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私が出会ったもうひとりの「カリスマ」
原田実(文明史家)http://www.dtinet.or.jp/~techno/
宝島30 1995年11月号「特集」オウムを生んだ80年代オカルトのヒーローたち
より。
武田崇元とオカルト雑誌『ムー』の軌跡
私はオウムという毒草のタネをまいたわけではないが、それが成長する過程で丹精し、
華咲くまでに導いた一人には違いない−−。
八○年代オカルト業界のカリスマ武田崇元と
麻原彰晃は、どこで結びついたのか?
一九九五年前半、日本のマスコミはオウム とサリンに振り回された感がある。私はその 喧噪の最中、二重の意味でオウム王国崩壊に 深い感慨を抱かずにはいられなかった。
その理由の一つは、私が「偽史運動」の研究者だということである。偽史運動とは、ひと言でいうなら、捏造による文書・遺物や疑似科学的データに基づいた、アカデミズムからはまったく相手にされない歴史学説を、政治的に利用しようとする社会運動として定義できる。
偽史運動がテロルを誘発し、やがて破綻を迎えるということは、歴史上珍しいことではない。それどころか、世の中にはテロリズムを積極的に肯定するために作成された偽史さえ存在する。たとえば戦前の右翼の雄・権藤成卿が作ったとされる『南淵書』などは、その代表的なものといえよう。そして、オウム真理教もまた、私の見地からすれば偽史運動の一種に他ならない。私たちはその実例の一つを目の当たりにしたのである。
さて、オウム事件に深い感慨を抱かずにはいられなかったもう一つの理由は、私個人にとっては深刻なものである。私はある意味で
は、この事件の発端から関わっていた。私はオウムという毒草のタネをまいたわけではないが、それが成長する過程で丹精し、華咲くまでに導いた一人には違いないのだ。
【『地球ロマン』と霊的ボルシェビキ】
一九七〇年代の後半、当時高校生だった私はある雑誌に魅きつけられた。絃映社より刊行された『地球ロマン』である。それはもともと、当時は珍しくもない泡沫オカルト雑誌の一つにすぎなかった。しかし、いったん廃刊の後、一九七六年八月に伊藤裕夫・武田洋一両編集長の下で復刊して以来、オカルト情報を単なる綺譚としてではなく、文化史上の史料として対象化するというマニアツクな雑誌に変貌をとげたのである。
その復刊第一号は「魏史倭人伝」と銘打たれ、『竹内文献』などのいわゆる超古代史と、=日本=ユダヤ同祖論ハエジプト発祥説、シュメール発祥説などの日本民族起源論異説を扱う内容であった。学校では教えてくれないもう一つの歴史の存在に、少年時代の私はたちまち夢中になった。そのころから「武田洋一」という名は私にとつて一つのカリスマとなっていつたのである。
武田洋一氏は一九五〇年兵庫県生まれで、東京大学法学部在学中に全共闘に参加するも、その崩壊過程を組織の内側から見ることで従来の左翼イデオロギー運動の限界を知る。
実はこのころ、左翼イデオロギー運動と偽史を媒介する象徴的な二つの事件があった。『地球ロマン』復刊一号の編集後記のうち武田氏担当の箇所から引用しよう。
「偽史にまつわるエピソードを二つ。一つは、数年前、赤軍派の梅内恒夫が地下からのアピールで『天皇アラブ渡来説』の八切止夫を日本始まって以来の人民歴史家と賞賛、マルクス主義を放棄し、ゲバリスタに志願したこと。一つは、秦史ユダヤ人説を信奉する手島郁郎氏が、岡本公三を転向させたこと。最も急進的な党派に属する二人の人間の思想的転向に、何等かの形で偽史が介在したことは果たして偶然でしょうか?」
言うまでもなく岡本公三氏は日本赤軍によるイスラエル・テルアビブ空港乱射事件の犯人の一人。実際には、手島郁郎牧師の接見を受けたという事実はあるが、教化されるには至らなかったらしい。しかし当時、このよう な噂が流れたというだけでも興味深い事実であろう。
そして武田氏もまた、左翼イデオロギー運動の破綻を経て、オカルトや偽史運動にこそ 新たなボルシェビズムを生む可能性があると見たようである(後年の武田氏の文章には、しばしば「霊的ボルシェビキ」という語彙が 見られる)。
一九七〇年代後半からハ○年代初頭にかけて、左翼イデオロギーの退潮とともに世間には奇妙な風潮が蔓延し始めていた。横溝正史や夢野久作などのおどろおどろしい小説がリバイバルし、かつての左翼闘士からは狂信的な自然食運動やエコロジー運動、さまざまなカルトなどに活路を見出す者が現れた。当時、科学界でもオカルトまがいのニュー=サイエンスなるものが話題となり、その二ュー=サイエンスを広告理論に取り込もうという雑誌『遊』(工作舎)もノンポリ青年たちにもてはやされた。
これらの思潮は、反科学・反理性という形をとるにしろ、先端科学技術との野合を図るにしろ、オカルト賛美の方向に向かうことでは共通している。武田氏はそこに新しいイデオロギー運運への可能性を見出していたのである。
しかしそれは、ある意味では「いっか来た道」の再来でもあった。すなわち、ボルシェビキ革命前夜のロシアでも、ナチス政権掌握前夜のドイツでもオカルトが流行し、怪しげな教狙たちや偽書の類が横行していたことは、現在ではよく知られた事実である。
日本本もロシアやドイツと同時平行的にさまざまな偽史やオカルトが出現し、その一部は日日本ファシズム政権下に導くうえで無視しえない役割を果たしていた(出口王仁三郎を教主とする大本本はその代表格である)。
またほどなくして、かつつは〃ドラゴン将軍〃や〃爆弾教祖〃などの異名名知られていた新左翼のオピニオン・リーダーの一人であり、現在はユダヤ陰謀論の急先鋒として知られる太田龍氏が偽史・オカルティズム、さらには新右古への接近を始めたことも、興味深い。
一九九八年七月刊の『迷宮』三号には、太
田氏と科学研究家の阿基米得氏、そして編集
長の武田洋一氏による鼎談「現代革命と霊性
の復権」が掲載されているが、そこでは、硬直した左翼用語からいまだ抜け出せていない太田氏相手に、武田氏が『僕らがこうやって『迷宮』を発行して一種の文化運運を行なっていることが、新しい日日本ナチズムを準備している」「(マルクス・レーニン主義も一つの教団国家という太田氏の言を受けて)それに対抗する逆フリー・メーソンを作らなければならないわけだ」などと、挑発的な言辞で翻弄していたりもする。
『日本のピラミッド』と反天皇制
さて、『地球ロマン』は一九七七年、復刊六号にしてふたたび廃刊したが、一九七九年には『迷宮』と題し、白馬書房を発売元にして再出発。こちらは三号まで続いた。ちなみにその二号の特集は「ナチズム」である。
また、武田氏は『地球ロマン』廃刊から『迷宮』発刊までの一時期、武田益尚の名で『UFOと宇宙』(ユニバース出版)の編集長を務めていたこともある。その前後、東京大学、京都大学を中心として各地のキャンパスでUF。、オカルト研究が活性化したのも、あ
るいは武田氏の過激さが、イデオロギー運動の低調で行き場を失った学生たちに影響を与えたためかもしれない。『UF。と宇宙』は後の『トワイライトゾーン』の前身となる。
一方、学研のオカルト雑誌『ムー』にも、一九七九年の創刊当初から顧問として参画、将来、自らが事業を起こす際の宣伝媒体に育てるべく、ハードコアなオカルト情報を提供し続けた。私は武田氏が「『ムー』はわしと南山(UFO研究家の南山宏氏)が作ったんや」と述懐するのを聞いたことがある。行く川の流れの如きオカルト業界にあって『ムー』が十六年もの歴史を誇っていられるのも、武田氏の薫陶によるところが大きい。
もっともそれ以前からも、武田氏は雑誌戦略と並行して単行本による読者獲得に努めている。一九七五年には武内裕というペンネームで大陸書房より『日本のビラミッド』を発表、日本原住民の文明は天阜家の祖先に滅ぼされたとして、超古代オカルト文明の復興こそ真の科学的社会主義(何と懐かしい響き!!)の実現であると説く。
この書籍の論理の奇怪さを語るには次の事例をあげるだけで充分だろう。いわゆる超古代史の一つ『竹内文献』は昭和初期に捏造された偽書だが、その中では、天皇は太古世界の盟主であり、ピラミッドを最初に作ったのも天皇家だと主張されている。ところが武田氏の『日本のビラミッド』では、その『竹内文献』が、天皇家こそ日本列島への侵略者であったという証拠文書として用いられているのである。こうした転倒の結果、『日本のビラミッド』によって、偽史とオカルト、そして マルクス主義とが珍妙な野合を遂げることになる。
ちなみに一九八四年、『サンデー毎日』が「日本にピラミッドがあった!?」という特集を始めた時、『日本のピラミッド』はその表題のためにふたたび書店の店頭を賑わわせたものだが、実にこの書物の眼目は日本原住民と天皇家との対立の構図を描くところにあり、ピラミッドはその話の枕に過ぎなかった。
『日本のピラミッド』の新味は、それまで天皇崇拝色の強かった日本の偽史運動を、侵略者たる天皇家VS日本原住民という対立の構図により、反天皇制の側に誘因したことにある。ちなみに奇しくも『日本のピラミッド』が刊行されたのと同年、反天皇制の立場をとる初の超古代史『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』の一部が青森県市浦村より刊行されている。
その後、武田氏は、一九八〇年に有賀龍太というペンネームで『予言書黙示録の大破局』をごま書房より発表。新約聖書の末尾を飾る『黙示録』のハルマゲドン予言を自らの手で実現しようとするオカルト地下運動がすでに蠢動していると説く。『黙示録』はローマ帝国の弾圧に苦しむ原始キリスト教団が、神の敵の破滅とキリスト教の最終的勝利を願って後世に託した祈りの書だが、武田氏はそれを世界の滅亡を求める呪阻の書として読み解いたわけである。面自いのは、この書籍の中で、その地下運動の機関誌として『迷宮』を名指していることだ。つまり、武田氏は大衆向け予言という形で自らの野心を告白していたということになる。
この書籍に続き、やはり有賀龍太名義で、ごま書房から出した『ハレー彗星の大陰謀』では、宇宙空間への脱出の結果、スターシード(宇宙生命)に進化した新人類の出現が語られる。この本の中で展開されるハイテクノロジーによって新しい民族を生み出そうとする思想を、武田氏は主にヒトラーから学んだ。
これが後にオウム真理教の「神仙民族」を目指す解脱テクノロジーヘと引き継がれることになる。
武田氏のこういった経歴をあらためて紹介するまでもなく、この当時の日本でオカルトや超古代史に関心を持っていた人なら、誰もがいちどは武田氏が関与しだ雑誌や書籍を手にしたことがあるはずだ。そして、私もまたそれらの印刷物によって洗悩された一人だったのだ。
八幡書店と武田崇元
一九八一年、武田氏は出口王仁三郎の師にあたる国学者・大石凝真素美の分集を刊行、さらにその刊行会を母体として有限会社八幡書店を設立、その社主になるとともに自らの名も武田崇元と改める。この前後、武田氏は従来の左翼革命路線を改め、自らファシストを宣言、当時台頭してきた新右翼との連携路線を打ち出した。自販機本「ヘヴン」廃刊号(八一年)掲載のインタビューで武田氏は「十万人の社会民主主義者に読ませるよりも、三百人のファシストに! これが「迷宮」のキ ャッチフレーズや」と豪語している。これは そのまよ八幡書店の経営方針ともなっていっ た。
八幡書店は広告媒体として『ムー』を最大 限に活用し、一回広告を打っごとに一冊数万 円の本が何百冊も売れた。むろん、ただ広告 を打っだけでは効果は薄い。八幡書店側で新 刊の内容を称賛する記事を書き、それを『ム ー』に掲載させることで、読者の目を魅きっ けるのだ。こうして八幡書店から『竹内文献』 『富士古文献」『東日流外三郡誌』など超古代史のテキストや、明治〜昭和初期の神道系オカルティスト、超古代史研究家、日本=ユダヤ 同祖論者たちの著書の復刻が、次々と世に送り出されることになった。
ちなみにこのうち、『東日流外三郡誌』については、現所蔵者の和田喜八郎氏が事実上の作者であることは八幡書店内では暗黙の了解事項となっており、和田氏のご機嫌取りに一同気を遣ったものだ。
私が八幡書店に入社したのは一九八四年の春のことである。私の中な仕事は『ムー』に掲載する記事と広告を作成することだった(その筆名の一つに「伊集院卿」があったといえば、古くからの『ムー』読者なら頷かれることだろう)。
だが入社後しばらく経つうちに、その仕事は私にとって気の重いものになった。『ムー』や八幡書店書籍の読者たちは、そこに書かれている内容がすべて真実だと思いこんでいるらしい、と気づいたからである。世の中には活字になったものはすべて真実だと思い込む人は意外に多い。しかも、その媒体が学研のような大手出版社となれば、それだけで無条件に信じ込む人が少なくないことを私は思い知らされた。
八幡書店在職中、『ムー』の影響力を思い知らされたエピソードがある。一九八六年、私は富士山麓に伝わる超古代史『富士古文献』の広告を『ムー』に掲載するための記事を書いた。その直後、二人の少女マンガ家がそれぞれ『富士古文献』に基づくと称する伝奇ロマン物を発表した。私はその二つを見る機会があったのだが、何とそのどちらもがオリジナルの『富士古文献』の伝承ではなく、私が他の文献から捏造した話に基づいて書かれていたのである。私はあらためて『ムー』の影響力が恐ろしくなった。
そんなこんなで、入社後二年ほどで私は文章が書けなくなり、他の作業能率も日に見えて落ちてきた。なぜ、そのような状態で会社を辞めなかったのか不思議に思う人もあるだろう。しかし武田氏は、私が辞めたいとでも洩らそうものなら、「わしの手を離れて生きていけると思うなよ」と毒づいてくるのである。かって私を魅きつけた武田氏のカリスマ性が、そのころには恐怖心を呼び覚ますものとなっていた。
一九八七年の秋、私は電話での口調から心理的
危機を察した友八たちによって救出され、実家に帰ることになった。それからの数カ月、私は健康を取り戻すために苦労する羽日になる。その間、深夜の無言電話を含めた電話攻勢や、武田氏自身による実家や滞在先への奇襲などさよざまな事件があったが、ここに記したところで仕様がないし、私自身思い出したくもない。ただ、私がたまたま不在中、実家に現れた武田氏が母に投げ掛けた言葉だけは書いておきたい。母が、そんなに息子の働きが悪いと怒るのなら、辞めたいと言った時に辞めさせたらどうですかと言うと、武田氏
はこう怒鳴ったという。
「あんさん、アカでっか!?」
やがて、私とその周辺から武田氏の影はしだいに遠のいていった。