ジャンボ鶴田の肝臓移植をめぐるスキャンダル

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投稿者 全文引用させていただきます 日時 2001 年 6 月 02 日 03:11:07:

  ジャンボ鶴田の一周忌で浮上した
   肝臓移植をめぐる
 遺族と臓器ブローカーの金銭トラブル

●以下に紹介するレポートは、政経出版社発行の『噂、ウラの裏』2001年5月号に掲載されたものです。非常に興味ぶかいレポートであり、臓器移植医療の暗黒面を知るうえで重要だと考え、あえて全文を紹介させていただくことにしました。雑誌に載った記事は、いわば“使い捨て”にされ、単行本としてのちに再登場することが滅多にないので、こんなに重要なルポを歴史に埋もれさせてしまうのはあまりにも惜しいと感じて、ウェブ上に全文紹介させていただきます。

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(『噂、ウラの裏』2001年5月号、政界出版社)

ジャンボ鶴田の一周忌で浮上した肝臓移植をめぐる遺族と臓器ブローカーの金銭トラブル

                ジャーナリスト 島村玄

元全日本プロレスのエース・ジャンボ鶴田(本名・鶴田友美)が、肝臓ガンのためフィリピンの病院で死去してから、早くもこの5月13日で1周忌となる。ところがここにきて、鶴田にフィリピンの病院を紹介し、肝職移橘を仲介した渡辺健一氏(スリースタージャバン代表・千代田区麹町)と鶴田の妻・保子夫人とのあいだで、コーディネート料の支払いをめぐる金銭トラブルが浮上した。


鶴田の未払い金2000万円

「フィリピンの国立腎臓研究所を紹介するにあたって、その仲介料として3000万円を求め、保子さんもこれを了解した。手術費、渡航費、滞在費、プライベートナースなどすべてバックです。なにしろ医師、医療設備ともに、フィリピンではトップレベルの病院に入院するとなれば、これぐらいはかかる。にもかかわらず、1000万円支払ってくれただけ。残金については一方的に「支払いません」と保子さんは言ってきた。これじゃ、後ろ脚で砂をかけられたようで後味が悪いですよ」
渡辺氏はいかにも憤渡やるかたないといった表情を見せ、残金の支払いを強く訴える。
山梨県日川高校から中央大学に進んだ鶴田は、アマレス界に入り、ミュンヘン五輪に出場してグレコローマンで7位に入質。ジャイアント馬場に、その素質を買われて全日本プロレス入り。ジャンボ鶴田のリングネームでファンを沸かせ、馬場とともに全日ブロを率い、日本人初のAWA王座奪取に成功するなど数々のタイトルをものにし、日本のプロレスを代表するエースとして活擬した。
しかし、そうした華麗なりングブレーの一方で、迫りくる病魔とも格闘していたのだ。92年11月に発症したB型肝炎は、彼の肉体を次第に蝕みはじめていた。
一旦は回復し、リングにカムバックするー方、筑波大学でコーチ学の研究を続けたり、慶応大学では非常勤講師を勤めるなど多忙をきわめた。そして99年3月に引退を表明し、26年間のプロレス人生に終止符を打った。
これを機に、新しい人生を歩み始めた鶴田は、米国オレゴン州立ポートランド大学の客員教授として赴任し、さらに2000年には南カリフォルニア大学での研究生活が待っていた。そうした矢先に病状が悪化し、以後は入退院の繰り返しであった。
その間、彼は米国、韓国、豪州のブリスべーンなどを転々とし、肝臓移植に必要なドナーの現れるのを待った。
ところが肝臓の提供者は容易には現れない。けれども病状は時間の経過とともに悪化し、もはやー刻の猶予も許されなくなっていた。
 『スリースタージャバン』に電話連絡が入ったのは、そのような事態に陥ったときであった。
 「鶴田さんが私の存在を知ったのは、彼が岐阜市内の松浪総合病院に入院中、フィリピンで肝臓移植を受けて元気に帰国した患者と出会ったのがキッカケ。その患者にフィリピンの病院を紹介したのも、実はこの私だった」

海外での臓器移植仲介の草分け

  渡辺氏が、フィリピンのホスビタル「セントルックス」に日本人患者を紹介し、磁器柊椎のコーディネーターを始めるようになったのは94年4月。このとき彼は <よみがえる腎機能/もう人口透析の必要ありません!>というチラシ33万枚を、都内を中心にバラまき、フィリピンでの移植希望者を募集した。
 「たちまち問い合わせが殺到し、早くもその年のうちに、数名の患者をフィリピンに送ったよ。それ以来約20名ほど紹介しているが、鶴田さんはちょうど18番目の患者だった」
渡辺氏といえば、梅外での移植手術に道を開いたいわば草分け的存在。当時の新聞に取り上げられたこともあった。その当時はまだ法規則はなく、違法性は問えなかった。しかし、97年10月に日本でも「臓器移植法」が施行され、臓器の斡旋業務を行うには厚生労働大臣の許可を必要とし、さらに同法第11条では、営利目的とした「臓器の売買等の禁止」を明記している。
《何人も、移植術に使用されるための臓器を提供することもしくは提供したことの対価として財産上の利益の供与を受け、またその要求もしくは約束をしてはならない》
  そのため渡辺氏は、「私は日本人患者にフィリピンの医療情報を提供しているにすぎず、臓器の売買等にはー切タッチしていない」と主張する。さらに、「国がなんと言おうと、移植手術を受けたい、助けてほしいという患者がいるかぎり続ける」という。
臓器移植ネットワークに、腎臓移植を希望する登録者数は、現在約1万3000人。しかし、実際に自分の順番が回ってくるまでには、10年は待たなければならないのが現状だ。これでは治るものも治らず、みすみす死を待つようなものだ。だからこそ、渡辺氏のような人を見込んで、フィリピンでの移植手術を希望する人が出るのは当然だろう。ジャンボ鶴田もそのようなひとりであった。
「昨年5月1日、成田空港近くのホテルで彼と初めて会い、翌日、彼と一緒にフィリピンに飛んだ。このときすでに内金として4月払日に300万円、28日には約700万円が私の銀行口座に振り込まれた。本来なら全額前金というのが原則だが、元ブロレスラーという彼の社会的立場や、残金は7月7日以降に支払うとの保子夫人の言葉を信用し、そのまま入院させたんです」
鶴田の検査は、はやくも4日にはじまり、9日には終了した。それを見届けて渡辺氏はー時帰国。そして2日後の5月11日には再びフィリピンに向った。鶴田の移植手術が13日にせまっていたからだ。渡辺氏が言う。
「彼の血液型はO型だったから、比較的ドナーがみつけやすかった。これがほかの、たとえばA型だのAB型なんていうのだったら、こんなに早くはいかなかったろう」
 ドナーは脳死した17歳のフィリピン男性で、銃で撃たれた少年だったことが判明している。フィリピンでは、臓器の売買は違法ではない。ちなみにドナーに支払われる謝礼というのは、腎臓の場合で1個が300万円というのが相場とされているそうだ。

嶋らなかつた第2のゴング

(写真キャプション:「結果は残念だったが、約束は約束」と語る渡辺氏)

鶴田の移植手術は5月13日午前0時に始まった 。手術に際して渡辺氏は、「いよいよ第2のゴングが鳴るんだから」と励ましの言葉を鶴田に送った。
 これは、レスラーを引退して大学の教壇に立つという、鶴田の第2の人生を描いた本のタイトルでもある。渡辺氏のこの励ましの言葉も、しかし16時間後には空しいものに変わってしまう。
「通常なら、13時間程度で手術は終わる。翰血も2〜3バックですむ。けれども彼には30バックも使った。これだけでもわかったよ、彼がいかに最悪の状態にあったかっていうことが…」
渡辺氏のこの直感は、やがて悪いほうで的中する。師匠のジャイアント馬場をして、「怪物」といわしめ、実際にファイターとして激戦を勝ち抜いて きた、さしものジャンボ鶴田も病魔に は勝てず、手術開始から16時間後の5 月13日午後4時30分、不帰の人となっ た。享年49歳。
ドナーの血管が細く、体格のいい彼の血管とうまくつながらなかったこと、ガンが3カ所にも転移していたことなどが、主な死因だったと渡辺氏は いう。
  鶴田の遺体は、病院からマニラ市内 のメモリアルホールに搬送された。渡辺氏と保子夫人との行き違いが生じたのは、実はこの時からだった。
 その辺りの経緯を渡辺氏はこう告白する。
 「これから自分の夫が大手術を受けるというのに、保子さんはその場に立ち会っておらず、滞在先のブリスべーンにいた。だから彼が死去後、急ぎフィリピンに駆けつけたというのが、事実だった。鶴田さんの遺体を運び出す時もそうだった。フィリピンの病院とい うのは、死亡しても支払いが残っている限り、 イタイを運び出せないシステム担っている。
なっている。ところ病院側と何度か交渉のうえ、『この人は信用できる人物なので必ず払う』と説明し、私がその保証人になって、ようやく運び出せたんです」
手術の失敗を予測していなかったこと、急きょ駆けつけたこと、銀行が閉店時間であったことなどで、保子夫人が費用の調達に手間取ったとしても、この難局が打開できたのは、やはり病院に対する渡辺氏の長年の実績と、信頼関係があったればこそ、病院側も納得したに違いない。
  渡辺氏の奔走は、さらに総いた。ダビにふさず、遺体のままで日本に帰してやりたいという、遺族の強い希望を実現するため、渡辺氏は八方手をつくすことになるからだ。
 「なにしろ、身の丈190センチもある遺体を運ぶわけだから、おのずとフライトも限られてくる。結局、JAL(日本航空)で運ぶことになったが、空港では枢が麻薬密輸の道具にされるのでは、と警戒する当局側とフタを開ける開けないでひと悶着あった。で、最終的に木製の枢に入れて、X線を通すということで落ち着いたが、私のこうした努力を、どこまで保子さんは理解しているか疑問に思う」
鶴田の遺体が日本に帰って来たのは、死後4日後の5月17日。そして、19日には遺族をはじめ関係者約100名が列席するなか、告別式が都内の会場でしめやかに営まれた。告別式が滞りなく終わった後の6月上旬、残金2000万円の支払いについて話し合うため、渡辺氏は兵庫県西宮市を訪れた。そこに保子夫人が住み、鶴田の位牌が安置されている。ところがこのとき保子夫人は東京都内にいたため、渡辺氏は会えないまま帰京せざるを得なかった。
 「3000万円については、フィリピンに行く前、すでに保子さんとの間で話し合いがついていたし、夫婦であれば当然鶴田さんも了解済みであったと思う。たしかに、契約書を交わしたわけでも領収書を切ったわけでもない。
口約束といえば、口約束に違いない。けれど私は約束通りの、いや、遺体の搬送や飛行機の手配など、約束以上のことをやった。だから私の誠意は伝わってると思うし、この誠意に応えてくれる気が保子さんにあるならば、もはや文書があるなしは関係ないはずだ。あくまで道義の問題です」

ジャンボ鶴田基金設立

昨年6月18日、遺族やファンなど約4600人が参列するなかで、鶴田の「献花式」が都内の青山斎場でおこなわれ、渡辺氏もそこにいた。そして7月10日、再び保子夫人に電話連絡をする。
 「残金は、7月7日以降に支払うとの約束だった。にもかかわらず口座には振り込まれていないばかりか、強い口調で『支払いたくありません』といって拒否してきた。これでは約束が違う。だから当然、その理由をきいた。そしたら2つある、と保子さんは言ってきた」
残金の支払いを拒否したニつの理由の1つは、移植手術が失敗し、鶴田が死去したこと。そして2つ目は、入院先の病院長が、日本のマスコミに対して鶴田の死因についてコメントしたことと、このコメントを渡辺氏が制止し てくれなかったことなどだ。
日本のテレビクルーが詰め掛け、鶴田の入院先やメモリアルホールをカメラに映し取っていた。確かに、こうしたことに、保子夫人はナーバスになっていた。そして、それが渡辺氏への支払い拒否となったらしい。
「鶴田さんについては深くお悔やみ申し上げなければなりません。けれど結果はどうあれ、私はやるべきことはやったつもりだ。そこを理解せず、ましてマスコミや院長に対する責任まで負わせるのは言い掛かりであり、嫌がらせとしかいいようがない。もし、あのとき私がカネを工面していなかったら、鶴田さんの遺体は、その後どうなっていたか…」
病院から遺体を引き取るには支払い完了が条件。けれど鶴田側に、その用意がなかった。そのため渡辺氏が立て替えた。だから病院には損害を与えず、しかも鶴田の遺体もスムースに引き取れ、事なきを得た。鶴田の死去の裏にはこうした事情がありながら、保子夫人はなぜか口を閉じている。
 「実質的な損害は800万円程度だが、問題はそんなことじゃない。誠意には誠意で応えてほしいってことですよ」
ともあれ、保子夫人の拒否理由を受け入れ、残金について渡辺氏はー旦ホコを収めた。
 にもかかわらず再び問題化したのは、臓器移植を待つ患者たちのー助になれば との趣旨で『ジャンボ鶴田基金』を立ち上げた保子夫人の、その姿勢に不信感を抱いたからだという。
保子夫人は「助かるべき命を助けるべき」との思いから基金を設立し、これをもとに移植医療の支援と、啓発を行っていくことを明かにしている。だが、それを強調すればするほど、渡辺氏は疑問が深まるという。
「なぜかといえば、あの時に見せた保子さんの不可解な行動が脳裏から離れないからだ」
不可解な行動?
「そう、自分の夫が亡くなったとなれば、大体なら憔悴するもの。ところが保子さんは違った。病院のあちこちを写真にとりまくり、おまけに病院のスタッフとみれば、さかんに名刺交換をしてまわった。何か別の思惑がなければこうまではしないだろう」
 この時の行動が、基金設立となってあらわれたことで、渡辺氏はやがて納得するわけだが、故人の名を冠する基金を設立することが、果たして鶴田の供養になるのか、渡辺氏の不信感はそれでまたー層募るようである。

(写真キャプション:保子夫人は「ジャンボ鶴田基金」を立ち上げたが……)

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(以下はジャンボ鶴田基金のポスターに印刷されている文言)

 ジャンボ鶴田基金

ジャンボ鶴田を大勢の皆様で送っていただ
いてありがとうございました。
皆様のご協力で“美しいお花”と“楽し
い音楽”でジャンボ鶴田を送ることができま
した。
皆様の暖かいお気持ちに心から感謝しま
す。

ジャンボ鶴田の遺志を汲み、ドナーカード
記入にご協力ください!

このカードはジャンボが実際に記入したカードをコピーした
物です。“ジャンボ鶴田は生前に自分の意思でドナーカード
の記入をしていました”⇒拡大(詳細)はこちら

“僕は、脳死判定後の臓器提供は人間としてできる
最後のプレゼントであると信じます。”

ジャンボ鶴田

J・鶴田は2000年4月オーストラリア・ブリスベンにて「Jumbo鶴田基金」を設立致しました。
海外でしか脳死移植手術を受けることが出来ない人達の精神的な負担を少しでも和らげることを目的とした基金です。
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