この人は、東京都狛江市に住む日本宝石鑑別協会理事長の山本憲蔵さん(八三)。大正十年に陸軍経理学校を卒業後、主計将校として各地に赴任しながら、中国の幣制を研究していた。昭和十四年、諜報(ちょうほう)や謀略を担当する参謀本部第八課に配属され、秘密戦兵器の研究・製造機関だった兵器行政本部第九技術研究所(通称、登戸研究所)の研究員となり、ニセ札作りに没頭した。手記によるその概要は――。
<背景>当時、中国大陸では国民政府の通貨である「法幣」と、共産党軍が解放区で発光する「辺区券」、さらに日本軍の軍票などが通貨戦争を演じていた。しかし、大半の地域で法幣が圧倒的に優勢で、物資の現地調達は法幣でなければ困難だった。このため、泥沼状態の戦局打開に悩む陸軍は、経済戦の一環として「偽造券による法幣崩壊工作」の構想を進めた。その実務を命じられたのが山本さんだった。
<偽造>ニセ札作戦は、昭和十四年夏から登戸研究所で本格的に始まった。現在、明大生田校舎のある同研究所は、後に風船爆弾の研究を手がけた物理・電気関係の第一科など五つの科に分かれ、山本さんは印刷・製紙関係の第三科長として偽造を指揮した。要員は、内閣印刷局からの転属技術者など約二百五十人。ほかに、新札に汚れや手アカをつけるため、地元の高等女学校から女子挺身(ていしん)隊員を二十五人ほど採用した。
第一回試作品の五円券は同年暮れに出来上がったが、孫文の肖像がゆがむなど、完全な失敗だった。その後、印刷会社などの協力を求める一方、内閣印刷局の門外不出の秘伝とされた「黒漉(すき)入り」の技術を「盗みとる」など、試行錯誤を重ねて独特の方法を開発。同十五年夏には、本物そっくりの紙幣が完成し、量産体制も整った。
<流通>ニセ札の輸送には、陸軍中野学校の出身者があたり、毎月二回ほど、長崎経由で上海に届けられた。現地では「松機関」が流通工作を担当し、機関長は陸軍参謀の岡田義政中佐、実質上の責任者は軍の嘱託で阪田誠盛という実業人だった。阪田氏は、流通工作のため、上海を中心とする暗黒街を支配していた秘密結社「青幇(ちんぱん)」の幹部の娘と結婚して協力をとりつけ、青幇の首領で蒋介石の腹心でもあった杜月笙の家に、松機関の本部を置いていた。
「陸軍贋幣作戦」と題する山本さんの手記は、現代史出版会(〇三−四三一−二一四九)から出版される。
[朝日夕刊・S59年頃]
★コメント
証言なさったこの方も、もう鬼籍に入られたのでしょう。
「通貨兵器」の考え方は現代も何ら変わるところがなく、
我々の国の国民経済や国家主権がここまでも踏みにじられて来ていますね。
さて、あの醜悪なカルト教科書の製作者らは、当時の国民党に対するこのやり方を、どのような合理的屁理屈つけて正当化するんだか。
比島の破滅的占領インフレは、日本兵に対する激しい憎しみを上塗りしたという。
この記事の内容も、当然のこととして「善」なんだろうね?
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