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「ホツマ」平成8年11月1日号
鏑邦男
古事記・日本書紀はなぜ編修されたか1より(抄)
−−福島県二岐温泉の旅館当主、佐藤好億(よしやす)氏の話
「私は当家の四男で、当時旅館をやっていたのは長男でした。私たち兄弟は全員大学までいかせてもらったのですが、戦後の土地解放で財産もなくなり、現金収入はほとんど無かったのに不思議なことです。父に聞きましたが話してはくれませんでした。
あれが発見されたのは私がアメリカ留学から帰ってきたのが昭和44年ですから、昭和42年だとおもいます。佐藤家は木地挽きとして1300年以上の由緒があり、あれが発見された家は鎌倉時代に建てたものと思います。
あの家は文化財の仮指定になっていたのですが、裏山が崩れて多額の修理費が必要となり指定を解いて取り壊すことになりました。解体の時に宮内庁や文化庁の係官が立ち会いました。あれがあった3階の開かずの間は構造的に建物を壊さない限り中を見れません。
この開かずの間の話は前から知られていて、これまでにも某工業大学でファイバースコープを使って調べようとしましたがうまくいきませんでした。
解体が始まり、この部屋のものをみた途端、宮内庁の係官が工事を中断させ、これから先は宮内庁直属の者だけで工事をやるということで、地元の手伝いの者などは作業からはずされました。なお、この作業には京都大学で主に古文書を研究している某教授や、奈良女子大の考古学専門の某教授なども参加していました。
この開かずの間から出てきた文書は漆塗りの大きな櫃に47個もあり、雨漏りのため3個は腐っていましたが、中は大丈夫でした。この中の文書はほとんど桐の薄い柾板のようなものに書かれていました。文字は間違いなくホツマ文字です。
この文書は宮内庁に運び込まれ、そのマイクロフィルムが富士銀行の地下金庫に保管されていますが、この金庫は宮内庁と私の持っている二つの鍵がなければ開けられません。銀行に保管以後は私も見ていませんが、フィルムの長さは約4000メートルです。
私の兄もこの文書と一緒に宮内庁に入ってしまったのですが、『おまえは関係ない。』と言って、詳しいことを話してくれません。また、担当の式部官(元大学教授)の某氏も、いずれ時が来たら発表するからと言って教えてくれません。
解体後、旅館は廃業するつもりでしたが、私が継ぐことになりました。その後、高松宮殿下が訪ねてこられ、旅館大丸屋を『大丸あすなろ荘』と命名されました。」−−
−−この二俣地区は平家の落人の伝説もあるところ。600年以上も眠っていた秀真文書の発見は私には21世紀へ向けての大いなるものの配慮によるものと思われてならない。いずれ宮内庁の公開があるものと思うが、そうなれば真実の日本の歴史は明々白々になることだろう。−−(次号に続く)
発行所 ホツマ研究会
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007 佐藤利右エ門[旅館] (代)0248-84-2311 岩瀬郡天栄村湯本下二俣5
大丸あすなろ荘 ダイマルアスナロソウ (代)0248-84-2311 岩瀬郡天栄村湯本下二俣5