台湾の元「従軍慰安婦」被害者証言「看護婦に」とだまし連行
「慰安婦は“性奴隷”ではなく、公娼(こうしょう)である」―。自民、民主両党の「靖国」派国会議員が米紙(六月十四日付)に掲載した全面広告の一節です。自らの意思で行ったかのように史実を偽り、強制はなかったと主張しています。旧日本軍の「従軍慰安婦」被害者たちは戦後六十二年をへて、今度は戦争を知らない国会議員らによって、再び傷つけられています。(本吉真希)
戦前、日本の植民地下にあった台湾から阿媽(あま=おばあさん)六人が来日し、六月二十八日、東京都内で証言しました。
養母と茶摘みをして生計を立てていた盧満妹さん(80)は、「十七歳のとき、看護婦にならないかとだまされて中国の海南島へ連れて行かれた」。台湾より給料がいいともいわれました。
盧さんは日本兵の相手をさせられ、妊娠。八カ月の身重になるまで解放されませんでした。台湾に帰り、男の子を出産しましたが、マラリアにかかり、三十八日目に子どもは亡くなりました。
「十七歳だった私が本当に自分の意思で行ったのでしょうか」と盧さんは訴えます。
日本語で証言した鄭陳桃さん(84)。一九四二年六月四日、高等女学校への通学途中、いつものように派出所の前を通ると、日本人の警察に呼び止められました。「ジープで学校に送ってやる」。警察を恐れていた鄭さんは断ることもできずに乗りました。
ジープは学校の前を通り抜けました。着いた先は小さな旅館。「魏」という姓の夫婦に引き渡されました。ほかに二十余人の若い女性がいました。
翌日、高雄のふ頭から「アサヒマル」という軍艦でインド洋のアンダマン島へ。一年二カ月後には、サイパン島へ連行されました。鄭さんも妊娠しました。
陳樺さん(82)はフィリピンで看護助手を募集しているといわれました。「ナカムラ」という日本人が養父に出国の同意を執拗(しつよう)に迫りました。養父が断ると、「多くの看護婦が死を恐れずに戦地に赴いた。陳家も国のため、兵士のため、何かすべきだ」と繰り返しました。養父は同意せざるを得なくなりました。
フィリピンのセブ島に着き、「慰安婦」として来たことを初めて聞きました。「(連行された大きな建物が)慰安所とわかり、一緒に来た子たちと泣いた」といいます。
黄呉秀妹さん(89)は四〇年から約一年、中国広東省で被害を受けました。「具合が悪くても拒否すれば刀を取り出し、脅迫した。私は子どもを産めない体になった。いまも体がボロボロです。安倍首相は私たちの悲劇をご存じでしょうか。日本政府に謝罪してほしい」
「慰安婦」被害者の証言は参加者に衝撃を与えました。初めて証言を聞いたという大学四年生の女性は「そのまま無視してはいけないと思った」と感想を語りました。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-07-05/2007070514_01_0.html
日本軍が1931年から1945年の第二次大戦中に占領地や植民地で女性を性の奴隷として扱ってきた、いわゆる「従軍慰安婦問題」は、この10年の間に世界各国で取り上げられるようになった。1991年より、韓国、フィリピン、オランダ等の被害者が次々と名乗り出て、日本政府に対し謝罪と賠償を求め、日本で裁判を起こすようになったのである。今年7月中旬には、台湾の元慰安婦も裁判を起こし、11月2日に東京地方裁判所で審理開始のはこびとなった。
「他の国と比べて、台湾の行動開始は確かにやや遅れました」と王清峰弁護士は認める。その主な原因は、日本人によって当時の資料が隠滅されてしまっていたことにある。「韓国と比べて、台湾の元慰安婦たちは自分の経験を語りたがりません」と言うのは、中央研究院中山人文社会科学研究所の朱徳蘭さんだ。台湾植民地史におけるこの悲惨な経験は、未だにきちんとした解明や整理がなされていないと彼女は指摘する。
1985年に国史館から出版された『日本在華暴行録』には、日本軍が中国東北地方や上海、雲南などで慰安所を設置し、朝鮮半島や中国の女性を無理矢理連れて来て慰安婦とした事実が1章にわたって述べられている。だがそこには「台湾の売春業者」が関与したことが触れられるにとどまり、詳しい事情については述べられていなかった。
台湾人慰安婦問題の本格的な浮上は90年代まで待たねばならなかった。1991年8月、韓国の金学順さんが、「第二次大戦中に日本軍によって慰安婦にさせられた」と名乗り出て、それが日本政府の言うような「自ら志願して」といったものではなく、強制的かつ計画的に徴用されたのだと訴えた。金学順さんの突きつけた証拠は明白なもので、それまで韓国の元慰安婦に対して「賠償、謝罪の必要なし」「記念碑は建てない」と繰り返してきた日本政府に、大きな一撃を加えることとなった。国際的な世論が高まる中、韓国と同じく植民地であった台湾にも同様の事実があったのではないかと、注意の目が向けられるようになったのである。
1992年2月、日本の伊東秀子国会議員が防衛庁図書館で、台湾で慰安婦を募集する電報3通を発見し、これが台湾人慰安婦の歴史的事実究明の発端となった。その後、台湾の女性団体「婦女救援基金会」が慰安婦問題についてのホットラインを設置し、調査に乗り出した。その結果、7年間で計400本以上の電話が寄せられ、自ら名乗り出た被害者は、今も健在のケースで41件に上るという。
20世紀の終末を迎えたアジア各国では、第二次世界大戦に対する反省をめぐり、「歴史の生き証人」が名乗り出るというケースがよく見られる。彼らの証言が歴史研究を進めたり、時には従来の歴史的叙述を覆すこともあった。慰安婦問題がちょうどそれに当たる。
今日歴史学者たちが用いる「慰安婦」という呼称は、その上に「従軍」とつけて呼ばれるのが一般で、軍隊とともに移動した「従軍公娼」という意味である。台湾大学で歴史を研究する李国生さんの論文「戦争と台湾人」によれば、この制度ができたのは1932年の上海事変の後で、当時の日本兵が上海のあちこちで女性にみだらな行為に及ぶのを見かねた日本軍の岡村寧次参謀長が、兵士の性的欲求を解決するため「慰安所」を軍に設置するよう命じたのだという。慰安所が最初に集めたのは、日本の売春婦や酌婦たちであった。
当時植民地であった朝鮮や台湾の女性を慰安婦として強制的に徴集し始めたのはいつからなのか、その解明は今後の研究を待たねばならない。が、中央研究院の朱徳蘭さんの推定では、1942年の真珠湾攻撃の後、台湾が本格的に第二次大戦の戦火に巻き込まれるようになった頃が、ちょうど台湾人慰安婦が大量に徴集され始めた時期であろうという。
「高雄に着いた時には、すでに夜が明けていました。そこで沖縄から来た10名余りの女性と合流し、船に1週間ほど揺られ、どこかに上陸した後、またトラックに載せられました。そして到着したのは、椰子の木で作られた大きな建物で、一人に一部屋あてがわれました。来る前に聞かされていた『軍の売店で働く』という話は全くの嘘だったと、そこで知ったのです」(婦女救援基金会による調査・ケースA)
「あそこで私たちは、毎回目をじっと閉じて耐えていました。兵隊と恋愛するなどということはありません。ベテラン慰安婦に『あんたたちは軍の慰問に来たのだから、軍人さんをお慰めして、お国に奉仕しなくてはいけない』と言い聞かされました。同情してくれる日本兵もいましたが、私たちを打つ人もいて、恐ろしい思いをしました」(婦女救援基金会による調査・ケースB)
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/159.html