日航機123便は、「オレンジエア」によって、墜落した可能性大だ !
日航機123便墜落の真相とは ?
植草一秀氏ブログ「知られざる真実」
(第2911号:2021年08月12日)
1)〜6)は前回投稿済みです。以下はその続きです。
7)「オレンジエア」という言葉が事件のカギを握る !
ボイスレコーダーに残された「オレンジエア」(自衛隊から発射された訓練用のミサイル)という言葉が事件のカギを握る。
「スコーク77」が発せられてからのやり取りが公開されていない。
123便を追尾したファントムが、123便を群馬山中に誘導した疑いが強い。
戦後最大の黒い霧事件の真相を、明らかにしなければ、犠牲になられた方の、御霊が浮かばれることはない。
8)日航ジャンボ機123便に、何らかの飛翔体が、接近していた !
18時24分に、日航ジャンボ機123便に、衝撃音が発生する前、何らかの飛翔体が、123便に接近していた。
123便の最後列座席56G席に搭乗していた、乗客の小川哲氏(当時41歳)が、ジャンボ機に接近する、謎の飛行物体に気付き、飛翔体をカメラに収めた。
衝撃音が発生したのは、123便が、伊豆半島東側沿岸の海上部を、飛行していた頃だった、と見られる。小川氏が撮影した写真を、パソコンで拡大すると、オレンジ色になる。
画像処理の専門家による写真の検証では、「円錐(えんすい)もしくは円筒のようなものを、正面右斜めから見たようなイメージで、この物体は、オレンジ帯の方向から、飛行機の進行方向に向かっているように見える」とされた。
9)「オレンジエア」の言葉を発した、123便の高濱雅己機長だ !
「オレンジエア」(誘導ミサイルや無人標的機)とは、自衛隊の軍事用語とされる。
自衛隊の軍事演習用の飛翔体が、オレンジ色に塗られていることから、「オレンジエア」と呼ばれているとのことである。
「オレンジエア」の言葉を発した、123便の高濱雅己機長(当時49歳)は、海上自衛隊の出身者である。自衛隊に所属している時には、対潜哨戒機のパイロットをしていた。
2015年8月12日、テレビ朝日系(ANN)報道は、情報公開請求で得た資料などから、残骸が沈んでいるとされる、相模湾の海底を調査し、日航ジャンボ機123便の部品の可能性がある、物体を発見したことを伝えた。
10)水深160mの海底で、123便の部品の可能性がある、物体を発見した !
ANNは、2015年7月29日、静岡県東伊豆町の沖合約2.5km、日航ジャンボ機123便の推定飛行ルートの真下にあたる、水深160mの海底で、123便の部品の可能性がある、物体を発見し、海底に存在する物体を撮影した。
四角形のパネル状の部分の側面にある黒い部分には数字などが書かれていた。
物体は、日航ジャンボ機123便の残骸の一部である、可能性が高い。この物体から、オレンジ塗料を採取できれば、機体損傷の原因を、ほぼ特定できることになるだろう。
11)日航機123便は、「オレンジエア」によって、
尾翼の大半を喪失して墜落した可能性大だ !
日航ジャンボ機123便は、自衛隊の演習用飛翔体、「オレンジエア」(誘導ミサイルや無人標的機)によって、尾翼の大半を喪失し、操縦困難に陥って、最終的に、高天原山の尾根付近に、墜落することを誘導された、疑いが強い。
1985年、35年前の8月12日の墜落で、犠牲になられた、520名の御霊を慰めるために、私たちは、123便墜落の真相を、究明しなければならない。
墜落当日、衝撃音が発生したと見られる、地点の真下に位置する相模湾では、湾内で護衛艦「まつゆき」が試験航行していた。
誘導レーダーの実験演習が行われていた。
12)日航ジャンボ機123便に衝突したのが、オレンジエアである可能性大だ !
日航ジャンボ機123便に衝突したのが、自衛隊の実証実験中の誘導ミサイル(=オレンジエア)である、と考えることは、自然である。
インターネット上に提示されている推論は、無人標的機のファイア・ビーと、それを追尾していた誘導ミサイルのチャカ2が、連続して123便に衝突したというものである。
以下に引用させていただく。
日本航空123便は、離陸から12分後の18時24分、相模湾上空を、巡航高度の7200mを、南西方向に機首を向けて上昇していた。
―この続きは次回投稿しますー
(参考資料)
日航ジャンボ機123便墜落の真相とは ?(上)
(blog.livedoor.jp:)1985年(昭和60年)8月12日月曜日18時56分に、東京(羽田)発大阪(伊丹)行同社定期JAL123便が、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根に墜落した「日本航空123便墜落事故」。 JAL123便は、墜落事故などではく、「撃墜事件」だったのではないでしょうか。
日本航空による22時の広報では「御座山北斜面」、運輸省は事故現場の緯度経度(北緯36度2分、東経138度41分)のほかに「長野県南佐久郡御座山北斜面」、朝日新聞では防衛庁からとして「現場は長野県の御座山北斜面」などの誤報がくり返えされ、これらの情報で地上からの捜索は混乱しました
消防・警察や災害派遣要請によって出動した航空自衛隊の地上捜索隊、陸上自衛隊の各捜索隊は、翌13日の朝まで現場に到達することはできませんでした。
「スコーク77」は聞き取れ、「スコーク77」は緊急事態時にしか使いません。
事故調査委員会が「オールエンジン」としたのは違うのではないのでしょうか。
元パイロットや専門家も「オールエンジン」という言葉は航空業界では絶対使わないと述べています。「オールギア」か「オレンジや」「オレンジエア」と聞こえるのです。
「オレンジエア」とは、海上自衛隊の隠語で誘導ミサイルや無人標的機のことです。
機長は、海上自衛隊出身です。
日航123便の残骸について1985年9月20日号の『週間ポスト』の記事にこうあります。
「この金属片には白い塗装と赤がかったオレンジ色の塗装が地上を引きずったようについている。
そして不思議なことに、これには1か所に集められた日航機の他の残骸と違い、機体の位置を示す荷札もついていない。
当初は後部胴体の外板の一部かもしれないと思ったが、日航機はオレンジ色を使用していないという。」
実戦ではない演習用の無人標的機には、オレンジ色の塗装を施します。
謎の飛行物体を操縦クルーが視認した、18時18分時点の飛行機の高度は、1万1300フィート(3440m)なのですが、「謎の飛行物体」が、尾翼に衝突した、18時24分35秒時点の高度は、2万3900フィート(7170メートル)で、6分間に1万2600フィート(3780m)も上昇しています。
何かが飛んできて偶然にぶつかったという状況ではなく、その飛行物体は、飛行機を追尾しているのです。 このことから考えると、謎の飛行物体は、「巡航ミサイル」であるといえます。
標的が、どのように高度を変えても標的を追い詰めて標的の後ろに回ろうとします。
その結果がJAL123便の垂直尾翼破壊だったのです。
最初謎の飛行物体は、コックピットの右サイドで視認されています。
つまり、JAL123便よりも、前方を飛んでいたことになります。
そのあと、飛行機の右後ろに回り、そこから、「垂直尾翼に衝突」しているのです。
座席中央部分の最後部から5番目に座っていた、小川哲は、尾翼が吹き飛ぶ、6分前、飛行機の窓から123便を追尾するように、飛行してくる物体に気がつき、それをカメラに収めています。
JAL123便の遺品の写真は、1990年10月14日付の『朝日新聞』朝刊一面に掲載されました。
事故調査委員会が公表したような、内部隔壁の破損が先に起こったのではなく、「尾翼が何かとの衝突で、破壊された」ことが先です。
JAL123便の垂直尾翼は、その70%が見つかっていません。
航空評論家の関川栄一郎は、誘導ミサイルの精度を確認する、無人標的機ではないかと述べています。 無人標的機が飛んでいるのは、不可能と考えられています。
無人標的機を運用できるのは、自衛隊の訓練支援艦という専用の艦で、当時は訓練支援艦「あずま」だけです。 事故当日、あずまは、相模湾ではなく、遠く離れた広島県の母港の呉にいました。
当時の新型護衛艦「まつゆき」が、JAL123便の事故当日は、相模湾にいました。
事故の連絡を受けて、相模湾内の捜索にも協力しています。
この「まつゆき」が犯人なのかというと、やはりそれはありえません。
海上公試中であり、自衛隊に引き渡されていない「まつゆき」が、武装していたはずがないと思われています。 しかし、極秘テストの可能性もあります。
JAL123便事故調査報告書(87年6月19日発表)では、その推定原因を「修理ミスが原因で、飛行中に後部圧力隔壁が、客室与圧に耐えられなくなって破壊し、客室内与圧空気の圧力によって尾部胴体、垂直尾翼が破壊され、油圧系統も破壊され操縦不能となり墜落した」としています。
異常発生後の機内後部を、撮影していた写真が、時効成立後に、警察から遺族に返還され、新聞でも報道されましたが、ホコリや雑誌、荷物類などが、散乱した様子は見られず、乗客も比較的落ち着いた様子がうかがえます。
事故1年後には、新聞で報道された機内を、撮影した写真は、なぜか、航空事故調査委員会は、その存在を認めませんでした。
事故後15年たって、マスコミに流出した、ボイスレコーダーは、専門家は「こんなことはありえない」と言います。 元日本航空パイロットの藤田日出男によると、パイロットたちは、ボイスレコーダーの声の音質から判断すると、明らかに酸素マスクをつけておらず、その場合、事故当時の航度では、低酸素症になってしまうため、気を失う可能性すらあり、長時間マスクを着けず、正常な飛行運転行動を行うことはできないと言うのです。 圧力隔壁が原因の事故だったのか、疑問が出るのです。
圧力隔壁が破壊され、尾翼が吹き飛べば、機内の空気は、一気に後ろへと流れ出し、急減圧が起こり、機体後部の座席は、空中に吸い出されるほどの衝撃があるはずです。
こんなに落ち着いていられる時間が、一瞬でもあるとは思えないのです。
低酸素症の調査については、事故からおよそ1年後の1986年7月、陸上自衛隊東立川駐屯地にて、航空自衛隊航空医学実験隊による、正式な調査が行われています。
当時の状況を再現しても、著しい脳障害は見られない、という発表をしています。
しかし、ノースダコタ大学など、別の研究チームの発表では、当時の状況を再現した結果、著しい「脳障害」が見られた、と発表がありました。
日本航空機関士会の会員10名は、1986年11月に、航空自衛隊航空医学実験隊を見学し、「緊急時における、人間の行動について」の講演に参加したのち、低酸素症実験と急減圧実験を見学しています。 参加者の1人は、同会の会報(1987年1月)の中で、次のように述べています。
「最も印象に残ったことは、雑談の中で聞いた、日航事故を想定して、客室高度650フィートを7〜8秒かけて、24200フィートに急減圧した実験で、今まで経験したことがないほど、肺から空気が吸い出され、すぐに周りが暗くなり(低酸素症)、思わず酸素を吸ったという話でした。」
生存者のアシスタントパーサー落合由美の証言では、事故調査報委員会のいう、急減圧ではないかもしれませんが、急減圧はあったと、次のように述べています。
「そろそろ水平飛行に移るかなというとき、『パ−ン』という、かなり大きい音がしました。
テレビ・ドラマなどで、ピストルを撃ったときに響くような音です。
音は、私のちょっとうしろの天井の辺りから、したように感じましたが、そこだけでなく全体的に広がったように思います。 私は思わず天井を見上げました。
しかし、振動はまったく感じませんでした。機体も揺れなかった。
お客様からは、『うわっ』という声がした。
女の人だと、『きゃっ』という、一瞬、喉に詰まったような声。
騒がしくなるとか、悲鳴があがるということはありませんでした。―以下省略ー