2022年04月17日
今も大阪に残る百済・新羅のセンス
大阪のセンスには新羅百済の渡来人が大きな影響を与えた
派手ずきで商売上手でコテコテと言われている
派手好きで商売上手だった渡来人
大阪のセンスは日本の中でも独特だと言われていて、最近も大阪万博の妖怪風マスコットが世界を驚かせた。
隣の奈良県も”せんとくん”で驚かせたが、東日本の都市だったら誰にでも反感を持たれないような無難なデザインにしたでしょう。
そのセンスを感じさせるのが大阪道頓堀や新世界にある巨大な動くカニ(コロナ自粛で止まっている)や様々な立体モニュメントです。
あのセンスは日本列島の他の地域では見られない物で、半島から来た渡来人がルーツだと言われている。
言われているだけではなく今から千年ほど前の大阪には百済洲、新羅洲という島があり、名前の通り百済人と新羅人が暮らしていました。
百済洲新羅洲に住んでいたのは主に港湾労働者だったらしく、仁徳天皇が何度か視察したという記録が残されています。
その頃半島からは百済の王子や新羅商人、王様から下級労働者までが大勢大阪に来てビジネスをしたり労働したりしていました。
西暦660年に羅漢連合の侵略で百済が滅び、天智天皇が奪還のため戦争を起こすが敗れ百済は滅亡してしまいました。
この時大勢の王族や商人らが日本に亡命し、九州や大阪に多く住んだと言われている。
百済の王子扶余豊璋は日本で天皇から百済王を名乗るのを認められ、子孫は今も日本で暮らしていると考えられる。
大阪の鶴橋周辺は渡来した商人が多く住んでいて、彼らが海岸に開いた市場が今も鶴橋市場として続いている。
新羅の人は商売がうまく派手好きで、大阪の巨大でハデハデなモニュメントは新羅人のセンスと似ている
当時の新羅百済の寺は日本の寺と比べて原色を多く用いて「おおげさ」にするのが特徴で、一目見れば日本寺と区別がつく。
商売上手な浪速商人という気質も、半島から来た渡来商人の気質を受け継いでいると言われています。
当時の日本の首都は奈良でその後は京都、大阪は長く「首都に最も近い港湾都市」だったので、半島の商人が特に多かった。
大阪のデザインセンスが他と異る理由
千年前は国籍なんか曖昧で、住んでしまえばその国の住人、今も新羅や百済商人や労働者の子孫が暮らしている筈です。
日本側から見ると当時最大の問題は大阪湾埋め立てで、大量の労働者を必要としていたので渡来人労働者は重要でした。
渡来人は大阪湾を埋めただけではなく巨大な前方後円墳築造にも従事した筈で、水田の開墾にも従事しました。
こうした場合人は報酬がなければ働かないが、おそらく開墾した土地は彼らのものになったり、水田の使用権を認められたでしょう。
こうして渡来人集落は大阪湾から奈良や京都に広がり、今もその痕跡を残しています。
渡来人に特徴的な文化は肉食で、もちろん日本人も肉を食べるが渡来人は猪やぶたを育てて売り買いしたり食べていました。
食生活や家の構造も他とは違うので、どこが渡来人集落だったかが分かるわけです。
大阪湾の埋め立ては信長・秀吉の時代も続き、今のような大阪市になったのは家康以降の江戸時代と言われています。
家康が作った徳川幕府は江戸という海沿いを埋めたてたので、またまた膨大な埋め立て工事が100年以上続き、江戸周辺でも農地の開墾が行われた。
こうして九州、関西と関東には渡来人集落があるが東北にはまったく見られない。
これが西日本と東日本の風俗やデザインセンスの違いになり、特に大阪と東京以北でかなり違う。
大阪の道頓堀や新世界や鶴橋を歩いてみると、ああこれが百済人や新羅人のセンスかと理解できる。
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