イギリスの幽霊飛行船 ナイジェル・ワトソン

 ★阿修羅♪

[ フォローアップ ] [ フォローアップを投稿 ] [ ★阿修羅♪ Ψ空耳の丘Ψ10 ]

投稿者 SP' 日時 2000 年 9 月 11 日 09:24:49:

以下『超常現象の謎に挑む』(コリン・ウイルソン監修、教育社)第1章より抜粋。


幽霊飛行船の侵略

1909年の前半,ある警官が謎の巨大飛行船を目撃した事件が,後に多発する同様の奇怪な物体の目撃報告の皮切りだった。この幽霊飛行船の正体は,ドイツのツェッペリン飛行船だったのだろうか,それとも,別の不可解な物体だったのだろうか? ナイジェル・ワトソンが考察する。

 1909年の前半,空の怪奇がイギリスの人々の空想の世界に出没するようになった。人々の心に強烈な衝撃を与えたこの幽霊飛行船の最初の目撃事件は,ケンブリッジシャー州の警官ケトル巡査が報告したものだった。3月23日の朝,彼がピーターバラのクロムウェル通りをパトロールしていたとき,遠くから自動車のエンジンの音が聞こえてきた。そのまま“ブンブンとうなる絶えまない大馬力のエンジン音”を聞いているうちに,彼はふと,それが頭上から響いてくることに気がついた。上を見上げた瞬間,星空を背景に,まぶしいライトを取り付けた長い楕円形の物体が見えた。この不思議な空飛ぶ物体はすごいスピードで上空を通り過ぎ,たちまち見えなくなった。
 人々は,このニュースに大きな疑問を抱いた。しかしこの目撃談は,その後の数多くの“飛行船”目撃事件の原形をなすものだった。それから間もなく,まぶしい強力なライトやサーチライトを取り付けた黒い物体が騒音を立てながら夜空を横切るのを見た,と報告する人が続々と現れた。この頻発する目撃報告に共通したもう1つの特徴は,不思議な目撃物に対する各種の解釈を,いともたやすく信じこむ自称専門家たちが多数いたことだ。ケトル巡査の目撃事件に関しては,ピーターバラ警察の警官が“コブドン通り近辺の上空を飛んでいた超特大の凧”がその正体だった,とマスコミに発表した。まぶしいライトは,凧に取り付けられたちょうちんだった,と安直な解釈が加えられた。
「でも,飛行船が猛スピードで飛び去った,という問題はどうなるんでしょう」と記者の1人が尋ねた。
「それは,ケトルがあんた方マスコミへのサービスにちょっと詩的な味つけをしたんでしょう。彼は公式にはそんな報告はしていませんよ。風にあおられていたので,凧が動いていたような感じがしたんでしょう」とその警官は答えた。
「では,ブンブンとうなるエンジン音については,どう説明しますか」と,まだ納得のいかない記者が質問した。
「ああ,それは」と,警官は立ち去るそぶりを見せながら,こう答えた。「コブドン通りにあるパン屋で一晩じゅう動かしているモーターの音ですよ!」
 ケトル巡査の目撃報告を黙殺しようとするこの無難な見解が,目撃の直後に発表されていたなら,もっと重みもあっただろう。ところが,飛行船の謎に対するこの単純な解答に至るまでに,ピーターバラ警察は6週間以上もの時間を要したのである。どうやらピーターバラ警察としては,こんな信じられない話を真に受けてめんどうなことになるよりも,ケトル巡査を,凧と飛行船の区別もできないようなぼんくらに仕立てるほうが得策だと考えたようだ。
 最初,ケトル巡査の目撃事件は,そのまま何事もなく忘れ去られるかと思われた。しかし5月の初めごろから,イングランド南東部一帯で飛行船の目撃事件が毎日報告されるようになった。その典型的事例が,C・W・アレン氏なる人物の報告であろう。5月13日,彼が友人数人と,ノーサンプトンシャー州のケルマーシュ村を車で通り抜けようとしていた時,ドーンという大きな音がした。そのあと頭上から,“ドルンドルンドルン”というエンジンの音が聞こえてきた。空は暗かったが,船首と船尾にライトをともした全長30mくらいの魚雷型の飛行船が見えた。飛行船はまたたく間に上空を通り過ぎたが,船体の下につるされたゴンドラと,その中にいる乗組員らしき人影が見えた。飛行船は,ピーターバラの方向へ消えた。
 ほかにも同様の目撃談が数多く報告されている。しかし,この飛行船の正体はいったい何だったのだろうか。ツェッペリン伯爵の偉業は,イギリスでも有名だったし(囲み参照),当時ドイツとイギリスとは敵対関係にあった。こうした背景から,人々はすぐさま,将来の侵攻に備えてドイツの飛行船が偵察飛行にやって来たものに違いないと思い込んだ。
 しかし,この仮説の最大の欠点は,イギリス国内のいたるところで数え切れないほどの飛行船目撃事件が報告されている点である。当時のドイツには,せいぜい1,2回イギリスへの偵察飛行ができればいい程度の資力しかなかった。このため,二,三の新聞は,この現象そのものを幻想と決めこみ,飛行船を目撃したと報告する読者を“ご乱心の大家たち”と呼んで取り合わなかった。そうした新聞記者の元に,その大家の1人から投書が届いた。
  毎晩1000人に2人の割合で,色鮮やかなネズミや,発光するフクロウ,動きまわる光,燃え上がる彗星などの奇妙なものを目撃しています。したがって,この種の事件の証拠を探す気になれば,いくらでも見つかるはずです。特に,体験者にまずその旨を伝えれば,喜んで証拠を提供してくれるでしょう。
 最も不可解で衝撃的な事件は,初老の操り人形師レスブリッジ氏の目撃例である。5月18日のこの事件報告によって,飛行船の活動の中心は東海岸からウェールズのグラモーガン州中部へと移った。前日の5月17日にも,赤い閃光を放つライトをともした“長い物体”が,北アイルランドのベルファストで何人もの人々に目撃され,事件の確証も得られていた。もはやイギリス国内で,この騒動に巻き込まれていない地域は残っていないようだった。レスブリッジ氏は,飛行船の目撃接近遭遇からわずか数時間後に,興味津々の記者を相手にこう語っている。
  昨日,わしはセングヘニードへ出かけて,カーフィリー山を越えて帰宅する途中だった。ほら,あの山の頂上はえらく寂しい場所だろう。頂上に着いたのはもう午後11時ごろだった。ちょうど道のカーブを曲がったところだった。びっくりしたよ。長いチューブのような格好の物が道ばたの草むらの中にあって,そのそばで2人の男が忙しそうに何かやっていた。わしは連中を観察した。奴らの身なりがずいぶん変わってたんだ。2人とも,大きな分厚い毛皮のコートと,頭にぴったりの毛皮の帽子をかぶっていたようだ。わしはちょっとばかり驚いたけど,そのまま通り過ぎた。通り過ぎて20mも行かないうちに,奴らの服装がわしの思ったとおりだったことがわかった。連中は,わしのちっぽけな荷車の音に気がついたらしく,わしの姿を見て飛び上がると,奴らは互いに,何かわけの分からんことばでまくし立てていた。あれはウェールズ語か何かだろう。英語でなかったことだけは確かだ。奴らは急いで地面の上から何かをかき集めた。わしが本当にびっくり仰天したのはその時だ。地面の上にあった例の長い物体が,ゆっくりと浮き上がったんだよ。わしは,ただただ呆然と,そこに立ち尽くしていた。その物体が地面から2,3mくらいのところで停止すると,その下につり下がっている小さなゴンドラ みたいなものに男たちは飛び乗った。すると,奴らを乗せたその物体は,ゆっくりとジグザグに上昇していった。そいつが,山の上を通っている電線をうまくかわしたと思ったら,そのとき電燈のような明かりが2つともった。そしてぐんぐん上昇していって,カーディフの方へ飛び去ったんだ。
 レスブリッジ氏が記者たちとともに,接近遭遇の現場へ戻ってみると,果たして,飛行船が存在した痕跡がいくつか見つかった。14mくらいの例の長い物体が目撃された場所には,鋤の刃で引っかいたような跡が残っていた。あたりには,飛行船の目撃記事やドイツの皇帝と軍隊の関連記事の載った新聞の切り抜きが,いっぱい散乱していた。このほかにも,大量の紙張り子の詰め物の材料や,つややかな缶のふたや,見慣れぬ文字を書き連ねた何十枚という青い紙片,そして,赤いラベルのついた金属のピンが1本見つかった。ピンのラベルには,フランス語の説明が書かれていた。一部の人たちがこのピンを爆破装置の部品らしいとコメントしたため,一時は騒然となったが,さらによく調べると,自動車のタイヤのプランジャーだろうということになった。
 レスブリッジ氏の話を裏づける証人も何人か名乗り出た。カーディフ州キャセイのソールズベリー通りの住人が,同じ夜の10時40分から10時50分にかけて,空に浮かぶ飛行船のような物体を見たと言った。

葉巻型の“ボート”
 さらに別の証言も寄せられた。レスブリッジ氏の遭遇から2時間後,カーディフのドックの作業員数名が,ニューポートの方角から“葉巻型のボート”が高速でやって来て東の方へ飛び去るのを見たと語った。この飛行船にはライトが2つついていて,ブンブンとうなる大きなエンジン音をとどろかせていた。目撃者の1人はこう言った。「中に乗っている人間は見えなかった。夜だったし,飛行船はかなり高空を飛んでいたからね。でも,大型の飛行船だったことは間違いない」
 グレアム氏とボンド氏の体験談はこれに輪をかけてとっぴな話だった。この2人の紳士は,5月13日,ロンドンのハム・コモンで“端が広がった大きなシガー箱を束にしたような”全長60〜70mの飛行船を見た。彼らが,この夜出会った飛行船の乗員は,きれいにひげをそったアメリカ人と,ヒョウタンでつくったパイプをくわえたドイツ人だった。ドイツ人がたばこを少しくれないかと言うので,グレアム氏は自分のたばこ入れから出して分けてやった。彼らは真正面から浴びせられるサーチライトの光で目がくらんだが,それでも,その“アメリカ人”が金網のかごのようなものの中にいて,彼の前にビールポンプの取っ手のようなレバーが並んでいるのが見えた。ドイツ人の前には地図が置いてあり,その地図の所々に何本もピンが刺してあった。この遭遇事件は,“アメリカ人”がレバーの1つを引き下ろした瞬間,突然幕切れとなったらしい。“そして彼はサーチライトを消し,飛行機は飛び立っていった。2人ともさよならの一言も言わなかった”。
 こうした様々の奇妙な事件を聞くと,1909年にイギリスをおびやかした幽霊飛行船の謎の解明が決して容易ではないことをお分かりいただけるだろう。


幽霊艦隊

 1909年にイギリス上空で目撃された謎の飛行船は,実際は,ドイツのツェッペリン飛行船ではなかったようだ。
 ドイツの飛行船研究の先駆者は,フェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵(右)である。彼は,1900年7月にボーデン湖の上空で,最初の飛行船“ルフトシフ・ツェッペリン1号(LZ1)”の初飛行を行った。彼の62回目の誕生日のほんの数日前のことだった。LZ1は,ガスを詰めた巨大な袋にエンジンを取り付けて動かすだけの単純なもので,17分あまりしか飛行できなかった。だが,この短時間の飛行は感動的で,飛行船の未来は明るいと思われた。
 ツェッペリン伯爵は,大規模な飛行船建造計画に着手した。しかし,1909年ごろは度重なる墜落と資金不足のために,飛ばすことのできる飛行船は3隻(LZ3,およびLZ5,LZ6)しかなかった。このうち,軍の管理下にあったのはLZ3とLZ5の2隻だけだった。しかも,この2隻はまだ実験段階で,長距離飛行は不可能だったし,また,イギリスの“幽霊飛行船”の目撃者たちが報告したような高速度飛行ができる性能は持っていなかった。


幽霊飛行船の黒幕はだれか?

1909年の“幽霊飛行船”の目撃騒動が下火になったとき,この物語はそのまま終幕を迎えるかと思われた。だが1912年,以前にもまして不可思議な目撃事件が再び報告され始めた。

 1912年10月14日の夜,イギリスのケント州シアネス上空にツェッペリン型飛行船が飛来したという噂は,英国下院の査問にまで発展した。1912年11月27日,反対党の下院議員ウィリアム・ジョインソン=ヒックス氏は,海軍大臣ウィンストン・チャーチル氏に対して,この問題について何か知っているかと質問した。チャーチル氏は,問題の日に正体不明の航空機の報告があったと断言した。同地区では,午後7時に上空を飛行する未確認機の爆音が聞こえ,その機が着陸すると予想された近くのイーストチャーチで火の手が上がった。しかし,夜空からは何も降りてはこなかった。この未確認機の国籍や,どこから飛んできたかについては依然謎のままである,とチャーチル氏は認めるしかなかった。
 イーストチャーチの報道機関の調査によって,10月14日午後6時30分から7時にかけて,町の住民がブンブンとうなる騒音を聞いたことが明らかになった。しかしこの時,人々は,海軍の航空学校へ向かう飛行船か飛行機の音だと思った。しかし,問題の日,夜間にその基地を発着したいかなる航空機も存在しなかった。
 ジョインソン=ヒックス氏とチャーチル氏の質疑応答の原因となったこの話は,数々の予期せぬ結果をもたらしたのである。
 すぐさま,ツェッペリン1号にシアネス事件の嫌疑がかけられた。このドイツの飛行船は,前日の10月13日に30時間のテスト飛行に出発していたのだ。1912年にシアネスに飛来した航空機が,果たしてツェッペリン1号などのドイツ製の飛行船であったかどうかは,いまなお議論の種になっている。事件の真相が何であれ,英国政府は,国民と官公庁の不安を抑えるため,1911年に制定した航空管制法の強化を決定した。法案はすみやかに議会を通過し,1913年2月14日国王の裁可を得た。これによって内務大臣は,イギリス領土及び領海全域にわたって航空機の飛行を禁止する権限を与えられた。これはまた,航空機が地上信号に応答しなかったり,禁止区域を飛行した場合には,砲撃を受ける可能性を示唆するものであった。
 だれもがこの法改正に満足したわけではなかった。政府は,高性能の高射砲の製作を躍起になって急いだ。が,こうした計画は所詮実験段階に過ぎず,多くの人々が,この法律を勇ましく吠え立てるだけの牙のない犬のごときものだと論じた。こうした出来事の背景となったのは,1913年1月に始まった幽霊飛行船目撃の新たな集 中発生であった。
 1月4日早朝,警官1人を含む3人が,ドーバー上空を飛行船が飛んでいるのを見た。その飛行船は,海の方からやって来て,北東の方角へ消えた。強い西風にもかかわらず,飛行船はライトをともし,ブンブンという爆音をとどろかせ,猛スピードで飛び去った。この事件にかぎっては,200km離れたベルダンの基地からやって来たフランスの飛行船だという話に落ち着いた。もっとも,どうしてフランスの飛行船が,悪天候の中をこんな朝早くに危険を冒してまでやって来たのか,その理由は推測できなかった。
 もう1つの重要な目撃例は,グラモーガンシャー州の警察署長ライオネル・リンゼー警部が,1月17日に報告した事件である。警部は,午後4時45分カーディフ上空を通過する飛行船を目撃した。彼はこう証言している。
  あれは,ウィローズの飛行船よりはるかに大きくて,スピードがあった。そして,後ろに濃い煙の尾を引いていた。私が,そばにいた人にその物体のことを告げると,彼も私と同意見で,何か大きな航空機の一種に違いないと言った。スピードの速さを見せつけるように,それはあっという間に見えなくなってしまった。
 リンゼー警部の目撃から30分後,マーサーのスティーブン・モーガンも,自分の寝室の窓から同じような物体を見た。彼も,飛行船の後方の煙の尾が印象に残った。彼が高性能の望遠鏡を持ち出して見ようとしたときには,飛行船はもうアバデア・ベリーの上空から姿を消していた。
 こうした目撃事件に触発されて,さらに多くの目撃者が名乗り出た。その1人,スウォンジーの郵便局員は,1月21日午後7時,まぶしく輝く光がクラインの森の上空に浮かんでいるのを見た。その4日後,謎の飛行船が時速40kmのスピードで飛んでいるのを,リバプールの何人もの人が目撃した。この日,地元の飛行クラブのメンバーが飛行していたが,彼らの話によると,その飛行船が目撃された時刻には,風が強すぎてそれ以上飛行を続けられなくなっていたそうだ。1月末ごろ,いく晩にもわたって数多くの目撃者が,明るい光がマンチェスター上空を飛ぶのを見たと報告し,不穏な空気が流れた。

“飛行船病”
 飛行船の目撃事件は全国に波及し,とうとうある新聞は,多発するこの目撃報告を“飛行船病”と呼ぶようになった。
 ジョインソン=ヒックス氏は,リンゼー警部の目撃報告について意見を求められて,こう答えた。
  私は,この報告に対していささかの疑問も抱いていない。我が国の飛行船にはわずか50〜65km程度の航続距離しかないが,ツェッペリンの飛行船なら海峡を越えることも可能だ。実際,私は,外国の飛行船が自由にイギリス海峡を横断しているに違いないと信じている。これは,きわめて深刻な問題である。
 2月になると,ヨークシャー州が目撃事件の新たな中心地となった。スカーバラの2人の若者が,夜空に浮かぶ異常物体の最初の目撃者となった。2月初旬のある日,タイラー氏とホリングス嬢が,スカーバラ競馬場の上空に浮かんでいる光を見た。2人は,その光が発しているらしい機械音でそれに気がついた。数分後,この物体から白い円錐形の光芒が下方へ投射され,その光は6〜7分間競馬場のあちこちをはいまわっていた。一度その光芒が消え,それから再び点燈したかと思うと,物体はセルビーの方へ飛び去っていった。
 ヨークシャー州のもう1つの目撃事件は,2月21日の午後9時から9時30分の間に起きた。砂運搬船のスター号でウーズ川の浚渫作業を行っていた2人の男が,空に浮かぶ光を目撃した。この目撃者の1人リプリー氏はこう証言している。「その光はぐるぐる旋回して,停止した。そのまましばらくじっとしていたかと思うと,ビリングトン・ロックスの方へ飛んでいった。そこでまたしばらく停止していて,またぐるぐる旋回し始めた。まるで,この土地の測量でもしている感じだったよ」その光は,何度か同じ動きを繰り返し,ついに姿を消したそうだ。
 同じころセルビーでは,自宅にいた弁護士のマーチ氏が,ハムブルトンの上空に明るい星を見た。その星は上下に動いたり,前後に動いたりしていた。まるで,その一帯の測量をしているか,あるいは何かを探しているようだった。45分後,星はリーズの方へ高速度で飛び去った。
 2月21日は,飛行船の乗組員にとって多忙な一夜だったに違いない。もし飛行船が1隻だったとしたらの話だが。というのも,飛行船のライトを見たり,エンジンの音を聞いたという報告は,ヨークシャー州の人々ばかりでなく,ウォリックシャー州のエクスホールやノーフォーク州のハンスタントンなどの住民からも寄せられたからである。
 陸軍省がこうした目撃報告に関心を持ち,謎の飛行船の正体を突きとめようと調査に乗り出したのは,ちょうどこのころだった。しかし結局,陸軍省の調査結果は発表されなかった。
 2月の末ごろには,イギリス全土で何百という目撃報告がなされた。しかし,その多くは,金星を見間違えたとか,だれかがいたずらで飛ばした気球だろうという解釈で片づけられた。事実,そうした例も数多くあった。
 こうした単純な解釈では説明のつかない強烈な事例が,蒸気船シティー・オブ・リーズ号のランディー船長と乗組員たちの目撃報告である。2月22日午後9時15分,彼らがハンバー川の河口から出ようとしていたとき,ヨークシャー海岸のはるか上空にその物体が見えた。「サメによく似た格好だった」と船長は語った。「そのマシンには両側に翼がついていた。マシンはこちらに船尾を向けていた。ライトは見えなかったが,月が出ていたから,ライトは必要なかったろう……私たちは5分くらいの間じっとその物体を観察した。その間ずっとマシンは高い高度を飛んでいて,やがてグリムズビーの上空へ消えた」

謎の複葉機
“幽霊飛行船”事件と関係のありそうな興味深い報告例に,アイルランドのキラリー港でコリンズ氏なる人物が自分のヨットの上から目撃した事件がある。2月下旬のある日,湾の上空からブーンとうなる音が聞こえた。見ると,海の方から飛行機が1機こちらへ飛んでくる。飛行機は,突然降下してきて島に着陸した。コリンズ氏はこう語っている。
  私は浜辺へ走った。もし飛行機の故障だったら,助けや案内が必要かもしれないと思ったからだ。その飛行機は,複葉機だった。乗員は3名で,1人は整備士のようだった。姿は見えなかったが,エンジンをいじっている様子だった。ほかの2人は,かっぷくのいい外国人だった。赤ら顔で,秀でた額をしていた。一見ドイツ人のように見えた。
 彼は,何かお手伝いしようかと,ドイツ語で話しかけた。すると彼らの1人が,何を言っているのか分からない,とフランス語で答えた。そして,何でもないからとっとと消えてくれと,けんもほろろに追い払われた。コリンズ氏はその後,飛行機が離陸するところは見なかったが,水平線上にいる蒸気船を見た。例の飛行機と礼儀知らずの乗員たちの帰りを待っている様子だった。
 圧倒的な数の多さが,1 913年の初めごろに起きたこの一連の目撃事件の調査と分析を困難にしている。当時の有識者たちは,事件と同じ数ほど各者各様の仮説を立て,混乱に輪をかけただけだった。UFO研究家が,この問題を解明しようと必死の努力をしてきたにもかかわらず,目撃事件の多くは依然として謎に包まれたままである。その調査結果は,それぞれのデータをよく吟味してみると,現代のUFO研究にとって興味深いものを含んでいる。


当時の技術水準

 当時のイギリス政府は,1913年の“幽霊飛行船”について何も知らないと主張している。果たして,これは事実なのだろうか。軍が最初に開発した2隻の飛行船“ナラ・セクンダス”1号及び2号は,1909年にはすでに解体されていた。その後小型の飛行船がいくつか製作されたが,その最初の“ベータ”の処女飛行が行われたのが1910年である。すると,1909年に目撃された飛行船が何であれ,軍のものではあり得ない。この点は,1913年の目撃事件にも当てはまる。“ベータ”の後継機“ガンマ”と“デルタ”はかなり小型で,“幽霊飛行船”と見間違えることはあり得ない。
 ウェールズの目撃事件の一部については,カーディフの民間製作者E・T・ウィローズが造った飛行船を誤認したという可能性もあるが,ウィローズの飛行船は,地元の人たちにはよく知られていた。例えば,リンゼー警部は,1913年1月17日にカーディフ上空で目撃した“幽霊飛行船”を,ウィローズの飛行船と比較したうえで報告を行っているのだ。結局,謎は謎のままなのである。




フォローアップ:



  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。