ジャーナリスト・作家の立花隆さん死去 ! 幅広いテーマ取材 !
立花隆さんのプロフィールとは ?
(www3.nhk.or.jp:2021年6月23日 17時54分)
田中内閣退陣のきっかけになったと言われる「田中角栄研究」をはじめ、政治や科学、医療など幅広いテーマで取材や評論活動を行ってきたジャーナリストでノンフィクション作家の立花隆さんが、ことし4月、急性冠症候群のため亡くなりました。80歳でした。
立花隆さんは、昭和15年に長崎市で生まれ、東京大学を卒業したあと、出版社の文藝春秋に入社しました。
入社から2年余りで出版社を離れたあとも取材活動や記事の執筆を続け、昭和49年に現職の総理大臣だった田中角栄氏の金脈問題を膨大な資料を検証して追及した「田中角栄研究」を発表して大きな反響を呼び、田中内閣が退陣するきっかけになったと言われています。
その後も鋭い着眼点と徹底した取材をもとにしたルポルタージュを次々と発表し、扱うテーマも政治だけでなく、最先端の科学や医療、宇宙や脳死など多岐にわたり、「知の巨人」と称されました。
平成7年からは東京大学の客員教授を務めてユニークな講義で多くの学生たちに学びの大切さを伝え、各地の大学でも講演するなど若い世代の育成にも力を注いできました。
平成19年にはぼうこうがんが見つかったことを公表し、病気や死をテーマにした作品の執筆やドキュメンタリー番組の制作にも携わってきました。
家族によりますと、立花さんは糖尿病や心臓病などを抱えて入退院を繰り返したあと旧知の病院で入院を続け、4月30日、急性冠症候群のため亡くなったということです。80歳でした。
家族がHPで詳細を公表
立花隆さんが亡くなったことについて、家族が23日朝、立花さんの教え子が運営するサイトに詳細を公表しました。
それによりますと、立花さんはことし4月30日の午後11時38分、急性冠症候群のため亡くなりました。
亡くなるまでのいきさつについては、「長年 痛風、糖尿病、高血圧、心臓病、がんなどの病気をかかえ、入退院を繰り返してまいりました。一年前大学病院に再度入院しましたが、本人が検査、治療、リハビリ等を拒否したため、旧知の病院に転院しました」と説明しています。
この病院で立花さんは「病状の回復を積極的な治療で目指すのではなく、少しでも全身状態を平穏で、苦痛がない毎日であるように維持していく」という院長の考えのもとで入院を続け、4月30日の夜に看護師が異常を感じて院長に連絡をとったものの、到着を待たずに急逝したということです。
葬儀は家族のみで執り行ったということです。
◆ルポライターの鎌田慧さん「一時代を作ったライター」
同じライターとして仕事で交流のあったルポライターの鎌田慧さんは「エッセーの連載がなかったので病状が悪くなっているのかなと思っていましたが、ついに亡くなってしまったのかという感慨があります。同じ時代を生きたライターで、今ではほとんどいなくなってしまった『ルポライター』と呼ばれる存在の1人でした」と振り返りました。
そのうえで、立花さんの功績について「若い時から凝り性で、その性格が膨大な量のデータの分析した『田中角栄研究』を生み出す原動力になったのではと思います。
幅広いジャンルに関心を持って資料を徹底的に調べ上げ、時には取材チームを作ってその力を結集させる立花さんの好奇心と総合力は傑出しており、彼のような存在はそれまでいなかったし、これからも出てこないのではないかと思います。
まさに一時代を作ったライターでした」と話していました。
◆ジャーナリスト・田原総一朗さん:「命懸けのジャーナリスト」
立花さんと親交があったジャーナリストの田原総一朗さんは、立花さんが文藝春秋で「田中角栄研究」を発表したことについて「当時、田中角栄が金権政治を行っていたことは他の報道機関も知っていて、田中角栄自身も、どこもそのことを書かないと思っていた。
文春で記事が出たあとも、どこの新聞も書かず、その後、田中角栄が開くことになった日本外国特派員協会での会見をきっかけに、初めて日本の新聞が報じた」と振り返ったうえで「金権政治が当たり前の時代に体を張って、命がけで書いた。
日本には、なかなか命懸けのジャーナリストはおらず、そこがえらいと思う」と立花さんをたたえました。
田原さんは、立花さんが「田中角栄研究」を発表した当時、テレビのディレクターをしていて、政治にはそれほど関心は無かったと言うことですが、立花さんの発表がきっかけで、世の中が田中角栄のバッシング一色になる中、田原さん自身も田中角栄について調べ、政治家としてのすごさを記した論考を直後に中央公論で発表することになり、そうした経緯からも立花さんとは「近々、田中角栄論を一緒に本で書こう」と話していたということです。
そのうえで、立花さんや田原さんが扱ってきた政治の世界について「その頃は、政権の支持率が下がれば党内や野党から俺がやるというムードがあったが、いまはそれが弱まっている。政権を批判するだけでなく、日本をどうするのか、という気概を持った政治家やジャーナリストが出てきてほしい」と話していました。―以下省略―
○急性冠症候群とは ?
(www.msdmanuals.com より抜粋・転載)
急性冠症候群は、冠動脈が突然ふさがる(閉塞)ことによって起こります。閉塞の位置と量に応じて、不安定狭心症か心臓発作(心筋梗塞)が起こります。
急性冠症候群を発症すると、通常は胸部の圧迫感や痛み、息切れ、疲労などが起こります。
急性冠症候群が起きたと思ったら、まず救急車を呼んでから、アスピリンの錠剤を噛み砕いて服用します。
病院では心電図検査と血液中の物質を測定する検査により、急性冠症候群かどうかを診断します。
治療法は症候群の種類によって変わりますが、通常は閉塞が起きた部位の血流を増やす処置が行われます。
(冠動脈疾患の概要も参照のこと。)
米国では、毎年90万人以上の人が心臓発作または心臓突然死を起こしています。また、急性冠症候群により毎年約40万人が死亡しています。そのほぼ全員に基礎疾患として冠動脈の病気がみられ、約3分の2が男性です。
(参考資料)
○立花隆さんのプロフィールとは ?
(ウィキペディアより抜粋・転載)
立花 隆(たちばな たかし、本名:橘 隆志 1940年(昭和15年)5月28日生まれ。 2021年(令和3年)4月30日死亡。80歳。)とは、日本のジャーナリスト、ノンフィクション作家、評論家で有る。執筆テーマは、生物学、環境問題、医療、宇宙、政治、経済、生命、哲学、臨死体験など多岐にわたり、多くの著書がベストセラーとなる[1]。その類なき知的欲求を幅広い分野に及ばせているところから「知の巨人」のニックネームを持つ[2]。また大下英治と並び「知の両巨頭」と評された。
1974年、月刊『文藝春秋』に「田中角栄研究〜その金脈と人脈」を発表し、田中角栄首相失脚のきっかけを作り、ジャーナリストとして不動の地位を築く。2007年暮れ、膀胱がんの手術を受けるが、その後も世界の最前線の研究者たちを取材し、がんの正体を根源的に見つめ直す活動を続けた[3][
◆来歴
生い立ち:1940年、長崎県長崎市に生まれる。父は長崎の女学校教師で後に編集者を務め、母は羽仁もと子の信奉者で、クリスチャンの家庭。戦前の右翼思想家・橘孝三郎は、父のいとこに当たる。1942年(昭和17年)、父が文部省職員として北京の師範学校副校長となったため、一家で中華民国へ渡る。
1946年、引き揚げで日本へ戻り、一時母方の茨城郡那珂西に住み、のちに父の郷里茨城県水戸市に移る。茨城師範学校(茨城大学)附属小学校、中学校を経て、1956年(昭和31年)に水戸一高、さらに千葉県に移ったため東京都立上野高等学校への転入を経る。小学校時代から読書に熱中し、自らの読書遍歴を記した文章を残している[5]。また、中学時代は陸上競技にも熱中。俳優の梅宮辰夫・モータージャーナリストの徳大寺有恒は中学時代の先輩であり、三人とも陸上競技選手だった。
1959年(昭和34年)、東京大学文科二類へ入学。在学中は小説や詩を書き、イギリスで開かれた原水爆禁止世界会議に参加。卒業論文はフランスの哲学者メーヌ・ド・ビラン。
◆雑誌記者として
1964年(昭和39年)、東京大学文学部フランス文学科卒業後、文藝春秋に入社[2]。岩波書店とNHKの試験も受けたが不合格だったという[6]。入社後は希望通り『週刊文春』に配属される。上司に堤尭がいた。先輩記者の導きで、文学青年時代から一転ノンフィクションを濫読して多大な影響を受けるが、もっともやりたくないプロ野球の取材をさせられたことから3年足らずで文藝春秋を退社[7]。
1967年(昭和42年)、東京大学文学部哲学科に学士入学。翌68年に東大紛争が勃発し休校となる。
◆ルポライターとして
東京大学休校中に、文春時代の仲間の誘いで文筆活動に入りルポライターとして活動を開始する。創刊時の雑誌『諸君!』に「生物学革命」、「宇宙船地球号」、「石油」などをテーマとしてノンフィクションや評論を書く。1968年、「立花隆」のペンネームで文藝春秋増刊号「素手でのし上がった男たち」を発表した。
『諸君!』の初代編集長田中健五(後の『文藝春秋』編集長)との交友が後の「角栄研究」に繋がる。1969年、『文藝春秋』や『週刊文春』に「60年安保英雄の栄光と悲惨」、「東大ゲバルト壁語録」、「この果てしなき断絶」、「実像・山本義隆と秋田明大」などを発表[8]。1970年、東大紛争中の学費支払いを巡り大学事務と衝突。東大哲学科を中退。
デビュー作『思考の技術』で、「人間は進歩という概念を盲目的に信じすぎている」として、生態学に学ぶ思考法を披露。現実の自然は常に具体的で、無限に複雑かつ多様で、そこには測定不能のもの、つまり数量化できない要素が満ち満ちている。現実はムダとムラに満ち満ちているが、これに対して、人間の作ったものは、ムラなくムダなく、実にスッキリと、合理的にできている。
さながら、自然の作るものより、人間の作ったものの方が、はるかに上等なものであるかのように見えるが、これは人間の価値観の狂いにほかならない。
理論は常に純粋なものを扱うが、技術はものを現実に操作する必要上、かなり純度の低いものまで扱う。ここで現われてくるギャップが、いわゆる理論と実践のギャップであり、技術の面では、公害などの問題として現れる。
自然界には、生物個体にも、生物群集にも、さらには生態系全体にも、目に見えないホメオスタシス維持機構が働いている。文明にいちばん欠けているのはこの点で、進歩という概念を、盲目的に信仰してきたがゆえに生まれた欠陥である、とする基本的な考えを発表している[9]。
「ガルガンチュア」の看板(右下)(花園交番通りの公道上より撮影)
数名の友人と資金を出し合い、新宿ゴールデン街にバー「ガルガンチュア立花」をオープンさせた[10]。このバーでは経営だけでなく、バーテンダーとしてカウンターにも立ったが、報道・出版業界の知り合いが客として訪れるようになり「それなりに儲かった」[10] という。編集者の川鍋孝文や映像作家のブリス・ペドロレッティらも、客として通っていた[10]。のちにペドロレッティが新宿ゴールデン街をテーマにしたOV『フェスク・ヴドラ』を撮った際には、バーの店主として出演している[11]。バーを経営していたのは1971年前後だが、店自体は現在も残っている[10]。
1972年、講談社の川鍋孝文(のちの『週刊現代』編集長)の紹介でイスラエル政府の招待をうけ2週間イスラエルに滞在。招待期間終了後は自費で中東各地、地中海・エーゲ海を中心としたヨーロッパ諸国を放浪する。放浪期間中に偶然テルアビブ事件が発生。東大紛争以後中断していたジャーナリスト活動を現地で再開した。―以下省略―