投稿者 これも話飛びすぎです 日時 2001 年 2 月 22 日 09:20:15:
回答先: Re: ウソで固められた悪魔崇拝主導社会ですね。 投稿者 山幸彦 日時 2001 年 2 月 21 日 22:34:55:
エコロジーに異論あり
人命の価値や地球の価格などは
それぞれの生物の視点で変わってしまう。
したがって普遍的な平和共存などは不可能である。
「環境問題」と呼ばれるものが、地球人類の上にのしかかっているようである。
しかし、こうした問題も、それを見る意識や思考の「視点」の変化によって、
その問題意識は、全く変わってしまうものである。
環境問題というのは「このままだと、ゆくゆくは地球上の多くの生物が
死滅するかもしれない」という危険性を根拠にして叫ばれるようだ。
だが、注意すべきことは、これを叫んだ時点で我々人間は、
もう既に、「人間本位」の考え方、
あるいは自分たちと商売上の利害関係があったり、または、
見た目が「かわいいから」などと言っては、
「勝手な愛着を持つ生き物の事ばかり」を念頭に入れた
「特定生物本位」の考え方に毒されているという事だ。
というのも温暖化あるいは低温化は、もしかすると、
次世代の地球に生息する特定の植物や、昆虫や、ウィルスたちにとっては、
むしろ逆に繁殖に「非常に好ましい環境」となるかもしれないのだから。
また極端に言えば、化学物質の汚染で、仮に地上からすべての生物が消えたとしても
「鉱物」や「宝石」としてのこの惑星それ自体には、なんらの問題もない。
人類がいようがいまいが、地球はこれからも存続してゆくのである。
またハッブル望遠鏡で遠い銀河群を見れば分かるように、
地球に類似する環境の惑星などは、まさに「腐るほど」あり、
宇宙ではいくらでも無数の生物たちが発生している。
別の銀河に対しては、今のところはすべてが単なる「推測」であるために、
「かけがえのない地球上の命は大切にしなければならない」などと言っている。
だが、いずれ、もしも実際に別の惑星で生息している無数の種類の生物を、
実際に自分たちの目で見たら、地球人は自分たちの惑星環境や生き物に対して、
今ほどには固執をしなくなるのは必至であろう。
自分の住むところが「ここしかない」とか
「人類に類似する知的生命体は自分たちしかいない」などという妄想をすれば、
自分たちの惑星や人間という種に固執するものだ。
だが住む惑星などどこにでもあり、いくらでも知的生物が無数に存在するという
「全宇宙」という視点からすれば、
人間という生物の危機などは、宇宙の住人の間では誰も問題にしていない
という現実も充分にあり得るわけである。
・・・・・・・・・
たとえば、あなたがうっかり、蟻たちの巣穴を踏み付けて壊してしまったとしよう。
蟻たちの社会にとっては、それはとんだ災難であり大変な環境問題だ。
だが、あなたは言うだろう、
「いや、すまなかった・・・。でも地面は広いのだから、
またいくらでも巣を掘ればいいじゃないかね。」
蟻たちのその怒りや悲しみと、あなたの「たいした事じゃない」という気持ちの
その二つには、あまりにも大きな現実認識の違いがある。
そしてミクロの次元になると、そうした認識の差は、さらに大きくなる。
たとえば、あなたの内臓から切除されたガン細胞にしてみれば、
その切除という事件は、まさにガン細胞たちにとっては、
自分たちの住むの宇宙そのものが崩壊させられるほどの危機感と不幸だった
かもしれないのだ。
このように、常に、いろいろな死活問題で騒いだり叫んだりするのは、
あくまでも被害をこうむる者たちの「認識範囲(=知覚領域)」を前提にしている。
こうなると「一体誰が不幸で誰が幸福か」とか、
「誰が被害者で誰が加害者か」という問題も確定が出来なくなるのである。
これほど多種に存在している、生物の、
「一体どの生物の利害関係が優先されるべきなのか」などと言う事にも、
基準というものは全くないわけである。
宇宙では地球ばかりでなく、どこの星であれ、個体や集合として生きる生物には
自分の個体を優先して大切にし、
自分たちの家族や「群れ」こそを優先して大切にし、
自分たちの「種」を他の種よりも優先して大切にしようとする本能だけが
存在する。
そしてこの「何かを自分の欠くべからざる一部であると実感する範囲」は、
決して知識などでは実感出来ないのである。
というのも、いくらあなたが顕微鏡を覗いたところで、
微生物や雑菌に対して翌日から愛情を持つわけではないのだから。
また、いくらあなたが望遠鏡で星を見たところで、
翌日からあなたが『銀河系規模の視点』で地球や隣人を見るわけではないのだから。
「グローバルな視点のため」などと言っては、
エコロジーやら天文学やら、何の知識をどのように頭に詰め込んだところで、
いっこうに人間や生物は、
「自分の心身の死活問題に直結するような範囲の問題」に対してだけ、
心が集中し続けているのが現実の状態なのである。
むろん、これらは我々にプログラムされた本能から来るものであるから変更のしようがない。
こうなれば、当然の事として、異なる生き物の間では、
闘争は絶対に避けられないものとなるのである。
従って(極論すれば)闘争というもの、
殺戮というものが完全に回避される可能性はたったのひとつしか存在しない。
それは宇宙の全生物が、自分の身体や自分の種や自分の惑星に対して、
「何一つも愛着を持たない」という意識状態である。
なぜならば、何かに愛着を持てば、かならずそれを守ろうとする。
何かを守ろうとすれば、かならず闘争か、もしくは「無理な共生」に陥ってしまう。
そして無理な共生は、必ずそれによって犠牲となる生物を発生させてしまう。
だが、宇宙ではただの一度として、個々の生物が「自分」または「自分たち」の生存を第一に優先するようにプログラムを「されなかった事」などないのだ。
したがって、闘争や殺し合いや捕食行為は、「生きるため」という正当化によって、
それぞれの生物間で、あらゆる宇宙の場所でこれからも「永久に続いて行く」のである。
だから、環境問題を叫んだところで、
それは「一体誰のための環境」の事を言っているのかを、
独りになって、じっくりと考えてみるとよい。
こうした思索は、結局のところは、
「物理的、または知的に優位な者や種が生き残る事」
つまり「弱肉強食が正しい」という論理に最終的には落ち着きそうになるものだが、
さりとて『生』とは、
「生き残ったから幸福だ」というような単純な問題ではあるまい。
『全宇宙における生物の生と死』
何事であれ、何が「正しいか」という事の定義は困難である。
そもそも「正しい事はあるはずだ」というその「前提」にすら疑問の余地があるからだ。
何かが正しいとか、正しくないかは、「誰かが苦痛かそうでないか」とか、
「誰かの生存に有利か不利か」という事で計ることも多々あるが、
明確に善悪が定義できない場合が実に多くある。
ところで、人間の脳活動をも含めた自然法則には一切の誤動作はないと言えよう。
というのも、人間が自分の脳や身体に対してある特定の使い方をしてしまって、
その結果として我々が大きな苦痛を受けてしまった、という場合にも、
結局は、どこにも「誤動作」などは存在していないからである。
そこには単なる「原因と結果」があるのみであり、
要は、それらの刺激の知覚信号を「経験する主体」が、
それを苦痛と感じるか、それとも快楽と感じるかの問題だけだ。
しかし、その苦痛と快楽の区別でさえも、その線引きが困難であったり、
よく見れば、もともと「苦と楽は相互依存している」ものなのである。
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さて、人間も人間以外の生物も、
どちらも世界の創造者(あるいは創造法則)なるものから
「生きている事の明確な目的」を示されていないという点では全く平等であろう。
ただ、人間以外の生物は生存理由の問題で哲学的に悩んだりなどしない。
彼らは遺伝子に組み込まれたプログラムどうりに生きて死ぬ。
しかしそれでは人間が哲学的に悩むことや、モラルを守ったり、
何かの精神的修行などをする事は、遺伝子に組み込まれていないもので、
それが人間だけに特権として与えられた超自然的知能の進化によるのか?、
と言えば、そんな事は全くないと言える。
なぜならば、そもそも我々が哲学などしてしまう事自体のその根底には、
我々の生存が脅かされた時に、他の生物には発生しないような無駄な心の不安や
葛藤が生じざるを得ないという構造上の原因があるからである。
だから、我々は決して「純粋に知的な動機」から哲学をするのではない。
哲学は、いかにもそれが知的遊戯であるかのように見られやすい。
だがあらゆる種類の哲学は、きわめて動物的な『生存における苦への恐怖』が
その本当の背景となっているのである。
従って、人間は科学によって何を作り出し、哲学によって何を思考して、
宗教によって何を信じ、また瞑想などによって何をどう訓練したところで、
基本的には、きわめて動物的な存在であり、
恐怖と不安に満ちた状態のままなのである。
しかし人間と、人間以外の生物とでは、はたしてどちらが幸福であるか、
または苦しみが少ないかという点になると、
動物たちもまた、決して幸福だとは言えないだろう。
自然界の様相ときたら、微生物から高等生物に至るあらゆる生物は、
あいかわらずその一日のほとんどが「空腹の苦」にさらされているのだから。
ただ人間以外の生物の多くは、心理的葛藤や羞恥心や見栄による欺瞞などという
余計な不幸を生み出すことはあまりない。
彼らとて、縄張り争いや、餌や異性獲得の為の争いによる「一時的な闘争感情」
はあるだろう。だが人間のようにいちいちそれらの経験を記憶しては、
あとまで根に持つようなことは(全くなくはないが)ほとんどない。
しかし、だからといって自然が「絶対的見本」であるかと言えば、
自然すらも何ひとつとして人間の手本や、生きる基準にはなり得ない事も事実だ。
とかく人間は「人間は間違いを犯しても自然には間違いはない」
などと思いがちである。
しかし、「自然が正しいという根拠」もまたどこにもないのだ。
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ところでブータンという国には「国民総幸福論」というものがあるらしい。
噂によれば、ブータンの政治や経済の根底には、
国民の幸福の基準となる「思想」があるらしい。
テレビで見たかぎりでは実際の生活形態としては、昔の日本にも似ており、
人々は民族衣装で暮らし、物資を大切に使い、自給自足し、
「病的先進国」からの有害情報や物流も適度に規制されている。
この国では経済発展が目的なのではなく、
国民のつつましく「平和的な生活の維持」にこそ主眼があるようだ。
確かに、一見すると、こうした国は、
ある意味では理想的な国家であるように先進国の人間の目に映る。
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しかし、そもそも「人間」という種の集団には、
事の最初から理想的社会を実現する事などは不可能であるとも言えるのである。
我々は、よく、人類史の中で、一体いつの時代が幸福だったのだろう?などと、
ふと、考えることがあるものだ。
日本で言うならば、江戸時代なのか?それとも明治ごろ?
それとも縄文時代以前なのだろうか?と。
しかし、どの時代であったにせよ、
人間が集団として幸福だったことはなく、また、
人間以外の生物が普遍的に幸福だったこともないと感じる。
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ならば、我々や生物たちは、何億年もの時を、そしてこれから何十億年も、
「一体なんのためにこの宇宙に存在しているのだろう??」。
どうみても、あきらかに我々を含む生き物たちの宿命とは、
「飢えと満足」という名の「不幸と幸福」を「往復する機械」としか見えない。
ある電波系のメッセージによれば、
地球という惑星はむろんのこと、それ以外のいかなる星系や、
非物理的な高次元世界においても、そこで行われていることは、
『思考や感情の生産業』と見なされている。
我々人間や生き物が、自分たちの生存環境において、苦痛を経験しようが、
快楽を経験しようが、至福や愛の深さを経験しようが、絶望を経験しようが
そんな事は「収穫者にとっては全く関係ないこと」であるのだ。
常に収穫者にとって関心があるのは、収穫量と、収穫物の品質のみである。
ちょうど、我々人間の農業生産者にとっては、作物や土壌中の生物たちが、
「自分たちの生をどのように感じているか」などと言う事は無視しており、
ただ収穫量と品質のみが、収穫者にとっての重要問題であるのと同じだ。
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その電波メッセージによれば、
人間の発生する感情が別の宇宙の生物の中では、いくらで取引されているか
という『価格表』、いわば人間の精神の「人心売買」の価格表があるらしい。
つまり我々が日々発生している憎悪や、愛や執着や恐怖や殺意にも、
珍重される感情や、収穫量が多いと喜ばれるものがあるというのである。
その価格表には、我々人類が愛や快楽や幸福感、満足感や笑いとして感じる
感情の品名から、我々が悲しんだり怒ったりする感情、
そして軽い嫌悪から殺意や自殺願望やまで、
あらゆる感情の種類の名称が、
数十種にわたって「品種分類」されており、
それぞれが各次元間、または銀河系間で取引される時の価格が表示されている。
すなわち微生物から人間、そしてさらには別の宇宙や異次元の世界の住人たちも
結局はどこもかしこも「感情農場に生育する作物」である、というのがその電波の見解である。
したがって、人間の感情の起伏が低迷すれば、
ちょうど我々が植物の成長が悪くなると、肥料を与えたり、枝を剪定して植物に
刺激を与えるように、「収穫者たち」も人類のさまざまな感情の成長をうながす
ための薬品(無意識下への洗脳)を投与したり、品種改良をほどこすのである。
その結果として、我々個人の中、そして集団としての人間社会の中では、
他の動物たちには見られないほど屈折した感情の根が生育し、
常に不安感情と享楽的感情の葉が青々と心の中に覆い茂り、
時には絶望という見事な花が咲くほどにまで成長させられる。
言うまでもなく、我々は自分の意志で生まれてくるわけではない。
また親の意志で生まれたりするのではない。
そもそも人間という種の発生原因と、その精神の仕組み(設計)自体が、
被造物である我々人間や、その他の生物自身の意志によるものではないのは
明白な事だ。
ここで、いわゆる宗教や自然崇拝という妄想は、
世界や宇宙の創造者なる誰かが
「善意から人間や万物を作り出した」などと考えてしまう。
だが、現象世界をよく見れば、あきらかに善意よりも悪意に満ちた設計、
または「生産者に都合のよい設計」で生物はできあがっているものだ。
にもかかわらず、彼らは自分たちの存在のその「無力さの事実」を
認めたくはないのであろう。そういう点では科学もまた一種の宗教と見なせる。
しかし、もしも我々生物が、「感情農場」という農園の、単なる「作物」であるならば、
そもそも最初から最後まで極めて無力な存在なのだ。
人類は遺伝子をコントロールできるようになったと自慢をしているが、
我々の意志や知能すらも収穫者によって品種をコントロールされ、
収穫者によって成長させられ、収穫者によって余計なものは処分される。
そして最後には収穫者によって収穫され、売買され、
宇宙の「誰か」の生存の糧となる『加工食品の原料』にすぎない存在なのである。
さらに、自殺などしたところで、次のどこかの星の農場で、
やはり作物人間として生まれるだけなのである。
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このような宇宙像が「当然の前提」となっているその電波メッセージでは、
いかなる形で、いかなる次元に生まれ変わって、そこで生存したとしても、
生き物たちは、くる日もくる日も、
「何かを生み出し続けなければならない」歯車として認識されている。
つまり知的生物たちに至っては、たとえ宇宙のどこに生まれても、
いきあたりばったりで、常に何かを「自分が生きる口実」にしては、
自分たちの体や精神を鞭打って「休みなく動かしていなければならない」。
そして、この「宇宙産業」自体こそが、
「最も本質的な陰謀」なのではないだろうか?
その中では、結局は誰が勝者でも支配者でもなくなってしまう。
この広大な宇宙という時空間での「全生物の奴隷状態」こそが、
唯一の「本質的陰謀」なのではないだろうか?
しかし、こういう考えは、
とてもまともな人間の考えとは思えないね。