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ウクライナ自決の墓場
2022年4月12日
エフゲニー・フョードロフ
反露国家
ウクライナのナショナリズムは、8年、10年、あるいは20年前に起こったものではない。すでに1989年にウクライナの党エリートたちが、ロシア的なものをすべて否定することによって自分たちのアイデンティティを構築し始めた。彼らは政治学を学ぶうちに、自分たちの民族主義的神話を作ることなしには成功しないことを理解していた。当然のことながら、まずオピニオンリーダーや権力者といったトップがその神話を信じるようにしなければならない。トップが心から信じていることなら末端にも伝わるはずだから。
こうして、例えば、クチマが最初の大統領時代に書き始めた有名な本「ウクライナはロシアではない」が生まれたのである。注意しておかなければならないのは、クチマはウクライナの指導者としてはまだ我が国に忠実であったことである。ヒトラーの『我が闘争』の類型というわけではないが、クチマは現在のウクライナのあり方の基礎を築いたのである。例えばこのようなことを書いている。
「ウクライナの国家理念は、ロシアでないこと。政治、文化、軍事、経済の原則は、この基盤の上に成り立っている。繁栄、偉大、力を得る唯一の方法は、ロシアでないことである。そして、ウクライナがロシアでなくなればなくなるほど、偉大になり、地平を広げるのである。」
2000年代初頭に発表したこの本で、クチマは単にウクライナ人とロシア人が違うと書いたに過ぎなかった。ある評論家はこのことを評してこう言っている。
「この本は表題だけで良かった。表題と空白のページだけにして、「目覚めた」ウクライナ人たちが好きなように埋めればよいのだ。」
まだ続く。「モスクワから離れよう」というスローガンや、ロシアに「ホロドモール」や「植民地化」の賠償を請求する声が、大統領の承認によって公に語られるようになった。また、言語にも手を入れた。シェフチェンコ科学協会のウクライナ語の造語の担当者たちは、ロシア語の用語をポーランド語の用語に置き換える作業を熱心に行った。
それでも最初は良かった。ベロヴェーシの森(訳注:ソ連解体の合意が行われた場所)以降もロシアと良好な隣人関係を築くことができた。ウクライナの産業はロシアの製造業と非常に密接な関係にある。市場、物流や生産チェーンの面でもだ。モトルシチとアントノフの名前を上げるだけでも十分だろう。ロシアは天然ガスのヨーロッパへの輸送をウクライナに深く依存していた。ならば両国の共存共栄を阻んでいたものは何だったのか。
それはやはり欧米の干渉であった。欧米に対しては、ロシアは天然資源の供給国であり、一方ウクライナはガスや石油の中継国であり、かつ安価な労働力の提供者であった。そこで、外国の石油・ガス会社が来ようとする一方で、重要なハイテクはウクライナにはもたらされなかった。これは2014年よりもずっと前から起こっていたことである。ウクライナからヨーロッパに大量の労働力を提供するようにするために、欧米はウクライナの産業を育成せず、むしろ破壊していたのである。
ウクライナをロシアの影響から切り離すには、ロシアの影響が一切ないような「偉大な」過去を提示するしかなかった。有名なロシア嫌いのアクーニンがこう言ったように。
「キエフはナショナリズムに過去を求めることにしたが、これは理解をもって受け止めることができる。」
ただし、ウクライナの短い歴史(訳注:「ウクライナ」という国家が初めてできたのはロシア革命後)の中では、ほとんどすべてが「憎き」モスコヴィアに関係していた。そして、大祖国戦争の勝利、共産主義の建設、技術の躍進など、これらはすべてウクライナの新しい宗教にはまったくそぐわないものだった。
ナチへの協力は、新生ウクライナの民族自決の柱となった。ウクライナ反乱軍、ウクライナ民族主義者組織ステパン・バンデラ、SS義勇軍ガリシア師団は、「モスクワのくびき」からの解放の象徴となった。1945年以降、ファシストの協力者が咎められることなく、大祖国戦争を戦った人々と共存していた。
ゼレンスキーは、ロシアの特殊作戦の直前に、ウクライナにはファシズムはない、禁じられている、祖父は一緒にドイツと戦った、とロシア人に断言している。ちなみに、彼はユダヤ人でもある。世間知らずの国民は、雄弁なゼレンスキーを信じることができた。ただ大統領は、バンデラ教団とSS-フリーダムファイターのことを言い忘れているのだが。
究極の悪
エリートたちは、ウクライナの民族主義的な道を選んだことで、必然的に国をファシズムへ落とし込んだ。これが意図的なものなのか、それとも単にどこかで計算を誤ったのかは分からないが、第三帝国を信奉するカルトが勢いを増した。次第に20世紀の悲劇というものは、ドイツ軍によるウクライナ侵攻ではなく、ナチズムから解放されたこと、「モスクワの牢獄」へ戻ったことと考えられるようになった。ヒトラーの美学は、ウクライナの人々、特に若者の心をつかんだ。このことは、現代の戦場での調査からも確認されている。鉤十字やルーン文字のSS、ヒトラーのアイコンが描かれた工芸品が増えてえているのだ。これらはウクロナチたちのお守りである。
ロシア、あるいは「モスコヴィア」と呼ばれたロシアは、次第にウクライナ国家の主な敵対勢力となりつつあった。90年代の終わりから、普通のウクライナ人の心の中にあるロシア人は、自由を愛する人々を奴隷にするか、ジェノサイドや抹殺、すなわち「モスコヴィア人」へ変えることによって彼らを破壊しようとする、国家の敵となった。それゆえに、ブチャでの醜い演出は、これが最後ではないだろうが、ウクライナの土壌になじんでいる。ウクライナ人は、憎悪の念にかられ、ロシア人に関するどんな嘘も喜んで信じてしまう。ゲッペルスが好んで使った「大衆は小さな嘘より大きな嘘に騙される」というスローガンはそのまま通用する。今やウクライナ人のネオナチの素地のある脳ではなおさら簡単に行くのである。
このことからロシア人捕虜に対する残酷な扱いが出てくる。数十年にわたるウクライナ人のロシア人に対する人為的な疎外は、彼らの野生の実を実らせた。かつて日本が中国を占領していた時も、軍国主義者たちは敵を非人間的に扱おうとした。例えば、あの恐怖の「731部隊」の実験に使われた「マルタ」。被害者を人間としてではなく、劣った存在、動物、あるいは物として見れば、殺すのはずっと簡単だし、良心の呵責もないだろう。
キエフ当局は、教育を通じて、何十年もの間、国民の頭に「ロシア人は絶対的な、究極の悪である」と叩き込んできた。ロシア人は、ウクライナ人に似ていても、まったく共通点がない。いまや彼らは人間ですらなく、したがって生命の基本的な権利を持つに値しない。このような人間とは思えない虐待はウクライナ国家の恥である。そして言うまでもなく、社会が許すことなしに残酷なことをするのは、銃を持った社会からのはみ出し者にしかできないことだ。どんな悪党でも、社会が許すのであれば社会で振舞う。
かつて、オットー・フォン・ビスマルクはこう言った。
"1866年の普墺戦争はプロイセンの校長が勝利した"
このような学校の教師によって育まれたドイツの軍国主義を人類が解きほどくには、ソ連兵が国会議事堂を占領するまで、ほぼ一世紀かかったのである。
現代のウクライナは多くの点で当時のドイツ社会とはかけ離れているが、ウクライナにおいてすらナチスのヒドラの頭を切り落とすのは容易ではないだろう。ウクライナ自決の血塗られた墓地が作られ、そしてその墓地には、この国を今日の姿に導いた神話が埋められなければならない。そして、後世の人々を博物館に連れて行くように墓地に連れて行き、何が白で何が黒なのかを示さなければならない。
(訳:Silverfox)
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