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「ビンラディン−禁じられた真実」
Jean−Charles BRISARD
Guillaume DASQUIE 共著
Denoel社から11月14日発行
価格 20ユーロ
Denoel出版社から販売されたこの本は、アメリカ当局がどのようにタリバンとの交渉を打ち切ったのかをディテールを示しながら書き出している。ブッシュスタッフとテキサス石油業界の2001年8月のタリバンとのネゴ、サウジアラビアからのビンラディンへの経済援助についても同様に書き込まれている。情報界でも上り調子の2著作者が緊急に書き下ろした、調査書である。
共著者は97年に《ビンラディンをめぐる金融関係レポート》を書いた33歳の情報専門家と、ネット情報MLのチーフ、35歳。
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9月11日以前に、ブッシュ執行部はタリバンとの熱のはいったネゴシエーションを行っていたFBIを押さえつけた。
FBIはオサマ・ビン・ラディンの引渡しを条件にタリバン支持を申し入れていたのだ。
これが14日に出版された《禁じられた真実》の主張である。 ルモンド紙(11月12日)
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これはスキャンダルを起こすために書かれた本である。そのタイトル《ビンラディン 禁じられた真実》からはマーケティングの匂いがする。いくつかのエラーを見れば、急いで書かれたものであることが分る。たとえれば、筆者たちはタリバン外務大臣が2001年2月5日、ジョルジュ・ブッシュの大統領任就任14日後、米雑誌タイムに対してビンラディンの引渡しを検討中との声明を伝えたと書いている。そしてこれをアメリカに対する直接のアプローチと考える。たしかに声明はロンドンのタイムスに伝えられ、翌日プレスエージェントにたどり着いた。しかしこれからが筆者たちの構築するテーゼを疑うわけではない。
彼らはなにを主張するのか。まず第一に、9月11日以前、FBIによるサウジアラビアおよびイエメンでの反米テロ捜査は、中東王族との関係を悪化させたくないというワシントン外務省の主張を受けて中止された。(FBIナンバー2であったが、後これが原因で 01年2月に辞職したジョン・オニールからのスクープとのこと。 オニール氏は911WTCで死亡。)
次に彼らは、米外交筋は数年来、米石油会社の要請に答えるため、タリバンと隣接国(パキスタン・ロシア・旧ソ連領共和国・中国)とともに数々の石油トラックを行っていたと主張する。この仮説はすでに《タリバンの影》でアメッド・ラシッドが述べている。しかしながらラシッドの著書は99年末までのみカバーしている。ブリザールとダスキエはある意味でこの本に(ラシッドの描写の細部の豪華さ抜きで)、米プレスに発表された情報を加え、確認し、その後を語っている。彼らはブッシュ政権が石油業界ロビーのバックアップのもと、真剣に交渉を進めていたと提示する。《bios》、大統領を取り巻くそうそうたるメンバーに筆者達は911以来《アフガンのブッシュ》とも呼ばれるザルマイ・カリルザッドを、1995年から1998年末にかけてタリバンとその領土を通る天然ガスパイプライン建設の交渉にあたった人物を加えるべきだったろう。
1998年以来、石油業界と外交筋は、アフガン安定に必要と考えられていた、タリバンの圧倒的勝利は実現し得ないものだという確信を持った。《新たな大いなる賭け》から抜け出す必要があった:一方では米vsパキスタン、他方ではロシア・イラン・インドのみつどもえの利害対立は、一国によるアフガニスタン管理を不可能にしていた。合衆国次官ストロビー・タルボットは97年7月の時点ですでにこう言っている:「リュディヤード・キプリングは歴史書棚に置いたままとしよう。KIMに書かれている大いなる賭けはまさに勝ち目のないものだ。」取り分なしの賭けにしないためにワシントンは、アメリカ・ロシア・パキスタン、さらに加えてイランが、アフガン分派間の協調をプッシュすることによって、国の安定を図り中央アジアを石油という糧のため開かせる必要があった。
ビンラディン先導と考えられているケニヤとタンザニアの米大使館テロ(98年8月)後、米・タリバンのネゴシエーションの内容にオサマ・ビン・ラディンの引渡しが加わることになる。クリントン政府はその見返りとしてタリバン政権の認証をちらつかせる。ここから(タリバンの)パトナー、パキスタンと中東の王国群、の機嫌とりが必要となってくる。国際レベルでの圧力のメカニズムが起動し始める:危機打開のための《6+2》、6隣国と米にロシア、と呼ばれる交渉フォーラムが国連で設立され、1267決議:対カブール制裁の下地が採択される。サウジの情報部ヘッドのアル・ファイサル王子はオマール師とのラディン引渡し交渉に2回失敗することになる。
ブッシュ当局は2001年8月、目的達成に挑む。3月以降タリバンはワシントンに招待される。知られている最後のコンタクトは、イスラマバードにおける8月2日の国家上部責任者クリスティーナ・ロカとタリバン大使間で行われた。また、亡命中のザハール・シャハ王の元で部族協議会《ロヤ・ジルガ》がタリバン単独支配の終結を目的として召集されたと記述されている。これは9月11日の翌日に欧米外交官のシルクハットから取り出されたものではない。数ヶ月前から、ワシントンから《6+2》の意図が直接タリバンに伝えられており、ローマ・キプロス・ベルリンでの秘密交渉がコフィー・アナンの特別代理人であるスペイン人、フランチェスコ・ヴェンドレルの庇護のもとに行われた。最良の証拠は時として明白な事実である場合がある:テロ4ヶ月まえ、コフィー・アナン8月14日レポート、がこれにあたる。4月から7月にかけて高レベルのものもふくめた数々の真剣な外交交渉が、タリバン単独政権に変わる新政権確立のために、行われたことがレポートには詳しく書かれている。
タリバンに提示された取引内容は同じものだ:ビンラディン引渡しへの見返りは、《拡大政権》を築くための国内の敵、反タリバン勢力との協定である。この取引には経済援助の約束、あるいは(拒否された場合の)脅迫が盛り込まれていたのか?7月17日から20日まで米・ロ・イランを召集して行われた《ベルリン発展会議》にイスラマダード代表として参加したナイフ・カイフ前パキスタン外務大臣は、《証拠物件》というTV番組(FR3 10月18日)でこう断言した:「拡大政権が樹立後には国際経済援助が行われるはずだった・・・そしてパイプライン設置が行われる・・・サイモン外務大臣はもしもタリバンが期待通りに動かない場合、そしてパキスタンがタリバンをそのように仕向けられない場合は、合衆国はアフガニスタンに対して《隠されたものではない》と評価えるもうひとつのオプションを行使するだろう・・・ここで使われた言葉は《軍事オペレーション》だった。」
2000年11月、01年3月、そして7月17日から20日の3回にわたって、老練な外交官たちはベルリンのフランチェスコ・ヴェンドレルのもとに会合している。これは公式フォーラムではない:したがって参加者は自由に発言できる。そして対話内容がそれぞれの国政に直接かかわるものでもない。禁じられた真実の筆者たちはベルリン会談と国連公式フォーラム《6+2》を混同している。われわれ(ルモンド紙)すべての会合に参加した、96年から98年まで在パキスタン・アメリカ大使(96〜98年)だったトマス・サイモンに確認した。彼の回答とは:「ベルリングループの実際の役割はさして重要なものではなかった。参加者は政府関係者にレポートを提出したが、彼らはそれほど関心を示さなかった。確かにタリバンにたいして、ラディン引渡しと新合同政府確立が要請されてはいた。経済援助は話題にならなかったし、最善の場合には国際社会からの承認の可能性をほのめかしたにすぎない。」
さらに次の質問を続けた。《7月に米国はパキスタンに対して、もしもタリバンがラディンの引渡しをのみ、反対派同盟との和平書にサインしたならば、タリバンは"黄金の魔法のじゅうたん"を手に入れるが、もしも拒絶した場合は"じゅうたん攻撃"を受けるだろう、という話があるが、これは真実か?》
トム・サイモンの回答《7月の段階では、2000年10月イエメンでのUSS−Coleへのテロ調査上、もしビンラディンの事件への関係を示す確実な証拠があがった場には、軍事反撃の可能性もあり得るだろうと言っていた。 タリバンに対するおどしを効果的にするには、こういった宣言はいつも大げさに言うものです。しかし米国の宣言は単にイエメンでのテロに限ったものでした。黄金のじゅうたんとじゅうたん爆撃の話についてですが、政治的合意のうえでのアフガン再建設の必要性については、確かに話し合っていました。何杯かの酒を酌み交わした後で、アメリカサイドの自分は賢いと考える誰かが、黄金じゅうたんとじゅうたん爆撃の話をしたかもしれない。アメリカにもこの種の狡猾な考え方をする人物はいる。しかし会合では、私もほかのメンバーもこんなことは言っていない。》 サイモン氏は付け加える。《パキスタンは、ひとことのコメントからアメリカの"あめと鞭"戦術を計算・理解するのが肝心でしょう。(この見方を)あなたがたが認める理由もないのですが。》 《9月11日に起きたことから、過去にさかのぼって(ベルリン会議の)読みをするのは単なるアナクロニスムでしょう。》
結論?
1:これらの活動は確かにブッシュ・グループのもとで加速された。新大統領を取り巻く石油業界人に、アフガニスタン掌握のもたらす利益を説明するのはいたって簡単だ。
2:Loya Jirga と王のカムバックはテロの数ヶ月前の出来事である。
3:タリバンは少なくとも一回はビンラディンを引き渡す用意があるかのように思われていた。
疑問は残る。モラ・オマールとビンラディンの実際の関係はどんなものだったのか?タリバンの間に対立はあったのか、各自の役割は存在したのか?どのようなインスピレーションをもって彼らのうちの何人かはラディンの引渡しの可能性を考え、他のものはそれに対立したのか?(ベルリンに招待され、対立派はこれを受けたが、タリバンは断っている。) 疑念はのこる。:テロ以前、大規模な軍事介入という脅しが実際にタリバンに対してあったのか?パキスタンは実際に2重取引を行っていたのか、あるいはビンラディンを手放さない場合は軍事威嚇を受けると言うことで、パートナーを正気に戻そうとしたのか? 彼らは結果から原因にさかのぼって歴史を書きかえようとしたのか?
明白な事実:アルカイダはブッシュ就任以前から911テロを準備していた。可能なシナリオとは以下のようになる。:1999年以降、タリバンは政治勢力の強いプレッシャー下にあった。(確認はされてはいないが)タリバン内に分裂があったとしても、ビンラディンはオマール師に、彼を《手放したら》、師も続いて打ち砕かれるといって納得させるのは簡単だっただろう。2001年夏、タリバンは、正しいにしろ間違ったにしろ、大きな対タリバン軍事攻撃に備えていた。この時も、ビンラディンはこの状況下のおいては先制攻撃が必要だとたやすく(タリバンを)納得させた。もしくは告知なしで(先制攻撃を)行ったのか?合衆国の眠れるエージェントたちは、ゴーサインを待ち望んでいたのだ。これが禁じられた真実のレクチャーがもたらす暗黙の結論であり、われわれがその仮定にそって事実検証をおこなった結果である。
事実証拠にもとづいたスペキュレーション。
この仮定は9月11日の、想像を絶した出来事へと至ったメカニスム解明に、政治的一貫性を与える。
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「ビンラディン 禁じられた真実」
Jean−Charles BRISARD
Guillaume DASQUIE 共著
「著者へのインタヴュー」 リベラシオン、11月14日
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Q :なぜブッシュ政権はタリバンとの交渉をはじめたのか?
GD:
ブッシュに近い米石油関係者にとって中央アジアでのエネルギー保安問題から、タリバンとの交渉が死活問題だと考えた。
今カザキスタンは《新しいクエート》、ほとんどテキサスのアネックスと考えられている。しかしロシアがパイプラインを管理。アメリカに残された解決策は、パイプラインをアフガニスタンに通すプロジェクトだった。01年2月タリバンは国際社会からの認知と引き換えに、アメリカと交渉する意志があることを表明、またラディン引渡しの可能性を検討していた。
その時点で、クリントン政権下で始められたが中断していた話し合いをブッシュは再開する。複数のミーティングがレイラ・ヘルムス(もとCIAヘッド、リチャード・ヘルムスの娘、カブール・ワシントンの間の一種のマタハリ)の手配のもとワシントンで行われた。
01年4月交渉は確かに進んでいた。国連代表のフランチェスク・ヴェンドレルのもと、ベルリンで非公式交渉が数回にわたって行われ、時にはタリバン、北部同盟も参加。この交渉の目的は、国際世論から受け入れられうる、タリバンとその敵対勢力たちによるアフガン合同国家の建設、そしてラディンの引渡しだった。米国務省内でこの折衝を進めていたのは、アジア問題部門チーフのクリスチーナ・ロカ(原理教ゲリラとの関係にあたるCIA細胞の元責任者)、彼女は01年8月2日にイスラマバードのタリバン大使と会談している。
(911以前)最後まで米政権はタリバンとの交渉を続け、ラディンの引き渡しと引き換えに、タリバンが政権に残ることを希望していた。しかし、ラディンが、オマール師の権力を作り出した張本人であることを、またアフガンの真の指導者の一人であることをアメリカは見抜けなかった。
米国務省、国連安全保障理事会の責任は問えない。なぜなら、国務省はビンラディンの現実の権力に歯止めをかけた。また、国連は01年5月16日以降、代表者ヴェンドレルをローマ亡命中のザヘール・サフ王との折衝に送り、タリバン排斥を目的としたカブールでの王権復古を勧めていたからだ。
国務省および国連に、交渉の熱化のための《正当な理由》を与えたものはまた、すべての折衝を中断させたのだ。テロの過程は、01年2月から9月11日までのこれらの関係の過程でもある。
Q :これらの交渉の決裂の結果が、連続テロだと、本当に考えているのですか?
GD:
私はそう考えています。ブッシュ執行部による外交面での大きな間違い・誤算があった。
テロ以前、タリバンに対する軍事的オプションは真剣に検討されており、国家安全委員会でも語られている。01年6月の会合に、大石油会社シュブロンで9年間幹部管理者として勤めたコンドレザ・ライスが責任者として登場、また国連代表、フランチェスコ・ヴェンドレルも登場している。そこではアフガンの運命がディスカスされ、エネルギー保安のロジックがしだいに軍事ロジックに傾いていった。これ以降、共和党政権はあの二者択一《黄金のじゅうたんかじゅうたん爆撃》を選択、この脅しはパキスタンまで届いている。
Q :ニューヨークFBIのナンバー2、元対テロリスム調整役でアルカイダ担当だったオニールは、なぜこの夏突然にFBIを去ったのでしょうか?
JCB:
私が会った際、ジョン・オニールは、アメリカのアルカイダ捜査での最大の障害はサイジアラビアと石油だったと明かしてくれた。
ビンラディンに経済援助をしていた援助団体リストには王国一族の名が連なっている。サウジのPIBの15%を有する、4ないし5の王族がラディンを支持していた。10年の間に、ラディンが援助団体を通じてサウジ、および自分の家族から受け取ったとされる金額は、5千万から一億ドルにのぼる。
すくなくともラディン家の6人が組織を援助した。アルカイダの主要援助者、カリッド・ビン・マフーズはサウジ最大の銀行家で、おまけにビンラディンの義理の兄弟でもある。
ジョン・オニールによれば、米国務省は国家利益を優先し、FBI上部はその(アルカイダ)捜査を中止させた。この決定に恨みをもったジョン・オニールは01年8月FBIを任意退職、WTCの保安責任者となる。9月11日、彼はタワー内で被害者の一人として死亡している。
Q :アメリカの敵ナンバー1になる以前、ラディンはリビアの最大の敵だったとあなた方は主張していますね?
CD、JCB:
ラディンにたいする最初の国際手配要求は、98年3月16日、合衆国ではなくリビア法曹界から殺害と不法武器所持の疑いで発せられ、1ヵ月後インターポールが受理しています。
ビンラディンは(リビアにおいて)94年3月10日その部下たちとともに、ドイツ情報員とその妻を殺害している。
トリポリがラディン捜索に乗りだした時、ラディンはすでに対米のファトアを宣言していた:96年サウジアラビアでのアメリカ施設をねらったテロ行為の、確かな証拠を合衆国はにぎっていた。
そして91年のスーダン到着以降、ビンラディンは移住先、サンクテュアリをさがしていた。そしてカダフィ下のリビア:、アラブ国家、スンナ派そして国家の宗主に目をつけた。アル・ムカティラ グループ内の《アフガン−リビア人》たちに助けられ、ビンラディンはトリポリの安定の破壊と原理教権力の出現をねらった。。。。
http://isweb32.infoseek.co.jp/diary/sosora/html/af_cat1.htm