自分の名前も生い立ちもすべて忘れる記憶喪失は、どういう理由で生まれるのか?
2021.10.16
https://blackasia.net/?p=27166
世の中には奇怪な現象があって、若年層でも「自分が誰だか分からなくなって長距離を徘徊したまま保護され、警察ですらも身元を突きとめることができない」という人もわずかにいる。身元を証明するものは何一つ持っておらず、金もなく、過去の記憶も完全に失っている……。(鈴木傾城)
どうやって生きていたかまったく思い出せない
高齢者が行方不明になる傾向が非常に高いのはよく知られている。認知能力が衰えてしまい、自分の名前も住所も家族のこともまったく思い出せなくなってしまい、ちょっと外に出ただけで家に帰れなくなってしまう。
日本は高齢化社会なので、自分が誰だか分からなくなって家に帰れなくなった高齢者は増えていくだろう。2020年はコロナ禍の真っ最中だったのだが、認知症の行方不明者は1万7565人もいた。
ただ、99.3%は行方不明になってから1週間以内に発見されており、大事には至っていない。しかし、残りの0.3%は杳として行方が見つからないという奇怪なことになっている。
行方不明になってどこかで亡くなってしまい遺体がまだ発見されていないか、もしくはホームレス状態になって生きているか、あるいはどこかの施設に身元不明者として保護されたまま手がかりなく過ごしているのか……。
いずれにしても、これだけ高度情報化社会となっている日本で「自分が誰だか分からず、元のところに戻れない高齢者がいる」というのは悲しいことではある。
ところで、世の中には奇怪な現象があって、若年層でも「自分が誰だか分からなくなって長距離を徘徊したまま保護され、警察ですらも身元を突きとめることができない」という人もわずかにいる。
身元を証明するものは何一つ持っておらず、金もなく、過去の記憶も完全に失ってどうやって生きていたかまったく思い出せない。こういう状況を「全生活史健忘」と呼び「解離性障害」のひとつであるとされている。
生活保護費を不正受給していた「鈴木太郎」という男
よく、小説や映画などで「記憶を失った人間が、自分が誰だったのかを調べる」という記憶を復元していく探求ストーリーがある。嘘のようだが、実は現実に過去の記憶をすべて失った全生活史健忘の人は存在する。
2015年5月26日に生活保護費を不正受給したとして逮捕されている「鈴木太郎」氏もうそうだった。この人は2020年3月14日に熱海で発見されたのだが、保護された時、彼は自分に関する記憶をすべて失っていた。
仕方なく病院はこの男を「鈴木太郎」と仮に名付けていたのだが、退院するまでに鈴木太郎氏には記憶が戻らなかった。そこで、神奈川県湯河原町土肥のアパートで生活保護を受けながら暮らすことになるのだが、インターネットで自分の情報を調べても自分が誰だか分からなかった。
その過程で「鈴木太郎」は動画投稿サイトに著作権無視の違法アップロードを繰り返して収入を得るようになったのだが、これを申告していなかったので生活保護費を不正受給と共に著作権法違反でも罪に問われている。
「逮捕されたら指紋で自分が誰か分かるかも知れない」と鈴木太郎氏は考えたのだが、結局は自分が誰だったのかは分からいで終わった。
そういう事件もあった。
ただ、こういう「全生活史健忘」の事件に関しては、医師も警察も世間も容易に事実を受け入れがたいものがある。本当は自分が誰だかすべて分かっているのだが、何らかの理由があって忘れた演技をしているかもしれない。
「自分のことをすべて忘れる」というのが、普通の人は素直に信じられないのである。すべて忘れるのであれば、言葉も何もかも忘れるはずなのに、自分のことだけ都合良く忘れるというのは考えられない、と思う。
そもそも、自分が自分のことを忘れても家族は覚えているはずだ。家族はどうしたのだ、という話になる。記憶喪失を演じる嘘つきの犯罪者、詐欺師ではないのか?
ごく普通に生活していた人が、いきなり家出する
記憶喪失になったのであれば家族はどうしたのか。なぜ家族と一緒にいないのか。
実は、精神障害のひとつに、遁走《とんそう》と呼ばれるものがある。遁走とは、ごく普通に生活していた人が、いきなり着の身着のまま、場合によっては財布すらも持たず、日常の場を離れて目的もなく外を歩き回るというものだ。
場合によっては自転車や電車に乗ったりして、とてつもなく遠いところに行ってしまうことになる。誰にも何も告げず目的すらも持たず出ていくわけで、まわりから見ると「行方不明」である。
この行方不明の期間が短い場合もあれば、長くなって時には数ヶ月も戻って来ない場合もある。
遁走している間、目的は一切ないので、知り合いと連絡を取ることもまったくなく、歩いている本人も自分がどこにいるのか知らないことも多い。
遁走する人間は野宿してひたすら外をさまよい歩くわけで、数日経つと服装も汚れて表情も虚ろになり、不審者として警察の職務質問によって行方不明者であると判明することが多い。
こうした人たちは、身元が判明したら家族に元に戻されるのだが、再び遁走を繰り返すことも多い。今では、この遁走という現象は一種の精神的な病気であると認識されている。「適応障害」の一種である。
適応障害とは何か。適応障害とは、激しい精神的なストレスが高じて日常生活に適応できなくなってしまう心理的障害を指す。つまり、ストレスで心身が壊れ、日常生活が送れなくなった人を適応障害になったという。
通常、こういった人たちは「引きこもり」になる。しかし、家にいることすらも耐え難いほどのストレスであった場合はどうなるのか。それが、遁走という行為になる。
思い出すと激しいストレスによって精神が壊れる
人生には誰でも、仕事や家庭や人間関係で本人が耐えられないほどの過激な圧力がかかる時もある。そんな時、「逃げる」ことを無意識に選択する人がいる。
興味深いのはここからだ。適応障害を引き起こして遁走する人は、往々にして記憶障害も併発するのである。つまり、激しいストレスから自分の身を守るために、「脳が記憶を消して」しまう。
自分の名前も生い立ちも今までの人生もすべて消えてしまった状態、これが「全生活史健忘」である。物理的に脳が怪我や障害を負っているのではない限り、記憶が消えるというのは、脳がその記憶のアクセスを阻害しているということでもある。
消えた記憶は「思い出すと激しいストレスによって精神が壊れるもの」であると脳は把握する。だから、脳は精神が破壊されないために、記憶のアクセスをシャットダウンするという防衛本能を働かせる。
完全に脳が破壊されている人は、日常生活を送ることすらもできない。しかし、遁走から保護された人は日常生活には支障がない。記憶は失われているものの、普通に生活はできる。
つまり脳は、都合の悪い記憶だけを消している。
全生活史健忘の人が忽然と「ひとり」で発見され、身元を示すものもなく、そばに家族もおらず、何も思い出せないのはそういうことなのではないかと心理学的に説明されている。
全生活史健忘とは、思い出さないことによって自分の身を守る脳の深遠なる働きなのかもしれない。
そういえば、私たちは自分の都合の悪いことはしばしば忘れてしまうものだ。
あなたも、自分の記憶から完全に消し去って、思い出すことすらもできない「何か」があるかもしれない。もちろん、それは自分で意識もできない。なぜなら、思い出せないのだから……。
脳があえて記憶を消して、あなたを守っているのかもしれない。
『脳はなぜ都合よく記憶するのか 記憶科学が教える脳と人間の不思議(ジュリア・ショウ)』
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