投稿者 ソウルトレイン 日時 2001 年 6 月 08 日 23:52:13:
第4章近代日本の建設
1 欧米の進出と幕末の危機
40産業革命と市民革命
41欧米列強のアジア進出
42アヘン戦争の衝撃
・アヘン戦争と英国の中国分割
・日本と中国・朝鮮の反応
清がイギリスに敗れ、香港を割譲し開国したという情報は、「オランダ風説書」をと
おしてわが国にただちに知らされ、幕末の指導者や知識層に深い衝撃を与えた。しか
し、朝鮮では危機意識がうすく、9か月もたってから、報告書が提出された。その内
容も簡単なものだったので、指導者層も国際情勢の急変に気がつかなかった。戦争に
敗れた当の中国人自身も、日本人を驚かせたほどの衝撃は受けなかった。
中国は古代から何度も異民族に侵入されて、その支配を受けることも多かった。し
かし、支配する異民族を逆に自国の文明の中に取り込み、同化させてしまう傾向が強
かった。
現に、清は満州人の支配する国である。中国人は異民族に支配されることに慣れ、
支配されても自分は変わらないという自信をもっていた。欧米列強の進出という、今
度ばかりは問題の質が少し違う重大事にあっても、彼らは同じ姿勢を崩そうとはしな
かった。
さらに、中国の儒教の教えでは、皇帝が人民を徳で治めるのが正しい統治であるとい
う徳治主義の考えが強く、武力の卓越をを尊ぶのは野蛮であるとみなされがちであっ
た。実際には武力を用いて物事に当たることも多かったが、文官が優位を占める官僚
中心のこの国では、建前としては、武官が尊重きれなかった。そのため、イギリスに
戦争で敗北しても、徳ではなく、武力に敗北したにすぎないと考え、自国の文明に射
する自信はゆらがなかった。
そのうちに、欧米列強の圧力はさらに強まったので、清は西洋の軍事技術を取り入
れざるをえなくなった。しかし政治、社会でのあり方や、文明そのものを見直そうと
いう考え方はまだ、おこらなかった。
見直しが必要だと清が思うようになるのは、のちに日清戦争で日本に敗れてからで
ある。清は近代国家の建設の仕方を学ぼうとして、大量の留学生を日本に送ってきた
。古代の遣唐使とは逆の連動が始まったのである。