1. 2023年7月31日 00:11:34 : csprSW0R4h : eFoxWk5hNE14T0U=[272]
藤原直哉
@naoyafujiwara
19時間
茶の湯はカトリックのミサ
−千利休が大成した茶の湯はカトリックのミサ(聖餐)の儀式である−
田中進二郎筆
(以下本文)
千宗易(利休 1522−1591)は、当時自治都市だった堺の会合衆 (えごうしゅう 堺の中心的な豪商)の一人だが、イエズス会と深く関わっていた。
宗易(以後 利休と記す)は、村田珠光(1423−1502)、武野紹鴎(たけのじょうおう 1502−1555)が開いた茶の湯、佗び茶を大成した、ということでつとに有名である。利休死後も、子孫が表千家、裏千家、武者小路千家と分かれて、代々大名家の茶頭として出仕して利休の茶の湯の精神を引き継いだ、とされてきた。千利休が大成した茶道こそは日本文化の精華、精髄と考えられている。
しかし、利休の茶道が彼とその弟子(利休七哲と呼ばれる大名たち)は、カトリックの儀式を茶道という形に変形して、洗礼を施していたのだ、ということがザワザワと言われ始めている。
茶室はカトリック教会の活動の拠点であった。このことは、千宗室(利休のひ孫)に始まる裏千家や武者小路千家に、密かに伝えられていた。当時畿内のキリスト教会で行われた洗礼ミサの儀式を取り入れたものだ、それを確証する史料が、ローマ・バチカンの図書館に残っているという。
(引用元ー武者小路千家14代目家元 ・千宗守 ラジオ番組の録音
http://manga.world.coocan.jp/sadou-iemoto-musyakouji.html)
利休の茶道は、カトリック教会のミサの聖体拝領の儀式を取り入れて、吸い茶(茶の回し飲み)を始めた。
茶室に集った人々との連帯感を高めるための通過儀礼のようなものだった。利休はイエズス会の宣教師におうかがいをたてて、バチカン教会の許可をとったことが、記録として残されている、というのである。
続きは↓
https://boogierock.hatenadiary.org/entry/2020/05/02/144328
(コピペおわり)
2020年5月の記事のようですが
日本文化の代表的な茶道までもが
イエズス会と深く関わっていたとは、ていうか茶道てカトリックの儀式なんやね。まあアレ見るからに儀式的でお茶飲むのにいちいち大袈裟で表とか裏とかとても不自然で違和感ありました。
純粋な日本古来の文化で今も引き継がれているものはあるんでしょうかね。