということは、誰かの手によって阻止されたと考えるとこの事件が見えて来る。
ヒデが亡くなってから、僕らが集めた証拠、周りの行動、発言、仕掛けられた罠、ヒデが自殺で亡くなったのであれば、起こり得ない出来事(証拠有り)ばかりだ。
誰でも思う「あの時、こうしていれば、あーしていれば」僕らは、ヒデの3度目の失踪で思った。スクリーンの中でしか体験し得ないことが、僕らの現実に、眼の前に姿を現した。スクリーンの中の僕らは、2度と同じ繰り替えはしない必ず事件の真相を暴く、「正義は勝つ」が、僕らの合言葉です。
よくある質問
>何に脅えていたのかさっぱり分からない。
この事件の詳細についてはホームページでも記載しますが、読売アメリカ新聞に記載された記事を書きます。
岡村さんは、埼玉県の城西大学を卒業後、98年10月に来米し、今春から、iモード
などに使われている通信技術の実用新案特許「文字・数字変換装置」(特許登録番号2147653号、1997年1月30日受理)を日本で所有するロサンゼルス在住の日本人男性、アキヒロさん(33)の会社で同特許を米国企業に売却するための仕事を手伝っていた。
同社社長のアキヒロさんは、3年前にこの通信技術の特許を日本国内の大手精密機器メーカーとライセンス契約
を結ぶため交渉をしていたが同メーカーがアキヒロさんの不在住所に書類を送りつけるなど、登録無効審判請求をする行為をしていたことから、同メーカーを特許庁に訴え、アキヒロさんが勝訴した経緯がある。しかし判決後、総会屋や暴力団まがいの人物から執拗(しつよう)に脅されたため、日本国内で個人が大企業相手に特許を売買するのは難しいと判断し、アキヒロさんは売却先を米国に変更するため今年5月に来米した。その後、ロス南郊ロングビーチにある弁護士事務所を通じて、同特許を米企業に売却する準備を進めてきたが、同事務所がアキヒロさんに内緒で米企業ではなく大手日系企業に譲渡する契約準備を進めていたことが分かりトラブルとなった。
その後、色々な事件が起こり始めた。だから、領事館に相談に行ったのです。
>理由もなくただ身の危険!とだけで大使館が助けてくれるとは思えない。
領事館の回答が新聞に載っていますので記載します。
邦人援護を担当するロス総領事館領事部では「外務省から連絡が来たから動いたということはない。7月に相談を受けた時から関係各方面と連絡とり彼らの身の安全確保を伝えている」と話している。
でも、岡村は亡くなってしまいました。
P、S
岡村殺人事件の背後には、日本の大手精密機器メーカー告訴事件が存在する。
1. 私は、実用新案権「第2147653号」(添付書類A)を有している(以下、「本件実用新案」という)。本件実用新案は、出願日1993年9月14日、公開日1995年4月11日、出願公告日1996年3月21日、登録日1997年1月30日である。私の住所は「大阪市港区市岡3丁目6番17号」と登録された(以下、「市岡の住所」という)。
その後、1997年6月頃からアメリカの企業と交渉するため、米国と日本を行き来していた。
2. 私は、1997年1月30日以前から本件実用新案について、大手精密機器メーカーと交渉をしていた(添付書類B)。しかし、交渉中から、大手精密機器メーカーは、本件実用新案を侵害する製品の製造・販売を行っていた。私は1997年9月10日、アメリカ合衆国のマッカソン弁護士らを代理人として、大手精密機器メーカーに対し、同社の侵害行為を指摘した文書(添付書類C)を送付した。
3. これに対し、大手精密機器メーカーも代理人(米国弁護士)を米国で選任したことについて、1997年9月22日付け回答書(添付書類D)で私とマッカソン弁護士らに返信してきた。ところが、大手精密機器メーカーは、私とマッカソン弁護士らの知らないところで「日本の弁護士を代理人に指定した」という通知文を、私が市岡の住所と違う場所に住まいを構えていることを熟知していたのに1997年10月8日付け内容証明郵便で市岡の住所へ発送していた。だが、その郵便は当然私には届かず、転居先不明を理由に大手精密機器メーカーに戻っていた。
すなわち、これらの行為により、大手精密機器メーカーは、マッカソン弁護士らの存在と、市岡の住所では私に郵便物が到着しないことをはっきりと確信した。
4. 大手精密機器メーカーは、私と代理人のマッカソン弁護士らには何の連絡もせず、1997年11月7日、転居先不明で郵便の届かないこと知っていた市岡の住所を私の送達先として特許庁に無効審判請求書を提出していた。
すなわち、大手精密機器メーカーは、私の権利を違法な行為で奪い、本件実用新案の登録無効の審決を得て、前記商品を製造・販売して利益を得ようと、私を所在地不明扱いにして手続を進めていた。特許庁では大手精密機器メーカーの申立どおり送達するから、無効審判の審理は私の反論抜きで進行していた。
5. 私は、1998年初め頃、私用で上京したときに、たまたま、特許庁にて本件実用新案の実用新案登録原簿を閲覧していたところ、大手精密機器メーカーによる登録無効審判請求に気がついた。その事を知った私は慌てて特許庁に連絡し、所在不明扱いで無効審決を得ようとした大手精密機器メーカーの目的は遂げられなかった。
6. 1998年3月23日、私は、実用新案登録上の住所を大阪市浪速区大国(妹宅)に移転した。すると、直後の3月26日、私の代理人であるマッカソン弁護士らと大手精密機器メーカーの代理人(米国弁護士)が交渉中であるのに、右変更後の住所に宛てて大手精密機器メーカーから会田弁護士選任通知の内容証明郵便(添付書類E)が送られてきた。その書面には、「同じ内容を1997年10月8日に市岡の住所に通知したが、転居先不明で返送された」と述べられていた。
すなわち、大手精密機器メーカーは、特許庁へ無効審判請求書を提出する時点で既に、私に市岡の住所では書類が届かないと知っていたことを自ら露呈した。
7. また、大手精密機器メーカーは、本件実用新案が旧実用新案法に基づくものであるのに、新実用新案法に基づく様式に従って書かれた無効審判請求書を提出し、私の反論方法を誤らせることも企てていた。【実用新案権には、旧法と新法があり、その違いを述べると、「旧法」・特許庁の厳格な審査が終わっていると言う事で、「新法」・近年の商品開発のサイクルが早いので、審査は後に行うと言う事です。ちなみに、私の実用新案権2147653号は旧法です。】
8. このように、大手精密機器メーカーという大企業が、私に反論の機会を与えず、あるいは方法を誤らせることなど、二重の詐欺行為を企てたこと、私の実用新案権を侵害して不正に利益を得ようとしたことは明白で、極めて悪質な騙し討ち、不意打ちというほかなく、東京地検特捜部への告訴に踏み切った。
9. その後について、ここで述べておきたい事があります。特許庁の審決は私の勝訴に終わりました(添付書類F)。しかし、その後、総会屋や暴力団まがいの人物から執拗に脅かされたため、日本国内で個人が大企業相手に特許を売買するのは難しいと判断し、売却先を米国に変更するため、昨年5月に渡米したが、日本企業の圧力で弁護士に詐欺をされトラブルとなった。その後、私の仕事を手伝っていた後輩(岡村)が変死を遂げたことは”The Yomiuri America新聞、2000年12月16日付け(添付書類G)”のトップと3面にも記載されたが、その後、友人が1名行方不明になり、私も今年の1月にアメリカで日本のヤクザに襲われ死にかけた(添付書類H)。
10. 最後に、私は正しく仕事がしたかったのでアメリカに来て生活しているが、大手精密機器メーカーの詐欺行為がきっかけとなり、私の人生はめちゃくちゃになりました。大手精密機器メーカーの事件から後の事件で、正義は必ず勝たなければ意味がないとつくづく思います。
犯罪は隠そうとする力が働くと、それ以上の重大犯罪が起こるのです。
人として正しく生きていくことの難しさを実感していますが最後まであきらめません。