投稿者 記事転載 日時 2000 年 10 月 15 日 01:54:52:
陪審制は真実究明に適さない 柳沢健一郎 柳沢情報科学研究所長
司法制度の見直しに関連して、陪審制度の導入を目指すべきであるとの意見がある。九月十九日付論壇で弁護士の浜辺陽一郎氏はそれを強く主張しているし、先日、最高裁判事に就任した深沢武久氏も同様である。
陪審制度は、司法の民主化や裁判の迅速化などの利点があるとされる。理論的にはそうであろうが、現実の裁判の場では欠点も非常に多い制度である。私は民間シンクタンクのワシントン事務所長として米国駐在中に、多数の裁判報道に接し、生じた疑問を知人の米国人と議論し、さらに実際に法廷で傍聴もしたが、疑問は募る一方であった。建国以前から基本的に陪審制度を採用している米国においても、是非論はつねに絶えることがない。
欠点の第一は、民主的であることが必ずしも真実の究明と一致しない可能性が小さくないことであり、第二は、偏向のない陪審員の選出が容易でないことである。
第一の真実の究明については、陪審員の能力が影響する。陪審員に必要な能力は、裁判の場における議論を正しく判断する「論理思考能力」である。しかし、一般市民から選出される陪審員のすべてにそれを求めることは困難であろう。
浜辺氏によると、先日開催された民事模擬陪審法廷ではそのような問題はなかったというが、参加した市民モニターはそうした能力が比較的高い人たちである可能性があるから、彼らは無差別に選出されるべき陪審員を代表するものとは言えない。
米国が陪審制度を採用している背景には、米国独自の事情が存在する。植民地時代の裁判官は英国から派遣された官吏であったが、米国市民はそれに反発し、「自らのコミュニティーの人たちに裁かれたい」との主張から陪審制度が採用されたという。その意識は現在も生きている。
人気フットボール選手であったO・J・シンプソンが前妻とその友人を殺害したとされる事件の裁判で無罪となった時、現地のマスコミは「彼は殺人を犯したに違いない。しかし仮に『真実と異なる結論』となっても御上(おかみ)による裁きよりはましだ」と多くのアメリカ人が考えていることを報じた。
こうした感情は米国の歴史に根ざす特殊な民主主義を反映したもので、真実よりも市民の権力を優先すべしという主張である。これは、わが国の一般的な国民感情とは相容(あいい)れない。大部分の日本人は、真実への限りない接近が肝要だと考えるであろう。
第二の偏向のない陪審員については、その選出は今後ますます困難となる。なぜなら、情報化が一層進展しつつある今日、陪審員に選出される以前に何がしかの予断をもった情報を入手する可能性は増大の一途だからである。
米国では、マスコミが報道する事件の場合には陪審員の選出が難しく、それゆえに陪審制度の妥当性がしばしば議論される。先のO・J・シンプソンの裁判の折には、陪審員の選出は困難をきわめた。
こうした事情を反映して、納得のゆかない評決が下されることが少なくない。米国の場合は人種問題が根底にあるからであるが、そのことを除いても、情報化が予断をもった情報の流布を容易にする傾向は否めない。特にインターネットなどの情報技術はそれを助長する可能性が非常に大きい。
陪審制度はこのような重大な危険性をもつものであり、それは時代にそぐわなくなりつつある。司法制度改革の目的が、真実の究明を迅速に行い、かつ、司法の民主化を促進することを含むとしても、模索すべき方策は陪審制度以外に求めるべきである。
真実の究明のためには、参審制度やすべての裁判における複数裁判官制度が有効であろうし、迅速化のためには、裁判官の増員や司法手続きの簡素化が有効であろう。
また、司法の民主化に関しては、参審制度の充実が重要であり、かつ有効である。陪審制度は司法の民主化をもたらしはするが、その危険性ゆえに採用はぜひとも差し控えるべきである。 =投稿
[朝日10/5 「論壇」より]
★コメント
> 米国が陪審制度を採用している背景には、米国独自の事情が存在する。
>植民地時代の裁判官は英国から派遣された官吏であったが、
>米国市民はそれに反発し、「自らのコミュニティーの人たちに裁かれたい」
>との主張から陪審制度が採用されたという。その意識は現在も生きている。
国際主義国賊売国奴どもは、この日本を消滅させて当然、のつもりみたいだからな。
その民衆の欲求不満を、デタラメな「人民裁判」に転化する風習を定着させていくつもりだろうな。